セクハラ否定は「個人を尊重する社会」では世の流れですが、あまり抑圧すると、セクハラしたくてしかたないオヤジは「目からビーム」でセクハラをするように進化しちゃうんじゃないでしょうか。名付けて「セクハラビーム」。で、言うんです。「ビームセクハラ罪というものはない」。
【ただいま読書中】『天皇のダイニングホール ──知られざる明治天皇の宮廷外交』山崎鯛介、メアリー・レッドファーン、今泉冝子 著、 思文閣出版、2017年、2500円(税別)
現在元赤坂にある「明治記念館」は、戦前は「憲法記念館」と呼ばれましたが、そこに移築される前には品川区大井にあり「恩賜館」と呼ばれていました。なぜ恩賜かと言えば明治天皇から伊藤博文に下賜されたからです。下賜される前、この建物は赤坂仮皇居にあり「御会食所」と呼ばれていました。
御会食所の機能はいくつかあります。「新年・紀元節・天長節の三大節賜宴」は男だけが集まる「おごそかな昼餐」でした。料理は日本料理です。来朝した各国皇族の接待(宮中晩餐会または昼餐会)にも用いられますが、こちらでは西洋料理のフルコースが供されました。もっと小規模で数多く行われたのは、大臣・参議や外国公使との御会食でした。大臣・参議との定期御陪食はコミュニケーションが目的ですが、不慣れな人が西洋料理のマナーを学ぶことも目的だったようです。
明治5年ころから宮中儀礼の近代化が進められましたが、それは「西洋化」でした。宮中の床は畳から敷物になり、靴が義務化されます。それに少し遅れて明治5年11月に洋服が採用。6年に天皇が断髪。
同じく明治6年5月5日、皇居宮殿として使われていた江戸城西ノ丸御殿が火事で焼失、赤坂の紀州徳川家の江戸屋敷の地に仮皇居が設けられます。そこに「食堂」が必要となり、建設されたのが和洋折衷の「御会食所」でした。「和」は特に京都御所風の「復古調」で、西洋と日本の伝統とを両にらみしている雰囲気です。
著者は次に「食器」に注目します。そのデザインにも何らかの「意図」があるはずですから。ただ、明治時代の洋食器はほとんど残っていませんし、残っているものも購入したものか贈り物かがわかりません。そこで著者は保存されている「御用度録」で発注記録を分析します。明治8年に宮内省は英国の複数の会社に食器などを発注しています。そうか、まだ国産の洋食器はなかった(あるいは宮中で使えるレベルではなかった)んですね。注文を受けた英国王室御用達のガッラード社に残された記録では、龍・鶴・亀などが散りばめられたデザインとなっています。メインの食器は銀器ですが、当時のヨーロッパ宮中ではデザート用の食器は磁器で、明治政府もミントン社の磁器を輸入しています。磁器だったら日本にもあったでしょうにねえ(と思ったら、有田の会社にも磁器が発注されていました)。ともかく、訪日した英国の王子は、宮中で供された食事も食器も、普段馴染みのあるものであることに気づかされるのでした。天皇との会食は、重要な外交の小道具だったのです。
「ナイフとフォークが正式なマナー」がイタリアに広がったのは16世紀、ヨーロッパ全体と英国でそれが規範となったのは17世紀末のことでした。つまり、「ナイフとフォーク」に関して日本はそれほどの“後進国"ではなかったわけ。ただ、マナーはあまりに違っているのに、西洋では「日常茶飯事」で適当な入門書もなく、それで福沢諭吉は『西洋事情』『西洋衣食住』を著すことになります((『西洋衣食住』は福沢の弟子の片山淳之介の名で出版されていますが、福沢の著作として良いそうです)。
“攘夷"だったはずの皇族は、維新後は洋装で外国人と会う、というとんでもない事態に立ち向かう必要がありました。そして、料理人もまた、新しい料理を学ぶために悪戦苦闘をします。明治10年代に料理修業のために官費留学した吉村晴雄という人がいますが、彼もまたとんでもない苦労をしたはず。こんど上京したら、明治記念館に立ち寄るのを忘れないようにしなくては。ちょっとは歴史を感じてみたいものですから。