Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

父ちゃんの笑顔

2021年02月27日 12時27分13秒 | エッセイ
     父ちゃんは昭和44年5月28日、69歳で死んだ。
     入退院を繰り返す長い闘病生活の挙句だった。

前の年の6月、長崎発の寝台特急「さくら」で初めての東京へ向かった。
後に振り返れば、この東京での半年間の出向=研修は、
僕の進路を決定づけた大変に意義深いものであった。
ともかく、その出向を終えて今度は飛行機で長崎に戻ると、
父ちゃんは病院のベッドの上に、小さくなった体を丸めるようにして、
まさにちょこんと座っていた。

        

   最初は不審げな表情をしたが、すぐに、
   はにかんだような笑顔に変わった。
   父ちゃんが僕に笑顔を見せるのは、いつのことだったろうか。
   思い出せもしなかった。
   何せ、もう何年もまともに話さえしていなかったのだ。

男の子は、父親との関係がややこしくなる時期がある。
自我が確立してくる高校生、あるいは大学生ほどの年齢になると、
父子の会話はほとんどなくなり、時には激しく言い争うことさえある。
体はすでに父親をしのぐから、
父親はその権威のみをよりどころに従わせようとする。
それがまた反発を招くのだ。
この時父親は、自身がかつてそうであったことを忘れており、
また我が子が口答えできるほど成長したことに気付かない。

     何故そうなるのかは知らない。単に反抗期。
     または自我が確立してくると一人の男として父親の生き方に
     疑問を持ち反発する。
     あるいは、母親を巡り父親とはライバル関係になる──
     などともっともらしく語る人もいる。
     だが、いろいろと理屈を並べても、
     「間違いなくこうだ」という理由に行きつかない。

          

末っ子の僕は、父ちゃんから大変にかわいがられた。
登山やハイキングが好きで、いつも僕を山登りに、
キャンプにと連れて行った。
その帰り道、海水浴場で遊んだこともある。
小学3、4年生ごろまでの話である。
高校生になると、ほとんど話らしい話をしなくなってしまった。
激しく言い争った記憶はないが、知らない間にそうなっていた。

     やがて僕は父ちゃんの手を離れ、独り立ち。
     父ちゃんはといえば年をとり、病に伏せ、
     見る間に衰えていった。
     ベッドの上に座って丸くなっている父ちゃんを見ると、
     もはや自分が優位に立ったと知り、
     そして、父ちゃんを憐れむ自分がいることに気付く。
     自身への自信、父への憐れみ──
     2つの思いが交錯するのである。

      力尽き、床に横たえられた父ちゃんの顔に
       うっすらとヒゲが見える。
        頬や顎にそっと剃刀を当てる。
         父ちゃんはもう、少しの温もりも、
          そして悲しみも残していなかった。


 

マイカー族

2021年02月26日 06時00分00秒 | まち歩き
        1年365日。早いものですね。
    このブログを始めて、今日がその日になりました。
     いつもご訪問いただきありがとうございます。
          お礼申し上げます。
       これからもよろしくお願いいたします。

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私、マイカー族です。お抱え運転手もちゃんといます。
後部座席にゆったり座っていれば、行き帰りОKです。
行き先までどのくらいかな、うーん、よく分かりません。
でも、歩くと結構遠いように思えますので、
送り迎えしてもらえると、とても楽ちんです。
天気の良い日はオープンカーとなり、雨が降ったりすれば、
ちょっと嫌ですけど、ソフトトップの屋根がすっぽり覆ってくれます。
朝はやはり眠いなあ。つい寝入ってしまうこともあります。
そんな時は、運転手さんから
「はい着いたよ。起きて、起きて」と揺すられ、
たまにはつい、泣き出してしまうことも……。

   近頃多くなりました。
   私と同じようにマイカーで行き来する人たちが。
   そのせいか、危ないなと思える光景をよく見かけます。
   行き交う人たち、特に朝は会社へ行く人たちが多いので、
   その人込みを縫うように進まなければならなくなります。
   中でもお年寄りは要注意です。
   どうしても動作が鈍く、咄嗟の動きが出来ませんからね。
   衝突しかねません。
   また、うちの爺ちゃんもそうですが、歩くのがのろい。
   右に行くのか左に行くのか、それとも真っ直ぐなのか
   分かりにくいんです。
   その都度、私の運転手さんは車を止めなければならず、
   時々「ええい、もう」なんて口汚いこと。
   嫌ですね。そんな汚い言葉を聞き続けると、
   私も「ええい、もう。何しよっとね」と言いそうになります。
   用心、用心。
   
        

通行人だけが悪いのではありません。
運転マナーが欠ける人も結構います。
特にスピードの出し過ぎ。
こんなに人通りが多い所で、そんなスピードだと
事故につながりかねません。
信号もしっかり守らないといけませんね。
信号無視の車も結構いますよ。
お巡りさんに言いつけようかと思うのですが、
あいにく携帯電話を持たされていません。
それで、「こら、そこの車」と怒鳴りつけそうになります。
いけない、いけない。
私のお抱え運転手であるママ、時々パパになりますが、
二人ともマナーはしっかり守ってくれます。
運転技術も心配いりません。時々、ゆらっとなり、
寝ていた私は「何事!」と驚かされることもありますが、
信頼してお任せしています。
これからも歩道を走る時は、歩行者に十分気を付けてください。
三歳の女の子が偉そうに言ってごめんなさい。
それでは保育園に着くまで、また眠ることにします。
安全運転お願いね——チリリーン。
 

