西行は、出家してからあちこちに庵を作って暮らしていたようだが、多分その生活は長明のような生活だったのかもしれない。長明もまた、都からそんなに離れていなくて(西行のような遠くまでの旅はしなかったが)、歌を詠んだり、文を書いたりしていた。
その所のさまを言わば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡を埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念の便り、無きにしもあらず。
春は、藤波を見る。紫雲の如くして、西方ににほふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、日ぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあわれぶ。積もり消ゆるさま、罪障に喩えつべし。>(鴨長明『方丈記』より)
長明もまた、西方浄土を願って生きている。しかし、法然(1133年~1212年)や親鸞(1173年~- 1263年)のように浄土教を徹底して、極めたわけではない。前に、『源氏物語』について書いた時すこし触れたが、浄土思想が日本でどのように受容されたか興味深い。藤原道長が死ぬとき、釈迦入滅と同じ北枕で極楽浄土があるとされる西の方向に向かって向かって横たり、手には阿弥陀如来像に結ばれた五色の糸が握られていた。
阿弥陀仏と浄土三部経については、岩田文昭著『浄土思想』(中公新書/2023.8.25)の解説が興味深い。浄土三部経とは、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の3つである。
そして、この浄土三部経の語り手は釈尊であり、釈尊が弟子たちに阿弥陀仏の存在と極楽浄土について紹介するという形式をもっている。つまり、釈尊は、阿弥陀仏の極楽浄土の素晴らしさを説明し、そこに生まれて(すなわち往生して)容易に仏になれることを説いているわけだ。ところで、この阿弥陀仏の存在については、「無量寿経」にある宝蔵説話に由来する。
釈尊は、このように極楽の素晴らしさを説き、この説教は将来にわたりとくに重要なので、素直に信じるようにと注意をして話を終える。>(同上p12・13)
これが、いわゆる法蔵説話といわれるものだが、この中の四十八願のなかの十八番目の願が、問題になってくる。十八願によれば、この誓いを信じ浄土に生まれたいと願い、高度な修行ではなく、念仏するすべてのものを救うことが誓われている。
<わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏をして、もし生まれることできないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。ただし五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。>(『浄土三部経 現代語版』二九より)
つまり、法然や親鸞の称名念仏の教えとは、ここから生まれたものである。西行も長明も浄土思想に目覚め、それを実践しようとした人たちであり、そのために出家遁世をしたのであるが、彼らは法然や親鸞のように徹底できなかった。それは、それでよかったのかもしれない。彼らは、歌を詠み、文章を書くことによって生きる証とした存在であり、それを通して私たちは彼らと向き合うことができる。