【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

「欲しがりません、勝つまでは」

2018-11-28 07:23:08 | Weblog

 この言葉は第二次世界大戦下の日本でのスローガンだと思っていたのですが、実は、第一次世界大戦下のドイツで言われたそうです。(出典:『日本人記者の観た赤いロシア』富田武)

【ただいま読書中】『福島安正と単騎シベリヤ横断(上)』島貫重節 著、 原書房、1979年、1500円

 明治9年、西郷隆盛が辞職して薩摩に帰って2年半、西南戦争前夜のきな臭さが漂っていたとき、政府は西郷従道を紛争から「隔離」するために、アメリカフィラデルフィアの博覧会視察団の総裁に任命して派遣しました。その視察団に「陸軍省十等出仕(任務は英語の通訳官)」として福島安正の名前があります。4箇月の米国出張を終えて帰国した一同を迎えたのが、秋月と萩の反乱の知らせ。そして翌明治10年2月に西南戦争が始まりました。
 明治政府は征韓論を否定しましたが、その翌年台湾征討をおこないました。言ってることとやってることの不整合に福島は首を傾げ、さらに、外国の事情を全く知らないまま行動していることにさらに首を傾げていました。
 初期の明治政府は内部対立の重層構造でした。「公家と武家」「藩と藩」「旧藩主と下克上の藩士たち」などの対立が複雑で、さらに禄を離れた武士や戦死者とその家族への配慮も必要です。西郷隆盛は体調を崩していてフルの活動はできない状態です(この「西郷隆盛の体調問題」が本書では重視されています)。ともかく西南戦争で福島は長崎方面で情報収集の功があり、書記(文官)から陸軍中尉に抜擢されます。彼が明治十二年に参謀本部長に提出した報告は、世界の情勢(南北戦争、普仏戦争、露土戦争など)を俯瞰した上で「日本は欧米にばかり注意しているが、アジアを軽視するべきではない」と警鐘を鳴らすものでした。
 明治十二年に福島は単身中国に潜入しますが、これは彼にとっては「スパイとして使い物になるかどうか」の実地テストでした。ついうっかり英語を使うと「中国人で英語がしゃべれる人はあまりいない」と怪しまれたりしますが「中国人に見えているんだ」と安心したり「そう英語で返すあんたはどこのスパイなんだ?」と逆に怪しんだりのエピソードもあります。
 当時ロシアは極東進出を盛んに画策していて、イギリスはそれを牽制しようとしていました。清は朝鮮支配を強めようとしています。それらが最終的には日本にも影響を与えるはずです。そこで福島は、清・インドの長期調査を行い、ついでベルリン駐在となって欧州探題を行います。結婚はしていましたが、家で過ごしたことはほとんどなかったそうです。
 ロシアは北京条約で得た清国の集落をウラジオストクと名付けて港湾都市を建設しましたが、その名前は「ヴラジ(東)」+「ヴォストーク(領有する、支配する)」とロシアの意図を明確にしていました。また、福島はロシアがシベリア鉄道を建設しようとしているという情報をキャッチします。そこで福島はロシアに入ることを考え始めます。ロシアの実情をきちんと知りたかったのです。その頃日本は、ニコライ皇太子の来日と大津事件で揺れに揺れていました。
 福島は「ヨーロッパからシベリアを単騎横断する」という大冒険を思いつきます。「日本軍のための軍事偵察」という目的がありますがそれを秘匿するために「大冒険旅行」というカヴァーをかけます。ただしこちらには「黄色人種を理由なく馬鹿にする白色人種に対して、彼らがやっていない大冒険をやって見せて鼻を明かしたい」という望みもあったようです。
 しかし、ベルリンを出発してからの旅程は当初の予定では450日。シベリアの冬を必ず1回は越さなければなりません。しかし馬に乗せられる荷物は40kgまで。これは相当厳しい旅になります。ロシアは福島の旅を「冒険」とみなし、各地の騎兵部隊に援助するように命令しました。おかげで福島はロシア軍の配置状況や弱点を探ることもできました。ただ、ポーランド国境の町で事故のため前歯を折ってしまったのはさい先が悪い感じもしますが。
 独露国境についての「偵察」(ロシアから見たら単騎での雪中行軍)で福島はタンネンベルヒに特に注目しています。第一次世界大戦でここで独露軍による一大会戦が行われたことから“逆算"すると、福島の慧眼には驚きます。