第3話 Something
「じぃじ、行くよ。用意いい?」
ギターを背にトシがやってきた。もちろん準備万端だ。
カラオケへ行くほどのことだから、そんなに力むこともないのだが、
何事も見かけが大事と心得ていれば、やはり身だしなみは整えておく。
すっかりたるんでしまった首筋を少しでも隠せるようにハイネックの白いシャツ、
それにジーンズを合わせる。それと、ちょっと洒落たハンチング風の帽子を
先日デパートで買っておいた。身だしなみと言うほどのことではないが、
小ざっぱりとまとめた。
さてと。
おや、サホリもサクラも一緒じゃないか。サホリはトシの姉で高校1年生、
もう一人のサクラ、この子は爺さんの次女・ミサトの一人娘だから
サホリ、トシとはいとこ同士ということになる。えーと小学校の4年生だったか。
その2人、どちらも表情が険しい。なぜだか、それはおおよそ見当がつく。
「じぃじ、ひどいよ」とサホリ。案の定だ。続けてサクラが
「トシ君だけカラオケに連れて行くのは、ずるい」ときた。
そして、口をそろえて「私たちもビートルズやってあげる」というのだ。
「ビートルズは4人でしょう。私たちも全部で4人。ちょうどよ」
もしかして、もしかしてだぞ。「トシ君だけ連れて行くのは不公平」と
文句を言っているのではなく、この爺さんをちょっとばかり喜ばせてやろうとの魂胆か。
そうであれば、なんとまあ健気で心優しい孫たちよ。
涙がこぼれ落ちそうなほどの感激ではある。
だが、「そりゃ無理」と言いかけると、今度はトシが、
「じぃじ、大丈夫だよ。何もうまく歌おうというのじゃないよ。雰囲気、雰囲気」
簡単な話のようにまとめてしまう。どうやら3人して謀ってきたらしい。
しかしなあ。サホリは何とかなるだろう。
いろんなコンクールでいつも金賞を獲得している高校の合唱部の一員だ。
いつも最後列に立ち、170㌢の背丈だから客席からでも表情がよく見える。
口を大きく開き、曲に合わせて体を緩やかに揺する姿に、
この子の情感の豊かさが表れている。
成績も上位にいて、おまけに英語がぺらぺら。
ビートルズもきっと爺さんよりうまくというか、正確な発音で歌えるに違いない。
問題はサクラだ。とてもビートルズを歌えるとは思えない。
そんなこちらの思いを見透かしたようにトシが言う。
「サクラにはあまり歌うことのないリンゴ役になってもらう。
リンゴはドラムだからサクラにはタンバリンをやってもらえばいいじゃん」
するとサクラが、
「私だって英会話教室に行っているんだもん。サホリちゃんと一緒に歌う」
自分でこう決着をつけてしまった。
このサクラは、サホリとは対照的に小柄だ。
爺さんより背が低いのは、家族の中ではサクラだけ。
ただ油断は禁物。まだ小学4年生だし、何と言っても母親のミサトは170㌢に少し足りないくらいある。父親もミサトより背が高いから、170の半ばくらいはあろう。
両親がそうであれば、これから伸びる可能性たっぷりということになる。
サクラはなんといっても顔立ちが良い。目元くっきり、なかなかの美人だ。
そうそう爺さんが若い頃、小さくて可愛い女の子を「トランジスタガール」と言ったな。
今のサクラはまさにそうだ。
性格も明るい。おしゃまで黙っていると一人なんだかだとしゃべり続ける。
それがまた愛くるしい。おっと、孫自慢もこのあたりにしておくか。
何事も過ぎるといけない。
「サホリと一緒に歌う」んだって? ああ、そうかい。
「サクラがリンゴ」というのは、妙な話ではあるが、
これは言葉の問題、トシとのやり取りには別状ない。
「サクラがリンゴ役」というのなら、サホリもトシも、
そしてこの爺さんにも役があるのだろう。すかさず、
「サホリはポール役、そしてじぃじがジョージ役だね」
「じゃ、トシ、お前がジョン役というわけだ」
「一応、そういうこと」
「歌わないジョンだな」と茶化してやった。恨めしそうにサホリの方を見て、
「だから、一応と言っているでしょう。歌うのは、じぃじがジョンとジョージをやってよ。
僕はギターに専念……」
今度はトシがむっとしたようだ。はい、はい分かりました。
さて、それでは行くか。4人打ち揃ってカラオケ店へと繰り出した。
これにまた驚いたのが、例の受付のお姉さんだ。そりゃそうだろう。
爺さんが孫を3人も引き連れてくるなんて、そうそうあるものではない。
トシとはもう顔なじみになっているが、サホリとサクラは初対面だ。
この2人がまた、1人は長身で抜群の見栄えだし、もう1人は小粒ながら
すごく可愛い顔立ち。トシのハンサムボーイぶりはとっくに分かっている。