朝に祈る

2021年02月25日 06時00分00秒 | エッセイ



   有明の空──うっすらと白み始めている。
   佐賀県太良町。有明海に面した多良漁港にやってきた。
   5時半である。 
   沖へすーっと延びる細長い堤防道路に等間隔に立つ
   10本ほどの電柱は、まだ灯りを点々とつけていた。
   その堤防には、船外機付きの小さな漁船が2隻舫われ、
   船底をさざ波がくすぐるように洗っている。
   そこへ一人の漁師がやってきて船に乗り込むと舫を解き、
   ブルブルブルブルッというエンジン音を航跡の中に
   紛れ込ませながら、舳先を朝ぼらけの沖へと向けた。

やがて陽は右手、はるか島原半島の上空を染め始め、
ぐんぐんと力強さを増していき、海面に一筋の黄金色の帯を延ばす。
それが、堤防道路に平行して海中に立つ、
朱に塗られた3基の鳥居を神々しく直射していった。

          

     この地にはこんな伝説が残っている。
     ——およそ300年の昔、悪政に苦しめられた村民が、
     悪代官を懲らしめるため一計を案じた。酔わせた挙句、
     有明海の小さな島、沖ノ島に置き去りにしたのだ。
     実はこの島、満潮時になると海の中に沈んでしまう。
     酔いが覚めた代官は、島が沈みそうになっているのに驚き
     神に救いを求めたところ、現れたのが文字通りの大魚(ナミウオ)、
     代官を背に乗せ助けてくれたのだった。
     この地にある大魚(おおうお)神社と海中鳥居は、
     代官が改心の証しとして、
     豊漁と海の安全を祈願し建立した——
     こんな話である。

有明海は干満の差が大きい。特に太良町ではそれが6㍍にもなるという。
『月の引力が見える町』と自称するのは、それでだ。
ここに着いた時には、鳥居の下はまだ干潟であったが、
見る間に潮位は上がっていき鳥居の足元を隠していった。
満潮時ともなると鳥居の中ほどまで海中に没するのである。
朱の鳥居が干潟の上に屹立したり、あるいは半ば海中に没した姿は、
まさにフォトジェニックな世界……
世の喧騒を離れ、ひとときの安らぎとなる。

          

    海を臨み背後には霊山とされる多良岳がそびえている。
    その多良岳と沖ノ島の延長線上に
    大魚神社と海中鳥居はあるのだという。
    近くに住む老人だろう、散歩がてらのウォーキング中立ち止まり、
    多良岳に向かって手を合わせ、軽く頭を下げた。
    すると、高さを増していく陽に召されたのか、
    近くの木に群れ止まっていた数十羽もの白サギが、
    その陽を受ける鳥居の方へと一斉に飛び立っていった。



吸いさし

2021年02月23日 17時31分20秒 | エッセイ
             

    火鉢にたばこの吸いさしが突っ立っていた。
    父の、両切りの「光」だった。
    小遣い銭ほしさにタバコ屋に走っていたから、よく覚えている。
    朝日のデザインが鮮やかだった。
    父は、半分ほど吸うと火鉢に差した。そして、後でそれを吸った。
       一本を2度に分けて吸っていたのだ。

             
        
それが目の前に突っ立っている。
ふいに誘惑にかられた。
家には誰もいない。どんな用事があったのか覚えていないが、
1人留守番をさせられていた。台所からマッチを持ってきた。
もう一度あたりを見回す。吸いさしをそっと引き抜き、くわえた。
初めてのたばこの味が唇から、匂いが鼻から入ってきた。
マッチをする。たばこに火をつける。すーっと吸い込んだ。
途端に、思いっきりむせ返り、けたたましく咳き込んだ。
あわてて火鉢へ突き立て、涙をにじませながら、ふーっと大きく息をした。
わずか一吸いだ。父親にばれることはあるまい。
妙なことにそんなことを思う冷静さはあった。
中学3年生。たばこの吸い始めであった。

           
   
    かかりつけの女医さんが、こう警告した。
    「心筋肥大による不整脈が出ているし、血圧は高い、
    コレステロール値も基準値をオーバーしている。
    それなのに、たばこですか……」
    母親のごとく、それでいてきっぱりと、
    「たばこは、おやめなさい」とのたまわった。

たばこを本格的に喫い始めたのは社会人になってからだ。
一日に一箱20本、神経がエキサイトした時などはつい二箱となった。
そんなことを50年、いや、あの中学生の時の
いたずら心から数えると60年、続けていたわけだ。
その挙句が女医さんの警告となった。
たばこが、からだに良くないことは感じていたから
自分でも驚くほど、あっさりと警告に従った。
それから、もう13年経つ。

    だが、きれいさっぱりだったはずなのに……。
    公園を通ると、紫をまとったその香(かぐわ)しさが
    ほんわりと近寄ってくる。
    片隅に10人ほどの男女がたむろして、唇に、指に、
    その香しさをちらつかせる。
    未練の火はいまだに悩ましくくすぶり続けているのである。
    時に、その誘惑は耐えがたいほどで、その手を懸命に振りほどく。


2021年02月22日 14時32分06秒 | エッセイ
 
    
     ああ人は 昔々 鳥だったのかも しれないね
     こんなにも こんなにも 空が恋しい
           (中島みゆき「この空を飛べたら」から)



      空を飛ぼうなんて 悲しい話を
       いつまで 考えているのさ



      飛べるはずのない空 みんなわかっていて
      今日も走ってゆく 走ってく



      
                この空を飛べたら 消えた何もかもが
            帰ってくるようで 走るよ