電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

小学校の英語教育について

2009-08-02 12:18:54 | 子ども・教育

 いよいよ今年から小学校でも英語教育が始まった。一応「外国語活動」という名の下に行われるので、「英語活動」というのだそうだが、これは明らかに「英語教育」というべきである。教科でないのは、教科書がなく、教師もまた英語の指導の資格がないからだ。つまり、条件がまだ整備されていないので、暫定的に「英語活動」と読んでいるにすぎない。いずれ、環境が整備されてくれば、「英語教育」ということになると思われる。私は、少し前に出された、大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』(慶應義塾大学出版会/2004.7.31)を読みながら、それから5年後の世界がどうなったか考えてみた。

 小学校での英語教育の是非については、かなり前から論議されてきたが、最終的には、産業界の要請と、インターネット等の発達にあわせて、国際標準としてのコミュニケーションの手段となってしまった「英語」の役割に押される形で、小学校から英語教育が導入されることになった。現在の学習指導要領では、英語は、総合に時間のなかで、「国際理解教育の一環」として位置づけれていたが、新しい学習指導要領の第4章に「外国語活動」が設けられた。そこに小学校英語教育の目標が明確に掲げられている。

 外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうととする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う。(『小学校学習指導要領』第4章「外国語活動」より)

 そして、この場合の外国語は、英語と指定されているし、解説書では、中学校英語の基盤づくりと明確に規定されている。さらに、今年度より、前倒しして「英語活動」の授業が始まっている。現在のところ、5年と6年に週一時間というに限定されているが、いずれ教科になって、中学年、低学年でも取り上げられるようになり、時間も増えていくのではないかと予想される。もちろん、こうした小学校英語の導入は、現在の英語教育の問題点、つまり中学、高校、大学と10年近く英語教育を受けても、ほとんどの者が、英語を話すことができるようにならないという状態を打開するものであるかどうかは、あまり関係ないと思われる。

 むしろ、普通の人の場合は、ほとんど英語など必要ない生活だからだ。私の場合でも、英語の勉強を始めたのは、Webの世界に接するようになってからだ。おそらく、英語が必要な環境が増えてくれば、日本人でも必然的に英語を話すようになると思われる。そして、また、そういう時にどうしても英語が身につかなくて困るという人も出てくるに違いないが、それは小学校から英語教育をやったかどうかとはあまり関係がないのではないかと思われる。

 私は、今年から始まった小学校英語教育にもし意義があるとしたら、それは経済的にまたは文化的に恵まれない子どもたちにも、英語に接する機会を作っているということだと思う。それ以上でも、以下でもないような気がする。日本人の英語の早期教育の是非については、ある意味では理論的な解決をみたというより、多数決で決まったということができる。これは、総合の時間ができたり、その前に小学校低学年で社会や理科がなくなって生活科ができた時とは、明らかに異なっている。

 好むと好まざるとにかかわらず、ますますグローバル化している現代の社会にあって、英語は世界の共通語化しつつあります。その、コミュニケーションの手段を「気軽」に使用するためには、小さいときからの訓練が必要です。世界の原状をみても、理論的にみても、小さいときからの第二言語の導入が、母語の発達や子どもの人格の発達を阻害するという証拠は全くありません。小学校に英語教育を導入することを根拠もなく恐れてはなりません。(大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』・p81)

これは、まだ、総合の時間で英語活動が始まったばかりのころに述べられた早期英語教育推進派の慶応大学唐須教光教授の言葉だ。確かに、「母語の発達や子どもの人格の発達を阻害する」と脳科学的に証明されているわけはないが、阻害しないということが証明されたわけでもない。その意味では、実験であり、今後の膨大な実践によっていずれ検証されることになるに違いない。ただ、この唐須教光教授の言葉が、おそらく大勢をしめるようになったことだけは確かだ。その意味では、次の明海大学の和田稔教授の主張がとても興味深い。

現在のところ、文部科学省は細心の工夫を払って、過大な期待、大きな「夢」を売ることを避けています。ご存じのように、文部科学省によれば、小学校英語教育は「総合的な学習の時間」のなかで、「国際理解教育に関する学習の一環」として行うことになっています。そして、その目標は「児童が外国語(英語)に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりする」ことです。また、小学校英語教育は中学校の英語学習の前倒しになってはいけないと繰り返し警告しています。しかし、他方、「大衆」は文部科学省の細心の配慮とは無関係に小学校英語導入に「夢」を託しています。たとえば、小学校英語教育の開始で「英会話がペラペラになる」と期待している「大衆」が多いように思われます。>(同上・p127)

