Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

アジフライ

2023年05月01日 19時55分26秒 | 思い出の記


麦藁帽の隙間から汗が額から頬へと伝い、
かすかな風にシャツがそよいでいた。
そのシャツは確か、開襟シャツ風なものだったと思うが、
その時僕は小学3年生だったか、それとも4年生だったか……。
何せ70年ほども前の話だ、定かではない。
生地は水色に白の水玉模様、これははっきりと覚えている。
8歳違い、母親代わりだったとも言える姉が、 
1日がかりで縫ってくれたものだった。
姉はこのシャツを僕に着せ、この海辺の町に連れて来たのである。
ここには姉のボーイフレンド、後に義兄になる人がいた。
後に考えれば、嫁入り前の姉が一人で彼に会いに行くのは
両親が許すはずがなく、それで許しを得るため僕を連れて行く、
姉なりの苦心の策だったのだと思う。

        

そんな姉の思いはともかく、僕にとっては心弾む小旅行だった。
ここで初めて釣りもした。
釣りを教えてくれたのは、もちろん、義兄である。
初心者でも比較的簡単にできるサビキ釣りだった。
面白いようにアジゴがかかった。
たちまちバケツはアジゴで溢れるほどになった。

そして、僕が釣ったこのアジゴは
フライになって晩御飯の食卓に置かれていた。
もちろん、姉の手料理だった。
姉、義兄と3人の食卓は何か不思議な感じがした。
姉がお母さん、義兄がお父さんみたいな……。
「姉ちゃんは、なんで大浦小町とか言われとると?」
いきなり僕がそう尋ねると義兄は、
「ウハッハー」と吹き出し、姉は顔を赤らめた。
なぜ、こんな話をしたのだろう。自分でも分からない。
ここに来てからずっと姉が嬉しそうな顔をし、
輝いているように見えたからかもしれない。
「おうち、そがんことば、どこで聞いてきたんね」
「近所の兄ちゃんたちが、そがん言うとらした」

        

「タケオ君、小町というのは美人、きれか女の人ということたいね。
タツコ姉ちゃんはきれかやろうが。そいで、小町って言われとるとさ」
「ふーん、じゃ大浦って何?」
「そいはね、タケオ君たちが住んどる所が大浦町やろ。
そいで、大浦町でいちばんきれか女の人を、大浦小町と言うわけたいね」
「そがんことね。やっぱい、姉ちゃん、きれかもんね。
だから、おじちゃんも姉ちゃんを好いとっとね」
今度は義兄が苦笑いだ。
「ほんと、せからしか子やね。早よ、ご飯ば食べんね」
姉はそう言いながら、義兄の顔を見てニコリとした。
フライは瞬く間になくなり、
義兄が作った食後のアイスキャンディーは、満足のおまけだった。 



母さん

2022年09月29日 08時50分30秒 | 思い出の記


カーテンを開け、外に目を凝らすと霧雨であった。
まだ明けやらぬ6時少し前。おまけに雲に覆われた空は薄暗い。
霧雨は見えるか見えぬほど、音もなくあたりを包んでいた。
それでも庭木は濡れそぼり、しずくが葉っぱを転がり落ちている。
夏は去り、季節は移ろう。



そう言えば、あの日もこのような天気だった。

まだ小学生にもなっていなかった頃、八つ上の姉は
僕を抱きかかえるようにして一本の傘で霧雨を避けながら、
路面電車の停留所近くにあった一軒の家に僕を連れて行った。
出迎えたのは母だった。母はなぜ、
父や僕たち兄弟姉妹が暮らす家とは違うところに一人いるのだろう。
かすかな、たったこれだけの記憶で、小学生も高学年になると、
父と母は一時期、別居していたのだということが分かった。
ただ、どんな理由だったのか未だに知らない。
兄や姉たちが、「実はこんなことがあってね」などと
教えてくれるはずもなく、兄や姉にしても
寂しくて、悲しくて胸を痛めていたに違いない。
姉が僕を母さんの所に連れて行ったのは、
自分も母に会いたさに父には内緒で僕の手を引いたのではなかったのか。


思えば父と母はあまりにも境遇が違う者同士だったと思う。
父は官立の高等商業学校、今で言えば国立大学の経済学部の出身なのに、
対する母は、定かではないが尋常小学校、
あるいは高等小学校の出だったのではあるまいか。
仮に恋愛であったのであれば学歴は関係ないことだと言えなくもないが、
それでもどんな出会いであったのか想像するのは難しい。
また父方は天理教、母方はキリスト教だ。
宗教が違う者同士の結婚は、ややこしい障害がいろいろあったはずで、
二人が結婚した時には、父がキリスト教に転宗し、
母以上に熱心なキリスト教信者になっている。
その時、父には何の咎めもなかったのだろうか。
そう言えば、父方の祖父母はもちろん、その親族をほとんど知らない。
面識があったのは父の弟唯一人だった。

