Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

お母さん

2021年12月25日 19時01分43秒 | エッセイ


「遠く離れた無人島に、
    一つだけ持っていくとしたら何を持っていきますか」
友人の女性が開いている学習塾で、子どもたちにこう尋ねました。
小学2年生の男の子の答えは、こうでした。

        
「ぼくが、むじんとうにもっていくのは、おかあさんです。
おかあさんがいたら、ごはんをつくってくれるからです。
おかあさんがいたらさみしくないし、ふねもつくってくれて、
なんでもできるから、ぼくはなきません」


人間魚雷・回天特攻隊員として出撃した18歳の青年の遺書です。

      

「お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、
少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思います。
が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、
涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。
やはり寂しい。

──中略──
お母さん。
今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。
お母さんは優しい人だったから。
お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙です。

    どうして、父親は選ばれないのでしょうね。



天国の母からの手紙

2021年12月19日 10時06分09秒 | 思い出の記


「こん、馬鹿が!」父が怒鳴る。
側にいる母は、心配そうな顔をして小さな声で
「馬鹿だねぇ」と言って、頬をぬぐってくれた。
これは子を叱る時の、父が叱り役、母が慰め役となった
絶妙の掛け合いだったのかもしれない。


高校3年生の梨菜さんの元には、
毎年12月の誕生日に「天国のお母さん」から手紙が届く。
18歳となった今年は、13通目だった。
母・順子さんは梨菜さんが5歳の時、2009年6月がんで亡くなった。
父親とは1年前に離婚し、母娘2人暮らしだった。
その母が亡くなり、また親戚に梨菜さんを受け入れる余裕はなく、
それで児童養護施設に預けられ、さらに順子さんが育った
愛媛県松山市にあるファミリーホームに移り、そこで今日まで育ってきた。

         
          天国の母からの手紙を読む梨菜さん

母の手紙を届けてくれるのは、未成年後見人となっていた弁護士さんだ。
順子さんは、亡くなる直前に15通の誕生日カードを書き、
それを弁護士さんに預けていたのだそうだ。
成長に合わせ漢字が増え、文章も長くなった。
涙なのか、文字がにじんだ部分もあり、昨年のカードには
「手がふるえていてみにくいけどごめんね」と書かれていた。
そんな母からの手紙を梨菜さんは、
「自身の境遇に悩んだり、学校生活でつらい思いをしたりした時、
いつもカードの文字を目で追った」という。

18歳になると、ホームを出なければならない。
進路を考えた時、頭に浮かんだのが「恩返し」だ。
子どもを支える児童福祉司を目指し、大学に進むと決めた。
学費は順子さんが残してくれていた。
「お母さん、天国で見ててね。私はお母さんの娘だから、
どんな困難も乗り越えて頑張るよ」
誕生日カードはあと2通届く。


新聞のオンラインで拾ったこんな話に心が温まる。
「梨菜さん頑張れ!」と声を掛けてあげたくなる。

         

父から怒鳴られ、それを母が慰めてくれる。
2人の親が側にいてくれるとは、何と幸せなことか。
          


青春の一夜

2021年12月12日 11時58分21秒 | エッセイ


Mとは高校の3年間同じクラスだった。
Mは高校を卒業すると、すぐに就職し社会人になったせいか、
まだ大学の4年間を過ごさなければならない
青二才のこちらに比べ、〝大人度〟に随分と差がつき、
ひどくませた奴に見えた。


大学2年になる春休み、そのMから「遊びに来ないか」との手紙が届いた。
Mが就職した先は兵庫県の三宮。
長崎県から県外には一度も出たことがなかったから
「行く」の二つ返事だったのは言うまでもない。
準急に飛び乗った。
ポケットには帰りの汽車賃ほどしかない。
「俺に任せておけ」とのMの言葉が頼りだった。

                                 
             現在のJR三ノ宮駅

三ノ宮駅で迎えてくれたMは、
そのまま神戸市街、六甲山などを連れ回した。
つれづれ、どんな社会人生活を送っているか話してくれたが、
それは会社勤めをしている兄たちの話し方と変わりなく、
自分がひどく子供に思えたものだ。

      
          神戸の夜景(現在)

社会人になってまだ2年ほどしかたっていないMだから、
それほど金があるはずはない。
そのあたりの定食屋で夕食を済ませた。
さて、寮に行ってゆっくり談笑するのかと思ったら違った。
「ちょっと、ここへ行くぞ」Mが指さしたのは、
何とストリップ劇場だった。
Mは慣れた足取りで劇場へ向かうが、
未体験のこちらはどうしていいものやら、ためらってしまう。
だが、未成年という倫理観より好奇心がまさった。
Mの後ろから、おずおずと劇場へ入っていった。


後方の立ち見から見るステージは華やかで、
ただただ驚くばかり。
すると、どこぞのお兄さんが寄ってきて、
「兄ちゃんたち、ちょっと顔かせや」とトイレに連れ込まれた。
「この写真、どうや。5枚で300円にしとくわ」
Mは物おじせず、「兄さん、もらっとくわ」いともあっさり、
その写真を内ポケットにしまい込んだ。

      
          六甲山ロープウエー(現在)

