いよいよ今年から小学校でも英語教育が始まった。一応「外国語活動」という名の下に行われるので、「英語活動」というのだそうだが、これは明らかに「英語教育」というべきである。教科でないのは、教科書がなく、教師もまた英語の指導の資格がないからだ。つまり、条件がまだ整備されていないので、暫定的に「英語活動」と読んでいるにすぎない。いずれ、環境が整備されてくれば、「英語教育」ということになると思われる。私は、少し前に出された、大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』(慶應義塾大学出版会/2004.7.31)を読みながら、それから5年後の世界がどうなったか考えてみた。
小学校での英語教育の是非については、かなり前から論議されてきたが、最終的には、産業界の要請と、インターネット等の発達にあわせて、国際標準としてのコミュニケーションの手段となってしまった「英語」の役割に押される形で、小学校から英語教育が導入されることになった。現在の学習指導要領では、英語は、総合に時間のなかで、「国際理解教育の一環」として位置づけれていたが、新しい学習指導要領の第4章に「外国語活動」が設けられた。そこに小学校英語教育の目標が明確に掲げられている。
外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうととする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う。(『小学校学習指導要領』第4章「外国語活動」より)
そして、この場合の外国語は、英語と指定されているし、解説書では、中学校英語の基盤づくりと明確に規定されている。さらに、今年度より、前倒しして「英語活動」の授業が始まっている。現在のところ、5年と6年に週一時間というに限定されているが、いずれ教科になって、中学年、低学年でも取り上げられるようになり、時間も増えていくのではないかと予想される。もちろん、こうした小学校英語の導入は、現在の英語教育の問題点、つまり中学、高校、大学と10年近く英語教育を受けても、ほとんどの者が、英語を話すことができるようにならないという状態を打開するものであるかどうかは、あまり関係ないと思われる。
むしろ、普通の人の場合は、ほとんど英語など必要ない生活だからだ。私の場合でも、英語の勉強を始めたのは、Webの世界に接するようになってからだ。おそらく、英語が必要な環境が増えてくれば、日本人でも必然的に英語を話すようになると思われる。そして、また、そういう時にどうしても英語が身につかなくて困るという人も出てくるに違いないが、それは小学校から英語教育をやったかどうかとはあまり関係がないのではないかと思われる。
私は、今年から始まった小学校英語教育にもし意義があるとしたら、それは経済的にまたは文化的に恵まれない子どもたちにも、英語に接する機会を作っているということだと思う。それ以上でも、以下でもないような気がする。日本人の英語の早期教育の是非については、ある意味では理論的な解決をみたというより、多数決で決まったということができる。これは、総合の時間ができたり、その前に小学校低学年で社会や理科がなくなって生活科ができた時とは、明らかに異なっている。
好むと好まざるとにかかわらず、ますますグローバル化している現代の社会にあって、英語は世界の共通語化しつつあります。その、コミュニケーションの手段を「気軽」に使用するためには、小さいときからの訓練が必要です。世界の原状をみても、理論的にみても、小さいときからの第二言語の導入が、母語の発達や子どもの人格の発達を阻害するという証拠は全くありません。小学校に英語教育を導入することを根拠もなく恐れてはなりません。(大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』・p81)
これは、まだ、総合の時間で英語活動が始まったばかりのころに述べられた早期英語教育推進派の慶応大学唐須教光教授の言葉だ。確かに、「母語の発達や子どもの人格の発達を阻害する」と脳科学的に証明されているわけはないが、阻害しないということが証明されたわけでもない。その意味では、実験であり、今後の膨大な実践によっていずれ検証されることになるに違いない。ただ、この唐須教光教授の言葉が、おそらく大勢をしめるようになったことだけは確かだ。その意味では、次の明海大学の和田稔教授の主張がとても興味深い。
現在のところ、文部科学省は細心の工夫を払って、過大な期待、大きな「夢」を売ることを避けています。ご存じのように、文部科学省によれば、小学校英語教育は「総合的な学習の時間」のなかで、「国際理解教育に関する学習の一環」として行うことになっています。そして、その目標は「児童が外国語(英語)に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりする」ことです。また、小学校英語教育は中学校の英語学習の前倒しになってはいけないと繰り返し警告しています。しかし、他方、「大衆」は文部科学省の細心の配慮とは無関係に小学校英語導入に「夢」を託しています。たとえば、小学校英語教育の開始で「英会話がペラペラになる」と期待している「大衆」が多いように思われます。>(同上・p127)
文部科学省は、いよいよ、「中学校の英語教育の前倒し」を始めたわけだ。ただ、現実は、お寒い英語教育の現状があるだけだと行っても過言ではない。 上記の本の中で、小学校への英語教育導入に対して反対している慶応大学の大津由紀雄教授は、国語教育というより、日本語教育と言うべきだと言いつつ、母語教育としての日本語教育と外国語教育としての英語教育は言語教育として連携すべきだという。その上で、言語教育の目的を3つ挙げている。
【目的1】言語の面白さ、豊かさ、怖さを学習者に気づかせる。
【目的2】言語は人間にだけ、しかも、人間に平等に与えられた、種の特性であり、個別言語間に優劣はないことを学習者に気づかせる。
【目的3】言語を使って自己の思考を表現し、同時に、他者の言語表現のいとするところを的確に判断することの大切さを学習者に気づかせる。
私は、「実社会に役立つ」ということを強調して、「確かな学力」を身につけさせることを最大の関心事にして改訂されようとしている新しい教育課程の危うさの中で、こうした指摘はとても大切だと思う。なぜなら、小学校に英語教育を導入したからと行って、「大衆の夢」が実現することなど、ありえないに違いないからだ。本当に社会に役立つ英語力を身につけた人たちは、学校教育だけでそれを実現したわけではない。彼らは、必要から、あるいは異文化への関心から英語力を身につけたのだ。
同じ本の中で、岐阜大学の松川禮子教授(当時・現在岐阜県教育長)が「公立小学校での英語教育の目的」について次のように述べているが、この言葉は、大津教授の言葉を踏まえた上で、多分、現在の小学校英語教育(活動)の基本的な理念にしていい言葉だと思われる。
それは、「外国語との付き合い方を教える」ということです。「付き合い方」には、言葉そのものとの付き合いと、言葉に対する偏見との付き合いも含まれます。英語を通して外国吾との付き合い方を教えるのですが、「上手い、下手」だけでない多様な英語との付き合い方、楽しみ方があることを伝えたいと思います。それが結局は「英語に慣れ親しむ」ことでもありますが、上手くなるためだけにそうするのではなく、英語と付き合うことが子ども自身にとって意味のあることに思えるような教育活動を創造することができたら、小学校で英語を教える本当の意義があるのではないでしょうか。そして、それが将来にわたっての長い外国語との付き合いの始まりになるのなら、本当の意味で一貫性のある外国語教育の一歩と言えるように思うのです。(同上・p43・44)
私は、個人的には、日本語と英語をともに学ぶということは素晴らしいことだと思う。特に、日本語と英語は、言語としてはいろいろな意味で対照的な関係になっているので、言語教育としてはぴったりではないかと思う。大津教授は、「外国語活動」がなぜ「英語」なのだとよく言っているが、私は、「英語」だからこそ面白そうだと思う。中国語や韓国語は、ある意味では、日本語できあがる時に多大な影響を及ぼした言語であり、日本語の学習の中で、私たちは中国語や韓国語を考えることができる。しかし、英語は、もっとも日本語から遠くに離れた言語だと思う。だから、面白い。やっと今頃、そんなことを考えるようになった。