     

もう一つ。これは笑い話みたいなものだが、
父はまったくの下戸なのに、母方は酒豪の家系だ。
母もそうで、夕食時の食卓に杯が置かれるのは母の席だけだった。
母の兄や弟がよく我が家に遊びに来ていたが、
父は笑顔を作って出迎えたものの、酒席の長さに癖癖した表情を見せたりした。

そんな違い過ぎるとも思える二人が、
どのような縁があり結婚することになったのか。
そして二人の結婚生活には何の問題もなかったのであろうか。
僕には知りようのない父母の〝秘密〟である。

平成七年だったから、母が逝ってもう二十七年になる。
八十四歳だった。
母の葬儀の日の写真が、A4の紙を半分に折ったものよりやや小さい
角形7号の、茶の封筒の中にあった。
僕の若い頃のモノクロ写真が五十数枚、実に無造作に入っており、
葬儀の写真はその中に紛れ込んでいた。
この写真には、父はすでにない。
長男、次男、それに長女、次女、そして末っ子の僕、
五人の兄弟姉妹が並んで写っている。
僕の二つ違い、三男の兄だけがいない。
彼はすでに母より五年早く他界していた。
五十歳ちょっと手前の不幸だった。
一人欠けているとはいえ兄弟姉妹が一緒に写っているものは
おそらくこの一枚だけだろう。
母の葬儀というのに、なぜか皆笑顔である。

           

今、マリア像の横に置かれた写真の母も柔和な笑みを浮かべている。
生きていくことの辛さや悲しさとはおおよそ無縁と思える、
ぽっちゃりとしたかわいい顔だ。
さだまさしは『無縁坂』という曲の中で、
「(母には)悲しさや苦しさはきっとあったはず。
(でも、それらを) すべて暦に刻んで流してきたんだろう」
と歌っている。
母もそうではなかったのか。
父とは一時別居はしたものの、すべて暦に刻んで流し、
別れることなくいてくれた。
僕たち兄弟姉妹にとって、それは何よりの幸せであった。
二人は今、同じ墓の中で一緒に暮らしている。
仲良くしているだろうか。
「末っ子が余計な詮索はよしなさい」母が苦笑しているかも知れない。
            
          

母の晩年、五年ほどは病院暮らしだった。
脳梗塞から始まった。
症状は軽く、言葉もしっかりしていたし、
体もさほどのダメージを受けていなかったのだが、
どうしたことか入院中に転倒し、大腿骨を骨折してしまったのである。
年寄りが足腰を骨折すると、それが引き金となって
寝たきりになるとよく言われるが、その通りであった。

母を見舞ったある日。その日はちょうど昼食時だった。
歩けないのでそのままベッド上で食事をしようとしている。
母の側に寄り、ベッドの端に少しだけ尻を乗せた。
おかゆみたいな流動食、それをスプーンで母の口に運んでやった。
すると、それを見た看護師が「やめてください」と咎めるのである。
「なぜ?」と語気を強めた。ささやかな孝行を邪魔された思いだった。
「手助けすると、もう自分では食べようとしなくなりますよ」
……母の手を取り、そっとスプーンを握らせた。

他に悪いところはなかったが、日に日に衰えていくのが分かった。
おまけに認知症みたいな症状も出てきた。
病室に入り顔を見合わせると「遠いところをよく来てくれたね」と、
福岡から入院先の長崎まで高速道路で二時間かけてやって来た僕を
労ってくれるようなことを言うので安心したら、
その後の会話は誰と話しているのか、
まったく分からないものになってしまう。
唖然とし、そしてたまらず、「トイレへ」と飛び出すように
病室のドアを開けたとたんに涙が零れ落ちた。
「もっと見舞いに来てあげたらよいのに……」そう言う妻には、
「そうだね」と気のない返事を繰り返すだけ。
そんな母を見るのが忍びなかった。
何とか笑顔を戻し病室に入った。
すると、母の人差し指が僕の額の方へすーっと伸びてきた。
でも途中で力をなくした。ポトリと落ちるのと同時に、母は目を閉じた。 
それから一カ月ほど後だったろうか、
「おふくろの状況があまり良くない。
医者が状況を説明するらしいのでお前も来てくれ」長兄からの電話だった。
僕を待ち構えたように医師は、
右半分が真っ黒の母の頭部のレントゲン写真を見せた。
「そんな切ないものを見せないでほしい」心中そう叫んでみても、
医師は素知らぬふうに「一年後かもしれないし、明日かもしれません」
そう冷たく告げたのである。その悲しみは一週間後のことだった。

