大阪万博に私は春休みに1週間くらい友人と二人で行くことができましたが、覚えているのは大阪のバスの回数券が5円刻みで、100円分買っても5円しかおまけがついてこなかったこと(私の住んでいた地域では100円で10円のおまけでした)。肝心の万博会場で覚えているのは、行列と行列と行列だけです。
【ただいま読書中】『万博と戦後日本』吉見俊哉 著、講談社(講談社学術文庫)、2011年、1050円(税別)
大阪万博・沖縄海洋博・つくば科学博・大阪花と緑の博覧会・愛知万博……これらの万博は、「戦後」という時代の中で何を象徴していたのか、あるいは何を隠蔽していたのか。「万博」という「軸」で貫いて見ることで「戦後」の新しい切り口を示そう、という本です。
著者がまず取り上げるのは映画『家族』(山田洋次監督、1970年)です。高度成長期の日本を舞台に、炭鉱が閉山したため九州から北海道を目指す一家は、大阪で万博(とそれに殺到する殺気立った人の群れ)を目撃します。「高度成長」と「夢」と「それと無関係な庶民の姿」が実にみごとに対比されている、と著者は述べます。
池田勇人主張の「所得倍増計画」は「国家の目標」だけではなくて「国民の目標」となり、日本は高度成長を果たしましたが、そのかげで日本の政治と経済は独特の結び付きをするようになりました。「中央集権的な開発主義体制」です。そこに咲いた“花”が万博のようです。堺屋太一は「万博は興行だ」と述べましたが、著者は「開発と興行の構造的一体化」こそが万博ブームの本質だ、と考えています。
1930年代に「オリンピック」「万博」「弾丸列車(新幹線)」が構想されていましたが、これらはすべて1960年代に具体化しました。国家による「総力戦体制」は敗戦によっては途絶していない、と著者は考えています。たしかにGHQは官僚制を温存していましたっけ。ただし「前と同じスローガン」ではいけませんから「高度成長」「科学技術」「人類の進歩と調和」を上に被せるわけです。
大阪万博のテーマ委員会で基調となったのは「人類は不調和に直面している。それを越えるために知恵が必要だ」という現状認識でした。それがいつのまにか「進歩と調和」「万博はお祭り」にすり替えられてしまっています。さらに、多くのパビリオンは「進歩」だけを強調する姿勢のものになってしまいます。しかし、日本政府・大阪府・関西財界・各種委員会の間の“非協力体制”“責任の押し付け合い”には、うんざりしてしまいます。まあ、今回の東京五輪でのごたごたを見たら「これは日本の伝統」とも言いたくなりますが。ただ、「大阪万博」で新しく認識された事実があります。「大衆の(日常意識・欲望・思想などの)決定的な変容」です。大衆が「パワー」を持つようになったのです。
「万博が結局誰のためのものか」が怪しい点では、沖縄海洋博も大阪万博に負けていません。あれは「沖縄のためのもので、効果も沖縄にきちんと出た」と言えるのか、私は疑問を持っています。私はこの博覧会は見に行きませんでしたが、ずっと後になって“廃墟”は目撃しました。その時上記の疑問を感じたのです。万博計画策定で、知識人たちは極めて真摯に様々な指摘や提言をしています。ところがそれらは結局「ブレイン・ストーミング」でしかなく、事務局は事務局で自分のしたいことをする、というのは、大阪から愛知まで首尾一貫しています。万博に関して「戦前の体制」はしっかり保存されている、のは確実なようです。やれやれ。
この前近くのラーメン屋でちゃんぽんを食べていたら、目立つ若い衆3人が入ってきました。店員が「いらっしゃいませ」のあと「カウンターか、テーブルだったらここしかないんですけど」と一目見たらわかる店の状況を説明します。すると3人の中でもひときわ目立つ風体の人が「出入り口のそばで食えるか。窓際を空けさせろ」と。「カウンターで良いじゃないか」と仲間が言ってそれはそれで納まりました。で、次は注文の時。この店はちょっと面白くて、麺と餃子と御飯のセットがあるのですが、御飯の大盛りが無料のセットと御飯のお代わりが無料のセットが別になっているのです。一度不思議に思って聞いてみたら、「大盛りだと大体1.5杯分、お代わりだと2杯分になります。大盛りのお代わりは無料にはなりません」とのことでした。で、あの若い衆のことだから「大盛りのお代わりを無料で」と要求するかな、と期待していますと、「○○セット。御飯御飯」と言っています。「御飯御飯」? 店員も不思議に思ったらしく(というか、最初から警戒していたのかもしれません)「セットに御飯はついていますが……」と確認をしています。すると「御飯御飯と言ったら、お代わりを最初から持ってこい、に決まってるだろ!」と。
……決まってません。
……それとも、今の日本語ではそういう意味に決まってるんです?
