長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

平家蟹

2020年04月16日 02時11分00秒 | 歌舞伎三昧
 月暦で今日は、令和二年三月廿四日。
 旧暦の寿永4年(西暦だと1185年にあたる)3月24日は、壇ノ浦の合戦で平家が滅んだ日であるから、我が国のもののあはれの根幹をなす母胎ともなった一族を悼みたい。

 1991年、平成3年3月の歌舞伎座。
 昼の部、相生獅子で、当代時蔵と福助(まだ児太郎時代)の時分の華の競演に圧倒され、次の幕で九代目宗十郎、紀伊國屋の女鳴神に魂をむんずと掴まれるという、その後の人生を左右される芝居に廻り合った、忘れ得ぬターニングポイントの観劇月。

 その夜の部に、神谷町・七代目の芝翫が、平家の官女の生き残り・玉蟲を演じたのが、岡本綺堂作『平家蟹(へいけがに)』であった。六世歌右衛門、大成駒の演出だった。
 戯曲自体は大正時代のもので、昭和になってからも何度か舞台にかけられていたらしいが、私は初見。
 戦に敗れ、零落した女たちの、♪星の流れに身を占って…こんな女に誰がしたんだ、してくれちゃったんだよう…!という恨み節の物語であり、怨念に支配された陰鬱な芝居であるが、ある意味、成駒屋の本領発揮、ともいえる世界である。

 なんといっても度肝を抜かれたのが、大道具…今では舞台装置というのでしょうけれども…の、舞台一面をおおう海底の暗がりの中でうごめく複数の、大ぶりの平家蟹たちであった。
 カニ自体の造形も物凄く、音もない闇の世界でガサゴソと犇めきながら脚を揺らめき動かす、この世のものとは到底思えない大掛かりゆえの労苦、くふうを伴う作業であろう大道具の職人さんの働き…その、あまりにも怪異な綺堂ワールドを現出する蠢きようたるや……筆舌にとてものことでは尽くせない凄絶な世界に、すっかりシビレた。

 小学生低学年のころ、テレビアニメに『妖怪人間ベム』という番組があり、異次元空間へと誘う笛の調べとともに始まるナレーション「…それはいつのことか誰も知らない…」、薄暗い理科の実験室のような場所の、机の上のビーカーが割れて、溢れた流動体がむくむくと闇の中で蠢き、個体となって姿を現す、そのオープニングのあまりの怖さに直視することができず、いつも茶の間の奥の客間の襖に隠れて顔半分だけ出して、「終わった? 終わったら教えてね」「はいはい」…と家族のものに合図してもらって、タイトルが出たあとからの、本編を見る。
 そんなに怖けりゃ見なきゃいいものを、どうしても見ずにはいられないほど、醜怪な現実の人間よりも、仁義礼智信という点ではるかに人間らしく正義感に満ちた、妖怪人間ベム・ベラ・ベロの物語が好きだったのである。

 その、闇の中に蠢くよく分からない生命体。
 平家蟹は、歌舞伎世界を構築する、もう一方の主役・大道具さんのその技術・技量を魅せるための芝居でもあったのだ。

 数年後に(1997年3月)再演されて、待ってました!! と見に行ったのだが、以前見たようにはカニさんが動いてくれなくて、全然面白くなかったのだった。大道具さんが代替わりしてしまったのだろうか…とにかくガッカリ、失望した。
 舞台とは、かくも微妙なものなのである。
 かように、伝統を現代に紡ぎだす立場の者の、責任は重大なのである。

 …そんな芝居の味を知っているものだから、一昨年、『風の谷のナウシカ』が歌舞伎化される、というニュースを耳にしたとき、おお、神谷町のDNAを継ぐ者である七之助なら合っているかもしれない、と思った。
 思ったまま時は流れて、その舞台には立ち会えず仕舞いだったのではあるけれども。
コメント
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