 文部科学省は、いよいよ、「中学校の英語教育の前倒し」を始めたわけだ。ただ、現実は、お寒い英語教育の現状があるだけだと行っても過言ではない。 上記の本の中で、小学校への英語教育導入に対して反対している慶応大学の大津由紀雄教授は、国語教育というより、日本語教育と言うべきだと言いつつ、母語教育としての日本語教育と外国語教育としての英語教育は言語教育として連携すべきだという。その上で、言語教育の目的を3つ挙げている。

【目的1】言語の面白さ、豊かさ、怖さを学習者に気づかせる。
【目的2】言語は人間にだけ、しかも、人間に平等に与えられた、種の特性であり、個別言語間に優劣はないことを学習者に気づかせる。
【目的3】言語を使って自己の思考を表現し、同時に、他者の言語表現のいとするところを的確に判断することの大切さを学習者に気づかせる。

 私は、「実社会に役立つ」ということを強調して、「確かな学力」を身につけさせることを最大の関心事にして改訂されようとしている新しい教育課程の危うさの中で、こうした指摘はとても大切だと思う。なぜなら、小学校に英語教育を導入したからと行って、「大衆の夢」が実現することなど、ありえないに違いないからだ。本当に社会に役立つ英語力を身につけた人たちは、学校教育だけでそれを実現したわけではない。彼らは、必要から、あるいは異文化への関心から英語力を身につけたのだ。

 同じ本の中で、岐阜大学の松川禮子教授(当時・現在岐阜県教育長)が「公立小学校での英語教育の目的」について次のように述べているが、この言葉は、大津教授の言葉を踏まえた上で、多分、現在の小学校英語教育(活動)の基本的な理念にしていい言葉だと思われる。

 それは、「外国語との付き合い方を教える」ということです。「付き合い方」には、言葉そのものとの付き合いと、言葉に対する偏見との付き合いも含まれます。英語を通して外国吾との付き合い方を教えるのですが、「上手い、下手」だけでない多様な英語との付き合い方、楽しみ方があることを伝えたいと思います。それが結局は「英語に慣れ親しむ」ことでもありますが、上手くなるためだけにそうするのではなく、英語と付き合うことが子ども自身にとって意味のあることに思えるような教育活動を創造することができたら、小学校で英語を教える本当の意義があるのではないでしょうか。そして、それが将来にわたっての長い外国語との付き合いの始まりになるのなら、本当の意味で一貫性のある外国語教育の一歩と言えるように思うのです。(同上・p43・44)

 私は、個人的には、日本語と英語をともに学ぶということは素晴らしいことだと思う。特に、日本語と英語は、言語としてはいろいろな意味で対照的な関係になっているので、言語教育としてはぴったりではないかと思う。大津教授は、「外国語活動」がなぜ「英語」なのだとよく言っているが、私は、「英語」だからこそ面白そうだと思う。中国語や韓国語は、ある意味では、日本語できあがる時に多大な影響を及ぼした言語であり、日本語の学習の中で、私たちは中国語や韓国語を考えることができる。しかし、英語は、もっとも日本語から遠くに離れた言語だと思う。だから、面白い。やっと今頃、そんなことを考えるようになった。


コンピュータ教育と脳

2008-10-18 22:09:08 | 子ども・教育

 戸塚滝登著『子どもの脳と仮想世界──教室から見えるデジタルっ子の今』(岩波書店刊/2008.2.27)は、脳とデジタル化された教育との関係を鋭くえぐっていて、久々に私の脳を刺激した。この本は、偶然名古屋の駅ビルにある三省堂書店で買ったのだが、こんなに素早く読んだ本は、久しぶりだ。戸塚滝登は、1952年生まれだから、私より4才下の、丁度団塊の世代の終わりころに生まれたことになる。そして、1978年から2003年まで、富山県の公立小学校で教諭をしていた。日本のコンピュータ教育のパイオニアの一人と言われている。