【ただいま読書中】『プリズン・ストーリーズ』ジェフリー・アーチャー 著、 永井淳 訳、 新潮文庫、2008年、667円(税別)
著者が2年間の服役をしたときに、服役者から聞いた実話をもとにして書いた9つの短編を核にした短編集です。
刑務所で聞いた話ですから、つまり著者に話をしてくれた人たちは全員捕まっているわけです。では全員が“犯罪に失敗”したのかと言ったら、それが一筋縄ではいきません。微罪で逮捕された単純な事件であるように見えて、実はとんでもない事実を隠しおおせていた、とか(これも一種の完全犯罪ですかね。微罪で大罪をマスクしているわけですから)、あるいは目を疑うような不思議な手口の“犯罪”とか(たとえばペットボトルに水道水を入れて飲ませる、なんて“犯罪”も登場します)、手を替え品を替え次々と「事実は小説よりも奇なり」と言いたくなる犯罪が「小説」として登場します。
で、おそらく意図的でしょうね、明らかに犯罪や刑務所とは無関係な短篇も“お口直し”のように混ぜられています。でもこれもまた良い味を出しています。
しかし、服役中でもこういった“材料”をきちんと仕入れるのですから、著者もただ者ではありません。見習いたいとは思いませんが。私は刑務所の外でもいろいろ面白い話には出くわし続けていますから。
小泉八雲の記述を信じるなら、ろくろ首は「首が伸びる化け物」ではないってこと、ご存じでした?
【ただいま読書中】『耳なし芳一・雪女(上)』小泉八雲 著、 保永貞夫 訳、 黒井健 絵、講談社オンデマンドブックス(大きな文字の青い鳥文庫)、2011年
目次:「耳なし芳一」「雪女」「むじな」「おしどり」「鳥取のふとん」「ろくろ首」「乳母ざくら」「果心居士の幻術」「羽を折られた天狗」「十六ざくら」
有名な作品ばかりなので、内容については触れなくても良いでしょう。小泉八雲が発掘して世界に提示してくれた日本の怪談の数々です。単に恐いだけではなくて、喜怒哀楽が実に塩梅良く配合されていて、それぞれの作品でまず楽しみ、次いで全体の流れで楽しむこともできます。
そうそう、「むじな」については、ちょっとした個人的な思い出があります。この作品をはじめて読んだのは学校の教科書だったのです。このとき先生が「むじなと狸と穴熊について」教えてくれたことも私は覚えています。今の学校では、こんなものは読んでいないのかな?
自然災害の後に「死者○○人、倒壊家屋××棟」などと「数字」が発表されます。もちろんその数字は「被害の大きさ」を示しているわけですが、それが直接に「自然災害の大きさ」を示していないことに注意する必要があります。極端なことを言ったら、どんな大地震でも無人の地域を襲ったら「死者ゼロ」になるわけで、だったら究極の防災は「人類絶滅」になる……わけはありません。
「このまま対策を取らなかったら」の被害想定をまず厳密に計算し、次に対策を取り、そして実際に災害が起きたら現実に生じた被害と想定との差を見ることで対策の質を評価する、これを繰り返すことで防災は進歩していくはずです。「1万人も死んだ、大変だ」「100人しか死ななかった。だったらどうでもいいや」だったら、「対策の一番大切な部分」が下手すると進歩しない可能性があります。
【ただいま読書中】『南海トラフ地震』山岡耕春 著、 岩波書店(岩波新書1587)、2016年、780円(税別)
海洋プレートが大陸プレートに潜り込む場所で、角度が急峻で非常に深くなっている場所が「海溝」、なだらかな場所が「トラフ」と呼ばれます。日本近辺には、日本海溝や南海トラフがあります。南海トラフは、御前崎のすぐ南側から足摺岬の沖合に横たわっています。紀伊半島の先端、潮岬を境界として、それより東側で地震が起きると東海地震あるいは東南海地震、西側で起きると南海地震と呼ばれますが、この両者は同時あるいは(数時間~数年以内に)連動して起きることが知られています。
南海トラフ地震に特徴的なのは、津波の到達時間が短いことです。静岡~高知の多くの場所で地震発生から10分、場所によっては3分で津波がやって来ます。揺れている間に避難を開始しないと間に合わないことがあるのです。この津波で著者が重視するのが「30cm」と「2m」。30cmの津波でも人は足をすくわれます。転んだらもう流されてしまいます。2mは木造住宅が被害を受ける津波の深さです。ハザードマップで浸水深が2mの地域の人は、木造住宅は浮き上がって流されることを覚悟しておく必要があります。
1707年(宝永四年)の宝永地震(南海トラフ地震では史上最大のもの)から49日後に富士山が噴火しました。次の南海トラフ地震でも富士山が連動して噴火する可能性はどのくらいあるのでしょう。ちょっと気になります。
雨傘は人を雨から守ります。日傘は人を紫外線から守ります。では、核の傘は誰を何からどうやって守るものでしたっけ?
