Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

さて あと何年?

2023年02月25日 06時00分00秒 | エッセイ


母は89歳で亡くなっている。当家ではいちばんの長生きだ。
この母の年齢にパーキンソン病で長年療養生活を続けている長女が、
1月に追いつき並んだ。
さすがに運動機能は衰え、車イス生活を強いられてはいるが、
他に格別不調なところはなく、いたって元気である。
おそらく、母の長生き記録を上回るのではないかと、
願いをも込めてそう思っている。
姉は僕に対し「おうちは、父ちゃんに生き写しやね」と言うが、
僕に言わせると
「姉ちゃんは母ちゃんにそっくり。母ちゃんを見とるごたる」人であり、
生きた年数まで似通ってきたわけだ。

別に家族間で享年を競うわけではないが、父は68歳である。
今にして思えば、随分と早い。長い闘病生活の末だった。
その父に「そっくり」な僕は、すでに父を12歳上回っている。
ついでながら、長男81歳、二男82歳、三男52歳、
そして次女73歳という年齢だった。
僕と2つ違いの三男は事故で、次女も車にはねられた結果である。
僕は今年7月で81歳になる。いちばん上の兄と並び、次の兄に迫る。

        

これまで5度ガンの手術をしているが、
いずれも発見が早く大事には至らなかった。
以降は、何とか持ちこたえており、むしろ医師は
「80の年齢にしたら、大変に元気でいらっしゃる」そう言ってくれる。
そんな医師の見立てにも励まされ、健やかな日々を送れており、
心中では男の兄弟では僕がいちばん長生きするのではないかとも思っている。

ただ、若干複雑でもある。兄たちは追い越せても母にはどうか。
それまでには、まだ9年もある。
さらに上の姉を見ると、それ以上になりそうだ。
これから先どこまで生きられるか想像もつかない。
「まだまだ大丈夫」と思っていても、不確実性の非常に高い年齢だ。
そう思うと、つい弱気になってしまう。
そもそも、これ以上長生きしたいのか。
「日本人男性の平均寿命(81・47歳)まで生きられれば十分」
ではないかと思ったりする。
今の健康状態を考えると、その年齢だと病に伏せて苦しむこともなく、
家族にもさして迷惑をかけずに済むはずだ。そんな計算もしてしまう。

人の生死は自分の思うようには操れない。「人生100年時代」と言うが、
これから先の20年は、まさに生死の境をさまようような時間であろう。
ええい面倒臭い。深く考えるのはやめよう。
日々思い切り楽しむことにする。


ピアニストに? とんでもない

2023年02月21日 10時49分57秒 | エッセイ


ピアニストの辻井伸行さんが、テレビに出演し演奏していた。
いつも驚かされることであるが、あの指の動き。
どうすれば、あんなに早く、それも両手を同時に動かせるのだろう。
ほとほと感心する。しかも盲目である。
加えて、この日演奏しているのは、クラシックにジャズなど
他のジャンルの要素が入った難曲と言われるものだった。
それを超絶技巧でこなしているのである。
いやはやというしかない。



かく言う僕も弾く。
いや、その、最近カシオ製のキーボードを購入したということである。
「これで練習し、一人前のピアニストにでもなってやろう」なんて、
とんでもない。
以前から「指を動かせばボケ防止になるらしい」
ということを聞いていたが、このキーボードのPRのうたい文句に
「ボケ防止」というのがあり、ここに気が向いたに過ぎない。
そうは言っても、やはり辻井さんほどではないにしても、
それらしく弾いてみたい。PRのうたい文句には、
「鍵に光がつくのでその通り弾けばよい」と書いてある。
それなら何とか出来るだろうと思っていたら、
とんでもない思い違いだった。
光に指が追いつかないのだ。
たとえば、あの「エリーゼのために」。
ご存じのように、聞いただけでも忙しい。
光で誘導してくれるからと言って爺さんの指が追いつくはずがない。
それが両手となるととんでもない話だ。
それでも諦めるわけにはいかない。

とりあえず、メロディー部の右手だけ練習することにした。
それも緩やかな「故郷」「荒城の月」「月の砂漠」などといった
昔懐かしい曲から始めている。
くじけることなく練習を続けていると、
右手だけだと何曲かはメロディーらしくなってきた。
合わせて口ずさむと、ちょっと気分が良い。
今後、左手さらに両手と練習を積んでいこうと思う。
道のりは遠くとも、なんて。