 富山県というのは、コンピュータ教育が盛んだったところのような気がする。ソフトウエアの開発ということでは、かなり先端的だった戸塚は、やがて、仮想空間だけに囚われている子どもたちの脳に何が起こっているのか気になってくる。私の体験も、どちらかといえば戸塚によく似ていると思う。私も会社の中でPCを仕事に使うことではかなり速いほうだった。それが、今の自分を作っていると思う。しかも、自分の脳の中にも、このデジタル機器の影響はありそうだ。

 コンピュータやケータイは、決して子どもだけの問題ではない。それは、子どもの脳とともに大人の脳にも影響を与えている。ただ、子どもの脳の場合は、決定的な影響を与えてしまうことになる。戸塚の言っていることはそんなに難しいことではない。一つは、脳は身体と共に育つのだということと、二つには脳が正常に育つためにはそれらの持っている臨界期を守らなければならないということ。そして、三つ目としては、仮想世界にのめり込んでいった脳は全く新しい人間を作り出してしまうこともあり得るということだ。

(1)子どもにバーチャルを一つ与えれば、それと引き替えにリアルな能力が一つ奪い去られる。……『トレードオフの法則』
(2)6歳の子どもの一日は、五十歳の大人の千パーセント分の価値があると考えよ。……『千パーセントの法則』
(3)幼い時代は直接体験と本物体験を最優先した子育てを。できるだけ本物を見せ、できるだけ現場へと連れて行き、五感と身体感覚を使わせて。……『桶の中の脳っ子の法則』
(4)仮想世界では何でも起こりうる。そしてそれはやがて現実世界にもしみ出てくる。仮想世界ではモラルは居場所を持ちません。仮想世界には門番などいないことを忘れずに。……『仮想世界の影の法則』
                 (同上・p258・259より)

 戸塚は、以上のような法則が成り立つと言っているが、20数年小学校でコンピュータ教育をしてきた身としては、つらい法則であるに違いない。こうした法則は、戸塚らがやってきたコンピュータ教育の大きな問題点であり、これらをしっかり踏まえなくて安易にコンピュータ教育をすることができないの恐ろしさでもある。戸塚は今、そのための反省を強いられている。それがこの本だと言うことになる。コンピュータ教育に携わるものはこうした問題を一度はじっくり考えて見る必要がありそうだ。

 ところで、この本を読んでいて、「算数能力と言語能力は分離している」という指摘は興味深かった。現在、小学校教育の中で「言語力の育成」ということが、強調されているが、この点は注意しておく必要がある。戸塚によれば、言語能力の発達ということは、必ずしも数学的能力の発達とイコールにはならないという。あえていえば、まったく別のことだという。思春期を過ぎたときに数学ができる子どもとそうでない子どもの差が出てくるのは、そのためだ。そして、掛け算の九九は、算数能力の問題ではなく、言語能力の問題だという。つまり、かけ算の九九が得意の子どもが必ずしも数学的能力の秀でているとはいえないということだ。

 また、数学と脳ということでは、次のウォレン・マカロックの言葉を引用していたが、これも含蓄のある言葉だと思った。

人はなぜ数が理解できるのだろう。そして人が理解できるこの数とは何なのだろう?(What is a man so made that he can understand number and what is number so made that a man can understand it?)

 これと同じ問いを、養老孟司も確かどこかでしていたように思う。養老孟司は、確か、数とは自然が持つ性質であり、人間の脳は当然自然であり、その自然がその自分の性質を理解するために作り出したモノであるからこそ、数を理解できるのだし、脳は数が理解できるような仕組みになっているはずであるというようなことを言っていた。

 いずれにしても、子ども時代とは、私たちが通過しなければならない「脳の経験」の世界であり、そして、そのいろいろな「脳の経験」こそが、いい意味でも悪い意味でも私たちの脳を育てて来たことだけは確かだ。


人を殺してはいけないということ

2007-07-22 23:06:24 | 子ども・教育

 最近子どもが友達を殺してしまうという事件がよく起きている。また、いじめで、自殺をしてしまうという子どもも増えてきた。簡単に、自他の生命を殺してしまうことが、まだ幼い子どもたちの間で起きていることにショックを受けて、文部科学省では、「生命の尊重」ということをスローガンにして、学校で命の大切さを教えて行くことを大きな課題にしている。そして、そのために道徳の時間を教育再生会議では教科にしようということにもなる。しかし、子どもたちが、簡単に殺人を犯したり、自殺をしたりしまうということを防ぐためには、それでいいのだろうか。

