電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ライブドア問題と政治

2006-02-26 22:50:15 | 政治・経済・社会

 ライブドアが有罪がどうかは、現在のところ不明である。もちろん、検察の捜査があり、これから裁判に入ると結果が分かってくると思われる。しかし、現段階では限りなくグレーではあるが、まだ実体は私たちには不明である。だから、私は、このブログで堀江さんやライブドアについてはほとんど推測で語るほかないので触れてこなかった。今回、国会で民主党の永田議員の行ったことは、ある意味では、マスコミと同じように、あたかも自分たちが裁判官になったかのように、堀江さんとライブドアを裁いたところから問題が起こったと言うべきである。

 ライブドアの事件は、凶悪な事件ではないが、きわめて現代を象徴している事件ではある。ライブドアの株を買って損をした人たちがいるが、彼らは最終的には、もし粉飾決算などがあれば、当事者たちを訴えて幾ばくかの損害賠償をして貰うほかはない。もちろん、それが可能かどうかは不明であるが。株で損をしたと言うが、多分、それまでは株でもうけていたはずだ。株というものは、全体が株価の上昇局面では、総体として儲かるし、下降局面としては総体としては損をすることになるはずだ。もちろん、それは全体としてそういえるだけで、個別には全く逆のことも起こりうる。そこのところは、いわゆる自己責任と言うことになる。

 私には、今回のライブドアの事件の核になっている部分では、暗い背景があるのだろうと推測するが、それは推測でしかない。むしろ、表面的な部分について言えば、堀江さんが検察に対して自分の行為が犯罪的行為だということをきっぱりと否認しているらしいというところが問題の核心のような気がする。つまり、堀江さんは、私には本当に自分のやっていることが悪いことだと理解していないような気がするのだ。企業というのは、もうけるために存在している。そして、もうけるために、彼は会計士や経理の専門家に相談して、儲けようとしたのがどこが悪いのだと彼は思っているだけのような気がする。そして、そのことが、こうした事態を招いた一番の要因のような気がする。

 もちろん、そのことが、法に触れるかどうかは、非常に微妙な状況だったに違いない。この間、堀江さんは、どんな場合でもきわめてグレーなところで勝負してきた。そして、マスコミや一部の人たちはそのことを閉塞していたベンチャー企業の新しい試みとして褒めそやした。しかし、ライブドアは、何か新しい価値を創造していただろうか。人々に役立つ商品を作っていただろうか。こうした問いは、本当はもっと早く出されるべきだった。彼らが創造したのは、細分化されたライブドアの「株式」である。小学生でも持つことのできる、「株式」である。私には、その細分化された「株式」が、あたかも子どもたちがのめり込んでいる「カードゲーム」のカードのように思われてならない。

 耐震偽装問題から始まった、一連の様々な疑惑や事件は、国会を揺さぶったが、今回の永田議員のメール問題でどこかへ行ってしまった。気がついてみれば、問題はすべて残されたまま、うやむやにされそうな感じだ。まるで、今年のトリノ・オリンピックの不振が、荒川静香の金メダルでうやむやにされてしまったのとよく似ている。もちろん、荒川静香の金メダルは、とてもよかったのだが。久しぶりに、美しい演技を見ることができて感動した。そして、こちらのほうは、まあ、うやむやになっても許してもよいと思った。というより、救われたような気がしたというのが本当のところだが。


『沖で待つ』

2006-02-19 11:49:25 | 文芸・TV・映画

 第134回芥川賞受賞作は、絲山秋子さんの『沖で待つ』という作品だった。私は、文藝春秋の3月号に掲載されているのを読んだ。これまでも意欲的に作品を発表してきた作家のようだが、私は絲山さんの作品は始めて読んだ。だから、この作品が彼女の作品の中でどのような系列に属するかは全く知らない。ただ、昨年までの芥川賞とは全く異質な作品であることは確かなようだ。彼女は、1966年生まれで、早稲田大学を卒業後、住宅設備機器メーカーに就職し、2001年に退職したというから、この作品は彼女のよく知っていた世界を素材にした作品であるようだ。しかし、今までの芥川賞を受賞した作品で、これだけサラリーマンとしてのふつうでありふれて人物像を描いた作品はないのかも知れない。

