電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

家族を殺すという暗いニュース

2005-02-28 23:10:09 | 子ども・教育
 今朝の朝日新聞に、岐阜県中津川市坂下で、自分の母親、長男、長女、長女の子ども二人を首を絞めて殺し、長女の夫を「死んでくれ」と叫びながら刃物で刺し、自分の首も刃物で刺して重体となった同市職員の原平さんの記事が載っていた。朝日新聞の記事によれば、わざわざ「ばあちゃんが孫を見たがっている」と、長女のこずえさんと2人の孫を自分の車で連れて行ったという。私には、自分の血縁に対する狂気のような反応が感じられるが、脳が破壊されてしまっているとしか思えない。
 原平さんは、私と同い年であり、坂下に住んでいたので、ひょっとしたら高校の時の同級生かも知れないと思ったが、長野県から引っ越して来たようで、私と一緒の学校に行っていたわけではなさそうだ。それにしても、なぜ、57歳にもなって、自分の血のつながった親族を抹殺せざるを得なくなったのだろうか。何か、自分の遺伝子の中に憎悪の対象を見つけたのだろうか。私には、DNAの意志に反する親族の殺害という行為は、脳の異常による行為としか考えられない。何かが破壊されたのに違いない。

 前にも、生物学的に生殖年齢を過ぎても生き延びる人間の役割について「結晶性知性」ということで書いたことがある。最近、また、大石道夫さんが『DNAの時代 期待と不安』(文春文庫/2005.2.20)で、生殖活動を終えても20年も30年も、場合によっては40年も50年も生きながらえる人の生存の意味を次のように解説していた。

 なぜそうなっているのかといえば、多の動物と比べてヒトは、赤ん坊から一人立ちする十数年の年月を要し、それまで親は子どもの面倒を見なければならないので、サケのようにすぐ死んでしまっては、子どもを残すにはきわめて不利である。だから、最後の子供を産んで生殖活動ができなくなってからも、少なくとも十数年の寿命が保障されるように、ゲノムDNAができているとも考えられよう。サケのように、産んだ卵は自然に孵化し、親の世話がいらない生物では、このように長く生存している必要性は無い。(p72)

 今でこそ、結婚の平均年齢も三十歳前後になっているが、昔はもっと若く、父親や母親だけが子供の成長を支えてきたのではなく、父親や母親の親が、孫の成長を支えてきていたのに違いない。彼らこそが、いかに生きるかを教えてきた世代に違いないのだ。そうであるからこそ、十数年かかかって人間は知性を発達させることができたのだ。そして、長い間かかって人間は、そのようなプログラムをDNAの中に刻み込んできたはずだ。それなのに、原平さんは、それを裏切るような行為をした。私には、その原因は分からない。ただ、同世代として、痛ましさだけを感じる。

 新聞記事によれば、周りの人たちの評判は大変よく、だれもがあんなにおとなしい人がと不思議がっている。そのこと自体は、ありがちなことだ。この場合は、ほとんど親族だけに向けられた殺意であるので、なおさら周りの人たちには理解不能に見える。しかし、たとえそれが狂気による行為だとしても、その行為には、意志の力が感じられる以上何らかの論理的な理由があるように思われる。今のところそれがよく分からないだけのような気がする。

ライブドアが投げかけた波紋

2005-02-20 16:36:14 | 政治・経済・社会
 ライブドアがニッポン放送の株式を時間外取引を利用し、ほぼ全株式の37%取得したことを巡っていろいろな意見が出ている。それにしても、ライブドアの堀江さんはいろいろと新しい試みをしてくれる。堀江さんのやることは、ある意味で日本の中では異常に見えるので、「法律の抜け穴を利用した」「倫理的に好ましくない行動」と批判されることが多い。これに対して、判官贔屓のように、堀江さんに同情して、堀江さんを批判する人たちを古い体質の人と批判する人たちも多い。マスコミや、政治家はどちらかというと前者の立場が多いし、ブログなどでは後者の人たちが多そうだ。
 私は、心情的には後者だが、ライブドアの株価が下がるというのは、世情がライブドアを批判していると言うことかも知れない。国土計画がやった株式の売買と同じようなうさんくささをこの時間外取引に感じてしまうからかも知れない。しかし、株価の評価は、倫理的な評価ではない。ライブドアが倫理的に許されないようなことをやったから下がったわけではない。今度の取引と、一連のフジテレビとのやりとりを見て、株式市場は、ライブドアが苦境に落ちっていると判断したというべきだろう。