 私は、人間というのは、生まれながらにして人を殺してはいけないということがインプリンティングされた存在だと思っている。つまり、本能的なレベルでは、人は人を殺せないのだと思う。『歎異抄』の中で、親鸞が述べているように、人は、「機縁」がなければ、人を殺さないものであるのだ。人を殺してはいけない理由は沢山挙げられる。しかし、そんな理由によって人は、人を殺さないのではない。人は、成長するに従って、人を殺してはいけないという心情を持つようにプルグラムされているのだと言っても良い。人は、生まれて、父親や母親に慈しまれながら育つことによって、人の存在の大切さを知るのであり、自分とは違う人の存在こそが自分の存在の根拠であることを自覚するのである。

 それでは、なぜ、人は人を殺してしまうのだろうか。『誇大自己症候群』(ちくま新書)や『脳内汚染』(文藝春秋刊)を書き、現在京都医療少年院に勤務している精神科医の岡田尊司は、「脳内汚染」によっても、人を殺すことができるようになるという。岡田は近著『脳内汚染からの脱出』(文春新書/2007.5.20)で次のように述べている。

 生物には、同種のものを殺すことを抑止する仕組みが備わっている。その禁止プログラムは、通常はとても強力なもので、たとえ法律的に正当な理由があって人の命を奪う場合も、激しい抵抗感と思いストレスを生む。(同書/p107より)

 法律的に正当な理由がある場合とは、死刑の執行や、戦争、そして、正当防衛でやむを得ず殺してしまうときなどである。ここで、岡田は、アメリカの軍事評論家のデーヴ・グロスマンの著書『殺人論』に基づきながら、戦場での兵士たちの行動と心理を紹介している。

 戦場でもっとも強いストレスは、敵と顔を合わせ、殺そうと決意して攻撃を行い、自分の行為の結果として、めのまえで一人一人の人間が死んでいくのを目撃することだという。それは、最も根源的で、外傷的な体験となる。
 多くの軍事パイロットも、敵を撃つことにためらいを覚えてきた。撃墜するどころか、撃とうとさえしないパイロットが、大方を占めたという。グウィン・ダイアによると、実際、戦果の四割は、わずか1%のパイロットによってもたらされていたのである。といって、他のパイロット達が、勇気がないわけではなかった。彼らは編隊を組んで適地へと乗り込み、当然そこでは、危険にさらされたのである。攻撃しないことは、むしろ自分の命が脅かされること意味した。だが、彼らは撃たなかったのだ。(同上・p107・108より)

 アメリカという国の恐ろしいところは、こうした心理的な人間性を理解して上で、「殺人に対する抑止を取り去る方法」を考えて実践するところにある。そのための方法とは、「脱感作」と「オペラント条件付け」と「否認」という防衛メカニズムである。「脱感作」とは、恐怖や不快なことでも何度も体験させることにより、感覚麻痺を起こし、平気になってしまう現象のことである。また、「オペランド条件付け」とは、一定の状況下で、ある刺激が提示されると、特定の行動を行うことを学習させることである。最後に、「否認」とは事実を本当だと認めないことにより、自分の心を守る仕組みのことである。

 「脱感作」については、次のように述べられている。

 軍隊では、敵を殺すことが愉快な行為として語られることが好まれる。心の底から、そう思ってはいなくても、敵の命を虫けらのように扱い、それを踏みにじることを楽しむような口ぶりが賞賛されるのだ。最初は、違和感を覚えていても、爆弾を落としたり、ミサイルを撃ち込むことを、トイレで用を足してきたくらいに笑いめかして話しているのを聞き、一緒になって笑っているうちに、次第に暴力や殺人行為を、大したことに思わない態度や心構えが作られて行くのである。(同上・p109より)