 主人公の「私」は、住宅設備機器の総合職に就職し、営業で全国を飛び回るいわばキャリアウーマンといってもいいのかも知れない。「私」と同期入社の牧原太(まきはらふとし)とよくある関係を描いている。よくある関係といっても恋愛関係なんかではなく、同期入社の関係である。入社早々に配属されたのが、九州の福岡である。戦争の時だったら、きっと戦友というのだろうな、というのが私の印象だった。二人とも東京の大学に入り、東京で大手の会社(全国にかなり大きな支社があるらしい)に入り、そのまま地方に配属されることになったわけだが、二人の出会いは、偶然であるが、二人はなんだか精神的につかず離れずの関係になる。

 牧原太は、福岡で社内恋愛をして、結婚する。数年後、彼は人事異動で東京に来る。そして先に埼玉に異動させられていた「私」とまた、再開することになる。そして、二人は、戦友のように、お互いの秘密がPCのHDDに隠されており、そのお互いのパソコンのHDDの中身をもし何かがあったら残った方にこっそり消して貰うことを約束し合う。当然、相手がそこに何を保存していたかは見ないことにして。二人は、そこに何があるか、あまり興味のない関係でもあるわけだ。気軽に約束したものの、そんな約束などきっと果たすようなことはないとたかをくくっていた「私」だが、約束を果たさなければならなくなってしまう。

 牧原太は、東京のマンションで出勤しようと出たところで、7階から投身自殺があり、直撃を受け即死してしまったのだ。何のミステリー性もないし、太が死ななければならない必然性もない。その死には、どう考えても何の「意味」もない。これほど無意味な死はない。そして、「私」は、会社で始めて泣き、泣き終わってから、かねてからの約束を実行することになる。「私」は、約束通り、死んだ牧原太のパソコンのHDDの中身を読めないようにした。そこに何が置かれていたかは、不明のまま。後日、牧原の奥さん(珠恵)に会いに行って、牧原が書いていた詩を見せられることになる。

珠恵よ
おまえは大きなヒナゲシだ
いつも明るく輝いている
抱きしめてやりたいよ

夕暮れおまえのことを思いだす
夕陽は九州に向かって沈んでいく
珠恵 珠恵 珠恵
夜になってもさびしがるなよ
俺の心はおまえのものだから(文藝春秋3月号p395)

 「私」はあまりに下手くそな詩にあきれつつも、「私」が消したHDDの中身はおそらく、こうした詩が一杯書かれていたことに思い当たる。ノートに書かれていた詩の一節に次のようなものがあった。

俺は沖で待つ
小さな船でおまえがやって来るのを
俺は大船だ
何も怖くないぞ(同上・p396)

 この詩の「沖で待つ」というのがこの作品のタイトルになるわけだが、下手な詩だけれども妙に心に主人公の「私」の心に残る言葉だった。

 太っちゃんはわはは、と笑って、
「ばかな一生だったなあ」といいました。
「同期って、不思議だよね」
「え」
「いつ会っても楽しいじゃん」
「俺も楽しいよ」
……中略
「楽しいのに不思議と恋愛には発展しねえんだよな」
「するわけないよ。お互いのみっともないとこみんなしってるんだから」(同上・p400)

 私とは、ちょっと理解の仕方が違うような気がするが、「同期」という関係が特殊な関係であることは分かるような気がする。それは、ある種の時代の共有感だと思う。ある種の時間と空間を一緒に過ごしたという偶有性とでも言えばいいのかも知れない。この小説の初めと終わりに書き留められている、死んでしまった太と「私」とのメルヘン的な会話は、何の必然性もなく死んでしまわなければならなかった太の「死」に対する作者の「鎮魂歌」なのかも知れない。なんだか、それだけが妙にリアリティーがあり、それ以外のところは、なんだが、すぐに忘れてしまいそうな印象なのだ。

 3年ほど前、私の大学の後輩が、9階建てのマンションの屋上から飛び降り自殺をした。幸い、だれも巻き添えを食ったものはいないが、場合によっては誰かを殺していたのかも知れない。死というのは、おそらく、自分の問題ではないのだ。彼のほうは、牧原太よりもう少し文学青年で、それなりの作品を書いていて、西行法師の命日に、西行法師に憧れてか、覚悟の自殺をした。もちろん、彼の言動や友だちからの印象では、生きることへの悩みなど読み取れなかったらしい。もちろん、彼の残された作品からいろいろ邪推することは可能だ。人は、誰かの「死」に出会うと、必ずその「死」の意味を考え、物語を紡ごうとする。しかし、「死者」は、何も語らないし、何も意味しないものらしい。