           

一歳になるかならないか、泣きじゃくる僕を母は膝に乗せ、
抱きしめるようにあやしている、あの写真はどこにあるのだろうか。
封筒の中にはなかった。
記憶に残る幼児期の写真は、あれだけだというのに
二度と見ることは出来ないのか。
おそらく、母の手元にあったに違いないと思うが、
亡くなった際、家財道具を整理するのに取り紛れてしまったのかもしれない。
あるいは母が胸に抱いて持っていったか。
少しばかりの寂しさはあるが、でも、あの写真の情景は、
八十歳となっても、母の温もりをしっかり感じさせてくれている。

少し大きくなった小学二年生の、ある真夏の昼下がり、
遊び疲れ倒れるように畳に寝そべった僕の傍らに座った母は、
今度はうちわで風を送りながらこう言った。
「子どもはね、親を選んで生まれてくるのだそうよ。あなたは私を選んでくれたんだね。本当にありがとう」
そして、こう続けた。
「ほれ、眉が下がっているよ。眉が下がっていたら男前が落ちるからね。
指を湿らせ、それで眉をぎゅっと上げなさい」

髭を剃ろうと鏡を覗き込むと、母がすーっと出てきて、
人差し指を眉に向かって伸ばしてくる。
鏡に映したわが顔をしげしげと見つめてみると、
確かに長く伸びた眉が二、三本あり、それらがたらりと垂れている。
シワ、シミに加えて目尻が下がり、おまけに眉が垂れてくると
人相はやっぱり老人そのものである。
小さい頃は、母に言われるままに指を湿らせ横に引くと、
眉は一文字に近くはなった。だが今はもう、あの頃とは違う。
同じようにやってみても、そうはいかない。
でも、母は今もしつこい。
「ほれ、ほれ」と人差し指を伸ばしてくる。
幼い日に戻り指先を舌で湿らせ、眉を横にきっと引いた。



おねえちゃん先生

2022年09月07日 15時58分39秒 | 思い出の記


小学1、2年生の時の担任だった福島先生は、
学校でも僕を「たー坊」と呼んだ。
僕も「福島のおねえちゃん」と言った。
何せ100㍍と離れていないご近所さん同士。
年の差を考えれば一緒に遊ぶなんてことはあるはずもないが、
小さい頃から出会うたびに「たー坊」「おねえちゃん」と
親しんでいたから、そう呼び合うのはごく自然なことだった。

母にすればそうであっても、先生を「おねえちゃん」なんて呼ぶのは
申し訳ないことだと思ったのだろう。
「学校ではちゃんと先生と呼ばんといかんよ」と言った。
「うん、分かった」頷いてはみたものの、
やっぱり、ひょいと「おねえちゃん」と出てしまう。
「ほら、また」母は苦笑いを繰り返した。

                            

「たー坊行くよ。用意出来てるね」
おねえちゃんは毎朝決まって、そう声をかけてくれた。
学校へ一緒に行くのだ。母は笑顔ながらに
「おねえちゃんが迎えに来てくれるよ。ほれ早く」と
真新しい布製のランドセルを背に急かせた。
玄関の戸を少し開け、そこからおねえちゃんが来るのを
待ちわびたように覗き見る。
ほどよく日に焼けた顔、すらりと引き締まった体、
まるでスポーツ選手のようだ。
「たー坊」と呼ぶのと同時に戸を開け、
「おねえちゃん、おはよう」と言った。
「あっ」あわてて母を振り返り、ちょんと頭を下げた。
 
学校の途中には長い石段があった。
「さあ頑張って」おねえちゃんが手を引いてくれる。
それがまたうれしくて、少しくらいの風邪なんかでは決して休まなかった。

そんなおねえちゃんが、突然いなくなってしまった。
2年生の2学期頃だったと思う。
おねえちゃんの姓が「鈴木」に変わった。
「結婚されたのよ」母がそう教えてくれた。
結婚がどんなものかも分からず、まして結婚すると
姓が変わるのだということなど理解できようもない年頃。
「結婚されたので学校を辞められ、引っ越されたの」
おねえちゃんは学校からも、ご近所からもいなくなった。

                                   

おねえちゃんが、どこか遠くへ行ってしまった。
もう「たー坊行くよ」と声をかけてくれることも、
手を引いてもくれないのだね。
「どうして、どうして」と責め、
わあわあと泣き出した僕を母は困惑顔で抱き締めたのだった。
小さな初恋物語。恋しいなあ、おねえちゃん。