 ブログの世界では、どちらかというとライブドアよりと見られる批評が多いのに対して、村井裕一郎さんの「法律さえ守ればいい時代は終わった」という記事は、面白い。この面白いという意味は、賛成すると言うことではない。「法律と倫理」という問題に対して、ある一つの典型的な切り口のような気がするからだ。儒教道徳で言われる徳による政治ということかも知れない。しかし、「法律と倫理」を村井さんのように考えると法律に対する考え方が倫理の問題になってしまう。

 私は、「倫理」は個人的または共同体的な思想・信条の問題だと考えている。これに対して「法律」は、そうした「倫理」を越えて、みんなで守らなければならない共通のルールだと考えている。つまり「法律」は「倫理」に支えられているかも知れないが、「倫理」を保証しているわけではない。例えば、豚や牛を食べてもいいという人がいてもいいし、食べてはいけないという人がいてもいいが、食べたら罰するという法律はまだ無い。資本主義社会では常識になっている銀行が金を貸した人から利子を取るという行為は、イスラム社会では禁じられている。ここで、言いたいことは、「法律」と「倫理」は区別して考えた方がいいと言うことだ。

 「金さえ出せば何をやってもいい」という発想は、前提として「すべてが金で買えるのなら」という条件がなければ成立しない。そうでなければ、金で買えないものを金で買おうとすることがそもそも間違っているだけだ。この言葉の背後には、すべてが商品化されていくという資本主義社会に対する倫理的な非難があるわけだ。つまり、「すべてのものが金で買えるわけではない」ということを言いたいわけだ。その意味では、金に飽かせていろいろなものを買いあさっている人に対する倫理的な非難にはなる。しかし、それだけのことだ。金で買えないものを金で買えば、それなりの反動があると言うほか無い。もちろん、金で売ってはいけないものを売ってしまうということもあり得るが。

 他方で、「法律さえ守っていれば何をやってもいい」という言い方にいやらしさを感じるというのは、「法律的に正当だが、倫理的には間違っている」ということがよく起こると言いたいわけだ。そうなら、それは、法律を改正すればよいのではないのか。法律を改正するためには、国会で多数決を取ればいいことになる。もし、そうした法律ができないのなら、自分の倫理としてやらないことを人に強制する権利はないというしかない。

 法律的には正しくても倫理的に間違っている企業行動であれば、それは消費者からそっぽを向かれます。例えば、松下電器がジャストシステム相手に起こした特許訴訟では、法律的には松下電器の主張が正しいと認められましたが、その特許を囲い込む姿勢が倫理的に問題とされ消費者の批判と不買に繋がっています。

 私は、松下電器の行為が倫理的に間違っているとは思わない。訴訟の不当性こそが問題だと思う。特にインターフェースを巡る特許は、特許に相応しくないと思う。この点は、いつか特許のあり方を変えていかなければ行けない。それまでは、たとえ負けると分かっていても、味方を増やすために戦うことも一つの戦術だ。松下電器は、特許で認められているにもかかわらず、平気でそれを無視するジャストシステムに対して倫理的に許されないと言うことで訴訟をしているのだと思う。倫理の問題ではなく、特許の考え方であり、現行のルール(特許法)の問題だと思う。

 特に「法律」については、私は「倫理」より、「立場と利益」が問題だと思う。「立場」とは、「国民」であり「民主主義」と言うことであり、「利益」とは、多くの「国民」の共通の「利益」ということである。特に、資本主義社会の制度については、「倫理」を持ち出してもほとんど無意味に近いと思う。資本主義社会は、その近代化の過程で古い倫理をたくさん滅ぼしてきた。そして、フランス革命に見られるように、「自由・平等・博愛」という近代社会の「倫理」がつくられてきた。そして、近代国家はそれらを内面の自由や個人の自由として公共の利益に反しない限りにおいて保障している。