この爺さんの孫たちは3人揃ってなかなか──受付のお姉さんの顔がそう言っている。
いつもより広い部屋に入った。マイクはもちろん2本。
トシは早速コードをつなぎ、ギターのチューニングを始める。
サホリは友達とちょいちょいカラオケには来ているようだから慣れたもので、
さっさと機械をいじって調整している。
サクラは、手持ち無沙汰にそんな2人をじっと見ている。
「あっ、忘れていた」トシが突然言った。
「何?」とサホリ。
「サクラ用のタンバリンを借りなきゃ」
「じゃ、ついでにマラカスも借りて。私も何かやらなきゃ」
室内電話で受付のお姉さん頼むと、すぐに持ってきてくれた。
「はい、タンバリンとマラカスですよー。皆さん楽しんでくださいね」
気のせいか、お姉さんもどこか弾んでいるような……。
「皆いい。始めようか」準備万端のトシが促す。
「待って」サホリがストップをかけ、
「せっかくだから、最初は皆それぞれ好きな歌を歌おうよ」と言う。
「そりゃそうだ」爺さんが相づちを打てば、すかさず「では、トップバッターは私……」
サホリはもうマイクを取り、画面をつついている。何だ、選曲済みだったのか。
サホリのごひいきはK─PОPの「東方神起」だ。流れてきた曲は、やはりそうだった。
合唱部だけあって、メゾソプラノできれいに流していく。
「東方神起」2曲の次はサクラ。サクラの好きなグルーブは『嵐』だ。
実はサクラの母・ソノミも『嵐』ファンで、コンサートには2人で行くほど。
「いい歳をして」ソノミにそう言いたくなるが、
「お父さんには言われたくないわ。お父さんこそ、すごいミーハーじゃない」
そう言い返されるに決まっている。母娘共に『嵐』に夢中、まあいいだろう。
サクラは決してうまいとは言えないが、
精いっぱい声を出して歌うところが、また可愛い。
「トシは歌わんだろう」と言えば、「ああ」の一言。
それ以上深入りせず、「では俺がフォークを……」2曲やった。
サホリやサクラにはほとんど馴染みがなかろう。「なんだ、この歌」という顔をしている。
本番、本番。
「じゃ、じぃじ。いつものように『Something』から始めようか」とトシが言うと、
「ちょっと待って」サホリがまたストップだ。
「トシがじぃじから借りたCDで何度か聞いたけど、私たちまだよく覚えていないの。
だから、じぃじが最初に歌ってみて」というのである。
「そうか。ではトシ、いってみるか」そうトシを促し、軽―く流してみた。
サホリは何とも辛口の評論家だ。
「なあに、じぃじの発音。英語じゃない。まるっきり日本語。カタカナを読んでいるようなものだよ」
ほっとけ。こちとらは、それも承知でやっているんだ。なあ、トシ。
「絶対に人前で歌っちゃだめだよ」とまで言われてしまった。
実は、サホリは小さい頃からなぜか語学に長けていて、それで英会話教室に通わせたところ、小学生になると英語ペラペラの子になっていた。
そんな子からダメ出しされてしまったわけだ。
そして、「もう一度やってみて」ときた。
すっかりサホリに仕切られてしまったようだ。
サホリは聞きながら、何やらメモしている。この子は小さい頃から玩具より
鉛筆とノートが好きな子だった。そんなことが、ふいと思い出されてくる。
「サクラちゃん、サビの部分……」
「ザビって?」
「ああそうか。ほら途中で声が大きくなるところがあるでしょう。
You’re asking me……って。そこのところを私と一緒に歌うことにしようね」
そんなことをメモっていたんだ。
2度も聞けばサクラも「ああ、あそこだね」と分かる。
確かに、このサビのところは、ジョージにポールがハモるところだ。
これにサクラが加わるらしい。
サクラも英会話教室に通っているから横文字には抵抗感がないようだ。
ただ、サホリにはさんざんけなされた爺さんの英語の発音については何も言わない。
この子も大きくなったらサホリみたいに、ズバッと言うようになるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたら、今度はトシが、
「サクラ、タンバリンを軽く叩いてみて。パンパン、パンパン。
そうそう、それをずっとやっていれば曲に合ってくるよ。いい?」
歌いながらのタンバリンだからちょっと難しくなりそうだが、
「ОK。任せといて」と軽く片付けた。
サホリは負けじと、マラカスをちゃかちゃかやっている。
トシのギターに、サホリのマラカス、そしてサクラのタンバリン、
妙な編成だが、これもバンドだ。
よし、準備は出来た。本番いくぞ!