【ただいま読書中】『銀の匙』中勘助 著、 ポプラ社(ポプラポケット文庫)、2016年、650円(税別)
虚弱体質で人見知りの少年。母は産後の肥立ちが悪く、いつも「伯母さん」の背中に負ぶわれていて、五つくらいまでは土を踏んだ覚えがほとんどない、という過保護な育てられかたをしています。神田の下町で腕白どもにからかわれたり意地悪をされていましたが、やがて小石川の高台に引っ越し、そこで落ちついた生活となります。
小さな子供が食べるおやつや家の中でおこなう遊びが細々と描写されます。なんていうこともない、ごく普通の生活の描写なのですが、それがしっとりとこちらの心に届きます。たとえばこんな文章があります。
》三、四十坪ほどの裏のあき地はなかば花壇に、なかば畑になっていた。夏のはじめのころになれば垣根のそとを苗売りがすずしい声をしてとおる。伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗をかう。藁でこしらえた箱のなかにしっとりと水けをふくんだ細かい土がはいって、いろいろな苗がいきいきと二葉をだしている。菅笠をかぶった苗売りの男がさもだいじそうにそれをすくいだす。
特に技巧を凝らしたわけではない文章ですが、その情景が本当に細やかに描写されています。文体とその内容とがみごとに調和していることに私は感心します。当時の生活が言葉によってそっくり現代に移植されているように感じられるのです。
泉鏡花が「硬質な美文」だとしたら、中勘助のは「ソフトな美文」と言えるかもしれません。明治の末にこんな素直な文章が書けたとは、すごいことだと思います。
国境を越えて軍隊を派遣することは、それによる「莫大な利益」を見込んでいるからできることでしょう。だけど単純に見たら、その行為は「国境を越えて金銀を派遣している」ことになります。そういった“経済行為”は、コストパフォーマンスを厳密に計算してからおこなったほうが、良さそうです。
【ただいま読書中】『ギリシア人の物語Ⅰ 民主政のはじまり』塩野七生 著、 新潮社、2015年、2800円(税別)
500を越える都市国家で構成された古代のギリシアには「ギリシアという国」も「ギリシア人」も存在しませんでした。しかし「ギリシア語を話す」「ギリシアの神々を信仰する」人々はいました。彼らが集ったのは「オリンピック」です。
紀元前8世紀の末頃、スパルタのリクルゴスが「改革」をおこないました。スパルタの国体を定め数々の法令を定めたのです。当時のスパルタでは、市民権を持つ「スパルタ人」はごく少数でした。その下に市民権はないが移動や結婚の自由はあり兵役の義務もある「ペリオイコイ」という階層があり、最下層に国家所有の農奴である「ヘロット」がいました。人数比は1:7:16くらいだったそうです。反乱への警戒から居住区域は社会階層ごとに区分され、スパルタは軍事国家への道を歩みました。男子は7歳から軍事訓練が開始され、男だけの集団生活が「現役」である限り継続されます。
アテネではソロンが「改革」をおこないました。海外で“ビジネス”を長い間おこなってから帰国したソロンは、貴族と平民の抗争が激化しているのを解決しようと、「借金が返済できない者は債権者の奴隷になる」という法を撤廃しました。これはアテネの経済に好影響を与えます。次は平価の切り下げ(=借金の軽減)。そして最後に「金権政治」の確立です。アテネも国民皆兵でしたが、収入の多寡によって「騎兵」「重装歩兵」「軽装歩兵又は漕ぎ手」に兵役の義務を分けたのです。教育もスパルタとはずいぶん違います。7歳から学校で読み書き算盤を習い、12歳からは体育訓練が始まります。
リクルゴスの改革は「宗教」に昇華してスパルタでは墨守されましたが、ソロンの改革は「法令」としてペイシストラトスなどの後継者たちが整備を進めました。アテネは栄え、スパルタはそれを警戒します。スパルタとの戦争に負けたアテネでは「特権階級が国政の行方を提案し、市民にその賛否がゆだねられる」という「クレイステネスの改革」がおこなわれました。ここでは、戸籍の整備によって「家門」よりも「個人の実力」が重視されるようになり、「市民」が全員投票権を持つ「民主政」が誕生しました。この政体は170年以上継続しましたが、クレイステネスの改革で有名なのは「陶片追放」の方でしょう。私も世界史で習った記憶を今でも持っています。
