電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

同期入社の同僚の退職

2006-06-25 22:23:11 | 日記・エッセイ・コラム

 私より1歳年下だが、同期入社の同僚が、7月7日をもって退職することになった。彼は、入社してから数年後に一度上司とどうしても合わず、退職したいと考えたことがあった。その時は、私は退職を思いとどまらせることに力を注いだ。そして、彼はその後30年近く同じ会社にいたことになる。私とは、職場が同じときもあったし、別々のときもあった。しかし、同じ会社の中で、唯一気の許せる友人であった。私の結婚式のときは、彼に司会と進行役をお願いし、それを見事に果たしてくれた。その彼が、普通であれば3年後に定年になるところを、少し早めに退職することになったのだ。

 もちろん、私の気持ちを言えば、とても寂しい。同期入社の同僚とは、おそらく戦友のようなものかも知れない。絲山秋子さんの『沖で待つ』でも触れたが、同期入社の同僚というのは、サラリーマンが持つ、特殊な人間関係である。もちろん、この関係を上手く説明した論文を私は知らないが、絲山秋子はその不思議な関係を少しユーモラスに描いて見せた。私と彼は、ほとんどライバルという関係になったことはないが、若い頃は彼のリードの下に、山に登ったり、飲みに行ったり、また、先輩たちと語り合ったりした。二人とも、結婚が遅かったので、今では信じられないくらい、夜遅くまで飲み歩いたこともある。

 私たちは、そのころ一体何と戦っていたのだろうか。私も彼も、団塊の世代に属するわけだが、大学時代は学園紛争の真っ最中に卒業してきた。そして、不思議なことに、私も彼も正規入社ではなく、途中入社だった。入ってすぐは、だから、かなり長い間、物流倉庫で働いていた気がする。彼の方が少し早く入社したので、彼の方が先に、編集に配属された。私は、途中研修のために編集に回されたが、実際に配属されたのはかなり後だったような気がする。だから、出版社の倉庫での物流でかなり肉体を鍛えたことになる。その後、編集部に配属され、途中、子会社に出向したりしたが、その後現在の編集部に戻ってきた。彼は最近編集部でも企画関係の方に配属され、それがあまり自分の思いとかけ離れていて辞めることになったわけだ。

 出版社の企画担当というのは、名前はいいが、どうしても雑用係のようになってしまう。なぜなら、本を作るという作業はそこでは行われるわけではないので、いわばイベント係のような役回りが多くなるのだ。私は、社長に編集に企画担当なんていらないと直訴したことがあるが、結局、編集総務的な仕事をしながらその部署は生きのこることになり、彼は1年前にそこの責任者になった。なったばかりで辞めることになったのだが、今年の最大のイベントはやり終えて、一区切り着いたところで彼は辞表を提出した。だから、もし辞めるのなら、今が潮時なのかも知れない。次のイベントや大きな企画を動き出してからだと、辞められなくなってしまうからだ。

 辞表を提出した次の日に、私は彼からメールを貰った。昔だったら、私は彼の思いとどまるように言ったはずだ。しかし、今回は、何も言わなかった。もう私たちは、今の会社では「上がり」直前にいるわけだ。むしろ、これから、定年後も含めて、残りの人生をどのように生きていくのかが日々問われ始める年齢なのだ。自分の人生のうち、30年以上を同じ会社で過ごしたと言うことは、それだけ会社の文化や風土が骨の中までしみこんでいるに違いない。そこからどれだけ自由になれるのか。あるいは、そこからどれだけ自由になって物事を考えられるか。実は、本当に問われているのはそういうことかも知れない。

 彼は、退職が決まってから、元社長に挨拶に言ったとき、次のように激励されたという。「男が一大決心をしてすることだから、もし失敗するようなことになっても後悔しない人生にせんといかん。3年後、もしわしが生きていたら、元気な顔をまた見せに来なさい。」私もとてもお世話になった人であるが、まだまだしっかりしていると思った。私などが出る幕などないと思う。まあ、会社を辞めたからといって、どこか遠くに行ってしまうわけではないのだから、会おうと思えばいつでも会えるところにいる。ここで距離ができてしまうとしたらそれだけ私が会社人間になってしまったことになるわけだ。