姉と弟

2023年02月18日 09時01分46秒 | エッセイ


あの泣き虫の姉が、今日は涙を見せなかった。
久しく会っていなかった弟が、なぜか目の前に座っている。
「びっくいした。おうち、うちの89歳の誕生日ば祝いに来てくれたんね」
恐らくそんな驚きだったろう。
驚きが涙を抑え込んでしまった、そうなのに違いない。
僕にしても、姉の誕生日を失念していたから
姪が「ママ お誕生日おめでとう」と花束を渡したのを見て、
はっとなり「おめでとう」と続けるしかなかったというのが実際だった。
姉と僕、2人に仕掛けた姪の心温まるサプライズだったのである。

何せ4年ぶりだ。
コロナ禍によって長年療養生活を続けている
恩ある姉を見舞うことさえかなわなかった。
すでに兄3人、姉1人を亡くし、
末っ子の僕に残されている血の繋がった家族は、
8歳半違う長女であるこの姉だけだ。
しかも、僕をまるで母親かのように慈しんでくれた人である。
見舞いたくとも出来ないもどかしい時が続いてきた。

「やっと15分だけ面会することができるようになりました」
待ち望んだ姪からの知らせだった。
思いを乗せたバスが高速道路を長崎へと急ぐ。
ようやく姉が入所している特養老人ホームで姪と落ち合った。
そして、車イスを押されて面会場所へやって来た姉……。

                           

ああ、もどかしい。
姉との間を遮る感染防止用のパーティションが何とももどかしい。
与えられた面会時間はわずか15分間なのに、
これが姉に近寄ることを許さない。
言葉を交わすのも今は難しくなっており、
姪、あるいは介護の人を介して何とか話をするしかないから、
それだけ15分間が短くなってしまうのにだ。

相変わらず音楽が好きで、
You TubeでEXILEやDA PUMP、
あるいは嵐などを追っかけているという。
89歳にもなるお婆さんが、と笑ってしまうが、
一方では嬉しくもあり、その元気さに安心する。
ついでに、ミュージックスクールの発表会で
僕が歌っている動画を見せようとすると、
パーティションの隙間から手を伸ばしてスマホを受け取り、
じっと見入っている。そして、終わると拍手をしてくれた。
姉はまだちゃんと感情を表現できる。そのことが何より嬉しかった。

やるせない15分を終えた。
部屋に戻る姉が手を差し出す。僕もそれに応え、
やっと握り合った互いの手は消毒液で湿ってはいたが、
その温もりはやはり姉弟のものであった。

        (2月1日アップしたものの一部を抜粋し、書き換えたものです)


オートバイ&ステレオ

2023年02月14日 06時00分00秒 | エッセイ


兄の腰のあたりにしがみついた僕の体は、
カーブのたびに右に左に傾き、尻はゴリゴリと擦れ、痛かった。
無理もない。このオートバイは兄が働く精肉店の業務用で、
僕が座っているのは、鉄の棒と板を四角に組み合わせた荷台であり、
そこに薄っぺらの座布団を乗せ、
荷物を固定するゴムのロープで括り付けた即席の座席だった。
しかも、座布団の綿はもう用をなさないほどくたびれていたから
鉄の固さをそのまま思い知ることになった。

        

70年ほど前にも暴走族はいたのかどうか。
暇さえあればオートバイを走らせる、
11歳離れている二番目のこの兄を僕は不良なのではないかと思った。
だが、不良と言うにはちょっとしけている。
乗っているオートバイは、何の飾りもない業務用のものだし、
後ろに乗っけているのも可愛い女の子ではなく、
小学生の弟、つまり僕だった。
不良と言うには、まったく様になっていない。

24、5の盛りの年頃。
なのに、この兄からは色恋らしきものは、
まったく見も聞きもしなかった。
中学校を卒業すると、親戚筋の精肉店に働きに出、
それこそ働くことしか知らないかのように一心に励んだ。
成人したからと言っても酒に飲まれるでなし、
夜遊びにうつつを抜かすでもなかった。
そんな兄の唯一とも言える楽しみと言えるのが、
精肉店のオートバイを引っ張り出してきて、
ついでに、小さな弟をいつも後に乗せドライブすることだった。

