旧作の日本映画に嵌っていたのは、学生時代から三十代ごろまでのことだったから、これまた20世紀の話である。
嵩じた年には年間千二百本弱を観ていた。昭和55年当時、名画座は三本立て700円が相場だったように記憶している。一本千円か千二百円のロードショーで観るのは新作の洋画がメインで、学校のあった渋谷では文化会館で旧作の2001年宇宙の旅、アラビアのロレンス回顧上映…etc.も見たけれども、半中古作品をかける名画座との中間的役割である二番館へもよく行った。ロードショーで見逃した魔界転生を観るために大塚の…館名は失念したが二、三番館へ出かけたこともあった。
競馬新聞に赤鉛筆でマークを付けるおあにぃさん方と同じスタイルで、毎週木曜日(火曜日?水曜日だった??)に発売されていた週刊ぴあ誌を入念にチェックし、見たい映画を求めて武蔵国一帯を東奔西走した。
戦前の邦画はフィルムセンターや単発の企画上映会、1950年代以降の日本映画の黄金期作品は名画座へ…昼間、ご近所の三鷹オスカー、足を延ばして有楽町の並木座、浅草の新劇場、心のホームグラウンド池袋の旧・文芸坐やJR京浜東北線大井町の大井武蔵野館、横浜の桜木町、黄金町などに出掛けて、映画館に籠っているといつの間にか日が暮れる。取って返して新宿東口、紀伊国屋書店はす向かいのツタヤで、フィルム上映に成らなさそうな稀少ビデオを借りる。
…なんてことをやっていると、一日に映画を5本ぐらい見るのは何でもない。苦も無く年間千本映画ノックぐらいは出来ちゃうのである。
映画だけではなく、並行して演劇(現代劇はアングラ…千人以上の大きい劇場は苦手で、国劇は歌舞伎や能、狂言が主だったけれども)、寄席や美術館、博物館…etc.へも通っていたのだから、あきれた極道っぷりである。
もちろん、フィクション・ノンフィクション、学術書に限らず、本もたくさん読んでいた。我が家では、父の方針で、本代はお小遣いとは別の掛かりとなり、書物であるならいくらでも買ってもらえたのである。
人間の要諦をはぐくむものは文化である…と、私が育った時代は、戦争に対するアレルギーから、殊更、子どもたちに豊饒な文化生活を送らせるよう、大人たちは腐心してくれたのだ。
(…しかし、そんな肥やしに育てられ、現代において、売り家と書く三代目…というのは、われら1960年前後に生まれた者たちのことだったのであろうか…と、ひそかに狼狽する。)
さて、コロナ禍により、この春以降の演奏会、発表会は悉く(ことごとく)中止や延期の憂き目に遭い、常日頃、身過ぎ世過ぎの諸事に取り紛れ、きちんと出来たためしがない日常生活の基本的なところにテコ入れをしよう、と…掃除や片づけをすればいいものを…見ずに溜まっていたテレビデッキ回りの、要するに未見の長尺の映画を、見て片付けてしまおう、という気になった。
そんな訳で、昨年の正月に日本映画専門チャンネルで追悼上映された、橋本忍が原作・脚本・監督作品『幻の湖』を観てしまったのである。
橋本忍といえば、私があれこれ言及(ごんきゅう)するべくもない、名脚本家である。
黒澤明監督と組んだ錚々たる諸作品群…世間では、黒澤監督の作品はダイナミックで奇抜でスカッとするのかもしれないが、大づかみでガサツなところが私には合わない。
私にとっての衝撃の橋本忍作品は、正木ひろし原作、森谷司郎監督の『首』である。
戦前の人権を描いた硬派の社会派映画で、サスペンス仕立てになっており、文字通り手に汗を握って、映画館の闇の中で銀幕を見つめていた。帝大の標本室が空襲で炎に包まれる後日譚も、事件の行く末に余韻を残した。
このミステリがスゴイ!に映画編があったなら、私は第一にこの映画を推す。
未見の方にはぜひ見ていただきたい作品である。
そしてまた、松本清張原作、堀川弘通監督、橋本忍脚本の『黒い画集 あるサラリーマンの証言』。