 今日は、一日妻に付き合っていた。今5年生の息子の進学先のことで、私立中学校の相談会が立川市のグランドホテルであり、そこに行ってきたのだ。そこで有名私立中学校の担当者と話をしてきたが、私たちの息子の学力のことは一切聞かずに、いろいろと親切に学校の状況を教えてくれた。有名な学校ほど学力のことはほとんど話さなかった。子どもたちの学校生活のことを話していた。妻は、函館ラサール校の副校長の話にとても感動していた。私は息子の将来を考えながら、退職する同僚のことを思った。まだ、退職が決まってから、彼とは時間を取ってゆっくりと話したことがないので、一度じっくりと語り合ってみたいと思った。

 彼の退職は、我が社から見れば退職だが、彼の人生では新たな再出発である。私たちは、会社の中であちらに回されたりこちらに回されたり、自分の本意でないところに配属されてしまうこともある。そして、定年になるまでそこにいることが多い。それは、本当は幸せなことだろうか。考えてみたら、私の会社人生で、自分が選んでいったところなど本当にあっただろうか。配属された先で、何とか与えられた仕事をこなし、新しい仕事を少しだけ増やし、多少会社に貢献したつもりで、自己満足しているだけのような気がする。少なくとも、これからは、自分で残りの人生は決めていかなければいけないことだけは確かだと思われる。退職するときになって初めて、会社というものは、そこに属しているもののためにこそある存在だということに気づいても遅い。

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「ワールド・カップ」

2006-06-19 00:26:04 | スポーツ・ゲーム

 沢木耕太郎さんのサッカー観戦記に『杯[カップ] 緑の海へ』(新潮文庫/2006.5.1)がある。私は、時々現在進行中のワールド・カップをテレビで観戦しながら、沢木さんの文章を読んだ。日本対クロアチア戦が始まる少し前に、この本を読み終えた。この本では、1998年のフランス大会で最初にサッカーに目覚めた、沢木さんがそれから4年後、日韓共催で行われたワールド・カップを殺人的なスケジュールで、日韓両国を移動しながら、彼が重要だと思った試合を見ることとそのための移動の中で出会った、日本と韓国の人々や生活などを記している。

 ところで、沢木さんは、私と同じ年齢で、子どもの頃のスポーツは、野球が中心だった。サッカーなどやったことがなかったという。スポーツライターでもある沢木さんがサッカーに関心を持ったのは、Jリーグができてからだと言う。私の記憶でも、子どもの頃からサッカーをやっていたという人がいたらそれはかなり珍しい存在だったと思う。私の弟のうち3人までが、サッカーをやることになったが、それは高校には行ってからだった。つまり、小学校や中学校で正式にサッカークラブがあったのは珍しかったと思う。だから、次のような沢木さんの指摘は、その通りだと思った。

 ところが、サッカーに関心を持っていた少年にとって事情は全く違っていた。当時の日本にはサッカーのプロリーグがなかったことはもちろんのこと、アマチュアにも大したチームがなかった。そのため、サッカー好きの少年たちは、ヨーロッパや南米のチームと選手に感心を向けざるをえなかったのだ。眼を世界に向け、新聞や雑誌でわずかな情報を自分で集め、苦労しながら知識を積み重ねていったような子たちが多かった。その意味で、彼らはインテリジェンスがあり、賢かったはずだが、同時に、みんなが「おい野球をやろうぜ」と誘いに来ても背を向けるような、わりと偏屈なところがある子だったような気もする。それが私たちの世代における「サッカー少年」の像だった。(『杯』p91・92)

 Jリーグは1993年に開幕したが、その前後に、少年野球チームと少年サッカーチームが逆転した。そして今では、子どもたちの間で最も人気のあるスポーツにサッカーはなった。私の息子もサッカーチームに入っているくらいだ。子どもたちの間でどうして、野球をするのが減って、サッカーをやるものが増えたのだろうか。Jリーグができる直前に、テレビで特別番組が組まれ、その中でサッカー少年たちにインタビューをするというコーナーがあったそうだ。その時の少年たちの言葉に沢木さんは、驚いている。

 そこにおける問いのひとつに、どうして君は野球ではなくサッカーをやったのか、と言うのがあった。言い換えれば、君はどうして野球は嫌いなのだ、というわけだ。
 最も多かった理由は何だったか? 彼らが野球を選ばなかった理由は、ユニフォームのカッコ悪さでもなければ、先輩との上下関係の厳しさでもなかった。彼らが野球を選ばなかった理由は私の想像を絶するものだった。なんと、もっとも多かった理由は「野球はルールが難しいから」というものだったのだ。(同上・p93)