 私の野次馬根性からすれば、牧原太の上に投身自殺をした人間がどんな人間で、なぜ自殺などしたのか、そして彼は死んでしまったのかどうか、知りたくなる。しかし、『沖で待つ』の「私」は、それらについては、興味がないらしい。戦友は、年を取り、一人一人と死んでいく。そして、いずれ残された自分も最後は死ぬ。私の大学時代の同級生も、何人か死んだ。いつの頃か、そういうものだと諦めつつある自分に愕然とすることがある。会社の中でも、私より若い者が何人が死んだ。一時、噂と邪推で職場で話題となるがやがてそれらは風化し、忘れられていく。

 毎日、新聞をにぎわしている殺人事件には、動機があり、その社会性が新聞等で話題になり、ある種の物語を紡ぎ出すと、やがて忘れられていく。そうした物語は、たとえ忘れられていくとしても、おそらくそれなりの時代の象徴になった物語だと言うこともできる。絲山秋子さんは、決して時代の象徴になどなることのない、惨めな殺人事件(自殺した人に殺されたことになる)に巻き込まれ、ほとんど無意味に死んでしまったサラリーマンとのさめた心の交流を敢えて描くことによって、現代の賑やかな事件を相対化したかったのかも知れない。


ネット碁は脳を活性化しない?

2006-02-12 21:51:38 | スポーツ・ゲーム

 夕方、NHKのニュースを見ていたかみさんが、読書していた私に、わざわざ言いに来た。「囲碁は、脳の前頭葉を活性化するにはとてもいいゲームなんだってよ。でも、パパみたいにインターネットでやっているのはダメなんだって。相手と向き合ってやる囲碁がいいらしいよ。」 このニュースは、9時少し前のニュースでもう一度流れていた。囲碁教室に通っている小学生が実験に参加し、光トポグラフィという装置を使い、赤外線を使って脳の血流の状況を測定して、対局中の脳の働きを調べたのだそうだ。実験は、東北大の川島隆太教授らの研究グループによるものらしい。

 私は、休みにの日に2局か3局くらい、インターネットで囲碁をする。テレビゲームをやったことがないせいか、まだなれないけれども、まあ、成績は勝ち負けが五分五分の状態だ。つまり、半年ほどやったけれど、ほとんど進歩していないということになる。ネット碁では、対局の勝ち負けでポイントを取ったり落としたりして、その結果一定のポイントを取れば、昇級・昇段することになる。その辺は、コンピュータの計算ですぐ結果は出るのだが、あがるためには勝ち越さなければならない。同じであるということは、棋力があまり上がっていないということになる。

 後ほど、ネットでNHKニュースを調べてみたら、「囲碁で脳の前頭前野が活発に」という記事があった。

実験には、囲碁教室に通っている9人の小学生が参加し、赤外線を使って脳の血流の状況を測定する光トポグラフィという装置を使って、対局中の脳の働きを調べました。その結果、創造性や感情抑制などをつかさどる大脳の前頭前野といわれる部分に血液が多く流れ、対局中は、この部分が強く働いていることがわかりました。前頭前野の活動は終盤よりも序盤や中盤が活発で、難しい局面になると活発になる傾向があったということです。また、パソコンでコンピューターソフトを相手に対局した場合は、碁盤を使って人間と対局した場合に比べて活動の程度が低いこともわかりました。

 ひょっとしたら、私の棋力が伸びないのは、ネット碁しかしていないからかも知れない。現在、プロ棋士たちは大抵、ネット碁をしているし、ここで勉強もしている。しかし、彼らはもちろん、現実の対局も沢山こなしている。これは、将棋の世界でも同じで、今の若い人たちはほとんど、囲碁や将棋の勉強はパソコンを使ったり、インターネットを使ったりして鍛えてきたらしいが、それだけで強くなったわけではなく、現実の対局のための勉強として、そうした機器を使っているわけで、ネット碁だけではダメなのかも知れない。

