「自分は女子に依存して生きるしかない」という宣言?
【ただいま読書中】『ホスピスが美術館になる日 ──ケアの時代とアートの未来』横川善正 著、 ミネルヴァ書房、2010年(11年2刷)、2200円(税別)
20世紀のアートがデザインなら、21世紀のアートはケアだ、と著者は言います。ずいぶん唐突な主張に感じますが、著者はそれはわかっているようで、とりあえずは自分の言うことを黙って読んでくれ、と言っているような感じで本書は始まります。
「アート」と「ケア」の接点を探る試みは、はじめは「机上の空論」に見えていますが、著者が美大の学生たちをホスピスに連れて行ったところから、突然文章が滋味豊かに溶け始めます。ホスピスの患者さんたちだけではなくて、学生たちの喜びに満ちた姿もそこにあります。「思い通りに描けずに悩む自分」と「ホスピスの患者」とに「差」などないことに気づいた姿も。
著者は「アート」ということばを「芸術」と「技法」の二重の意味で使います。気をつけないと読者は混乱します。まあその混乱自体もまた「アート」の一部なのかもしれませんが。著者にとっての「アート(芸術)」は、有形のものだけではありませんから。ですから著者にとっては、ボランティアもまた「アーティスト」です。
「医療はアートだ」ということばがあります。単に頭でっかちの知識だけではなくて、技法としてのアートと対人技法としてのアートが備わってはじめてまともな医者だ、という意味です。もちろん本書でも著者は嬉々としてそのことを言います。そしてそれは同時に「アーティスト」の側にも言える、と。アーティストにも手の動きとしての「アート」が必要ですが、同時に自分の“作品”を介して他人とつながることに無頓着であってはならない、と。
「ユーモア」も「アート」の一部です。ただし、げらげら笑った後に空虚感が残るような下品なものではなくて、もっと上質なもの。創造力をもった笑いをもたらすもの。それはホスピスで「良薬」になります。
著者は、最初から最後まで「境界」にこだわっています。「生」と「死」、「患者」と「健康な人」、「障害者」と「非障害者」、「言葉で表現できるもの」と「言葉で表現できないもの」……それらの境界をどう越えるか、どんな時には越えてはならないか、境界に「橋を架ける」ことと「橋を渡る」こと……そこを間違えると「ボランティア」や「アート」は「善」ではなくて「残酷な刃物」になります。
著者は「アートの側」の人です。それがなぜ「ホスピス」についてこんなに深く考えるようになったのでしょうか。これは私の想像ですが、もしかしたら「自分の死」を考えたことの延長にこの発想が生まれたのかもしれません。ただ、この意外な取り合わせ、けっこう刺激的です。私自身は「アーティスト」ではないと思いますが、仕事で「アート」(技法)はいろいろ駆使しますから、芸術家ではない「アーティスト」にだったらなれるかもしれない、と思ってしまいました。
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