紀元前5世紀、ペルシア帝国が西方に手を伸ばし始めます。エーゲ海をフェニキアの船で渡ってくるペルシア軍は2万5千(主力は軽装歩兵)。迎撃するアテネは9000(+プラタイアの1000)(主力は重装歩兵)。マラトンの会戦(第一次ペルシア戦役)が始まります。ここで勝利したアテネでは、党派間の抗争が起こりました。ペルシアでは「敗北」に刺激された数多くの属州の反乱が勃発します。勝っても負けても大変な様子です。
第二次ペルシア戦役が迫ることを自覚したテミストクレスは、政敵を次々退け、海軍を増強します。ペルシアも着々と準備を整えていました。こんどは本気で、陸軍だけで20万。王も自ら出陣します。ペルシアは陸軍に賭けます。対するギリシアの連合軍も陸上で迎撃しようと考えます。ただ、テミストクレスだけは、敵の弱点(海上兵力)を突くべきだと考えていました。これは古代ギリシアの人々には抵抗のある発想でした。上級市民から成る重装歩兵ではなくて、無産階級の船の漕ぎ手に国の運命を託することになるのですから。テルモピュレーの険阻に陣取るのは1万のギリシア兵(のちに有名になる「スパルタ王レオニダスと300の重装歩兵」がそこに含まれていました)。そこにペルシアの20万の歩兵が…… 住民が疎開して無人となったアテネにペルシア軍は入城します。そして海上での決戦(サラミスの海戦)。ギリシアの海軍は倍以上のペルシア海軍(実態はフェニキアの海軍)と戦うことになります。この戦いでギリシア側には二人の英雄が生まれるのですが、戦後には「平和になったのだから、もう用済み」というのでしょうか、ずいぶんな扱いを受けるようになっています。著者は「他者をそねみ疑うような心は、閑居している小人しか持たない心情である」なんてさらっと言っていますけれどね。なんとも大した「不善」ですわ。「小人」が世界中にいることを思うと、ギリシア人もその例外ではなかった、という点で“安心”するべきなのかもしれませんが。
古代ローマには、「トリカブトの毒とサソリの毒を混ぜると中和できる」という、なんだかとんでもない言葉があります。アイヌには「トリカブトの毒と蜘蛛の毒を混ぜると中和できる」という言い伝えもあります。どちらも、どうやってそれを確認したんでしょうねえ。
ただ確かなのは、洋の東西を問わず「トリカブトは猛毒だ」ということは確認されていたことですね。
【ただいま読書中】『プラネテス(1)(2)』幸村誠 作、講談社(モーニングKC)、2001年、648円(税別)
西暦2075年、地球周回軌道でデブリ(人工衛星の破片など高速度で動き続けている宇宙のゴミ)を回収する仕事についているデブリ回収船「DSー12号」(船齢30年のおんぼろ船)。乗組員の一人ユーリ(時々宇宙を見つめて放心する癖あり)には、デブリ回収に就かなければならない事情がありました。それは涙涙の事情だったのですが……
本書は「ユーリの物語」ではありません。ユーリが「宇宙」に一輪の花を捧げた後、ユーリの同僚、通称ハチマキ(本名は八郎太)がすぐにしゃしゃり出てきてユーリを押しのけ、ストーリーの中心に座ってしまいます。こいつがまた、単純で複雑で熱くて短絡的でやたらと大きな夢を持っていて、もうわけわかんない奴です(こいつの父ちゃんもすごい奴ですが)。そこに、反宇宙開発を唱える組織(テロが大好き)と木星開発計画が絡んで、話は軌道を高速度でぐんぐん回りながら加速していきます。
時代は未来で舞台は宇宙ですが、本書はあり得る世界のあり得る物語です。展開も早くて、楽しい漫画です。
「黴菌」……「黴(カビ)と細菌」という原義を知らない人は意外と多い
「細菌」……痩せている菌
「菌根菌」……菌の根っこに巣食う菌
「常在菌」……菌は常に在る
「淋菌」……淋しい菌
「滅菌」……消滅する菌
「納豆菌」……豆を納める細菌
「大腸菌」……胃を通過中でも大腸菌
「菌糸」……菌でできた糸
「糸状菌」……糸のような菌
「善玉菌」……芝居で善玉の役を演じる菌
「真菌」……本当の菌
「乳酸菌」……乳を酸にする菌