 「オペランド条件付け」について。

 軍隊の射撃訓練には、かって、「ブルズ・アイ(雄牛の目)」と呼ばれる、黒丸の標的が使われてきた。ところが、先ほども述べたように、実際に戦場に出てみると、人間に向かって引き金を引くことができた者は、わずか15~20%に留まったのである。 
 そこで、従来のブルズ・アイに代わって、導入されたのが、ポップ・アップ式の人型シルエットである。バネ仕掛けで、人間の形に切り取られた板が、突然起き上がるというごく単純な仕掛けである。起き上がった瞬間に、兵士達は発砲する訓練を下のである。標的に命中すれば、標的は再び倒れる。そして、標的を沢山倒した兵士は、ポイントが貯まると、バッジを貰えたり、休暇を与え足りする。
 たったこれだけの訓練法の変更であったが、その効果は驚くべきものがあった、そうして訓練を受けた兵士達が送り込まれたヴェトナム戦争では、発砲率は90~95%にも達し他のである。(同上・p111より)

 最後に「否認」について。

 この否認のメカニズムを容易にしているのが、高度なシミュレーション訓練だと言える。現実に似せた訓練を重ねた兵士は、現実の出来事も、また訓練の延長のように思いこむことで、現実感や共感性を働かすことから免れるのである。訓練の標的が、人間ではなくモノであったのと同じように、それと似た現実での出来事も、人間ではなく、モノをターゲットにしていると錯覚することができるのである。
 そんな馬鹿なと思う方もいらっしゃるだろう。だが、最近の研究では、相手が人間だと感じるか、もんだと感じるかは、現実に相手が人間かモノかではなく、その人の心の持ちようによるということが裏付けられている。(同上・p113より)

 私には、イラク戦争で、アメリカ兵たち自身が撮影したという、アメリカ兵達の非人間的な行為がなぜ行われたかが、やっと納得できた。また、現在、なぜ、人間の命が軽んじられているのかという理由もよく分かるような気がする。私たちは、テレビの映像や、テレビゲームの映像で、何度となく衝撃的な場面を眺めたり、残忍な気分になったりしている。その上、電車の乗客など単なる風景であって、自分勝手に携帯を使ったり、化粧したりしている人たちは、おそらく、人間を人間として見ていないに違いない。こうした事態を、岡田尊司は、「希薄な現実感と乏しい共感性」という。これは、学校の道徳の時間で解決できるような問題だとはとても思われないことだけは、確かだ。


「努力すればむくわれる」

2007-02-12 20:46:52 | 子ども・教育

 ベネッセ教育研究所の第4回学習調査によれば、子どもたちの学習時間は小中学生とも増加しているが、「日本は、努力すればむくわれる社会だ」という項目では、「小学生の68.5%が肯定している(「とてもそう思う」+「まあそう思う」)のに対して、中学生では54.3%、高校生になると45.4%と、学校段階が進むにつれて低くなる結果がみられました」という。逆に、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という項目では、増加する傾向を示している。これは、おそらく子どもたちの社会観の変化だけの問題ではないと思う。

 東京学芸大学の山田昌弘教授の『新平等社会──「希望格差」を越えて』(文藝春秋/2006.9.15)は、9章の「教育格差──希望格差社会とやる気の喪失」というところで、「勉強という努力が報われない」という問題として、教育に対して、独特の見解を示している。

 学力低下の問題を、ゆとり教育による教育内容の削減や学校週五日制、学校の先生の教え方が下手になったなど、学校教育現場の問題のみに還元してはならない。いくら優れた教育プログラムを用意しても、いくら先生の教え方が上手でも、学ぶ側に学ぼうとする意欲がなければ効果は上がらない。逆に学校教育が不十分でも、塾や家庭で勉強すれば、学力はつくのである。はっきり言って、10年前まで、日本の生徒が国際的に学力が大変高かったのは、受験塾から補修塾まで様々なレベルの塾や家庭学習など、学校外の学習時間の多さによるものだったと思っている。すると、塾に行って勉強したり、家庭学習をしない子が増えたことこそが、学力低下の原因であろう。(『新平等社会』p240より)

 教員養成大学の教授の発言にしては、かなり大胆な発言だというべきである。しかし、わたしは、山田教授の意見にほとんど賛成だ。先ほどのベネッセ教育研究所の調査で見られた子どもたちの社会観が「学ぶ意欲の喪失」を見事に示している。

