Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

老いの生き方

2021年10月31日 10時32分08秒 | エッセイ


読みたい本があったわけではない。
思ったより早く仕事が一段落し、
余った時間を利用してウオーキングがてら
街中をぶらりとし、行きつけの書店に足が向いたまでだ。
店内を当てもなく、やはりぶらりぶらりとしていたら
ある特設コーナーに目が止まった。


そこに顔を揃えているのは、佐藤愛子、曽野綾子、
樋口恵子、そして瀬戸内寂聴……年齢順に並べ直してみると、
寂聴さん99歳、佐藤さん98歳、
曽野さん90歳、樋口さん89歳……まさに
「人生100年時代」を生き抜かれている方々だ。



ついでに並んでいる本を見ると、
佐藤さん─『九十歳。何がめでたい』
     『九十八歳。戦いやまず、日は暮れず』
     前者は2017年の年間ベストセラー総合
     第1位となったエッセイ集だ。                                   
曽野さん─『夫の後始末』『老いの道楽』
     『90歳、こんなに長生きするなんて』
樋口さん─『老いの福袋』『老~い、どん』
      評論家の彼女は「高齢社会をよくする女性の会」
      の理事長も務めている。
寂聴さん─コーナーに並んでいるのは『美しいお経』だが、
     最近の著作としては『寂聴九十九歳の遺言』のほか、
     共著に『これからを生きるあなたに伝えたいこと』
     『95歳まで生きるのは幸せですか?』などがある。


こう見れば、このコーナーは「人生100年時代」をどう生き抜くか、
これらの方々の生き様を通して語りかけていることが分かる。
どう語られているかは、それぞれの本を読んでいただくしかないが、
佐藤さん、曽野さんの名言を一言ずつ。

「この世で起こることはすべて修業だと思えばいい。
力一杯生きて、『ああ、面白かった』と言って
死ねればそれがいちばん」─佐藤さん。

「自分らしくいる。自分でいる。
自分を静かに保つ。自分を隠さない。
自分でいることに力まない。自分をやたら誇りもしない。
同時に自分だけが被害者のように憐れみも貶めもしない。
自分だけが大事と思わない癖をつける。自分と人を比べない。
これらはすべて精神の姿勢のいい人の特徴」─曽野さん。

         

今朝の新聞には、92歳と54歳の精神科医の
共著『うまいこと老いる生き方』との書籍広告が出ていた。
「人生100年時代」の後半生を上機嫌で過ごす
33の知恵を紹介しているそうだ。

      最近、こんな本がやたらと目につく。



とりかえしのつかない人

2021年10月29日 06時00分00秒 | エッセイ


何か解らないことがあれば図書館に出かけて
参考文献を探し出して調べる。
あるいはその知識を持つ人を見つけ教えを乞う。
だが、そんな手間暇をかける必要はまったくない。
ネットで検索すれば、苦労することなく答えを得られるだろう。

また、野原に出かけ、見知らぬ花の名を知りたいと思ったら、
スマホでパチリと写真を撮りさえすれば、すぐにスマホが、
その可憐な花の名を教えてくれる。今はそんな世なのである。

       

辛口の論客で、哲学者の適菜収さんは、
しばしば「とりかえしのつかない人」という言い方をする。
「人の話やアドバイスを聞かない」「金銭にだらしがない」
「約束を守らない」「時間にいつもルーズ」など社会人としての
基本が出来ていない人を指すのだが、
加えて「情報をタダだと思い、必要な情報は
いつもネット検索で得ている」人も同列に並べる。


さらに、適菜さんらしいと言えばそうなのだが、
こんな辛らつな言い方さえする。
「そういうこと(ネット検索)を繰り返していると、どんどんバカになる。
ネット検索だと探している『答え』しか見つからないからだ。
大事なのは『答えにたどり着く過程』、
すなわち思考する回路をつくることだ」