「抗菌」……菌に対するヒトの反抗
「抗酸菌」……酸菌に対するヒトの反抗
【ただいま読書中】『なぜエラーが医療事故を減らすのか』ローラン・ドゴーズ 著、 入江芙美・林昌宏 訳、 NTT出版、2015年、2500円(税別)
原題はフランス語で「エラー賞賛」という非常に挑戦的で逆説的なものです。その“真意”を掴むことが、本書を読む目的となります。
私たちの遺伝子は細胞分裂で日常的にコピーされていますが、1000文字につき1回のエラーが生じています。エラーの99%は修正されるため、最終的に生じるエラーは10万回に1回となります。生じたエラーで、便益のあるものは保護され、有害なものは排除されます。これが自然選択です(さらに、エラーを許容する、という社会選択もありますが、それは別の話)。つまり進化論の“本質”は「エラー」です。それがなければ我々は今でもバクテリアです。
医療は複合系システムです。しかもそれぞれのシステムは近代的できわめて複雑となっていて、人がそのすべてを把握することは不可能となっています。いきおい、ある確率で必ずエラーが生じます。そしてそのエラーは「イノベーションの源」として機能します。そもそも医学そのものが「人体のエラー(=疾病)」を研究することから始まっています。すると、「エラーはあってはならない」と全否定する態度は、医学の実態も医学の本質も全否定する態度、ということになります。さらに「エラーを全否定」するためには、法外なコストがかかります。しかし「エラーでどんどん人は死ぬべきだ」は困ります。ではどうするか?
個人が犯罪あるいは犯罪的なミスをした場合には「犯人の処罰」には意味が生じます。しかし、社会システムの不備が「原因」で、「犯人」と目された人は「たまたまそこに遭遇しただけの人」だった場合に、「犯人の処罰」にどんな意味が生じるでしょう? 被害者(とその家族)にサポートは必要ですが、「社会システムの不備の修復」も必要なはずです。しかし日本では「被害者と家族のサポート」も「システムの修復」もサボる口実として「個人の処罰」が好んで用いられているように私には見えます。本書の記述を見る限りフランスでは少なくとも「システムの修復」は視野に入っているようですが。
再発防止のために「間違ったよいアイデア」はたくさんあります。「システムの欠陥の単純な修復(システムの他の部分にひずみが出ます)」「データベースづくり(複雑なシステムのエラーは実に様々で、類型化は困難です)」「有害事象にはベンチマーキング(水準基標)が可能(シンプルな因果関係によるものにだけ可能です)」。
著者は「エラー」は様々な原因の組み合わせで発生するのだから、「同じエラーの再発防止」に血眼になるよりは、「システムの弱点を見つける」ために活用しろ、と述べます。さらに「成功事例」ももっと活用するべきだ、と。人は「失敗事例」に注目します。しかし、柔軟な対応で事故を未然に防いだ「ヒヤリ・ハット事例」に直面した人たちはもっと賞賛されるべきでその事例を集積して研究するべきだ、と著者は言うのです。
本書は、他罰感情が強い人には受け入れ難い本でしょう。ただ、「感情」ではなくて「論理」を用いるタイプの人には、参考になる記述が多くあるだろう、と私には思えます。さすがにエラーを「賞賛」しようとまでは思いませんが。
ケリー国務長官がG7外相会談で、広島の平和公園・原爆資料館・原爆ドームを訪問したことがニュースになっています。意外なのは「謝罪」の文字があちこちに散りばめられていること(「アメリカは謝罪する予定はない」とか)。岸田外相は(どこぞの国の人間たちのように)居丈高に「謝罪しろ」なんて言ってましたっけ? 私が知る限り言っていないと思うのですが。政治家が言ったことがニュースになるのは当然として、言っていないことがニュースになるのは、それはニュースにする側が抱えている問題点が明らかにされているだけ、と私には思えます。
そういえばアメリカの世論は「原爆投下は正しかった」と主張しているそうですが、だったらなぜその「大戦果(十万以上のJAPを一瞬で焼き殺した)」を確認しに来ないんですかねえ。嬉々としてやって来て大喜びでスキップをしながら確認しても良いような気がするのですが。
