Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

『松田聖子』は歌えません

2023年04月30日 10時03分05秒 | エッセイ

さる楽器店が主催するミュージックスクールを見学させてもらった。
1960~80年代に流行したポップス、歌謡曲、フォークソングなどを
クラスメートと一緒に歌う、つまり合唱して楽しもうとの趣旨である。
僕より少し若い世代ということになるが、歌うのが好きとあれば、
それは大した問題とはなるまいと思い、気に入れば入会してみようか
と思ってのことだった。

だが、それはとんでもない思い違いだった。
案内されて入った教室には、もちろん僕よりは若いが、
いずれもあの頃を青春時代として過ごされたと
お見受けする女性ばかり6人の方がおられた。
そして講師の方も相応の年配の女性だった。
一人ポツンとなった僕は、何となく居心地が悪い。 
その先生が「どうぞ、ご一緒に」と言われる。
見学するだけと思っていた僕は「いや、その」と戸惑ったが、
結局皆さんと一緒にスクリーンを向いた。
ここに、曲の楽譜、歌詞が映し出されるのだ。

 

それを見て、また「ぎょっ」となった。
松田聖子の『青い珊瑚礁』だった。
1980年にリリースされた曲だから、僕はその時40歳近い年齢だ。
テレビで見聞きしたことはあるが、
歌ったことも口ずさんだことさえない。
『あ~あ 私の恋は 南の風に乗って走るわ』
『あ~あ 青い風 切って走れ あの島へ』
なんて情感は、80歳の爺さんにはとても出せはしない。

おまけに女性の歌だからキーが高い。
これまたちょっと苦しい。
どうやら入会者は女性が多いようで、
練習する歌も女性の曲が多いらしい。
さらに、これに振りを付けるというのである。
これもスクリーンを見ながら覚えるのであるが、
簡単とは言っても爺さんの足はもつれるばかりだ。
腕や体の動きも伴っていかない。

見回すと、皆さん本当に楽しそうにステップを踏み、歌われている。
それを見るとますます自分が情けなくなってしまった。
歌が好きなのに、何だか苦痛になり途中で退室したくなったが、
それも不作法なことだと思いレッスンが終わるまで、歌いもせず留まった。
なんで来たのだろう。ここに来たのが恥ずかしくさえなり、
もちろん入会の誘いは断ることにした。

さすがに松田聖子は無理ですね。



AI作『ウオーキング』

2023年04月28日 06時00分00秒 | エッセイ


チャットGPTに頼んでみた。
『僕のウオーキング風景をエッセイ風に
書いてくれないか。1600字程度で……』


僕の前を僕の物言わぬ影が、同じように黙々と歩いている。
4月中旬ながら日差しは強い。
背から射す陽は、川面のさざ波にキラキラと跳ね返っている。
いつものように歩く川べりの道。そのたたずまいは穏やかだ。

       

だが、それは一面の顔。
隠された非情さに〝恨み〟がこもる川でもある。
今でもよく覚えている。2003年7月19日早朝、
前日からの豪雨により不意を打って氾濫。
堤防道路を越えた濁流はたちまち周辺一帯を水浸しにし、
マンション1階の当家もそれから逃れることが出来なかった。
床上10㌢ほどの浸水だったから、命を脅かされるほどではなかったが、
それでも室内は全面改修を強いられ、工事が完了したのはほぼ1カ月後。
それなりの費用もかかったし、
加えれば駐車場に停めていたマイカーも半分ほど水に浸かり、
結局廃車しなければならなかった。
「悔しいなあ。どんな悪い事をしたというの。
なんでこんな目に合わなきゃいけないの」
妻は我が家のそんな惨状にぽろぽろと涙を流した。
20年も経てば、妻共々その恨みは薄れ、
うってつけのウオーキングコースとなっているのだから
『喉元過ぎれば……』の感に我ながらあきれる。

70、80㍍先の川面が何だか騒がしい。
近づくと30羽ほどのシラサギが群れをなして右往左往している。
そのシラサギの間に黒いものが5つか6つ。
カワウだ。これまたせわしなく動き回っている。
どうやらエサ取りの共同作戦らしい。
潜水が得意なカワウが水中の小魚を追い、
シラサギの何十本もの脚がその逃げ道を塞ぎ、
逃げ惑う小魚をカワウがパクリとやる。
浮き上がればシラサギの餌食だ。
なるほど、なるほど。利口な鳥たちだ。

        

そんな鳥たちの喧騒ぶりに頬を緩ませ歩き続けていたら、
今度はとんでもなく不快な場面に出会った。
おそらく前夜、数人の若者が川沿いの道で盛大な〝宴会〟を開いたようだ。
ビールをはじめ酒類の空き缶・瓶が散乱し、
何かの食べかすを詰め込んだビニール袋をカラスだろうか、
つつき破り一面に散らばっている。
それを顔見知りの老婦人が一人黙々と片付けている。
知らぬ顔をして通り過ぎるわけにはいかない。
二人して、何とか片付けることが出来たが、やはり腹立たしい。
老婦人の側をはなれないマナも恨めし気な顔をしている。

        