 確かに、野球のルールは難しい。漫画や野球を見て、そして子どもの頃から野球をやってきた我々は、野球というスポーツを自然に覚えていったものだが、いざ初めにサッカーと野球を並べてどちらのルールの方が分かり易いかと問われたら、今の子どもならサッカーだと答えるに違いない。サッカーのルールで難しいのはオフサイドくらいしかない。オフサイドのルールは時代のよってかなり変化してはいるが、基本的には、ボールを前に出したとき、そのボールを受ける味方の選手と相手のゴールラインとの間に、相手の選手がいなければならないと言うルールである。現在は相手チームの選手が2名いればいいことになっているが、ゴールキーパーがたいてい一人いるので、もう一人いればいいことになる。

 私には、将棋のルールと囲碁のルールのような違いを、野球とサッカーのルールの違いに感じる。サッカーも囲碁もルールはとてもシンプルだが、シンプルゆえに奥が深い。しかし、囲碁とサッカーとは全く違うところがある。サッカーは、人間が体を使ってやるスポーツである。身体の動き自体がゲームを進行させる。囲碁は、必要なら自分で打たなくても戦うことができる。そして、サッカーの本当の面白さは、身体と身体の接触の仕方が反則になったり、反則にならなかったりするという微妙な綾によって加速される。ボールの奪い合いは、身体と身体が接触することによって行われることが多い。意図的に接触したのか、自然と接触したのかの違いが、審判によって判定される。その意味では、審判の主観がかなり強く入り込む余地を持っている。

 日本チームは、第1試合のオーストラリア戦に敗れたが、この試合でも身体と身体の接触の仕方が微妙に勝負のゆくえを左右した。ある時には、反則になり、ある時には反則にならなかったりした。そして、結局は日本は、破れてしまった。最初に1点を取られたオーストラリアのほうが、その意味では、幸運だったのかも知れない。彼らは、審判をも味方につけてしまったのだから。そして、審判は、絶対でもある。後でどうこう言っても始まらない。とにかく、相手以上のパワーを出すしかないのだ。1点取られた後が大事なのだと思う。それからの展開が観るものを暑くさせてくれるのか、冷めさせてしまうのかが、その試合を面白くさせてくれるのだ。

 ところで、沢木さんが最初に見たワールドカップはフランス大会であったのだが、その時は地元フランスが優勝した。その時、日本は、1次リーグで敗退した。日本の相手は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカだった。そう、その時も2戦目がクロアチアだったのだ。日本は、アルゼンチンに1対0で負けた。そして、次にクロアチアにも1対0で負けてしまった。これで1次リーグを突破できないことがほぼ決まったわけだ。今日の試合は、日本はよく頑張った。あのクロアチアに0対0で引き分けたのだ。首の皮一枚で残っている感じだ。一応、日本もクロアチアも、1引き分け1敗と言うことになった。

 ワールド・カップの楽しみ方には、自国の選手を応援し、その勝利の美酒に酔いしれてみるという楽しみ方と、最高の試合に出会い、その一部始終を見届けるという楽しみ方がある。その二つは全く別の楽しみ方なのだが、できたら二つとも同時に楽しみたいと思うのは、とても贅沢なのかも知れない。沢木さんの本は、サッカーの魅力がよく分からなかった私に、サッカーの楽しみ方を教えてくれた。

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津田梅子の卒業生への「塾長式辞」

2006-06-11 22:03:33 | 日記・エッセイ・コラム

 昔、20年くらい前に、津田梅子について調べ、簡単な文章を書いた記憶がある。明治4年(1871年)、5人の少女が選ばれて、留学生としてアメリカに派遣された。津田梅子はその中の最年少で、わずか6歳だった。6歳ではあるが、留学したアメリカから達者な候文で手紙を書いていたから、早熟で利発な子どもだった。それから、11年、ほとんど日本語を忘れてしまって梅子は日本に帰ってきた。梅子たちをアメリカに送り出した、「これからは女性も教育を受けるべきだ」と考えた「開拓使本庁」は既になく、後を引き継いだ文部省は、梅子たちの受け入れ体制など考えてもいなかったようだ。そのときから、梅子の苦難の道が始まる。

 津田梅子とは、津田塾大学を創設した人である。南山短期大学の近江誠教授が『挑戦する英語!』(文藝春秋/2005.12.10)で、第4章「先駆者となる」の中にこの津田梅子の「卒業生へ『塾長式辞』」を取り上げている。これは大正2年(1913年)に、42歳になった梅子が、当初は「女子英学塾」と言った梅子自身が創設した女子高等教育機関での塾生の卒業式での式辞である。まだ残っている雑音に幾分かき消されがちで、どこか遠くでソプラノで歌うかのように流れてくる津田梅子の肉声は、感動的である。約100年近くも昔の声が聞こえてくるのだ。