 学力低下という現象は、「教育という領域で勉強という努力が報われない」という状況が拡がったから起きた現象ではないのか。勉強してもしなくても将来が変わらないと思えば、勉強に身が入らないだろう。そして、勉強努力が報われないという状況は、一方で、実際に苦労して勉強してもその努力が無駄になり絶望感に襲われる若者も生み出しているのだ。
 戦後、高度経済成長を経て、1990年頃までは、「学校教育」は、希望の象徴だった。それは、あらゆる生徒にとって、「勉強という努力が必ず報われる」という勉強努力保障システムが構築されていたからである。(同上・p242)

 山田教授によれば、戦後教育は、優れた「パイプライン・システム」ができていて、学校のコースによって、生徒たちの将来をうまく決めていたという。そして、誰もがそれなりの努力をすれば、一定の幸せを達成することができたという。しかし、このシステムは、1990年後半ごろからのニューエコノミーの登場によってパイプの出口に変化が起きてきたという。ものを作って売るという工業が主流であった時代から、情報やサービス、知識、分化などを売ることが経済の主流になってきた時代への変化である。この社会では、将来が約束された中核的、専門的労働者と熟練が不要な使い捨て単純労働者へ、職業を分化させるという。

 工業高校を出ても正社員になれない人、女子短大を出ても企業一般職になれない人、文系大学を出ても上場企業のホワイトカラーになれない人、そして、大学院で博士号をとても、大学専任教員になれない人が溢れ出す。それが、さまざまなレベルでのフリーターの出現となって現れる。彼らは、学校が想定する職に就くという「ささやかな夢」さえもかなえられなくなっている。
 そして、重要なのは、パイプがなくなったわけではないことである。大卒だからといってホワイトカラーにならないということは、大学に行かなくてもいいことを意味しない。大学に行かなければホワイトカラーになることはもっと難しいと言うことである。これは学校教育のリスク化と二極化が起きたと言ってよいだろう。(同上・p248)

 こうした状況が、子どもたちの、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という意識となって現れていると考えてもよさそうだ。私たち(団塊の世代)が、就職した頃は、学校を卒業して企業に就職することによって、将来が保障されたのであり、逆に決まったレールに乗って生きていくことに閉塞感さえ抱いていたものだ。しかし、今では、そうしたレールさえ不確かなものとなり、競争に晒されている。便利で、都合の良い携帯を開発するものがいれば、その携帯を肌身離さずに持っていないと落ち着かない人がいる。ただ、現在では、携帯を開発すること自体も競争社会であって、生き残りが大変難しい状況になっている。誰が、勝者で誰が敗者かは、明日になってみなければ分からないというべきかも知れない。

 文部科学省の「人間力」から始まって、色々なところで、「○○力」という言葉が氾濫している。誰もが「能力」を鍛えなければならず、鍛えられて「能力」は常に競争に晒されることになる。若者たちは、老人たちと違って、「能力」をつけること自体が、自分たちの将来を決めることになる。それだけ、大きなプレッシャーになっているに違いない。そして、いま、「学力向上」という名の下に、「競争」そのものが白日の下に晒されようとしている。それは、はっきりしたという点からでは、いいことだと思われるが、本当に「学力」の向上に結びつくかどうかは、定かでない。なぜなら、学力の二極化は競争の結果であって、「学力低下」の原因ではあり得ないからだ。現在は、本当に、努力しても報われない時代なのであろうか。


教育再生会議

2007-01-28 22:01:39 | 子ども・教育

 新聞によれば、東京では18日に梅が咲いたそうだ。平年より11日早いという。こんなに早く咲いて、受粉の仲立ちをしてくれる昆虫は来るのだろうかというが当然の疑問ではあるが、そういうことを調べた人がいるそうだ。農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所の研修生の久保田博文さんは、華の前にビデオカメラを設置して、集まる虫の種類を調べたそうだ。そうしたら、色々な虫が集まるのだが、虫の数が少ないらしい。「早咲き不作」というのは、梅栽培のイロハだそうだが、教育再生会議の提言を読んで、この梅の花のような印象を受けた。

