電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ダ・ヴィンチ・コード』

2006-05-28 20:00:15 | 文芸・TV・映画

 遅ればせながら、角川書店の文庫本で『ダ・ヴィンチ・コード』(上・中・下)を一気に読んだ。残念ながら、映画はまだ見ていない。カンヌ映画祭では、不評だったそうだ。カトリック信者からは、抗議行動が起こり、あちこちで話題になった。映画としての興行成績は、『スターウォーズシスの復讐』に次ぐ売上だということなので、大成功だったのだろう。映画については、よく分からないが、本はとても面白かった。事件は、ほんの一瞬の出来事である。そのわずかの時間の間に、いろいろなエピソードが散りばめられ、事件の解決と、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した謎の作者の解釈が明らかになる。

 この本については、既にthessalonikeさんの「世に倦む日々」というブログに長い論評がある。とても参考になるが、本を読む前に読まない方がいいのかもしれない。本を読んでからこのブログを読むと、なるほどと思う部分と、何となく不満な部分があることに気づく。私は、thessalonikeさんとは違って、サスペンス小説として素直に読むことができた。ところで、この素直に読めたのは、映画が上映される前日に、テレビでダビンチ・コードに迫る特別番組があり、それを見ていたからかも知れない。本に出てくる、場所、遺跡、寺院など、想像力だけではちょっとついて行けない世界が映像として示されていて、私は本をスムーズに読むことができた。この特番は、映画を見るときの参考になるかどうかは不明だが、本を読むときにはとても参考になった。

 つまり、私は、レオナルド・ダ・ヴィンチが残したと思われる謎のほうは、既に知っていてこの本を読んだことになり、殺人事件のミステリーのほうに惹かれながら読んだので、スムーズに読めたのかも知れない。この本では、二つの大きな謎を巡って物語が展開されているが、それは本当は別々の謎である。もちろん、ひとつの謎が殺人事件まで起こすのでそれは必要な謎ではあるが、本を読むときにあまりに大きな謎を二つも提示されると、まごついてしまうことになる。おそらく、そのことが表現の奥行きにではなく、謎の奥行きになってしまったのだと思われる。

 私は、キリストに対して、「神の子イエス」というより「人間イエス」という観点から接してきた。そういう意味では、イエスもまた、イスラム教のマホメットのように、一人の予言者だったと考えていたことになる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、元々同じところから生まれてきた別々の宗教である。そして、それは、宗教というものは、その担い手によって、これほど変化するものだと言うことを教えてくれる。「ユダヤ人にとっての法」については、塩野七生さんが『ローマ人の物語──悪名高き皇帝たち(2)』(新潮文庫18巻)の「ローマ人とユダヤ人」という章で面白いことを言っている。

 ユダヤ人にとっての「法」とは、モーゼの十戒のように、神が与えたものを人間が守るのが法なのである。実際はモーゼが岩陰かどこかで石片に彫りつけたものを人々の前に示し、神の意志ゆえに守らねばならぬと言わないと納得してもらえなかったかだだろうが、神が与えたものとなった以上、人間ごときが変えてはならないのである。
 一方、ローマ人の考える「法」とは、人間が考え、それを法律にするかどうかも、元老院や市民集会という場で人間が決めるものなのだ。ゆえに、現実に適合しなくなれば、改めるのに不都合は全くない。(塩野七生著『ローマ人の物語』18巻新潮文庫p162より)

 これはユダヤ人とローマ人のちがいというより、ユダヤ人の場合は宗教なのであって、ユダヤ人の「法」は、ユダヤ教だけではなく、イスラム教やキリスト教でも同じはずである。キリスト教徒になる前のローマ人は、多神教の世界に住んでいるのであって、我々日本人とよく似た思考をしている。普通、「信仰の自由」ということが保障されている国では、宗教の戒律とは別に、「法」が定められていて、その方はそこに住む人間が共同で守るべきものとして立法される。宗教の世界では、それが逆転して、「法」は神が与えて、人間が守るべきものになる。いわば、民主国家とは、いわば国家そのものが、多神教の宗教を信じている世界なのかも知れない。

 それは、とにかくとして、私たちは、聖書の研究がいまどんな状況にあるのかをこの本を読むことで理解できる。『ユダによる福音書』が発見されたという話もある。こうした新しく発見された文書を解読し、原始キリスト教の姿がだんだん明瞭になり、人間イエスの真の意味での革命性がはっきりしてくることは、宗教というものの存在意義を高めこそすれ、決しておとしめるものではないと思う。私たちは、ユダヤ教やイスラム教などの世界と同じように、キリスト教の世界でも、女性と性はいつも蔑まれてきたことを知っている。本当はそうではなく、イエス・キリストこそ、女性と性を本当に理解していたという説は、あながち嘘ではなさそうだということは理解できた。