 実は、日本で初めてレコードが発売されたのは1909年で、津田梅子の卒業式の式辞を朗読したときの4年前である。津田梅子の式辞は、現在のコロンビアミュージックエンタテインメントの前身のレコード会社のレコードに早稲田大学総長の大隈重信など数人のスピーチと一緒に録音されていた。このレコードは、津田塾大学に2枚残っていたが、1枚はヒビが入り、もう一枚は雑音が酷く、とても聞き取れるようなものではなかったようだ。しかし、津田塾大学創立100周年事業の一環で資料を整理していたときに、梅子のスピーチの手書き原稿が発見された。それをきっかけに、津田塾大学では、早稲田大学音響情報処理研究室の山崎芳男教授に、この歴史的な音源を現代に甦らせることを依頼した。

 今私の聞いている津田梅子のスピーチは、そうして聞くことが可能になったものを『挑戦する英語!』に収録したものだ。私は、近江教授の前の本の『感動する英語!』(文藝春秋/2003.12.25)も愛読している。こちらの方には、キング牧師の「I have a dream!」で有名な1963年の演説や、「Old Soldiers Never Die」で有名な、マッカーサーの1941年のスピーチが収録されている。もちろん、そのほかにも、興味深いスピーチが収録されているのだが、本人の肉声が聞けるというのはまた別の興味深さがある。ただし、私の英語力の未熟さから肉声の本当の面白さはまだ十分に味わうことまではできていない。

 津田梅子は、6歳からアメリカに行ったので、11年後に帰ってきたときには日本語を全く忘れてしまっていたと言われている。それは当然で、現在の脳科学の知見によれば、母語が決定づけられるのは10歳頃で、バイリンガルの子どもたちも10歳頃に自分の母国語をどちららにするか悩む時期があるらしい。もちろん、それは、日本語と英語を同時に使っていて悩むのであり、津田梅子のように全く英語で生活を送っていた場合には、母語は必然的に英語になってしまったに違いない。だから、梅子は、日本語より英語の方が堪能であり、式辞も英語のスピーチになったと思われる。

  Graduation from school may be compared to the launching of a ship that starts out to meet the test of wind and wave.(近江誠著『挑戦する英語!』p51)

 梅子は、卒業して社会に出て行くことを、船旅(voyage)に例えている。私には、梅子が未知の国アメリカに向かって横浜から船で出発したときの気持ちがそこに込められているような気がして仕方がない。

  One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.(同上p51)

 これは、梅子のアメリカでの体験に裏打ちされた言葉だと思う。人生を導く灯台の明かりの第1に「真理」(Truth)を持ってくるというところに津田梅子らしい生き様がある。

  Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.(同上p52)

 梅子はアメリカでランマン夫妻のもとで育てられ、梅子もランマン夫妻も国費で留学しているという責任を感じていたという。そして、梅子とはアメリカで、クリスチャンになっている。梅子が「愛」と「献身」というとき、彼女の脳裏に去来していたのは、そうしたアメリカでの体験やこれからの日本の女性に対する期待が込められているような気がする。当時、「女子英学塾」を卒業するというのは、とても期待されていたに違いない。まさに「You have had wider opportunities than many Japanese women.」だったのだ。

 それにしても、この梅子のスピーチは、少しも古くないことに驚かされる。梅子のスピーチの少し前に、ケネディー大統領の「Inaugural Address」が載っている。そこで敬虔なカトリック教徒だったケネディーが最後に、「Let us go forth to lead the land we love, asking His blessing and His help, but knowing that here on earth God's work must truly be our own.」と結んでいるのを読んだが、津田梅子のスピーチのほうが新しい印象を覚えるほどだ。

 私は、いま、脳の老化のを防ぐ一つの方法として、この『感動する英語!』と『挑戦する英語!』の2冊を毎日少しずつ声に出して朗読したり、ノートに書き写したりしている。それで本当の脳が若返るのかどうかは今のところ不明だが、ここに掲載されている英文は、基本的にスピーチであり、朗読するにはとても適している。そして、何度も読み返している内に話し手の人柄が、少しずつわかってくるような気がしてくるから不思議だ。もちろん、それはほんの一部だが、話し手の一つの歴史的な側面を見ることができて、とても興味深い。

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