さすがに緊張する。トシもそうだし、サクラもそう。サホリだけが余裕の表情だ。
と、社交ダンスで片足を爪先立ってくるっと回る、何と言ったっけ、
そうそうターン、それをやる。なんだ、サホリも緊張しているのだ。
入りはドラムのトトトトトッ、これはカラオケの演奏に任せトシのギターへ移っていく。
何とかいけた、と思ったらサホリがまたまた「ストップ」。何だ何だ?
「トシ、間違えたでしょう」
トシをみると、どうもそうらしい。ギターの弦を触って、この弦が悪いんだと言いたげな顔つきだが、それは通らない。
「ごめん。ちょっとひっかかっちゃった」としおれている。するとサクラが、
「サホリちゃんごめん。私もタンバリン間違えちゃった」
トシとサクラ、このいとこ同士は小さい頃から大の仲良しで、
サクラはいつも「トシ君、トシ君」と追い回していた。
それで、ここでもトシの助け舟か。うるわしいこっちゃ。
「じゃ、最初からもう一度。じぃじいい?」
ああ、何度でもいいぞ。スタート。
おっとしまった。入りが遅れた。
「今度はじぃじなの」
サホリは厳しい。「怒られてやんの」サクラが追い打ちをかける。
ええーいもう。もう一度、もう一度。
今度はうまくいった。トシも、サホリも、サクラも、
それぞれに一生懸命自分のパートに集中している。
さあ、いよいよサビのところだ。うまくハモれるか。
サホリとサクラは頬をくっつけるようにして、マイクに顔を向けている。
背丈が随分違うはずだが……そう思って見ると、サクラが少し前かがみになって
ソファの上に立っている。それで調整しているのだ。
さあどうだ。おほっ、うまいぞ。合ってる、合ってる。
もう少しだ。いったー。トシのギターが最後をビンとしめた。
なんとまあ。体がぐにゃぐにゃになりそうな満足感。こんな感覚は初めてだ。
4人がそれぞれにハイタッチ! 孫3人がこちらを見て、にこにこ笑っている。
「じぃじ、私たちのビートルズはどうだった? 楽しかった?」サホリが聞く。
楽しいも何も、孫たちとやれたビートルズ。これ以上のことがあろうか。
「もう一度やるよ。今度は記念に動画を撮っておくからね」
サホリはバッグからビデオを取り出しセットしている。
そんな用意もしていたのか。さすがサホリだ。
今度も皆うまく出来た。
「もう1曲いくか」そう水を向けたのだが、サホリもサクラも「もういい」とそっけない。
「何だ1曲だけのビートルズか」
仕方がない。今日はこれで終わりにしよう。
終話 Mother Mary comes to me
私、サクラです。高校3年生になりました。大学受験ですから大変です。
サホリちゃんはアメリカの大学に留学し、もうすぐ卒業です。
就職は東京の大きな会社に内定していますから、
ちょくちょく会うことができると思います。
それからトシ君。地元の国立大学の3年生です。
実は、サホリちゃんが夏、冬の休みで帰国した時には、私の英語の先生になってくれます。
教え方も本当に上手で、お陰で私の英語力がぐんと高まりました。
そして、トシ君は数学、物理のやはり家庭教師をしてくれています。
トシ君は理数系に強く、大学もその学部を選択しましたからね。
トシ君もまたいい先生です。
それから、4人でビートルズをやった後、
トシ君とサホリちゃんは、それぞれお爺ちゃんと一緒にステージに立ちました。
お爺ちゃんは「次はサクラだな」と言っていましたが、とうとうそれは出来ませんでした。
トシ君が大学に合格したのを見届けるようにして、その年の春に亡くなったんです。
もうビートルズはやれません。
トシ君もギターをやめてしまいました。
お葬式の時、サホリちゃんがあの動画をお棺の中に入れてあげましたから、
お爺ちゃんはきっと天国で動画を見て楽しんでいるでしょうね。