長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

蓮を聴く

2010年07月21日 10時50分01秒 | 落語だった
 橋本明治の『蓮を聴く』という絵がある。盛夏のきもの、薄物を着た女性が二人、耳を澄ますような風にして、デッキチェアに座っている。画面左側に、ほんのちょっとだけ、よく育った一群れの蓮が顔を覗かせている。

 夏のまだ涼しい早朝だったか、夜明け間近だったろうか…とにかく、無明の闇の中で蓮の花が開くとき、ポンという音がする。
 それがために、蓮の開花を愉しむのを「蓮を聴く」という。私が子どもだった昭和の三十年か四十年代、まだ日本の夏の気候がこれほど高温化していなかった当時、よく聞いた話だった。観賞会があって、「蓮の花を聴きに行く」とかいうのである。…風流でんなァ。

 泥池に生まれながら、それらの汚濁から超絶して、すーっつと細い茎を伸ばして、天女が婉然たる笑みのように、蓮の花は咲く。薬屋さんの看板キャラクターの、斜めになって裳裾をたなびかせ、天空を漂っている中将姫か仙女のようだ。
 碧き雲海の如き、蓮の葉の大海に浮かび、ほんのり紅色でひときわ白い。
 芥川龍之介『蜘蛛の糸』のイメージがなせる業か、私の頭のなかの蓮の池はまさに、極楽の岸辺、彼岸なのだった。梅雨が明けて、人の身の丈よりも高く、青々とした蓮の葉が生い茂る、上野の山下の不忍池。お釈迦さまが毎朝散歩する、極楽浄土、天国の蓮池って、まさにこんな感じなんじゃなかろうか…。

 多分に心象世界的、精神的要素を含んだ寓話のような世界。
 子どもだった私は、「蓮を聴く」という、そういうオトナ文化に、限りない憧れを抱いていた。いつの日か、ぜひとも、その音を聴きたいものである、と、愛読していた芥川龍之介の世界観に重ね合わせ、深く願った。
 それから蓮の花に魅了された私の、心の旅は続いた。中学生になって読んだ夏目漱石の『夢十夜』のような幻影世界に強くひかれ、かつて愛した女が何世紀も隔てて或る世、花開く顔となって再生する話は、SF『トリフィドの日』と融合し、心の渾沌はますます昆明池のごとく、混迷の度合いを増して行った。

 1970年代後半から80年代前半、世を挙げてのスーパーカーブーム。なぜか対極にいる私のようなものですら、富士スピードウェイにグランチャンを観に行った。違う意味で、ロータスの轟音を聴きに行ったのだった。
 F1でロータス。熱風と轟音のなかで、私は涼しげな夏の朝と、上野不忍池の生い茂る蓮の群れを恋しく思った。
 ♪夏になると想い出す~場所は、私にとって、はるかな池の端、花はハチスなのだった。

 それから何年も過ぎた平成ひとケタ時代。今はもうない雅叙園美術館所蔵の、橋本明治のこの絵に出会ったときは、子ども時代のその憧憬の世界と、昭和の市井の人々の生活文化の記憶が綯い交ぜになって思い起こされ、じわじわとした感動の淵に、私は浸されていった。

 大正から昭和にかけての日本画の世界は、その時代の女性の風俗を映していて、私は好きだった。これらの絵は長いこと一部好事家のものになっていて、あまり大がかりな展覧会が開催されることはなかった。若かった私は、美術館や博物館に行っては、ひとり感慨の淵に浸っていた。
 このころの絵には、日常に着物を着ているご婦人の姿がたくさん描かれており、着物で生活するに於いての心得、きものファッションに対する感覚のヒント…というようなものを、たくさん頂いた。
 『蓮を聴く』も、たいへんキッパリとした短髪の、現代風の美人(昭和時代における、現代風であるが)二人が、大柄の麻の葉と、蚊絣の大きな…トンボ絣ぐらいある大柄な上布を、ゆったりと着ている。

 昭和の終わりごろ、景気のよかった世間とは隔世の感があった、ちょっとしょっぱい、人気のない寄席通いに味をしめた私は、寄席若竹にも通っていた。今は亡き先代圓楽が、東陽町に円楽党の本拠地として建てた寄席である。
 ここで、当時二つ目だった三遊亭五九楽が、「ライク・ア・パラダイス」と銘打った勉強会(と、記憶している)を行っていた。私は当時、マイブームの一環だった友人との謎かけ遊びに格好のネタだ…と、心のネタ帳に書き込んでいたのだ。
 これは、寄席若竹と三遊亭五九楽を知らなくては整わない、多分にギャラリーが限定された超レアなマニアネタで、公開する前に近世文学通の友人も早世してしまったので、この二十数年というもの、自分の心のうちで何度も繰り返すのみだった謎かけだ。
 「上野忍ばずの池とかけまして、三遊亭五九楽の独演会と解きます」
 「そのココロは?」
 「ライク・ア・パラダイス…極楽みたい…五九楽観たい」

 先週、時々行くスーパーで、蓮の花を売っていた。それが、作り物ではなく、生花コーナーに、しかもすーっと伸びた茎の先端に、固く結んだ莟がついている、その状態で一本だけ売られていたのである。
 これは、珍しいものを見つけた…! 私は雀躍した。いくらお盆とはいえ、こんな状況で、活きた蓮の花にお目にかかるなんて、そうそうはない。いやいや、スーパーの生花売り場で蓮のつぼみに出会える機会なぞ、金輪際ない…と言っても過言ではない。
 蓮の花はいつも気高くて、遠い池の向こうのほうに、すーっと立っている。
 よく観ると包装紙の値札分類は、「お盆小物」になっていた。活花でも小物で売っちゃうんだ……と、奇妙な感慨に打たれた私は、このまま無事開花するのだろうか、という危惧を抱きながらも、三井の大黒、浅草は三社様の宮古川から網にかかって引き揚げられたご本尊。千載一遇、一期一会のこのチャンスに、蓮の花を手放せようはずもなく、いそいそとレジへ進んだ。

 壺に一本挿した、ハスの莟。スッと伸びたその茎は、蓮の身上である。なんて、カッコいいのだろう、と惚れ惚れして翌朝目覚めたら、あにはからんや、蓮は青ざめた顔をして、ぐったり折れていた。
 葉がない生花は水の吸い上げが悪い。この固く結んだつぼみが、その開花まで持ちこたえられるとも思えない…と、思いつつ買ってしまったのだが…案の定。
 どうやら、莟の自重で、茎が持ちこたえられなくなったようなのだった。ちょっとハスに活けたので、その微妙にズレた重心の、重力のかかり具合がよくなかった。
 驚いたことに蓮の莟は、冷たいプールに飛び込んでぶるぶるしているクラスメートの唇の色のような、紫色になっていた。
 まさに、青ざめたつぼみなのだった。

 天国から地獄へ急転直下。
 なんだか、一夜で天女に去られた男のように、さめざめとした気分になって、私は蓮の救命に躍起になった。…と言っても出来ることは、折れた茎の上で短く切ることだけだったのだが。

 そのとき、ビックリしたのは、蓮の茎が糸を引く、ということだった。そうだ、レンコンは蓮の根だもの、やっぱり茎も糸を引くんだ、と改めて感じ入った。

 その糸は、お釈迦さまが下界へ垂らした、蜘蛛の糸の、現し身のようだ…と、私は思った。


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