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蛍光眼底造影

2006-05-21 17:11:28 | 生活・文化

 「網膜中心静脈分枝閉塞症」と診断されて、19日に「蛍光眼底造影」の検査を受けることになっていた。今週は、栃木県と岐阜県に泊まりの出張があり、かろうじて19日の金曜日が空いていたからだ。しかし、仕事でPCを長く見続けたり、通勤電車内での読書をしたりと眼を酷使したせいか、肩こりが激しく、血圧も上がり、出張中もあまり酒を飲むこともできなかった。とにかく、会議に出ているだけで、頭痛がしてくるのだ。こうした症状は、東京の練馬区から埼玉県飯能市に引っ越しをしたすぐ後に一度経験をした。つまり、1時間以上の通勤電車内というの格好の読書の時間となるのだが、それが眼を疲労させるらしい。で、19日も、肩こりと頭痛があり、検査に行く前に体温と血圧を測ると、体温は36.7度と微妙に高く、血圧は110~160とかなり高い。検査は大丈夫だろうかと不安になった。

 総合病院の受付で、眼科の予約を確認し、「少し血圧が高いのですが」とたずねると、受付の女性は、「それは、眼科に行ってから相談してください」と言った。受付をすませてから、眼科の診察室の前の廊下で待っていると、眼科の看護婦さんが、瞳孔拡張剤を点眼しにきた。その時に、「少し血圧が高いのですが」とたずねると「どのくらいですか」と聞かれた。私が正直に答えると、「そのくらいなら大丈夫だと思います」という返事だった。そして、「しばらくしたら、もう一度点滴の準備をして、血圧を測りますから、その時検査医師の人と相談してみましょう」と言う。

 準備室に連れて行かれ、そこで血圧を測った。最初は、100~160だった。「少し高いですね。普段はどのくらいですか」と聞かれる。私の場合は、薬を毎日飲んでいるが、普通は85~135くらいが多い。その時が、多分一番安定しているときだ。「ちょっと休憩してから、もう一度図ってみましょう。深呼吸してみて下さい」と言われて、大きく2度深呼吸をした。そして、2,3分後にもう一度図ると、不思議なことに84~140になっていた。それでも、看護婦さんは検査医師に相談してきてくれた。そして、「もしどうしても不安なら日を改めてもいいですよ」と言われた。しかし、休みまで取ってここまで来たのだし、実際血圧も下がっているので、私は「お願いします」と言った。

 右手に点滴の準備をし、検査室にはいる。検査室には、眼科の担当医師、検査技師、助手のような若い女性が2名、そして先ほどから私に点滴の準備をしてくれた看護婦の五人の女性が私に付き添ってくれることになった。私は、右手から少しずつ蛍光造影剤を入れられ、左目の眼底の写真を撮られた。はじめは、少しだけ造影剤を入れて、気持ち悪くならないか確認をし、何枚か撮影されたが、大丈夫だと言うことで、必要な分量投与されることになった。5分くらいの休憩を入れて、約20分くらい撮影された。私は、言われるままに、眼を動かしただけだ。眩しいだけで痛みなどはない。すぐ目の前に、モニターがあり、そこに私の眼底の写真が映し出されていたが、眼鏡を取った右目からではよく分からない。

 担当の医師は、「綺麗ですね」と言った。その「綺麗」という意味が、私にはよく分からない。蛍光造影剤の効果のことを言っているのか、眼底の出血の状況を言っているのか、それともその両方なのか。何枚か撮影された写真がプリントアウトされた。先ほどの若い助手のような女性が一枚ずつ写真を貰った。そして、「とても綺麗でよく分かります」という。ひょっとしたら、彼女たちは、勉強に来ているのかも知れない。私は、内心、「それは、私の写真であり、私の了解は必要ないのだろうか」と思った。まあ、素直に感動している彼女たちにそんなことを言う気はなかった。しかし、私の内臓の写真には肖像権のようなものはないのだろうかと疑問になった。その写真は、なんだか私の秘められた一部を写したもののような気がしたからだ。

 蛍光眼底造影は無事終了し、担当医師の判断としては、詰まっていた血管は血液が流れるようになっているし、出血は拡がっていないので、しばらく様子をみましょうという。そして、大学病院の先生が定期的に来るので、その時に検査結果を見せて、もう一度診断して貰うことになった。「私は、普段どうしていたらいいですか」と先生に聞いた。つまり、治療の指示がないので心配になったわけだ。医師は、「これは内科的な治療になりますね。つまり、血圧を下げること、動脈硬化を起こさせないことが大事で、そのためには生活習慣病の治療と同じですよ」と言う。そして、「ひょっとしたら、こういう状態で終わったのは、いま高血圧と狭心症の治療を受けて、薬を飲んでいるということのおかげかも知れませんね」と言った。

 眼底出血が起こると言うことは、脳で出血を起こせば、クモ膜下出血になったり、脳梗塞になったりする可能性もあるわけだ。とても、重苦しい診断だが、既に部分的には出血が起きている可能性もある。私のこの左目のように、たまたま、検査があり発見されたが、そうでなければ、視力も落ちたわけではないので、自然に治った場合は見遁されてしまうことにもなる。最近、時々頭痛が起きるが、それは肩凝りだけのせいではないかも知れない。しかし、大事なことは心配することではない。生活習慣を改良することだ。私は、とても難しい手術を覚悟していたので、ほっとした。