【ただいま読書中】『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』嶌信彦 著、 角川書店、2015年、1600円(税別)
日本が無条件降伏をした地点で、ソ連国内にはすでに23ヶ国350万人の捕虜が収容され労働をしていました。ソ連から見たらそこに日本兵捕虜60万人が加わるわけで、当然その“活用”が考えられます。シベリアがその中心地となりましたが、中央アジアのウズベキスタンに3万人の日本人が連行されました。その中に、奉天に配置されていた陸軍航空廠の整備部隊(永田隊)も含まれていました。
ソ連は、革命30周年を記念してウズベキスタンのタシケント市に一級のオペラハウス「アリシェル・ナボイ劇場」を建設しようと考えていました。そこで日本兵捕虜の中でも工兵を重点的にそこに投入したのです。457名の部隊を率いるのは、24歳の永田大尉(佐官以上は別の収容所にまとめられていたので、“現場”では大尉が最高ポストだったのです)。この人が、論理的でまじめで誠実で情に篤いという人柄で、仕事を進めるだけではなくて、捕虜全員の健康も気遣い、収容所の所長とも穏やかにやり取りをすることで捕虜の待遇を改善していきます。彼が示した目標は、捕虜全員が健康で帰国できること。そして、日本人の誇りと意地にかけて立派なオペラハウスを建設すること。
日本人捕虜の器用で真面目な仕事ぶりに、監視のロシア兵や現地で一緒に作業するウズベク人たちの態度は少しずつ好意的なものに変わっていきます。せっかく戦争で生き残れたのに悲しい事故死をする人もいます。一日8時間労働で日曜は休みなので、「余暇」もありました。それをいかして手作りの楽器(工事現場の廃棄物やウズベク人の差し入れの材料で作ったバイオリンやマンドリン)や合唱団、素人芝居などの演芸大会はロシアやウズベク人にも大受けをします。牌を手作りして麻雀もやっています。永田隊が収容された第四ラーゲリは捕虜収容所のわりには、過ごしやすい雰囲気でした。そのせいか、共産主義の思想教育は盛り上がりません。ソ連はそれを怪しみ、永田隊長自身がスパイなのではないか、と疑います。しかし“証拠不十分”でおとがめは無しでした(そもそも和やかな雰囲気に、自己批判やつるし上げは似合いません)。
土を掘りレンガを焼くところから始めた建築作業は、ついに締め切りに間に合います。ソ連でも一級のオペラハウスが出来上がったことをひそかな誇りに、捕虜たちは帰国していきます。その中で永田は、457名全員の名前と住所を暗記しようとしていました。「怪しい日本語の文書」を持っていたらどんな難癖をつけられて帰国が止められるかわかりません。だから暗記です。舞鶴について最初の永田の仕事は、「名簿づくり」でした。
1966年4月26日、タシケント市を震源地とするマグニチュード5.2の直下型地震が発生しました。タシケントの街はほぼ全壊状態となってしまいました。しかし、レンガ造りの劇場はびくともせずに堂々と建ち続けていました。それを見て人びとは日本人捕虜の働きぶりについて思いを新たにします。劇場には「日本人捕虜が建設した」とウズベク語・ロシア語・英語で書かれた記念プレートが外壁に埋め込まれていました。しかし独立後、カリモフ大統領は「ウズベキスタンと日本は戦争をしたわけではない」とそのプレートを「極東から強制移送された数百名の日本国民が、建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語・日本語・英語・ロシア語の順で刻まれたものに差し替えさせたそうです。ウズベクの人びとにも「ソ連」に対して思うところがあったのでしょう。
しかし、“たまたま”特殊技能を持った人たちが集まった集団があって、そこに“たまたま”集団の和と人の力を生かそうとするリーダーがいて、その結果すごいものが出来上がったわけです。ではそういった人たちが、「兵士」にさせられずにずっと日本で仕事をしていたら、日本はもっと良い国になっていたのではないか、なんてことも私は思います。“使える人間”の命を一発の銃弾と交換するのは、もったいないと思いません?