 「社会総がかりで教育再生を」という第1次報告を巡っては、色々な人たちがそれぞれの立場から意見を述べている。一番大きな声は、現場の実情をよく知らない人たちが作った作文だというものだ。確かに、現場の教師がほとんどいない。いわゆる、教育問題の専門家や評論家や大企業の経営者たちがそこにはいる。勿論、再生会議の裏方には、文部科学省の役人もいるわけで、全く的はずれというわけではないが、現場をよく分かっていないということはあり得る。しかし、現場を知らないからこそ何かを言えることもあり得るのであって、現場の困難な状況に直面して、にっちもさっちもいかない教師たちの何かの約立つことはあるかも知れない。

 しかし、書かれていることは、いずれも総花的で、今回の教育改革でそんなにたくさんのことができるのだろうかということは確かだ。いじめ問題や格差問題が強調されているので、見逃されがちだが、教育再生会議の提案の基本には、イギリス流の新自由主義的な教育改革の流れが透けて見える。グローバル社会の中で、世界的な「知」の世界の競争に勝ち抜くために、高度な専門的な人材や国際的に活躍できるリーダーを養成する必要があるという認識のもとに、競争原理を導入した学力向上への方向がしっかりと提案されている。

 「社会総がかりで教育再生を」という発想は、そもそも間違っている。現在の教育問題を現在の教育制度の問題としてとらえ、その教育制度をどのように変えていくのかが問題であり、今一度制度の問題を徹底的に検討すべきだ。制度の問題を論じるときに、制度を担う人間の能力の善し悪しを問題にしても仕方がない。そうした問題も含めて制度は作られているべきだからだ。また、制度のほころびを、「社会総がかりで」といってみても始まらない。なぜなら、教育制度は、「社会総がかり」でできないからこそ存在する制度なのだ。

 ところで、現在の教育問題の中心は、現在の教育制度が、現実の社会の動きに十分うまく機能できていないところにある。現在の社会の動きは、「競争」と「自己責任」ということであり、教育再生会議の言葉で言えば、「教育は保護者の経済力にかかわらず、機会の平等が保障されるべきであり、絶対に教育格差を生み出してはいけません。」という言葉に象徴されていると思われる。一応、頑張れば報われるということを言っているように見える。しかし、現在の教育理念と制度の徹底的な検討が加えられることなく、思いつき的に制度をいろいろいじってみたところで、現状が大きく変わるとは思えない。「競争と自己責任」は、理念ではなく現実の論理なのだ。

 私には、教育再生会議の提言通りに教育改革が行われたら、今より効率的で機械的な学校ができあがるだけで、楽しい学校などできるとは思えない。勿論、子どもたちは、学校で学ぶだけでなく、あらゆるところで学ぶのであって、学校が少々おかしくなったとしても、たくましく生きる可能性はある。なぜなら、常に子どもたちは、社会を鏡として生きてきたからだ。私たちの経験から考えても、学校の授業で学んだことは、現在の私たちの学力のほんの一部でしかないと思う。教科書を厚くして沢山教材を載せれば、学力が保障できるわけではない。私たちは、教科書以外から、たくさんのものを読んだり、学んだりしてきた。むしろ、こっそり隠れて読んだ本の中に私たちの心の中に響くものが沢山あったように思う。

 学校というのは、子どもたちにとって単に通過するところである。それ以上でも以下でもない。何かそれが深遠なことであるわけではない。深遠に見えるのは、そこによい教師や素晴らしい子どもたちが存在するからだ。通過する道は、厳しいこともあれば、優しいこともある。おそらく、学校というところは、通過するところに意義があるように思う。それは、同じ年齢の仲間と一緒に行動しながら学ぶという経験を通じて、競争や争いや、あるいはいじめなど、今後出会うであろう社会での問題の縮図を体験することができる。それが通過するということに意味である。

 いずれにしても、教育再生会議の提案は、現在のところ考えつくすべての教育改革の提案が盛り込まれているように見える。しかし、それがどうしたら実現するのか、あるいは、実現したら何が起こるのかという見通しは、定かではない。後は、安倍総理がどうこれを推し進めるかにまかされていると言っても良い。私は、論議をどんどんやって欲しいと思う。しかし、現在必要ななことは、思いつき的な提案ではなく、現状のしっかりした分析であるように思われて仕方がない。まずは、今年の4月に行われる「全国学力調査」によって何が起こるかが、今のところ、学校現場としては最大の問題であると思う。「塾に頼らなくても学力がつく」というのは、本当はどういうことなのかが問題だと思う。