「あのですね、東海林さん。難しいのは始めることより終わり方だと思うんですよ」
2008年の年の瀬。リーマンショックの影響を受け、かつて無い〃派遣切り〃の嵐が吹き荒れる中、生存の危機に直面する仲間(派遣労働者)を、何とか支援できないかと全労連の井上久事務局次長(当時)と話をした時、かんで含めるようにそう言った。目の前の仲間を何とかした思いで頭がいっぱいだった私は、その言葉が、どこか後ろ向きに聞こえて不満だった。だが、後々、「派遣村」の活動を通じて、井上さんの言葉の重い意味が骨身にしみた。同時に、労働運動に対する深い思いがあったことにも気付くことになる。
●握った手は離さない
井上さんが指摘したように、08年末から09年にかけて日比谷公園で派遣労働者を支えた年越し派遣村で本当に大変だったのは、公園での支援活動よりも、公園での支援を終えた後、集まった労働者をいかに支えるかだった。行政が窓口を閉じ、支援が届かなくなる年末年始に労働者の命を支える活動はもちろん重要だった。だが、行政窓口が開いたから、支援活動を始めた私たちが、「後は行政に任せた」と言うわけにはいかなかった。・・・・続きはこちら
2008年の年の瀬。リーマンショックの影響を受け、かつて無い〃派遣切り〃の嵐が吹き荒れる中、生存の危機に直面する仲間(派遣労働者)を、何とか支援できないかと全労連の井上久事務局次長(当時)と話をした時、かんで含めるようにそう言った。目の前の仲間を何とかした思いで頭がいっぱいだった私は、その言葉が、どこか後ろ向きに聞こえて不満だった。だが、後々、「派遣村」の活動を通じて、井上さんの言葉の重い意味が骨身にしみた。同時に、労働運動に対する深い思いがあったことにも気付くことになる。
●握った手は離さない
井上さんが指摘したように、08年末から09年にかけて日比谷公園で派遣労働者を支えた年越し派遣村で本当に大変だったのは、公園での支援活動よりも、公園での支援を終えた後、集まった労働者をいかに支えるかだった。行政が窓口を閉じ、支援が届かなくなる年末年始に労働者の命を支える活動はもちろん重要だった。だが、行政窓口が開いたから、支援活動を始めた私たちが、「後は行政に任せた」と言うわけにはいかなかった。・・・・続きはこちら