前述『首』と同じ主演の、小林桂樹の名演もさることながら、保身のために真実を言えず、嘘をつき通したがゆえに全てを失ってしまう…物語の落としどころがスパッとしていて、すごい切れ者の映画構成だなぁ…とうら若き乙女だった私はショックを受けた。
同じ松本清張原作、野村芳太郎監督『砂の器』は、主演の加藤剛と加藤嘉を思い浮かべるだけで、私ごときは滂沱の涙である。
さらに、横溝正史原作、野村芳太郎監督の『八つ墓村』は、けだし名作で、各方面の手練れの映像作家がチャレンジしたいくつもの八つ墓村を見てきたが、伝奇ロマンとメルヘン、怪異ファンタジーの魅力を余すところなく描いた橋本忍脚本が絶品である。
(余談になるけれども、横溝作品は市川崑監督のシリーズが有名で、『犬神家の一族』は放送されるたび何度も見てしまうほどであるが、『女王蜂』や『獄門島』は女の事件というテーマに強引に改変していて、原作の味を損なっていると思う。
テレビで1977年に放送された角川春樹事務所の横溝正史シリーズはなかなかの傑作ぞろいで、何といっても斎藤光正監督の『獄門島』が原作に忠実でキャスティングもいい。
蔵原惟繕監督の『本陣殺人事件』は、余情があって素晴らしい。トリックの発想だけで奇矯なイメージのこの作品に詩情を加え、日本の田舎の因習や情念を、美しい風景を交えて描き、余韻のある作品に仕上げている。
工藤栄一監督『犬神家の一族』も、迫力の京マチ子as松子夫人で、丁寧なキャラクターの描き分け、私は好きである。
森一生監督の『悪魔の手毬唄』は、崑監督のものより、出来がいいと思う。)
あれこれ書き連ねてきたけれども、そんなことがあって、ただの映画愛好の徒である私にとってさえ、映画人・橋本忍は間違いのない職人だったのである。
…だものだから、38年遅れで『幻の湖』を観た私は、ただもう、ビックリしてしまった。
1980年代のニューミュージック風に言えば、アメージングが止まらない。
吃驚して、この映画をどうとらえたものか、二日がたった今でも、夜眠れない。
「…誰でも心のなかに一つ、大切な幻の湖を持っているのです…」なんていう、人間の証明の岡田茉莉子のモノローグの空耳さえ聞こえてくる。
ただ、ほかの誰かが言うように、駄作とは思えない。
第一、とても長い…2時間40分を超える超大作なのだが、物語の展開が読めず、一体どうなってしまうのだろうと、私は見続けてしまったのである。
冒頭描かれる、琵琶湖の四季折々の風景。美しい。
愛犬の復讐、という主役の風俗嬢の初志貫徹を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)に彼女に絡みつく様々な登場人物を配置し、それが現在のソープオペラ的要素だったり、歴史ロマンの味だったり、落語様の落とし噺があったり、東宝映画の日本的SF物の世界だったりする。
経糸の事件の顛末には驚愕するばかりだが、やっぱり…という納得の決着でもある。
人間の思惑というものは、緯糸で模様が描き出されるように、このように多元的でとりとめのないものなのだ。
2000年頃、京橋のフィルムセンターで、何の作品か忘れてしまったが、上映後、見知らぬ方に誘われてお茶したことがあった。その方は映画を作っていて、いま手掛けている作品は7時間ほどの長さのものであると語った。
その後お目にかかったことはないが、自主映画であると、作品の愛着ゆえに、適切な長さに切れないものなのだろうか。
翻って、幻の湖を鑑みるに、これ以上切るところはないように思える。
すべてのエピソード、シークエンスが、橋本忍作品として不可欠な要素に思える。
昭和55年頃、寄席で聴けない前時代の名人の噺を知りたくて、知人から八代目桂文楽のテープをたくさんお借りした。
無駄な部分をそぎ落とした完成型の落語は、でも、ああそんなものか…と資料的意味はあっても、私には何度も聞き返す魅力があるとは思えなかった。ライブではないから仕方ない。