確かに、ネットで検索して得た『答え』や
スマホが教えてくれた『花の名』は、すぐに忘れてしまうことが多い。
解り易い話が、何事においても楽して得たものに
ありがたみは薄く、心身をすーっと通り過ぎて行ってしまう。
やはり、自ら図書館に足を運び、博識の人を訪ね教えを乞う、
そんな『答えにたどり着く過程』があってこそ、
その『答え』は心に身にこびりつくものだ。

     

適菜さんはまた、そんなことを
子供の読書」「大人の読書」とも言い表す。
前者は知識を得るためだけの読書、後者は思考を深め、
感性に磨きをかけるための読書というわけだが、
適菜さんは、「とりかえしのつかない人」には、
もちろん『大人の読書』を薦める。
それも歴史を超えて読み継がれている、
少々難解な文学書や古典を……。
それによって、思考は深まり、感性は磨かれていくというのである。


こんな話を聞き、自らを顧みれば、
「とりかえしのつかない」一人になりつつあったと気付かされる。
とりかえしがつかなくなる前に、何とか踏み止まなければならない。



男の分際で……

2021年10月23日 12時07分40秒 | エッセイ


   今時、こんなことを口にしようものなら大事だ。
   だが、少し前まではよく耳にした言葉である。
   「女の分際で……」。

        
  
   「分際」とは「身のほど」という意味であり、
   そこには「軽蔑」の気持ちが隠されている。
   だから「女の分際で……」と言えば、
   「誰のおかげでメシが食えていると思っているんだ」
   裏にこんな意識が隠されており、昔ながらの男尊女卑の風習と、
   稼いでいる人間が偉いという価値観が相まって、
   経済的に自立していない女性に向けられていた。


   ある本を読んでいたら、こんな話が書かれていた。
   筆者がビジネス系のセミナーに参加したところ、
   男性の講師が「男の分際で……」という話を始めたそうだ。
   本に書かれている男性講師の話は、概略こういうことだった。


   男性の中にはごく稀に男の分際で女性に手を挙げる奴がいる。
   どんなに偉いか知らないが、女性の胎から生まれたくせして、
   しかも人間として自立していない頃には、
   その乳を飲み、おしめを替えてもらい、
   その腕に抱かれた日々があって『今』があるはず。
   そんな男の分際で女性を大事にせぬとはとんでもない

      
 
   実は、こんなことは男性講師から
   言われるまでもない事実なのだが、
   男たちは何かしらの威厳を保とうとしてか、
   こうした事実に触れずさわらず、
   心の隅っこの方に押し込んできた。
   でも、容易には隠しきれない時代になってきたのだ。
   「女の分際で……」と言おうものなら、
   女性からのみならず世間の反発を一斉に買うことになる。


   もし先々、寝たきりにでもなったらどうしようか。
   自立していなかった、あの頃に逆戻りし、
   おむつの世話まで、今度は妻に頼むことになるのだろう。
   「男の分際で……」なんたることか。
   「女の分際で……」なんて言えるはずがない。



「笑う閻魔」様

2021年10月21日 06時00分00秒 | エッセイ


閻魔大王は、冥界の王として死者の生前を裁く、
大変に怖い形相をされた神である。
ところが栃木県益子町の西明寺に
おられる閻魔様はちょっと違う。
「笑う閻魔」様として評判なのである。
写真で拝見すると、口角を上げ、
大きな牙をむき出しにされているが、
確かに笑っているように見える。

         
         一般に閻魔大王はこんな形相をされている

なぜ閻魔様は笑っているのか。
そもそも日本の仏教では、閻魔大王は地蔵菩薩の化身とされており、
閻魔様=お地蔵様の本当の役割は、
地獄に来た人たちの悪いところを治して極楽に送ることなのだそうだ。
「針の山」とは鍼をさして治療し、
「火の海」とはお灸をすえて治療するという例えなのだという。
お地蔵様とあれば決して怒らず、いつも笑みを浮かべながら……。
西明寺の「笑う閻魔」様、つまり「木造閻魔大王座像」の謂れである。
江戸時代の一七一四年に作られており、
栃木県の県指定有形文化財となっている。


