自分 他人
思想 自由/不自由
行動 自由/不自由
変な表ですが「自分/他人」「思想/行動」「自由/不自由」の組み合わせだ、と読んで下さい。たとえば「独裁者」は、「自分の思想と行動は自由だが、他人の思想と行動は不自由であるべき」となります。
私の一番の好みの組み合わせは「自分も他人も思想は自由だが、どちらも行動は自由ではない(してはならないことがある)」です。「思想の自由」は重要なものですが、「他人を踏みにじって自分の主張を押し通す行動」をするのは「泣く子」か「地頭」くらいでしょ?
【ただいま読書中】『世界史のなかの文化大革命』馬場公彦 著、 平凡社、2018年、920円(税別)
中国では「文革」についての研究の公開や出版、文革を題材とした文藝作品の制作を厳しく制限した中央の通達が1988年に出されています。「忘却の強要」です。
著者は単に「有罪を暴く」とか「中国の特殊な事件」として文革を見るのではなくて、国際情勢の中で文革を把握しようとします。そこで出発点は「1968年」、著者が見つめる範囲は「中国」「インドネシア」「日本」です。
インドネシア(人口2.5億人)には、760万人の在外華僑がいますが、この数は世界で最大です。そのためか、インドネシアが中華人民共和国を承認したのは、非社会主義国ではインドに次いで二番目の速さでした。
謎が多い「9・30クーデターの失敗」により、スカルノは実権をスハルトに奪われ、共産主義者と華僑の弾圧が始まります。「アカ狩り」で虐殺された人は、政府発表で8万9千人、CIAの調査では25万人、陸軍治安秩序回復司令部は100万人という数字を挙げているそうです。バリ島では特に殺害率が高く、全島民の5%の8万人が殺されたそうですが、これはポルポトのカンボジア虐殺と殺害率ではほぼ同じだそうです。
当時の中国は、反ソ・反資本主義で“味方"はインドネシアとアルバニアくらいだったので、このアカ狩りはショックでした。中国は国際的孤立状態でしたが、毛沢東は劉少奇や鄧小平に実権を握られ国内で孤立していて“次の一手"を模索していました。北京を離れて地方を長期間転々とし、上海の「四人組」を実行部隊として、毛沢東は文革を発動させます。その前に、日本共産党を新たな敵と認定して「外敵」を増やしておくところが芸が細かい。「敵」が多ければ多いほど内部の結束は高まる、という読みだったのでしょう。毛沢東にとって“想定外"だったのは、忠実な実行部隊であるはずの紅衛兵が異様に熱狂して暴走を始めたことでしょう。
文革は“輸出"もされました。毛沢東語録は25種の言語で460万部発行・輸出され、世界に「マラヤ共産党(マレーシア)」「新人民軍(フィリピン)」「ナクサライト運動(インド)」「マオイスト(ネパール)」「スリランカ人民解放戦線(スリランカ)」「クメールルージュ(カンボジア)」「センデロ・ルミノソ(ペルー)」などを生み出します。日本の学生運動については、ベトナム反戦運動やフランスの学生による「1968年5月革命」の影響などが指摘されていますが、著者は輸出された文革の影響も大きかったと考えています。はじめは「怒れる若者による下からの大衆闘争」で、67年以降は日共と中共の対立を反映して暴力闘争になっていった、と。毛沢東は日本共産党を強く非難し日本革命党の結成を呼びかけました。これがのちの日本赤軍に結実したのでしょうか。当時の日本は中国とは国交がありませんでしたが、日本の主要メディア9社は北京に特派員を置いていました。そこから日本にもたらされるニュースは基本的に文革に肯定的なものばかりでした(私の当時の記憶もそうなっています)。そして、文革とは違う文脈で「日本での革命」を志す人たちが活動をしていました。
フランスでは5月革命(学生運動を知識人たちが支持、政権が交代)、アメリカではベトナム反戦運動や公民権運動が盛んになります。台湾は、中華人民共和国と不仲になったインドネシアに接近します。ところがスハルトは、国内的には強硬な反共主義でしたが、国際的には冷戦構造の中で中立を貫きます。やはりこれぐらいしたたかでないと、世界と渡り合うことはできないのでしょう。
文革とは結局何だったのか、それを簡単に述べることはできません。本書も話は紆余曲折を繰り返し、一時群盲象をなでる状態になってしまいます。ただ、重大な事件は広い視野から眺めると、意外な一面を発見できる、ということはわかりました。
そういえば中国政府が「忘却の強要」をしているものとして、天安門事件とか内モンゴルやチベットでの弾圧などもありましたね。これらの史料が明らかになる時代は、いつかやって来るのでしょうか?