貸してくださったご本人からも、圓生のほうがおススメなんだけどなぁ…と呟かれた。
物事には、余分なところがあるから面白いのだ。
嵩じた年には年間千二百本弱を観ていた。昭和55年当時、名画座は三本立て700円が相場だったように記憶している。一本千円か千二百円のロードショーで観るのは新作の洋画がメインで、学校のあった渋谷では文化会館で旧作の2001年宇宙の旅、アラビアのロレンス回顧上映…etc.も見たけれども、半中古作品をかける名画座との中間的役割である二番館へもよく行った。ロードショーで見逃した魔界転生を観るために大塚の…館名は失念したが二、三番館へ出かけたこともあった。
競馬新聞に赤鉛筆でマークを付けるおあにぃさん方と同じスタイルで、毎週木曜日(火曜日?水曜日だった??)に発売されていた週刊ぴあ誌を入念にチェックし、見たい映画を求めて武蔵国一帯を東奔西走した。
戦前の邦画はフィルムセンターや単発の企画上映会、1950年代以降の日本映画の黄金期作品は名画座へ…昼間、ご近所の三鷹オスカー、足を延ばして有楽町の並木座、浅草の新劇場、心のホームグラウンド池袋の旧・文芸坐やJR京浜東北線大井町の大井武蔵野館、横浜の桜木町、黄金町などに出掛けて、映画館に籠っているといつの間にか日が暮れる。取って返して新宿東口、紀伊国屋書店はす向かいのツタヤで、フィルム上映に成らなさそうな稀少ビデオを借りる。
…なんてことをやっていると、一日に映画を5本ぐらい見るのは何でもない。苦も無く年間千本映画ノックぐらいは出来ちゃうのである。
映画だけではなく、並行して演劇(現代劇はアングラ…千人以上の大きい劇場は苦手で、国劇は歌舞伎や能、狂言が主だったけれども)、寄席や美術館、博物館…etc.へも通っていたのだから、あきれた極道っぷりである。
もちろん、フィクション・ノンフィクション、学術書に限らず、本もたくさん読んでいた。我が家では、父の方針で、本代はお小遣いとは別の掛かりとなり、書物であるならいくらでも買ってもらえたのである。
人間の要諦をはぐくむものは文化である…と、私が育った時代は、戦争に対するアレルギーから、殊更、子どもたちに豊饒な文化生活を送らせるよう、大人たちは腐心してくれたのだ。
(…しかし、そんな肥やしに育てられ、現代において、売り家と書く三代目…というのは、われら1960年前後に生まれた者たちのことだったのであろうか…と、ひそかに狼狽する。)
さて、コロナ禍により、この春以降の演奏会、発表会は悉く(ことごとく)中止や延期の憂き目に遭い、常日頃、身過ぎ世過ぎの諸事に取り紛れ、きちんと出来たためしがない日常生活の基本的なところにテコ入れをしよう、と…掃除や片づけをすればいいものを…見ずに溜まっていたテレビデッキ回りの、要するに未見の長尺の映画を、見て片付けてしまおう、という気になった。
そんな訳で、昨年の正月に日本映画専門チャンネルで追悼上映された、橋本忍が原作・脚本・監督作品『幻の湖』を観てしまったのである。
橋本忍といえば、私があれこれ言及(ごんきゅう)するべくもない、名脚本家である。
黒澤明監督と組んだ錚々たる諸作品群…世間では、黒澤監督の作品はダイナミックで奇抜でスカッとするのかもしれないが、大づかみでガサツなところが私には合わない。
私にとっての衝撃の橋本忍作品は、正木ひろし原作、森谷司郎監督の『首』である。
戦前の人権を描いた硬派の社会派映画で、サスペンス仕立てになっており、文字通り手に汗を握って、映画館の闇の中で銀幕を見つめていた。帝大の標本室が空襲で炎に包まれる後日譚も、事件の行く末に余韻を残した。
このミステリがスゴイ!に映画編があったなら、私は第一にこの映画を推す。
未見の方にはぜひ見ていただきたい作品である。
そしてまた、松本清張原作、堀川弘通監督、橋本忍脚本の『黒い画集 あるサラリーマンの証言』。