もちろん飛脚が飛ばすのは「脚」ですが、もしかしたら飛脚が運んでいるものも「飛んで」いるのかもしれません。たとえば「檄を飛ばす」と言いますが、昔の日本人にとって「手紙」は「飛ぶ」ものだったのかもしれません。実際に飛ぶのは、紙ではなくてそこに込められた思いの方かもしれませんが。
【ただいま読書中】『日本郵便創業の歴史』藪内吉彦 著、 明石書店、2013年、4800円(税別)
江戸時代に街道が整備されると、飛脚による文書急送も盛んになりました。最初は幕府の公文書を運ぶ継飛脚、ついで大名飛脚、そして町人も利用できる町飛脚の制度も整えられ、継飛脚は町飛脚に吸収されていきます。日本各地(東海道だけではなくて、日光街道、奥州、甲州など)に飛脚宿取次所が作られ、飛脚の全国ネットワークを機能させました。『江戸参府紀行』(シーボルト)にも飛脚が登場しますが、「飛脚とは支那語のHikeo(翼のある足)から来ている」とあるそうです。江戸や大坂には近距離専門の飛脚もいました。今のバイク便や自転車便のようなものかな?
ただ、こういった飛脚を使うのは、大名や大商人で、庶民には高嶺の花でした。
明治政府が直面したのもこの「高嶺」ではなくて「高値」の問題でした。幕府から与えられた特権にあぐらをかいていた定飛脚問屋は、信頼性とコストと速度の点で問題を抱えていたのです。かくして明治3年に前島密が「郵便制度創設の建議」を行うことになります。その直後前島は渡英し、彼が明治5年に帰国するまでに東京~京都~大阪に郵便役所と郵便制度が創設されることになりました。ここでも「江戸時代」はばっさりと切り捨てられたわけです。飛脚問屋の方では生き残りのために“抵抗”をおこなっていますが。
それにしてもすごい料金です。最初の頃の郵便では明治四年七月の横浜ー甲府間の「急便」が二十一貫六百文(銭四貫文で1両)なんですから。ちなみに江戸末期の飛脚の急便(20時間)は30両だったそうです。これまたすごい値段ですが。
郵便制度は「国が推進するもの」でした。西欧列強がすでに帝国主義に入っているときに日本はやっと資本主義を始めるわけで、追いつき追い越す、最低、列強に食われないためには中央集権をまず徹底する必要があります。そのための情報インフラとして郵便が重要だと認識されていたのです(認識していない政府高官もいたようですが)。しかしそのインフラを支えるのは「郵便脚夫」でした。要するに飛脚です。各駅に8人が待機し、三貫目(11キログラム余)の行李を担いで2時間で5里走ることがノルマで求められていました。それで東京・大阪間を78時間で郵便を届けています。文字通りの「駅伝」ですね。東京・長崎は90時間でしたが、これは長崎にヨーロッパからの海底電信線が上陸していて、情報を少しでも早く政府に伝えるためにルートが早くから整備されました。
明治政府は、安く全国に「郵便制度」を構築するため、各地の名主・地主を「郵便局長」として権力構造の末端に組み込みその代わり自宅を郵便局として提供させるシステムを始めました。特定郵便局の始まりです。
1839年にイギリスでは「重量1オンス以下は距離に関係なく全国一律1ペニー」の均一料金が採用されました。イギリスでそれを知った前島は帰国後にそれを日本に導入、明治六年には郵便料均一制施行により、市内一銭市外二銭となります。その2年前には、最低料金が百文、距離が一里増すごとに200文追加だったのですから、庶民はとても使いやすくなりました。「中央集権の国」を運営するためには、こういった(当時としては非常識な)手法が必要だったのでしょう。
私が子供の頃には「葉書は5円、封書は10円」でした。それが今では「葉書は52円、定形郵便は82円」ですか。すごく上がったような気もしますが、よくよく見たらすごく安い気もします。できたらこの制度はなくなったり利益重視のために変な形になって欲しくはないものです。