 今日の検査について、夕方妻に報告した。妻は黙って聞いていたが、しばらくしてから言った。「あなたは心配性なのよ。だから、病院で深呼吸すれば血圧も下がるのよ。そこだったら安全だからね。あまり気にしすぎるとそれだけで血圧が上がるわよ」それは、なんだかとても冷たいような言い方だったが、妻なりに喜んでいるような気もした。いずれにしても、彼女なりにほっとしていることだけは確かなようだった。しかし、体の管理というのはとても難しいと思った。気にしすぎてもいけないし、そうかといってある程度気にしていないと、どうしても管理できない。時々妻が、「気のせい、気のせい」と私に言うが、それは私に対する、いたわりだと理解しておこうと思った。その日は、私はとてもおおらかな気持ちになったことだけは確かだ。

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眼の酷使ということ

2006-05-14 21:54:35 | 生活・文化

 自分が病気になると、気分が萎える。途端に弱気になる。これは、多分年のせいに違いない。健康診断の結果、左眼が眼底出血をしていることが判明した。私は、3年ほど前にその左眼が「網膜裂孔」いう「網膜剥離」の一歩手前の状態になり、レーザー治療をしていて、6ヶ月おきに治療後の検査を受けている。そして、13日が丁度検査で、「網膜中心静脈分枝閉塞症」と診断され、19日に「蛍光眼底造影」の検査を受けることになった。前にも注意されていたことだが、かなり前に網膜で小さな出血が起きていて、今後も起きる可能性があるといわれていた。高血圧であり、動脈硬化が起きていることになる。

 仕事柄、私は脳と眼を一番使う。最近は、パソコンを使うので、とても目が疲れやすくなっている。その上、ネット碁などをやると、かなりの時間PCに向かうことになる。高血圧の先輩に囲碁をするとかなり血圧があがるよといわれていた。特に、かっかしてやるとよけいに血圧が上がるらしい。人と向き合って、囲碁をしていると何となく心穏やかになり、勝っても負けても楽しいのだが、ネット碁の場合は、ほとんど機械相手の勝負であり、負けると言うことはかなりいらいらさせられる。特に、打った直後にしまったという場合は、よけいに悔やまれる。そんな時、おそらくかなり血圧が上がっていると思われる。

 高血圧とか、眼底出血とか、前から注意されていて、自分の生活習慣をかなり変えていかないと改善されない病気なのに、ある程度安定してくると、すぐ生活が元に戻ってしまう。カロリーを抑えめにして、コレステロールが溜まらない食事をしたり、昼休みにはPCを消して、散歩をしてみるということは、前にはやっていたのだが、いつの間にかルーズになっている。一種の個人的な危機管理能力の欠如なのかも知れない。また、これから、少し生活習慣を変えていきたいと決意してみたが、それが後の祭りにならないことを祈っている。

 もちろん、脳も体全体を使うことによって活性化させるべきで、PCに向かって得た情報を基に色々考えるだけでは、退行していってしまうはずだ。私は、小学校に通う息子に向かっては、自分でノートに書いたり、大きな声で本を読んだり、そのほかいろいろ体を動かして勉強することを進めているが、自分たちの仕事も、同じだと思う。それは、脳を活性化することを通して、仕事ができる脳を作ることができるのだ。メモを取りながら話を聞くという活動は、かなり高度な活動だ。話を聞くという活動と書くという活動をほとんど動じ並行的に行わなければならない。いわゆる「ワーキングメモリ」を活用しなければならないわけだ。

 最近いろいろな会合に出ていて、自分がメモを取るのが下手になったことがよく分かる。というより、上手くメモが取れなくなっているような気がするのだ。そして、その分話の内容もうろ覚えになってしまっている。後で、思い出して報告書などを作成するときにどうしても思い出せなくなっている自分に気づいて愕然とすることになる。そのくらい私たちは、PCに依存しているらしい。自分の手で書くという行為は、PCのワープロソフトなどを使って書くこととは本質的に違った脳の働きであるような気がする。いずれにしても、こうした状態では、仕事だって能力が落ちるに違いない。

 最近では、日記などは、もちろんPCで書くのが圧倒的に多いと思う。そして、それらがブログになったりする。ノートに毎日日記を書くという作業など、あまりやらなくなっている。それは、本当は、私たちの脳の活動の仕方をダメにしているに違いない。もう一度、ノートの書く日記や、メモなどを見直す時期にきているのかも知れない。ただ、仕事は、いずれにしても最終的にはPC上のデジタルデータにしていく場合が多いので、紙に書くということは作業効率はきわめてよくないのだが、結果的には脳を鍛えるということなり、そのことは最終的にきっと『ひらめき脳』(茂木健一郎著・新潮新書/2006.4.20)を作る一番近道のような気もする。必要ならその後でもう一度PCに入力し直せばよい。そういう時間を作ってみることが大切なような気がした。このことはおそらく眼の健康にもいいに違いない。

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