研究グループは今回の実験結果を詳しく分析して、前頭前野の中でも何にかかわる部分がより活発に働いているか調べることにしています。東北大学の川島隆太教授は「囲碁を打つことで、前頭前野が強く働くことが初めてわかった。特に人間相手にコミュニケーションしながら楽しんで打つとより効果が高いこともわかり、教育に生かすことができるのではないかと考えている」と話しています。

 ここでのポイントは、「人間相手にコミュニケーションしながら楽しんで打つ」ということが大切だと思われる。これがなぜなのかは、私にはよく分からない。同じことは、おそらくいろいろなゲームについても言えるに違いない。つまり、ここでは暗に、インターネットやパソコンでのいわゆるテレビゲームについても、ある意味で同じことを言っているように思われる。囲碁や将棋だけではなく、ほかのゲームもインターネットやパソコンで行われている。それらのゲームも本当は、目の前に相手がいて、コミュニケーションをしながらできたらきっとそれなりに前頭葉を活性化させるのかも知れない。

 川島隆太教授が脳の働きに効果があるというと、それなりに皆がなびくところがあるので、ひょっとしてまた囲碁の流行に火をつけることになるかも知れない。しかし、本当は、囲碁だけではなく、いろいろなゲームについて調べるべきだと思う。もともと、ゲームというのは、頭を使うものだ。つまり、人間の脳の方がゲームに適していると言うべきかも知れない。そもそも、人間の脳がゲームを発明したのであって、多分自分の脳の働きに似せて作ったに違いない。人間以外の動物はゲームなどしないと思われる。前頭葉が働いているというのは、いわば脳がゲームをしているといってもいいかもしれないのだ。もちろん、脳が働かないゲームもあるのかも知れないが。

 いずれにしても、前頭葉を働かし脳を活性化させるためには、パソコンやインターネット相手のゲームより、人間相手のゲームの方がいいというところは面白い結論だと思う。おそらく、人間相手にゲームをするときは、私たちはすべての感覚を使って情報を仕入れている。つまり、身体全体で感じ、考えているともいえる。それが、本当のコミュニケーションなのだと思う。モニターの向こう側には、だれがいるのか、本当は私たちには、分からない。ひょっとしたら、私たちの相手は、単なる機械かも知れない。相手が人間であるかどうかは、多分、私たちが身体全体で関係したときにしか分からないのだと思われる。身体全体で関係したときには、ほとんど直観的に相手が人間だと了解されるのだと思われる。


株をやる子どもたち

2006-02-05 21:32:24 | 子ども・教育

 今回のライブドア事件でかなりの数の子どもたちがライブドアの株を買っていたらしいことが分かって、私は愕然とした。しかも、その範囲は、小学生までも含まれているらしい。学校でキャリア教育や金融・経済教育を行わなければいけないという話は新聞でも話題になったし、これからの教育改革の中でも言われていることだ。大人がライブドアの株を購入し、今回のライブドア事件の結果株価が暴落して損をしたというのは、ある意味では自己責任の問題ではあるが、これらの子どもたちの場合は、単なる自己責任ではすまされない問題でもありそうだ。もちろん、それは、子どもの責任ではある。しかし、おそらく、それは、大人たちの責任だといったほうがいいに違いない。

 インターネット専門のマネックス証券は、未成年でも口座を開け、現在のところ、小中学生が名義人の口座は約2300件だという。朝日新聞の記事によれば、学校で株の取引を教材にして経済の学習をしているらしい。

「株式学習ゲーム」は、仮想所持金1千万円を運用して、実在の東証一部上場企業の株を売買する教材。値動きを予想するため新聞などで情報を集めるうちに、経済や市場の仕組みを学べるという。95年度の開始以来、金融・経済教育の拡大に伴って導入校は増加し、04年時点で1351校、生徒数は約7万人に上る。(平成18年2月5日朝刊より)

 「株式学習ゲーム」は、ゲームとしてやっているうちは面白いに違いない。しかし、株式というのは経済の教材として適切かどうか考えているのだろうか。大人でさえ、毎日のように、株式や先物取引など金儲けの誘惑になかなか抗しがたい時代である。つまり、株は、投資の対象であると同時に、投機の対象でもある。株は投資として持たないかぎり、必ず損をする人ともうける人が出てくる。投資と投機では全く異なる活動である。ライブドアの株を購入した人たちはいわゆるデイトレーダーが多かったというが、それはつまり、株を投機の対象として考えていたということだ。