8月9日

2022年08月09日 09時19分09秒 | 思い出の記

被爆者健康手帳をいただいている。
昭和20年8月9日午前11時2分。
爆心地から3.5㌔、長崎市新地町、あの中華街のある辺りで
被爆した一人である。
だが、3歳になったばかりであり、
原爆投下時の記憶はほとんどない。
わずかに何かがぴかっと光り、ドーンと大きな音がしたな、
と言った程度の、それもうっすらとした記憶である。

              

当家の墓は、原爆爆心地に近い浦上地区にあり、
両親、兄、姉たち家族が一緒に眠っている。
小学低学年だった頃、祖母に連れられて、よく墓掃除へ行った。
結構広く立派な墓地だった。
おそらく、欧米の映画でよく見かける鉄柵を巡らした、
あのようなものだったのではないかと思う。
なぜなら、墓掃除へ行った際、石柱に埋め込まれた
ヤリみたいな鉄の棒がぐにゃりと曲がって
何本も残っていたからである。
「こん、ひん曲がった鉄の棒は、ピカドンのせいたい」
祖母からそう聞かされ、そしてぐにゃりと曲がった鉄の棒を見て、
原爆というものが、鉄の棒をこんなにも曲げてしまうほど
力が強いものだと子供ながらに初めて知った。

     

実は爆心地近くには母の妹家族が住んでいた。
母は長男を連れ、その消息を求めて爆心地に入ったのだが、
1人として残っていなかった。
近くを浦上川が流れている。
投下直後、多くの被爆者がここに水を求めてやってきた川である。
今はそんなことも知らぬげに穏やかに流れている。

長崎に原爆が投下されて77年。
今朝のテレビニュースを見ていると、
爆心地に建立されている平和祈念像、
それに浦上天主堂のミサの様子が映し出されていた。
教会の鐘の音は、かすかであろうが墓地まで届く。
11時2分、ここ福岡の地から平和への祈りを捧げる。

        (昨年書いたものを加筆・修正したものです)

2022年07月15日 06時00分00秒 | 思い出の記


    高村光太郎に問いたい。
    傘寿を迎えようとする者に対しても、
   「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
    そうおっしゃるのであろうか。

彼の代表作の一つである『道程』という詩に初めて触れたのは、
中学の国語の授業でだった。
この『道程』はもともと102行あるのだが、
教科書などにはそれを圧縮・改訂した9行の作が用いられることが多い。
そして、その最初の2行は誰もが諳んじるほどの名句として知られる。
だから授業は、この2行に込められた思いを
どう解釈するかといったことを主に進められ、結果、先生は
「新たな、険しい道を切り開くには、それに立ち向かう勇気を
持たなければなりません。この詩はその決意を謳い上げたものです。
皆さんはまさに、新たな道へと歩み出そうとしている人たちです。
勇気をもって自分の進むべき道を切り開いていってください」
そう教え、促されたのである。
作者の思いはもう少し深いものがあるのだろうが、
多感な年頃の中学生にはきわめて分かり易く、胸に響く解釈だった。

        

だけど、80歳にもなろうとする今、
また新たな道を切り開き、歩み続けなければならないのか。
いささかきつい。
精気にあふれ、あの2行が胸に染みた中学生の頃とは、もう違うのだ。
「自分の進むべき険しい道を切り開け」と言われても、
それは重きに過ぎる。

道が険しいほどに、それを切り開いた時の喜びは
ひと際大きくなるのも確かだろう。

5年前、四国に4泊5日の車中泊に出かけた際、
国道474号線を走った。
その道は国道ならぬ、まさに〝酷道〟だったのだ。
いわゆる1・5車線の狭い山道が
標高1000㍍の峠までくねくねと続き、
常に対向車に注意を払わなければならなかった。
しかも右側にガードレールはほとんどなく、
反対側は側溝とあって少しの間も気の抜けない険しい道だった。
だが、そこを抜けるとエメラルドブルーの水面と
それに紅葉が映える見事な面河渓の景観が迎えてくれたのだ。
もちろん『道程』の〝道〟と、この国道とを並べて論じるのは
まったくナンセンスであるが、
〝険しさ〟を乗り越えた先の喜び、そこは共通する。

     

でも、繰り返すがそんな〝険しさ〟を
今また乗り越えなければならないのか。
老年医学・精神科医の和田秀樹さんは自著『80歳の壁』の中で、
「嫌なことは我慢せず、好きなことだけする。それが寿命を伸ばすコツ」
だと言っている。
光太郎も相槌を打ってくれまいか。