前述『首』と同じ主演の、小林桂樹の名演もさることながら、保身のために真実を言えず、嘘をつき通したがゆえに全てを失ってしまう…物語の落としどころがスパッとしていて、すごい切れ者の映画構成だなぁ…とうら若き乙女だった私はショックを受けた。
同じ松本清張原作、野村芳太郎監督『砂の器』は、主演の加藤剛と加藤嘉を思い浮かべるだけで、私ごときは滂沱の涙である。
さらに、横溝正史原作、野村芳太郎監督の『八つ墓村』は、けだし名作で、各方面の手練れの映像作家がチャレンジしたいくつもの八つ墓村を見てきたが、伝奇ロマンとメルヘン、怪異ファンタジーの魅力を余すところなく描いた橋本忍脚本が絶品である。
(余談になるけれども、横溝作品は市川崑監督のシリーズが有名で、『犬神家の一族』は放送されるたび何度も見てしまうほどであるが、『女王蜂』や『獄門島』は女の事件というテーマに強引に改変していて、原作の味を損なっていると思う。
テレビで1977年に放送された角川春樹事務所の横溝正史シリーズはなかなかの傑作ぞろいで、何といっても斎藤光正監督の『獄門島』が原作に忠実でキャスティングもいい。
蔵原惟繕監督の『本陣殺人事件』は、余情があって素晴らしい。トリックの発想だけで奇矯なイメージのこの作品に詩情を加え、日本の田舎の因習や情念を、美しい風景を交えて描き、余韻のある作品に仕上げている。
工藤栄一監督『犬神家の一族』も、迫力の京マチ子as松子夫人で、丁寧なキャラクターの描き分け、私は好きである。
森一生監督の『悪魔の手毬唄』は、崑監督のものより、出来がいいと思う。)
あれこれ書き連ねてきたけれども、そんなことがあって、ただの映画愛好の徒である私にとってさえ、映画人・橋本忍は間違いのない職人だったのである。
…だものだから、38年遅れで『幻の湖』を観た私は、ただもう、ビックリしてしまった。
1980年代のニューミュージック風に言えば、アメージングが止まらない。
吃驚して、この映画をどうとらえたものか、二日がたった今でも、夜眠れない。
「…誰でも心のなかに一つ、大切な幻の湖を持っているのです…」なんていう、人間の証明の岡田茉莉子のモノローグの空耳さえ聞こえてくる。
ただ、ほかの誰かが言うように、駄作とは思えない。
第一、とても長い…2時間40分を超える超大作なのだが、物語の展開が読めず、一体どうなってしまうのだろうと、私は見続けてしまったのである。
冒頭描かれる、琵琶湖の四季折々の風景。美しい。
愛犬の復讐、という主役の風俗嬢の初志貫徹を経糸(たていと)に、緯糸(よこいと)に彼女に絡みつく様々な登場人物を配置し、それが現在のソープオペラ的要素だったり、歴史ロマンの味だったり、落語様の落とし噺があったり、東宝映画の日本的SF物の世界だったりする。
経糸の事件の顛末には驚愕するばかりだが、やっぱり…という納得の決着でもある。
人間の思惑というものは、緯糸で模様が描き出されるように、このように多元的でとりとめのないものなのだ。
2000年頃、京橋のフィルムセンターで、何の作品か忘れてしまったが、上映後、見知らぬ方に誘われてお茶したことがあった。その方は映画を作っていて、いま手掛けている作品は7時間ほどの長さのものであると語った。
その後お目にかかったことはないが、自主映画であると、作品の愛着ゆえに、適切な長さに切れないものなのだろうか。
翻って、幻の湖を鑑みるに、これ以上切るところはないように思える。
すべてのエピソード、シークエンスが、橋本忍作品として不可欠な要素に思える。
昭和55年頃、寄席で聴けない前時代の名人の噺を知りたくて、知人から八代目桂文楽のテープをたくさんお借りした。
無駄な部分をそぎ落とした完成型の落語は、でも、ああそんなものか…と資料的意味はあっても、私には何度も聞き返す魅力があるとは思えなかった。ライブではないから仕方ない。
貸してくださったご本人からも、圓生のほうがおススメなんだけどなぁ…と呟かれた。
物事には、余分なところがあるから面白いのだ。