茂木健一郎・田谷文彦共著『脳とコンピュータはどう違うか──究極のコンピュータは意識をもつか』(講談社BLUE BACKS)という刺激的なタイトルの本を読み終えた。「コンピュータは、人間が自らの脳に似せて(人間が、脳とはこのような働きをしているのだろうという理解に基づき)作った人工的な計算機械である」という事実から、今後さらなる研究と発展の後に、ひょっとしたら人間の脳の機能を完全にシミュレーションできるかも知れないと私は密かに思っている。茂木さんと田谷さんは、可能性は認めるものの、何時できるかには絶望的なようにも見える。
二人が絶望的なように思っているのは、「脳の完全なシミュレーション」という事態は、必ずしもコンピュータの中に意識があるという証明にはならないのではないかという疑問があるからだ。「脳を完全にシミュレーション」できたら、コンピュータは意識を持っていると見なされるというのは、「チューリングテスト」に合格すれば、人間のように考えていると見なされるというイギリスの数学者アラン・チューリングの考えを正当だと認めた場合である。
チューリングテストというのは、壁の向こうにコンピュータと人間がおり、質問者は質問を繰り返すことにより、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるテストである。壁の向こうの人間は自分は人間でもうひとりはコンピュータだと説明する。コンピュータは、自分が人間であるかのように振る舞うようにプログラムされていて、質問に人間らしく答える。このテストを通して、質問者がどちらが本当の人間か当てることができなかったらテストに合格したと認めるというものである。
チューリングテストに対してジョン・サールというアメリカの哲学者が「中国語の部屋」という思考実験を紹介し、チューリングテストに合格したコンピュータでも必ずしも、自分のやっていることを分かっているわけではないと主張している。「中国語の部屋」というのは、英語しか話すことも理解することもできない人が、部屋の外の人と中国語のカードで会話するという思考実験である。この場合、部屋の中の人は、中国語で書かれた記号に対して、どういう返事をしたらいいかが英語で書かれたカードを見ながら、中国語の記号列を書くというもので、この場合も限りなく完璧な中国語の返事を書けるようにすることができる。外から見ると、部屋の中の人は、中国語を理解していると思っているが、実際には英語しか理解できない。
脳の中の1000億の神経細胞はそれぞれ数千個のシナプスによって網の目のようなネットーワークを作っている。この脳自体をコンピュータでシミュレートするのは、いつの日にかやってくるのかも知れないが、今はまだ、それぞれの神経細胞の働きとネットワーク全体との関係の研究が始まったばかりのようだ。私たちは、他人の心を直接見ることも感じることもできない。しかし、不思議なことに、私たちは直観的に他人の心が分かるときがある。さらにまた、先ほどまで分かったつもりになっていても、突然分からなくなるときもある。どちらにしても、私たちが物語を読んで、主人公に共感できるということは、人間の脳の働きにとって本質的な関係があるような気がした。
二人が絶望的なように思っているのは、「脳の完全なシミュレーション」という事態は、必ずしもコンピュータの中に意識があるという証明にはならないのではないかという疑問があるからだ。「脳を完全にシミュレーション」できたら、コンピュータは意識を持っていると見なされるというのは、「チューリングテスト」に合格すれば、人間のように考えていると見なされるというイギリスの数学者アラン・チューリングの考えを正当だと認めた場合である。
チューリングテストというのは、壁の向こうにコンピュータと人間がおり、質問者は質問を繰り返すことにより、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるテストである。壁の向こうの人間は自分は人間でもうひとりはコンピュータだと説明する。コンピュータは、自分が人間であるかのように振る舞うようにプログラムされていて、質問に人間らしく答える。このテストを通して、質問者がどちらが本当の人間か当てることができなかったらテストに合格したと認めるというものである。
チューリングテストに対してジョン・サールというアメリカの哲学者が「中国語の部屋」という思考実験を紹介し、チューリングテストに合格したコンピュータでも必ずしも、自分のやっていることを分かっているわけではないと主張している。「中国語の部屋」というのは、英語しか話すことも理解することもできない人が、部屋の外の人と中国語のカードで会話するという思考実験である。この場合、部屋の中の人は、中国語で書かれた記号に対して、どういう返事をしたらいいかが英語で書かれたカードを見ながら、中国語の記号列を書くというもので、この場合も限りなく完璧な中国語の返事を書けるようにすることができる。外から見ると、部屋の中の人は、中国語を理解していると思っているが、実際には英語しか理解できない。
この「チューリングテスト」とサールの「中国語の部屋」が提起した問題は、意識に対する二つの立場を端的に表している。前者は、意識の存在は、機能的な側面を調べることでしか実証することができず、実証できない主観性の問題は論じることができないとする実証主義の立場である。後者は、私たちが普段から経験している主観的な経験の実在を主張する、実在主義の立場である。(『脳とコンピュータはどう違うか』p195)
脳の中の1000億の神経細胞はそれぞれ数千個のシナプスによって網の目のようなネットーワークを作っている。この脳自体をコンピュータでシミュレートするのは、いつの日にかやってくるのかも知れないが、今はまだ、それぞれの神経細胞の働きとネットワーク全体との関係の研究が始まったばかりのようだ。私たちは、他人の心を直接見ることも感じることもできない。しかし、不思議なことに、私たちは直観的に他人の心が分かるときがある。さらにまた、先ほどまで分かったつもりになっていても、突然分からなくなるときもある。どちらにしても、私たちが物語を読んで、主人公に共感できるということは、人間の脳の働きにとって本質的な関係があるような気がした。
ベイカー氏は「計算によるたんぱく質の設計」、ハサビス氏とジャンパー氏は人工知能(AI)を利用した「たんぱく質の構造予測」の研究開発に貢献したと評価された。アカデミーは「3人の研究は生化学と生物学の研究に新しい時代を開いた」とたたえた。