 株というのは、もともと株式会社が投資を募るために発行した有価証券である。つまり、株は本来は投資のために買うべきものである。しかし、現在では主として投機の対象となっていて、そのために企業の業績を的確に反映しているとは限らない。つまり、株も一種の商品となっているのであって、しかもきわめて商人資本主義的な商品である。「安く買って高くうる」というのが、株の世界の論理だ。しかも、今回のライブドアのように、株の発行時価総額を世界一にしたいという企業のような存在があれば、更に企業の業績とはかけ離れていくことになる。ライブドアは、株式の分割を何度も行い、市場での取引を1株数百円単位で行えるようにした。個人投資家が22万人という数字が示しているのは、そういうことだ。

 株とは違うが、インターネットのオークションが流行っている。このオークションは、確かに一種のリサイクル市場だと言えないことはない。しかし、ここでも単なる中古品市場とは異なった論理がオークション全体を支配している。つまり、そこに出品される品物もやはり商品なのだ。だから、売る方は、少しでも高く売りたいし、買う方は少しでも安く買いたいと思っているはずだ。特に、子どもたちに人気なのは、レアもののカードである。先日も、私は甥に、ムシキングのカードを頼まれた。「いま、ヤフーオークションで○○○円で出ているので買って欲しい」というのだ。もちろん、私は断った。しかし、子どもの間でそういう情報が飛び交っていることに驚いた。

 子どもたちは、確かに、既に社会の中の一員として、経済活動を営み始めている。私たちが貧しかった頃、新聞配達をしたり、農繁休暇があったりした。それは、家計が貧しかったからだ。少しでも家計を助けるためにそうした。今でも、そういう子どもはいるに違いない。しかし、インターネットで株を買ったり、オークションでカードを買ったりする子どもたちが、家計を助けるなどという発想があるとは思えない。あるのは、もうけたいという気持ちだと思う。ライブドアの堀江貴文さんは、「人の心も金で買える」という意味のことを言ったそうだが、確かに商品化されたものは何でも金で買える。つまりどんなものでも、商品化されれば私たちは、金で買うことができる。しかし、あくまでも、「商品化されれば」という条件が付いている。

 学校で教えるべきは、株を買ってもうけることではない。どんなものなら「商品化」が可能で、どんなものを「商品化」してはいけないかということだ。特に、現在のようなサービス産業が大きな分野を占めるようになると、「商品化」という自体がとても難しくなってくる。人々が快適に過ごせるようにある人がつくすというサービスの場合、それは当然「商品化」される。居心地のよい空間とはつまり一つの商品化された空間であり得る。ディズニーランドでは、そうしたサービスを提供してくれる人たちがたくさんいる。それらは、「商品」としてのサービスだ。しかし、子どもたちはそういうことを商品としてではなく、無償の行為としてやって欲しい。

 家でお手伝いをして、お小遣いを貰う。まあ、ある程度労働をした対価としてそれは多少は認めてもいいと思う。しかし、いい点を取ったからといって、お小遣いを与えるのは行き過ぎだろうと思う。確かに、彼らは勉強することが一種の子どもにとっての「仕事」だと思っているところがあるので、大人が働いて金を貰うように、勉強したらお金をもらって当然だという考え方をする。しかし、経済の論理を教えようと思ったら、本当はお金というものは何らかの商品の対価として支払われるものだと教えるべきだ。そう考えれば勉強するということは決して商品化されない行為だということが理解できるはずだ。

 私たち人間は、「社会の一員としての人間」と「個人としての人間」と「家族の一員としての人間」というそれぞれの役割を演じている。学校教育は、そうした人間の特質のうち特に「社会の一員としての人間」を主として育てている。もちろん、これらの人間性は綺麗に分かれているわけではなくて、いろいろ絡み合っている。そして、「社会の一員としての人間」ということは、人間の社会的活動に関わることであり、経済活動と深く関わっている。だからといって、経済活動のシュミレーションが妥当な教育だということにはならない。子ども時代は、やはり「無償の行為」というものの存在を教えるべきだと思うし、それには理屈などいらないと思う。また、買うためのお金は働いて稼いで貰いたい。