そうだ、もう一つあった。
どこでどう覚えたのか知らないが、クラッシック音楽があった。
そのため、結構高価なステレオを買い、レコードをボツボツと集め、
シューベルトだ、ベートベンだと一人聞き入っていた。
両親と兄弟姉妹、全部で8人が雑魚寝するような
小さな家に不釣り合いと言えるものだったが、
兄が懸命に働き、自力で買ったものだったから、誰も文句一つ言わなかった。

       

その頃僕はもう高校生になっており、
聞いていたのはもっぱらエルビス・プレスリーなどロックだった。
兄が不在だったある日、
僕はこっそりステレオでプレスリーを聞いた。
安物、と言っても僕にとっては宝物みたいな
プレーヤーで聞くのとはまったく違い、
プレスリーが眼の前で歌っているかのような迫力だった。
「やっぱりステレオはすごいな」大満足しながら体を揺すっていたら、
予期せず兄が帰ってきたのだ。そして、
「プレスリーなんか聞くと不良になるぞ。やめとけ」とだけ言った。
「黙って俺のステレオを使うんじゃない」
決して、そんな怒り方をしなかった。
むしろ、薄ら笑いさえ見せていた。

当家の墓には、両親はもちろん長男、三男、それに次女が入っている。
だが、この兄はいない。
働いた精肉店を営む親戚には、
子どもが一人もいず店を継ぐ者がいなかった。
それで兄に託し、さらに養子に迎え入れたのだ。
それを兄もすんなり受け入れた。兄はそちらの墓にいる。
オートバイをぶっ飛ばす兄は、実は実直で律儀な人だった。
「不良では?」なんてとんでもない。
むしろ、ツイストに惚けてダンスホールに通った、
昔オートバイの後ろ座席で尻をもぞもぞさせた、
あの小さな弟こそそうではなかったのか。



腕時計の傷

2023年02月11日 06時00分00秒 | エッセイ


この腕時計は、ガラスやメタルのベルトに随分と擦り傷がある。
刻んできた時間に相応する痛みであろう。
大した時計ではない。数千円のカシオ製である。
時間と日を表示するだけ、他には何の機能も付いていない。
狂うことなく本来の役目はきちんと果たしているから、
難癖をつけることはないのだが、
デザインはシンプル、と言うより野暮ったく、
時計店のショーウインドーをのぞき込んでも、
おそらく目は素通りしてしまうだろう。
ファッション性の欠片もないのでは、目も、心もひきつけない。
12年前に亡くなった長兄の形見で、義姉がそっと渡してくれた。
以降、ほぼこれを着けている。

13歳も離れているのだから、
一緒に遊ぶなんてことはもちろんなかったし、
何かをまじめに語り合った記憶もない。
兄弟だと言っても何だか遠い存在だった。
性格も兄はどちらかというと重苦しく、
対する僕は軽薄に近いという対照である。
それに、兄のファッションセンスは、
それを問うこと自体がナンセンスと言ってよい。
この時計はまさに、「兄にそっくり」なのである。
そして、この兄とは性格は違うと思っていたが、
実は似たところがいくつもあることに気付かされる。
たとえば、『ものを書く』『歌う』というのは、2人に共通する。
文学青年気取りの兄は、詩を詠み、
小説らしきものを書いたりした。
そうとあってか、僕が新聞社に入ったのを誰よりも喜んでくれたし、
僕の書いた記事を見つけ、
照れ臭くなるほど褒めてくれたのも、この兄だった。



歌も上手かった。
NHKののど自慢大会の常連で、
もう一歩で全国大会出場というところまで何度も行った。
伊藤久男の『イヨマンテの夜』から
カンツォーネの『オー・ソレ・ミオ』まで、
レパートリーも幅広く、声は伸びやかだった。
僕も70歳から歌のレッスンに通い始め、
もう10回以上ライブハウスのステージに立っている。
兄はまさに正統派の歌い方、
僕はと言えば音符も読めず、
ただメロディーを追いかけているだけで、
その上手さにおいて兄の足元にも及ばない。

目をやると、10時47分を指している。
「そろそろ寝る時間だろう」耳元で兄の声がしたような……
「あと5分待って」そうつぶやきながら、これを書き上げた。