電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』

2010-11-07 22:31:31 | 文芸・TV・映画

 書くという行為は、頭の中に、何かがあって、それを適切な言葉を選びながら叙述するということではない。そういう場合もあるかもしれないが、書くことの醍醐味は多分そうではない。人は、書くことによって、本当は自分が何を考え、何を感じていたかを知るのだ。あるいは、自分の中の無意識の世界で作られている物語を発見すると言うべきかもしれない。それは、多分、書くことによって始めて発見される。誰の脳の中にも、それはあるはずだが、一生知らずに過ごす人の方が多い。一部の作家だけが、それを書くことができる。書くべきことがあって書いたのではなく、書くことによって、何事かがそこに、自分の外部に文章として存在し始めるのだ。

 村上春樹インタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋刊/2010.9.30)で、村上春樹は、書くという行為は、自分の頭の中に作られたシナリオに沿って物語りを作るのとはまったく違った行為をしているということを執拗に述べている。

 フィクションを書くのは、夢を見るのと同じです。夢を見るときに体験することが、そこで同じように行われます。あなたは意図してストーリー・ラインを改変することはできません。ただそこにあるものを、そのまま体験していくしかありません。我々フィクション・ライターはそれを、目覚めているときにやるわけです。夢を見たいと思っても、我々には眠る必要はありません。我々は意図的に、好きなだけ長い夢を見続けることができます。書くことに意識が集中できれぱ、いつまでも夢を見続けることができます。今日の夢の続きを明日、明後日と継続して見ることもできる。これは素晴らしい体験ではあるけれど、そこには危険性もあります。夢を見る時間が長くなれば、そのぶん我々はますます深いところへ、ますます暗いところへと降りていくことになるからです。その危険を回避するには、訓練が必要になってきます。あなたは肉体的にも精神的にも、強靭でなくてはなりません。それが僕のやっている作業です。
 もし悪夢を見れば、あなたは悲鳴を上げて目覚めます。でも書いているときにはそうはいきません。目覚めながら見ている夢の中では、我々はその悪夢を、そのまま耐えなくてはなりません。ストーリー・ラインは自立したものであり、我々には勝手にそれを変更することはできないからです。我々はその夢が進行するままを、眺め続けなくてばなりません。つまりその暗黒の中で自分がどこに向かって導かれていくのか、僕自身にもわからないのです。(p345より)

 ここで、注意すべきことは、書くという行為は、見た夢を見た通りに叙述していくという行為だと言っているわけではないことだ。書くという行為が、夢を見るという行為だと言っている点がとても重要です。つまり、あくまでも、意識的に夢を見続けるのではなく、書き続けることによって、夢は持続していくのだと言っている点である。確かに、私たちは、夢の中でストーリー・ラインを変えることができない。そして、私たちは、夢の中で、夢の中のストーリーに巻き込まれていく。書くという行為もまさしくその通りだと言うのだ。書くことこそが、意識的な夢見の行為なのである。あるいは、書くことによって、夢がそこの存在すると言うべきかもしれない。

 本当にそうなっているのだろうか。書くべき何かがあって、それを私たちは書こうとするのではないだろうか。書くべき何かとは一体何であろうか。確かに、私たちは、予定が決まるとその予定の案内を手紙に託して伝える。5W1Hと言われる内容である。「Who(誰が) What(何を) When(いつ) Where(どこで) Why(どうして)、How(どのように)したのか」という内容が情報伝達の基本とされている。しかし、実のところ、本当は、5W1Hは、書かれたものなのだ。あるいは、表現されたものなのだ。それは、言葉よって分析されたものだと言った方が良いかもしれない。

 私たちに最初にあったのは、書こうとする意志だけだ。そして、書くという行為を通して、私たちの前に、書くべき内容が立ち現れてくるのだ。つまり、私たちは、書くことを子どもたちに指導するとき、本当は書くことを通してしか指導できないのだ。まず書きたいことをメモしますということは、ありえない。なぜなら、「メモする」ことこそまず書くことの一部だからだ。表現というのは、そうしたある意味では循環の中に成立しているように見える。このことは、実は、話すことでも同じである。私たちは話すべきことを思い浮かべてそれから、それを言葉に表しいるわけではない。私たちは話すことを通して、話すべきことを思い浮かべているのだ。この逆ではない。

 「悲しいから泣くのではない。泣くから、悲しくなるのだ」とか、「悲しいから涙が出て来るのではなく、涙が出て来るから悲しくなるのだ」とか、よく言われる。最近の脳科学の研究では、確かに、時間的に行為が先行しているらしい。これは、泣くという行為の方が、悲しいという気持ちに先行していると言うことを意味している。つまり、正確に言えば、私たちは身体が悲しいと感じているから、悲しくなるのだと言うことだ。私たちは、脳の深層で、あるいは身体のどこかで、まず活動しているのだ。そして、それは、必要に応じて意識かされているだけなのだ。この活動は、普通は、無意識の中に眠っている。私たちは、書くことや、話すことを通して、それらを呼び出すしかないのだ。あるいは、身体と意識というように言ったら、意識より身体の方がはるかに大きく広いと言うべきかもしれない。

 村上春樹が、夢を見ると言うのは、そうした私たち1人1人が持っている無意識下の夢を掘り起こすことを指している。

 人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです。一階は人がみんなで集まってごはん食べたり、テレビ見たり、話したりするところです。二階は個室や寝室があって、そこに行って一人になって本続んだり、、一人で音楽聴いたりする。そして、地下室というのがあって、ここは特別な場所でいろんなものが置いてある。日常的に使うことはないけれど、ときどき入っていって、なんかぽんやりしたりするんだけど、その地下室の下にはまた別の地下室があるというのが僕の意見なんです。それは非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか人れないし、人らないでで終わってしまう人もいる。ただ何かの拍子にフッと中に入ってしまうと、そこには暗がりがあるんです。それは前近代の人々がフィジカルに味わっていた暗闇──電気がなかったですからね──というものと呼応する暗闇だと僕は思ってぃます。その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家の中では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです。(p98・99より)

 村上春樹の小説を読むというのは、そうした村上春樹の書く行為を追体験することである。その書くという身体的なリズムを味わうと言うことでもある。もし、そこで村上春樹が何かを伝えようとしているのだと考えると、多分読み進めなくなるかもしれない。その物語をあくまでも物語として、まず追体験するしかない。ちょうど村上春樹が、書くことによって自分の無意識の世界で展開されている人類の夢を追っているように、私たちもまた、自分の身体の奥深くで共鳴するものを見るのである。村上春樹の小説の世界が、通俗的な世界を描きながら、まるで神話のような色彩を帯びてくる秘密は、まさしくそこにあると思われる。