マナは老婦人の飼い犬、4歳になるメス、いや女性だ。
殺処分されかねない保護犬だったのを老婦人が引き取り、
今はその家族の慈しみの中で安穏に暮らしている。
人の身勝手さに傷つき、翻弄され、挙句捨てられ路頭に迷って
殺処分された犬は全国で7687頭(2018年度)にのぼったという。
マナにしてもどんな辛い思いをしたのか、
引き取った当初は「人への警戒心が強く、
こうやって外に出るのも川辺の砂場遊びの時くらい」だったそうだ。
マナを見かけるようになってからもう1年以上。
「マナ」と呼びかけると以前より少し慣れたのか、
こちらに近づいてくるようになっているが、
それでもいまだに人が寄ってくると尻尾を垂れ、俯き加減になり、
上目づかいにこちらをうかがうなど警戒、いや恐れているような素振りを見せる。

        

人というのは、時にあきれるほど無節操で、罪深い
──そんなことを思いながら、「晴れたら外へ」と促す友、
「閉じこもってばかりいたのでは、体は衰える。さあさあ」と急き立てる
妻に励まされるように、今日もまたウオーキングに出かけてくるのである。


チャットGPTは、こんな風に書いてくれた。
どうやら、僕のブログを検索し、
ウオーキングに関する数本の作から情報を得て、まとめてくれたらしい。
だから僕は書き出しと、最後の数行を書いたのみである。
こんなことで良いのかどうか。
自分で考える力を失くしてしまうようで怖い。 



出ずる日蕾む花

2023年04月23日 06時00分00秒 | エッセイ


娘2人の、合わせて3人の孫は、26、24、20歳になる。
一番上の女の子はすでに外資系企業に勤務する社会人である。
とは言っても、まだまだこれから多くの苦労、試練があろう。
下の男の子、女の子はともに学生。
学業に励んだうえで、旅立つ日を迎えなければならない。




早いもので、もうこんなにも大きくなった。 
もはや、祖父母が手出し口出しできない、
いや、すべきではない年頃である。
少々、寂しくはあるが、
幼き日々の出来事を思い浮かべながら心和ませるしかない。





ベランダの花々が蕾をつけ始めた。
「出ずる日蕾む花」(いずるひ つぼむはな)
前途洋々たる若者たちに贈る言葉だ。
3人の孫たちに思いを馳せる。


白一点

2023年04月20日 15時41分14秒 | エッセイ


なぜ、なぜなのですか。
なぜ、私たちの中にポツンと紛れ込んできたのですか。
彼岸花と言えば、ご覧なさい、私たちみたいな鮮やかな赤い花
というのが多くの人が知っていることですよ。
なのにあなたは、私たちの中に紛れ込んできて、
女王様みたいに私たちを睥睨しているではありませんか。
不愉快でなりません。
早く、自分がいるべき場所に戻りなさい。


                何とも恐れ入ります。
      この写真は第70回二科会写真部展入選作で私の妻の作品です。

どうぞ、お怒りにならないでください。
私とて、皆さん方の調和を乱そうなんて思っているのではありません。
実際、なぜここにいるのか私自身よく分からなかったのです。
ここ九州では、私ども白い花の群生もあちこちあります。
私たちのことを『シロバナマンジュシャゲ』と呼ぶようですね。
私たちももともとはあなた方と同じように赤だったんだそうです。
こんな話を聞いたことがあります。

ある晴れた日、まさに突然、突風が襲いました。
それによって、あなた方のどなたかが
『鍾馗水仙』(しょうきずいせん)の群生の中に吹き飛ばされ、
その『鍾馗水仙』と自然交雑した結果、
生まれてきたのが私たちらしいのです。
それが群生をつくり、私の母もそこで生まれました。
ところが、またまたの強風です。
母の花弁の中にいた私をこちらへ吹き飛ばしたのだと思います。
だから、私は色は違えど皆さん方と親類なのです。
どうか邪険にしないでください。

そういうことでしたか。言葉を荒げてすみませんでしたね。
どうぞ、もう少し近くへお寄りください。
共々、この温かい日差しを受けながら
楽しくやっていきましょう。
ところで、あなた、何とおっしゃいましたっけ。

シロバナマンジュシャゲです。
よろしくお願いいたします。





道端の花

2023年04月18日 09時11分54秒 | エッセイ


何という名の花なのか知らない。
早朝ウオーキング途中の道端にひっそり咲いていた。
薄いピンクの小さな、かわいらしい花だ。
だが、立ち止まり、手折って家の花瓶に挿そうとは思わない。
道行く人が、通りすがりにちょいと目をやり、
「おや、かわいらしい花だな」
そんなちょっとした思いをさせる花なのだ。
それが、この花の存在感だと思う。





花にはいろんな生きざまがあることを知る。
野山一面をさまざまな花が爛漫に咲き乱れ、人々の感嘆が尽きない。
家々の庭やベランダも丹精込めた花々が、家人を和ませる。
そして、雑草の中に、あるいは道端に埋もれるように咲きながらも、
それでも自分の存在感を示す野花もある。
それぞれが自分を主張しながら懸命に生きている。

人も同じことではないか。