 さて、それでは、今度のライブドアの一連の行動のどこに倫理的な問題があるのだろうか。村井さんは次の二つをあげている。

 さて、今回のライブドアの件では何が法律的にはOKだけど倫理的にはまずいとされてるのでしょうか。それは大きく二点あります。

1つは、資本主義の論理である敵対的M&Aの是非、ひいてはその対象がメディア産業であるという点
2つは、MSCB+時間外取引という手法を使った点

 1については、「買収」という行為と「メディア産業」という特殊な産業だといことに「倫理」的な問題があるという。私は、どちらも少しも「倫理」的な問題など無いと思う。「買収」というのは、誰が主たる株主になるかという問題であり、持ち株が増えれば会社に対する支配権が増加するというのは当然であり、そうのための株式である。そもそも、最初に上場したときそれは、運命づけられているのだ。そのために、株式を公開したとき、創業者は莫大な利益を得た筈だ。いまさら、株式を買い占められてからといって、泣き言は言うべきではない。「メディア産業」ということについて言えば、それも資本主義経済の中の企業であり、その論理に支配されているだけだと言うべきだ。

 フジテレビは、特殊な文化産業だとでも言いたいのだろうか。NHK問題を見るまでもなく、マスコミの中立な立場などというものは、ある意味で幻想であると思う。もちろん、中立でないからこそ、ある時は政府寄りになったり、ある時はそれに対して批判的になったりしているわけであり、さらには売るために「国民の立場」に立ったりするのである。私たちは、そうした記事をしっかりと見極めながら接する必要があるわけだ。

 MSCBにしても時間外取引という手法にしても、それは一つの戦術だと思う。ライブドアが既存のマスメディアを利用しようと言う戦略の一貫としてニッポン放送とフジテレビに目をつけた結果として選んだ行動だと思う。この場合も問題は倫理ではない。堀江さんの取った戦略と戦術はライブドアの株主にとってよかったかどうかである。かつて、ソフトバンクの孫正義さんがやろうとしてできなかったことを、堀江さんはねらったのかも知れない。しかし、ニッポン放送は別として、フジテレビからはかなり反発されていてうまくいくかどうかは分からない。問題は、フジテレビの古い体質の経営陣だけの反発ならいいのだが、堀江さんのアイデアがフジテレビの人たちにどれだけ訴えることができるかだ。

 これまでの一連の過程を見ていて私が感じたことは、堀江さんがフジテレビ側の一連の行動を「織り込み済み」と言っているが、本当にそうなのだろうかと言うことだ。フジテレビが何らかの手を打つことは考えただろうが、ライブドアの株価が下がるということを考えていたとは思えないような気がする。この辺は、もう少し時間がたってからでないと分からないことだし、株の売買は微妙な問題であり情報公開も制限されることもあり、今のところどうなるか予断を許さない。たた、株式市場は、前回のプロ野球の球団設立の時とは異なって、ライブドアを今のところ評価していないことだけは確かだと思われる。

長唄『楊貴妃』を観て

2005-02-12 16:08:24 | 文芸・TV・映画
 日本舞踊協会設立50周年記念・第48回日本舞踊協会公演が2月11日から13日まで国立劇場大劇場で催されている。私は、妻と二人で初日の第1部を見に行った。地下鉄有楽町線の永田町駅から向かうと国立劇場は最高裁判所の裏に当たる。右翼の宣伝カーが走っていたりしてこのあたりは騒然としていたが、国立劇場の中はまるで別世界の時間が流れているような感じだった。それぞれお目当ての流派があり、自分の知り合いの公演や見たい公演を選び、思い思いに時間を過ごしている。中年以上のそれも和服姿の女性が圧倒的に多い。そんな中で、私は、他の公演をさらりと見て、お目当ての『楊貴妃』をじっくり見た。約24分くらいの舞踊である。
 長唄『楊貴妃』は、五條流の五條雅之助さんの玄宗皇帝、林千枝さんの楊貴妃で華麗な舞踊となっていた。長唄の歌詞のほうが、今ひとつよく聞こえなかった。創作舞踊としての『楊貴妃』は、板東玉三郎のために夢枕漠さんが書き下ろした『楊貴妃』が有名であるが、白楽天の『長恨歌』や能楽の『楊貴妃』で有名なので、話の展開は何となく分かる。五條さんには毎年、1、2回会う。だいたい公演の前後の楽屋であうことが多い。相変わらず元気で新しいことに挑戦していて頼もしい。妻も子育てが終わったら、また、お世話になるかもしれないと言っていた。

