「朝鮮は日本の生命線」で日露戦争、「満州は日本の生命線」で太平洋戦争、でしたね。
ところで今の原子力ムラの住人たちは「原発は日本の生命線」と言っているのかな。
【ただいま読書中】『モスクワ攻防1941 ──戦時下の都市と住民』ロドリク・ブレースウェート 著、 川上洸 訳、 白水社、2008年、3600円(税別)
ヨーロッパからモスクワを目指した軍隊は、1612年ポーランド軍、1812年フランス軍、1941年ドイツ軍、すべて同じルートをたどりました。ロシア軍の守備も基本的には同じになります。ドイツ軍もフランス軍と同じくらい馬匹輸送に依存していましたが、ただ違うのは機甲戦力を迅速に展開する能力を持っている点でした。1942年のスタリングラート攻防戦では双方合わせて400万人の将兵が動員されました。43年のクールスク会戦では200万、45年のベルリンは350万。ではモスクワ攻防戦は? 双方合わせて700万以上がフランス全土に匹敵する戦域で戦ったのです。
おっと、それは“先”の話。本書はまず1941年の新年を迎えたモスクワで始まります。モスクワは単純な防衛の論理で形成された都市です。クレムリン(防塞)を中心とし、周囲に同心状の防御戦が何重にも張られ、近郊のモスクワ川とその支流は天然の障害物として利用されました。夏の酷暑の下、もうもうたる砂塵は、ナポレオン軍の視界を奪い馬や役蓄を殺し、ドイツ軍車両のエンジンを摩耗し詰まらせました。冬の酷寒もすさまじいものです。そして夏と冬の季節の変わり目には、道路は泥濘と化します。
スターリンにとって、6月22日ドイツ軍の電撃作戦は不意打ちでした。まだソ連軍に無線は普及しておらず、ドイツ特殊部隊によって電話線が各地で寸断されたため、現地の情報は入らず命令は伝達できません。わけがわからないままスターリンは支離滅裂の命令を連発します(フクシマのときの官邸を私は連想します)。ただし彼らも“できること”はしました。首都モスクワの治安維持です。祖国防衛でないところが笑ってしまいますが、精鋭部隊が命令によってモスクワに移動しました。本来なら即座に前線に投入されるべき予備兵力が、モスクワ市内のパトロールで日々を過ごすこととなりました。指導者たちが次に気にしたのは「兵士は戦うだろうか」でした。これまでの生活様式を破壊されて集団農場を強制された農民出身の兵士たちが「祖国のため」にドイツと真剣に戦うかどうか、自信がなかったのです。さらに、内戦とスターリンによる残忍な弾圧の影響で、一般市民は一枚岩ではありませんでした。様々な意見対立があったことが本書には紹介されています。
スターリンは一時天の岩戸、もとい、別荘に雲隠れします。自分の固定観念(ヒトラーは攻めてこない)が覆されてショックを受けたのか、部下たちに反乱を起こされると恐れたのか、部下の忠誠心をテストするためだったのか、真相は不明です。ともかくスターリンは請われて「No.1」として“復活”し、彼を長として国家防衛委員会が組織されました。
開戦後3週間でロシアは30万以上の戦死者を出しました。捕虜はとんでもない数で、4箇月で200万以上です。しかし志願兵はどんどん集まります。私が強い印象を受けたのは、女性の姿です。看護婦や衛生兵だけではなくて、中央女子狙撃手学校の卒業生は戦争中に1万2000人のドイツ兵を射殺したそうですし、戦車や飛行機で出撃した女性もいました。3個連隊で編制された第221飛行団は女性だけで編制されたそうです。
「後退阻止部隊」なんてものも創設されます。敵に圧倒された部隊が退却することを阻止することが目的の部隊、要するに「退却したら射殺する」と味方の後ろで銃を構えていることが役目。敵よりも味方を殺すことに熱心な軍隊って、何でしょうね。「懲罰部隊」というのもあります。「素行不良」「外国系」「犯罪者」などとレッテルを貼られた人を集めた部隊で、もっぱらオトリとして使われたようです(敵前線に突撃させて部隊配置を暴露させたり、地雷原かどうかを確認したり)。前線の崩壊は避けなければならないし、臆病者の射殺は必要な場合もある、という「理由」は納得いくものです。ドイツにも懲罰大隊はありました。しかしソ連では“それ”が過剰に行なわれました。その結果は「士気の低下」です。敵に圧倒されて退却したら「戦線離脱」で有罪。踏みとどまって捕虜になったら「裏切り者」で有罪。あとは戦死しかないのですから。さすがに放置できない事態と認識したスターリンは「体罰や強圧に頼る指揮官」を批判しました。でも、誰がそうし向けたんでしたっけ?
モスクワから400kmのスモレーンスクは、モスクワの西の守りの拠点でした。ドイツは7月にそこを陥落させます。しかし、あまりの進撃の速さに補給が追いつかず、レニングラード・モスクワ・ウクライナという「3つの目標」すべてへの攻勢を維持できなくなりました。ではどこを優先するか? ヒトラーは、レニングラードは包囲のまま、モスクワは保留にして(休息と補給と再編成のあと再進撃)、ウクライナをまず目指すことにしました。これは“合理的な決定”でしたが、後知恵では「ドイツの敗因」と断じられます。
ともかく貴重な時間が2箇月モスクワに与えられました。人々の疎開と防衛体制の強化が行なわれます。空襲に対して、地下室だけではなくて(最初から避難先として設計されていた)地下鉄駅も活用されることになります。
ウクライナで圧倒的勝利を得たドイツ軍は再びモスクワを目指して動き始めました。モスクワはほとんどが木造建築だったので非常に燃えやすい都市でした。モスクワ空襲でも多数の焼夷弾が使われましたが、照準器の性能が悪く対空防御はロンドンより強力だったため目標を外れる爆弾が多く撃墜される爆撃機も多いという状態でした。しかし「目標」を外れた爆弾でも、落ちたところは破壊しているわけで、そこでは多くの英雄的な行為が目撃されていました。私が驚いたのは、空襲警報が解除されてからではなくて、まさに空襲の最中にも消火活動が行なわれた、ということです。これは消防の人間の犠牲を増やしましたが、「モスクワ」の被害は軽減されました。
ドイツ軍が迫り、疎開と防衛強化でてんやわんやですが、11月7日の革命記念日にはいつも通り赤の広場でのパレードを行なうことをスターリンは決定します。二個師団の兵力を無駄に使い、最高指導者の位置を特定される、という危険をおかしての政治ショーは、政治的には大成功でした。
ドイツ軍はモスクワ・ヴォルガ運河を渡り、モスクワ北方24kmまで迫ります。しかしそこが限界点でした。潮目が変わります。ちょうどそのころ、日本の連合艦隊はハワイ沖に迫っていました。
アパートの管理人たちやボリショイ劇場の人々の物語など、細部がとても面白い本です。ここまで取材するのは大変だっただろうな、と思わされます。しかし、ここまでスターリンがしょぼい指導者だったのに、それでも頑張ってしまったソ連の国民って、すごいなあ。
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