                    西明寺の「木造閻魔大王座像」(真ん中)

一方で東洋思想家の境野勝悟氏は、こんな逸話を語る。
ある日、一人の男が閻魔大王の前で
「私は生前一度も嘘をついたことがありません。
だから自分は極楽に行く資格がある」と訴えた。
閻魔大王が「それは本当か」と質すと、
「はい、一度も嘘をついたことはありません」と繰り返す。
すると、閻魔大王は大声で笑ったのである。
そして、笑い転げながらこう言ったという。
「おまえ、それじゃつまんない人生だったろう」。


さて、この逸話をどう考えるか。
お地蔵様の化身である閻魔様が嘘をつくこと、
さらには悪事を働くことを「よし」とされるはずはない。
「それじゃつまんない人生だったろう」と大笑いされたのは
「人生は楽しまなきゃ意味がない。
そのために人に迷惑を掛け過ぎてはいけないが、
少しくらい嘘をついたり、悪事を働いたりしながら、
上手に世渡りをしていくところに楽しい人生の妙味がある」
みたいなことを仰ったのではないか──境野氏はこう解説してくれる。


     この話を聞いて少し気が楽になった。
     少しくらいの嘘、少しくらいの悪事が
     なかろうはずがない。




キレる老人

2021年10月19日 10時43分54秒 | エッセイ


   電車の中で、隣に座った若い女性を怒鳴りつけている。
   食堂では店員の態度が気に入らないと大声を張り上げている。
   いずれもいい年をした老人だ。
   こんなキレる高齢者の姿を
   YOU TUBEなどで見かけることが多くなった。
   科学的に見れば、
   高齢になると、脳の前頭葉が収縮し、判断力が低下し、
   感情の抑制が効かなくなるということらしい。

                     

   新聞の読者投書欄に「キレる高齢者が増えている」
   と指摘する若者の意見を掲載したところ、高齢者からは
   「暇なんだ」「話し相手が欲しい」「自分にイライラしている」
   「私たちは一生懸命働き、そのおかげで日本は先進国入りをし、
   東京オリンピックまでやれた。お国のために働き続けてきた
   私たちの言動を大目に見てほしい」
   「昔のように3世代が一緒に暮らすことも、
   お寺で法話を聞いた後に他の信者と
   会話を楽しむことも少なくなった。
   人生に対する不安や不満を誰も本気で聞いてくれない。
   老年期は寂寥感が募るばかり」
   こんな声が集まった。


   高齢になると脳の前頭葉が収縮し、判断力が低下し、
   感情の抑制が効かなくなるというのであれば、
   キレる高齢者というのは、万国共通のことなのか。
   どうも、そうじゃないらしい。
   欧米では「年を取ると、より性格が穏やかになり、優しくなる」
   というのが定説だ。
   イギリスの科学者の言葉を借りれば、
   「人間は年を取るほど、神経質ではなくなり、
   感情をコントロールしやすくなる。
   同時に、誠実さと協調性が増し、責任感が高まり、
   より敵対的ではなくなる」のだそうだ。


   ここで、ちょっと気になるのが「幸福度」だ。
   国連の調査によると、日本の幸福度は世界155カ国中51位。
   サウジアラビアやニカラグア、ウズベキスタンより低い。
   またOECDの人生に対する満足度調査では
   先進38カ国中29番目だ。
   しかも、日本では年を取るにつれ、幸福度が下がっているのである。



   それらを見れば、高齢者だけを責めても問題は解決しないだろう。
   昔、「穏やかで優しいお爺さん、お婆さんたち」が
   周りにはたくさんいた。
   なのに今は、切れる高齢者が何かと話題になる時代だ。
   日本はどこかで間違ったのではあるまいか。
   なぜ、こうも幸福度の低い国となってしまったのか。
   自戒を込めながら、さまざまに考えさせられる。