 会社の方は、2月4日に人事異動の発表があり、前日まで引き継ぎ等で忙しく、夜の帰りも遅くなっていた。久しぶりの休日で、仕事のことを忘れて、のんびりできた。国立劇場大劇場は1階から3階まであり、それぞれのホールに休憩場などがあり、公演を見たり、休憩場でゆったりしたり、久しぶりにお会いした人と懐かしい話をしたりと、のどかの1日になった。

 演題には、清元、長唄、常磐津、義太夫、大和楽、一中節、地唄、荻江など、能・狂言、浄瑠璃、歌舞伎などから分かれたいろいろな流派の舞踊が並んでいた。この『楊貴妃』は創作舞踊と呼ばれているもので、比較的新しい試みがなされている。玉三郎の『楊貴妃』では、扇の使い方がとても大きな役目を持っていたが、こちらの『楊貴妃』では、「ひれ」(そういうのかどうか私にはよく分からないが、長い美しい布)が上手く使われていた。そう、天女の羽衣のような役割を果たしていたと思う。それが、楊貴妃から玄宗皇帝に渡され、また楊貴妃に戻され、やがて楊貴妃は黄泉の国に帰っていく。年に1回か2回くらいは、こうしたものを見ながらゆったりとした1日を過ごすのも悪くない。

一太郎と花子の特許権侵害判決について

2005-02-02 23:13:16 | デジタル・インターネット
 東京地方裁判所は、2月1日にジャストシステムの「一太郎」と「花子」が松下電器産業の保有する特許を侵害しているとして、両製品の製造販売の差し止めと両製品の破棄を申し渡した。もちろん、ジャストシステムはこれに対して控訴する予定なので、判決自体は未決定となる。私は、「一太郎」は使っていないが、インストールはしている。もっぱら「Word」を使っているが、IMEはATOKを使用している。東京地方裁判所では、ワープロソフトとして一太郎を使っていたそうで、高部裁判長の判決文は、急遽別のワープロソフトで作成したそうだ。
 松下の訴訟は、ASCII24.comの「どうなる?一太郎&花子――東京地裁、特許権の侵害を認め、一太郎および花子の製造・販売の中止を命じる」によれば、次のようなものである。

松下電器産業が侵害されたと主張する特許とは、同社が1989年に出願、1998年に公開された“情報処理装置及び情報処理方法”(特願平1-283583)。ある種のヘルプ機能についての特許で、“機能説明を指示するアイコン”を、機能を知りたい対象の上にマウスを使ってドラッグ&ドロップすることで、その機能の説明を行なうアプリケーションを起動するというもの。特許公報によれば対象となる利用分野は、“日本語DTPやワープロ等”としている。同社は2002年11月に仮処分申請を行なっていたが、2003年6月に申請を一旦取り下げ、2004年8月に改めて提訴を行なっていた。

 これに対して、ジャストシステムは、「従来から同様の表示はキーボード操作で行なえたので、特許は無効」と主張していた。そして、判決が出ると同時に、「一太郎・花子に関する報道につきまして」という次のようなコメントを自社のHPに掲載した。
 
