電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「女王の教室」が終わった!

2005-09-18 21:46:31 | 子ども・教育
 日本テレビの「女王の教室」の最終回を観た。今までとは違った学園ドラマで、久しぶりに感動した。小学校生活とは何かといえば、それは通過すべき何かである。阿久津先生は、いずれ中学そして、社会に出て行くべき子どもたちを、徹底してしごく。勿論、アフターケアもしっかりしながら、ぎりぎりのところで、子どもたちを通過させていく。教師の側から見れば、子どもたちは出会い、そして通過していく何者かだということになる。教育とは何かということは、とても難しい問題だと思うが、自分の体験からも、義務教育段階というのは、とにかく通過するところだと思う。そして、通過することに意義があると思われる。
 勿論、通過するところだけれども、色々な体験はするわけで、その中で人間としての基礎作りをしていると思う。つまり、小学校や中学校というのは、擬似的な社会でもあるわけだ。昔、子どもが大人になるときにあった通過儀礼。それがいわば、今の義務教育の学校ということになるのではないかと思われる。しかし、今では、その通過儀礼としての役割がだんだん薄れ、今や、より上級の学校へ行くためにステップになっているような気がする。阿久津先生が演じて見せたのは、その通過儀礼の意味だと思う。もし、義務教育に通過儀礼としての意味がなかったら、多分ほとんど教育としての意味などないんだと阿久津先生は言っているように思われた。

 脳科学者の小泉英明さんが『脳は出会いで育つ』(青灯社刊/2005.8.15)の中で、次のように述べている。

 では、「学習」を、脳の神経回路が外部からの刺激によって形成される活動と捉えた場合に、「教育」はどういうふうに捉えたらいいのでしょうか。この点について、まだ仮説の段階ですが、私自身の考えを述べますと、脳神経系の構築という視点から見て、「教育」とは、外部からの刺激を制御する活動といえるのではないかということです。と同時に、外部刺激による脳神経回路の構築という「学習」行為を鼓舞(インスパイア)する活動とも捉えることができるのではないかと考えます。(同上p71)
 

 脳の基礎的な神経回路は、多分、乳幼児期の段階でかなりの段階に達していると思われるが、小学校生の段階でもまだ発達しているに違いない。脳神経系の構築についてはかなり老年期になってもそれなりに発達するとはいえ、20歳くらいがピークだと考えれば、この時期はとても大事な時期に違いない。考えたり、感じたり、思いやったりする心というのは、脳の働きである。そしてそれは、考えたり、感じたり、思いやったりする経験をしない限り脳のそれらの働きを司る神経系は正常に発達しないに違いない。阿久津先生のやっていることは、かなり強引なところがあるが、ある意味では正しいことだと思う。今は、そういうことが避けられているだけだ。

 しかし、少なくとも、我が家の子どもや彼の友だちの話を聞いていると、必ずしもそれを避けようとしているわけではなさそうだ。むしろ、社会のほうが無難な方向に流れているような気がする。学校は、疑似社会であるが、一応安全が確保された場である。今、学校で起きる色々な事件のために、この安全が危機にさらされているように見えるが、外部からの侵入者が子どもたちに危害を加えることはできるだけ避けられなければならないが、それより危険なことは、子ども同士の諍いや自殺などがエスカレートすることだと思う。もう一度、学校は何をなすべきところが、考えてみるべきかも知れない。案外と、教育内容がどう変わろうがあまり関係ないところに問題があるのかも知れない。