国境を越えて軍隊を派遣することは、それによる「莫大な利益」を見込んでいるからできることでしょう。だけど単純に見たら、その行為は「国境を越えて金銀を派遣している」ことになります。そういった“経済行為”は、コストパフォーマンスを厳密に計算してからおこなったほうが、良さそうです。
【ただいま読書中】『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』塩野七生 著、 新潮社、2015年、2800円(税別)
500を越える都市国家で構成された古代のギリシアには「ギリシアという国」も「ギリシア人」も存在しませんでした。しかし「ギリシア語を話す」「ギリシアの神々を信仰する」人々はいました。彼らが集ったのは「オリンピック」です。
紀元前8世紀の末頃、スパルタのリクルゴスが「改革」をおこないました。スパルタの国体を定め数々の法令を定めたのです。当時のスパルタでは、市民権を持つ「スパルタ人」はごく少数でした。その下に市民権はないが移動や結婚の自由はあり兵役の義務もある「ペリオイコイ」という階層があり、最下層に国家所有の農奴である「ヘロット」がいました。人数比は1:7:16くらいだったそうです。反乱への警戒から居住区域は社会階層ごとに区分され、スパルタは軍事国家への道を歩みました。男子は7歳から軍事訓練が開始され、男だけの集団生活が「現役」である限り継続されます。
アテネではソロンが「改革」をおこないました。海外で“ビジネス”を長い間おこなってから帰国したソロンは、貴族と平民の抗争が激化しているのを解決しようと、「借金が返済できない者は債権者の奴隷になる」という法を撤廃しました。これはアテネの経済に好影響を与えます。次は平価の切り下げ(=借金の軽減)。そして最後に「金権政治」の確立です。アテネも国民皆兵でしたが、収入の多寡によって「騎兵」「重装歩兵」「軽装歩兵又は漕ぎ手」に兵役の義務を分けたのです。教育もスパルタとはずいぶん違います。7歳から学校で読み書き算盤を習い、12歳からは体育訓練が始まります。
リクルゴスの改革は「宗教」に昇華してスパルタでは墨守されましたが、ソロンの改革は「法令」としてペイシストラトスなどの後継者たちが整備を進めました。アテネは栄え、スパルタはそれを警戒します。スパルタとの戦争に負けたアテネでは「特権階級が国政の行方を提案し、市民にその賛否がゆだねられる」という「クレイステネスの改革」がおこなわれました。ここでは、戸籍の整備によって「家門」よりも「個人の実力」が重視されるようになり、「市民」が全員投票権を持つ「民主政」が誕生しました。この政体は170年以上継続しましたが、クレイステネスの改革で有名なのは「陶片追放」の方でしょう。私も世界史で習った記憶を今でも持っています。
紀元前5世紀、ペルシア帝国が西方に手を伸ばし始めます。エーゲ海をフェニキアの船で渡ってくるペルシア軍は2万5千(主力は軽装歩兵)。迎撃するアテネは9000(+プラタイアの1000)(主力は重装歩兵)。マラトンの会戦(第一次ペルシア戦役)が始まります。ここで勝利したアテネでは、党派間の抗争が起こりました。ペルシアでは「敗北」に刺激された数多くの属州の反乱が勃発します。勝っても負けても大変な様子です。
第二次ペルシア戦役が迫ることを自覚したテミストクレスは、政敵を次々退け、海軍を増強します。ペルシアも着々と準備を整えていました。こんどは本気で、陸軍だけで20万。王も自ら出陣します。ペルシアは陸軍に賭けます。対するギリシアの連合軍も陸上で迎撃しようと考えます。ただ、テミストクレスだけは、敵の弱点(海上兵力)を突くべきだと考えていました。これは古代ギリシアの人々には抵抗のある発想でした。上級市民から成る重装歩兵ではなくて、無産階級の船の漕ぎ手に国の運命を託することになるのですから。テルモピュレーの険阻に陣取るのは1万のギリシア兵(のちに有名になる「スパルタ王レオニダスと300の重装歩兵」がそこに含まれていました)。そこにペルシアの20万の歩兵が…… 住民が疎開して無人となったアテネにペルシア軍は入城します。そして海上での決戦(サラミスの海戦)。ギリシアの海軍は倍以上のペルシア海軍(実態はフェニキアの海軍)と戦うことになります。この戦いでギリシア側には二人の英雄が生まれるのですが、戦後には「平和になったのだから、もう用済み」というのでしょうか、ずいぶんな扱いを受けるようになっています。著者は「他者をそねみ疑うような心は、閑居している小人しか持たない心情である」なんてさらっと言っていますけれどね。なんとも大した「不善」ですわ。「小人」が世界中にいることを思うと、ギリシア人もその例外ではなかった、という点で“安心”するべきなのかもしれませんが。