2月1日、東京地方裁判所において、松下電器産業株式会社が、ジャストシステムの日本語ワードプロセッサ「一太郎」と、統合グラフィックソフト「花子」において、松下電器産業株式会社の特許権を侵害する部分があるとして、販売差し止めなどを求めた訴訟(平成16年(ワ)第16732号特許権侵害差止請求事件)について、判決がなされました。弊社としては今回の東京地裁の判決を不服とし、弊社の見解と大きく異なるため、現在控訴の手続きを進めております。
お客様は、今後も問題なく「一太郎」「花子」をご利用、ご購入いただけます。また、2月10日(木)発売予定の「一太郎2005」、並びに「花子2005」につきましても、予定通り発売いたします。
また、一部報道に「命令」という記載がありますが、仮執行宣言が付されておらず、弊社は控訴の手続き中ですので、判決は確定しておりません。

 一応ジャストシステムとしても、徹底抗戦の構えを取っている。私は、こうした裁判は、徹底的にやった方がいいと思う。松下は、アメリカでの2004年の特許取得数では、IBMに次いでNo2の1934件の特許取得をしている。今回の訴訟も、松下の知的財産権戦略の一貫でもあると思う。もともと、自分のところのワープロ専用機のために取った特許だが、もう既に松下はワープロ専用機はつくっていない。だから、ジャストシステムにロイヤリティーを求めたが、それをジャストシステムは断った。そうである以上は、お互いに自分の主張をし、裁判で争えばいいと思う。

 ただし、特許の法律問題としては、互いに自分の意見を主張し、最終的に裁判所の判断に従うことになるだけであるが、企業の選択としてそれでよかったかどうかはまた別になるだろう。この裁判の波紋について、ITMediaニュースは「『一太郎』判決の衝撃」という記事を書いている。 特許の内容、係争の論点、判決の内容についての解説は、とても分かり易い。ある意味では、松下のやり方はずるいように見えるかも知れないが、それはルールの問題として考えれば正当な要求ではある。

 いったん勝訴というお墨付きを得られれば、後は各社にライセンス契約を申し入れるだけでいい。リスク管理に敏感なメーカーであれば、これを受け入れる可能性は十分にある。普通なら8年で償却され、紙くず同然となる休眠特許が小銭を生み続けてくれる。知財部門のお手柄というわけだ。
 国を挙げてプロ・パテントのかけ声がかかる中、各社は休眠特許の“虫干し”を進めている。同種の訴訟が減ることはなさそうだ。


 松下は松下の価値観で知財保護の戦略を進めているのであり、それに不満を持ったらそれなりに対策を考えると同時に、特許のあり方もまた問題にしていく必要があると思う。私も、松下の主張の正当性は認めるが、ただこの特許については、特許として認めていいのかどうかは問題があると思う。DTPやワープロ以外で普通に使われていると思われる方法が、文字ではなく、絵であるからダメだというのでは、分かりづらい。これでは、新しいソフトを開発しようとしたときには、夥しい数の特許を調査しておく必要が出てくる。そんなことができるのは、たくさんの特許を毎年取得している大企業だけだ。もっとも、松下がロイヤリティーを請求したときそれに応じていれば何の問題もなかったわけだが。

 判決を受け、著名なプログラマーが松下製品の不買を表明するなど、開発者サイドにも波紋が広がっている。ITmedia編集部に意見を寄せたある読者は「知財保護の必要性は認めるが、すでに一般化した技術についても特許出願する例があり、開発者の手足をしばるような状況になることが懸念される。中小零細企業ではソフトの開発に手一杯で、法務にまで十分な人材も手間も資金も回せない。こうした訴訟が相次ぐと、開発意欲を萎縮させかねない」と批判する。


 著作権も特許権も私有財産制度の中で決められた知的財産を保護するためのルールである。ルールはモラルではない。それは、いろいろな立場の人たちの利害を調整した決まりである。従って、それは、変更が可能であり、絶対的なものではない。人間が作り出した知的財産をどのように共有していったらいいか考えて決めればいいのだ。こうした知的財産を作り出せるのは、過去の知的財産(文明や文化)のおかげである。たとえ、一時的に個人的な知的財産もやがて、共有財産に帰って行く。私たちは、ルールを守りながら、ルールを越える方策を考えていかなければならないのかも知れない。