「新潮」1月号で、水村美苗さんと梅田望夫さんが「日本語の危機とウェブ進化」という特別対談をしている。これは、もちろん、水村さんの『日本語が亡びるとき』という本を巡る最近の動向を踏まえて、新潮社が企画したものだと思われる。そしてそれはよく分かる企画であり、私は私なりに二人の言説に納得した。納得はしたが、「日本語とは何か」ということについては、欲求不満になったことも確かだ。二人とも日本語については、かなり高く買っているらしい。二人とも、英語圏に行きながら、現時点では自分の表現の場を日本語圏にしている。それが、おそらく彼らの日本語への評価ということだ。
梅田 先ほど水村さんは人類的ミッションとおっしゃいましたが、たしかに日本語ほどすごい言葉というのは、なかなか見つけづらいなと……。
水村 おもに書き言葉ですけどね。
梅田 日本語の書き言葉というものが、歴史の中で培われてきた、その貴重さに目をむけないといけませんね。だから、日本語を守らなければならないというお話に、とても共感しました。なぜ日本語で書くのかを考えたとき、論理だけならば英語でもいいかなと思うのですが、日本語は工夫すればいろいろなことが表現でき、伝えられる。(「新潮」1月号p352より)
どんな言語も、おそらく母語を使うものから見れば、いちばん自分の気持ちを表現できる言葉であることは確かだと思われる。しかし、それはそれ以上の意味はない。本当に、いろいろな言語を比較した上で、日本語が優れた言語であることが証明できるかどうかは、今のところ不明である。とするならば、水村さんや梅田さんが日本語で書こうとしたというのは、おそらくは、日本の読者に向けて表現しようと思ったからである。彼らははっきりとか、暗黙のうちにかは分からないが、日本人に向けて、あるいは日本人とともに考えてみようと思ったのであり、日本語で表現するということは、それ以外の意味はない。つまり、水村さんが日本語の小説を書き、梅田さんが日本語の評論を書いたのは、日本人に向けて何かを伝えようと思ったからに違いない。
ところで、ここでの二人の対談で初めて言及された次の二つのことにとても興味を持った。その一つは、パブリックということであり、もう一つは、良くも悪くも、日本語圏の大きさということである。前者についていえば、たとえばインターネットの世界とは、あくまでもパブリックな世界として出発したということが大事なことであるように思われる。インターネットの世界とは、いわば公道なのだ。だから、その道路上では、私たちは、パブリックな世界での振る舞いをすべきである。そして、パブリックな世界であるからこそ、普遍語=世界語という概念が生まれてきたのだと思われる。というのは、その公道には、国境がないからである。
しかし、商業資本がインターネットに関わりだしたときから、インターネットにプライベイトな世界が持ち込まれたといっても良い。インターネットの世界でビジネスが始まったときに、個人的な消費が問題になったのだ。そして、それは、プライベイトな世界の出現でもある。本来、商品というものは不特定多数のものであり、誰でもが消費できるものである。それこそ、普遍的な使用価値を持っているのだ。そうした、プライベイトな世界が、インターネットの公道上に店を出していると考えるとわかりやすいかもしれない。そして、インターネットの世界がいわば公道上であるからこそ、そこでビジネスが可能になるということは、あまり気がついていないように思われる。
インターネットの世界は、パブリックな世界であるということは、どれだけ強調しても強調しすぎることはない。それは、現実世界についても同じことだ。私たちは、パブリックな世界の中に、プライベイトな世界を作っているのに過ぎないのだ。地上がそうであるように、部分的に眺めてみれば、どこも私的な世界のように見えるけれども、あるいは、私企業がそのネットワークの大部分を担っているように見えるけれども、トータルとしてみた場合は、インターネットの世界も地球上の現実世界も、パブリックな世界として私たちに現れているのだ。
ところで、公道には国境がないにもかかわらず、言語的な集落はあるのである。それが、日本語的な集落である。そして、この日本語の集落は、ほぼ日本という国に重なっているのだ。そればかりではなく、この日本語の集落は、いろいろな意味で、便利な大きさなのだ。たとえば、日本語の小説を書いたとして、ある程度売れれば作家は十分食っていける市場でもあるのだ。あるいは、日々の生活をしていく上では、日本語だけでも十分やっていける広さでもある。
梅田 日本語について専門的亜に物申すほどの知見も教養もないのですが、僕が思うのは、日本語・日本人・日本という国土、その三つが完璧に三位一体になってしまって、人口でも経済規模でもかなりのサイズだというのは、おそらく日本しかない、ということです。まあ、小さな国にはそういうところもあるでしょうが、日本ほどの規模を持った国では、他にない。それでサイズが大きいだけに、逆にグローバリズム性が完全に失われている。このことへの危機感を、ビジネスで仕事をしているなかで抱くことがとても多いんです。(「新潮」1月号p350より)
これは、おそらく、普通の人たちが、日本語の危機など少しも感じない理由のいちばん大きな理由である。しかし、日本が、今までのようなに比較的相対的に自立して生きていけた場合はそれでも良かったけれども、これからのグローバル化した時代では、おそらく否応なく世界の混乱に巻き込まれていくことになるに違いない。現に、アメリカの金融危機に端を発した世界的な金融危機は、私たちの身の回りの生活にも影響を与え始めている。目に見えない知の世界では、グローバリゼーションの影響は計り知れないと考えてほうがいいと思われる。私たちは、そういう時代に生きているのだ。その意味では、これからも、日本語と英語の確執は続くに違いないと思われる。