頬をほんのりさせながら劇場を出ると、
またまたMが驚かす。
「さて、どこに泊まろうか」というのである。
「お前の寮じゃないのか」と聞けば、
「寮は狭くて2人は寝れない」と言うのである。
結局、落ち着いたのは連れ込み宿だった。
「こんばんは」と戸を開ければ、
応対に出てきたおばさんがきょとんとしている。
若い男2人連れとあれば、さもあらん。
案内された部屋には、ダブルベッドがでんと待ち構えていた。


「写真見るか」とMに言われ、どれどれと手に取ったものの、
何がどうなっているのか、さっぱり分からない。
それが分かるようになったのは、もう何年も後のことだ。


初めてベッドを共にした相手がMだったなんて……。
遠い遠い昔、まさに青春の1ページであった。



 ゾクッ

2021年12月09日 09時45分56秒 | エッセイ


寝床はもう、完全な真冬支度だ。
上布団と毛布の重ねだから、特に変わっているわけではないが、
実はこの毛布が耐寒、保温性に優れ、
11月末まではこれ一枚で十分に過ごせる。
だが、12月に入ると、「寒くない?」と妻が案じるように聞き、
そう言えば、空気が冷たくなり、
肩のあたりに少しばかりの寒さを感じるようになってきた。
それで、妻が「よいしょ」と上布団を抱えてきて、
二人でカバーをかけ、ほかほかと心地良く眠れる準備が整った。
「今夜はちょっと冷えているな」と思えば、
寝る前に温風器で寝床を温めておく。
そんなことさえしているから、
我ながら「爺臭くなったものだ」とあきれる。
 
        

もともと寒さに弱い。
何年前だったか、ゴミを出しに行った時「ゾクッ」ときた。
あわてて家に戻り、布団の中に潜り込み何とか震えを抑えた。
だが、夜中に発熱、ガタガタと震え、
あれこれ引っ張り出して重ね着し、寒さから逃れようとしたが、
今度は汗が噴き出してきた。下シャツを4枚替えた。
以来、この「ゾクッ」がトラウマになっており、
わずか往復100㍍ほどのゴミ出しには、
万全な防寒スタイルで行くのが常となった。
たまに、それを怠ると「ゾクッ」と襲われ、
慌てて家に駆け込む始末だ。


人の体温は36~37℃ほどで調節される仕組みになっている。
しかし年齢を重ねると体温調節の機能は低下する。
加齢や運動不足は汗腺の機能も低下させるため、汗の量も少なく、
汗をかきにくくなることで体温が調整しづらくなるのだ。
そのため、高齢者は暑さや寒さに適応することが難しくなってしまい、
夏は暑さを感じにくく熱中症に、
冬は寒さに気づかず低体温症になってしまいがちなのである。

古希は何事もなく元気に迎えた。
だが、かかりつけの女医さんはこう言った。
「これからですよ。古希を終え72、3歳になった頃から
いろいろ出てきますからね」
この女医さんの予言は的中。あれやこれやの不調が襲ってきた。


友人からのLINEにシニア川柳20選があった。その一首。
    
     老いるとは ふえる薬と 減る記憶

カードケースの中に10枚の診察券。
いつ、なぜだったか思い出せないものが数枚ある。



医師不信

2021年12月01日 13時22分41秒 | エッセイ


38度を超す熱が2日間続いた。
夜中にはガタガタ震えるさむ気に襲われ、
かと思ったら、下シャツを4枚も替えるほど
汗まみれとなった。
原因ははっきりしていたので、我慢強く乗り切るしかなかった。


ようやく3日目の朝、それまでがウソのように
熱は下がったのである。
それでも、ひどく体力を消耗してしまった。

      

もう何年前になるか。
医師に強い不信感を抱いたことが一度ある。
やはり、夜中にはガタガタ震えるさむ気に襲われ、
汗まみれとなった。
熱は今回ほどではなかったが、37度後半ほどあり、
右の背中に若干の痛みがあった。
翌朝、近くの開業医に駆け込んだ。
だが、ここの医師は原因が分からず、
かつて自らが在職した総合病院へ紹介状を書いてくれた。


早速、その日の午後の診療が始まる2時頃、
外来受診したのである。
担当医師は若かった。研修医ではないかと思い、
年齢を尋ねると「26」ということだった。
その若い医師も原因が分からず、
どうやら先輩医師からアドバイスを受けているようだ。
その間、待合室で放置され続けた。

        

やっと、陽が落ち暗くなってきた頃、先輩医師が出てきた。
あの若い医師の姿は見えない。
「ちょっとCTを撮ってみましょう」
胸中、相当に荒れていたが、医師に従うしかない。
CTを見ると、右の肺がくもの巣状に白くなっている。
「肺がん、肺結核、肺炎、どれだろう。次に血液検査……」
そうしながら、何の結論も出ないまま、
解熱剤一つ処方されぬまま帰宅したのは夜の10時だった。


翌日からも外来受診に並んだ。
待たされた挙句、「もう一度CTを…」となる。
結論は出ぬまま、またまた「CTを…」である。


そういうふうに、毎日外来受診を続けて1週間。
熱がすーっと下がっていた。
「熱、下がりましたね」と医師。
「それで何だったんです」と聞けば、
「軽い肺炎だったのでしょう」と平然と答える。
さすがに切れた。
「薬一ついただきませんでしたね。自力で治してみせました」
言葉荒く、席を立った。


後日、かかりつけ医にこの話をすると、
「1週間にCTを3回。とんでもない話です」
以来、この総合病院の世話になることはない。