電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

老いるということ

2006-09-24 22:14:21 | 生活・文化

 午後、小学校5年生の息子とゴルフの練習場に行った。そこで、それぞれ二かごずつボールを買って、練習した。息子は、一月程前に、そのゴルフ場のレッスンプロに20分程スイングを見て貰い、少しアドバイスを貰った。今日も、彼は、そのアドバイスにかなり忠実にスイングしていた。当たるときもあるが、まだまだボールをしっかりととらえ切れていない。もちろん、私も、ボールをしっかりと打てない。私の場合は、昔のようにスイングできないというべきである。こんな私でも、昔はコースに出て、何度か80を切ったこともある。しかし、最近は、年に1・2回くらいしかコースに出たことがない。また、練習もしなくなった。周りで練習している人たちから見たら、きっとなんて下手な親子だろうと思っているに違いない。

 ところで、私と息子の決定的違いは、スイングのイメージと実際のスイングとの差にある。私の場合は、かなり優れたゴルフ選手のスイングがイメージされているのだが、いかんせん身体がその通りに動かない。身体が硬くなった分だけ、よけいにうまく動かない。息子の場合は、まだ、しっかりしたスイングのイメージができていないようだ。ボールの前でのセットアップや、構え方、そして左肘を伸ばしたまま、クラブをトップに持って行くことは何となくできているのだが、どうしてもスムーズなスイングにならない。力の入れ方がわからないようなのだ。多分、まだ彼の中で、自分のスイングのイメージがつかめていないからだと思われる。時々、とてもいい当たりをしているので、その時の感触をしっかりからだが覚えていくようになると、すぐに上達するに違いない。

 少し疲れた身体を休めながら、心と体について考えてみた。若い頃はのびのびと動く身体に心がついて行けない。そして、体と心がうまくバランスよく調和すると、スポーツというものはとてもスリリングでエキサイティングなものになる。しかし、その後、年を取ると今度は、心に身体がついて行けなくなる。どちらも、心と体がうまくシンクロナイズされない状態で、とても不安定であり、もどかしく感じるのだが、若い頃と、老いてからとでは全くその意味合いが違う。老いるということは、自分の身体に合わせて、そのイメージを縮めていくということなのだ。そうしないと、やがて身体をこわしてしまうに違いない。

 若さとは、多分、自分のイメージに合わせて運動できるように身体を作り替えていく能力のことだと思われる。だから、どんな運動でも、しっかりとしてイメージを持たせることが大事だと思う。自分の持ったイメージのように身体を動かすことがスポーツの基本である。自分の想像しているスイングと実際のスイングはかなりかけ離れている。しかし、若い身体は、やがて自分のイメージに身体の動きを合わせていけるようになる。それが、練習である。そう、映画で見たヒーローのあの軽やかな身のこなし方、そして、映画館を出たとき、まるで自分がそのヒーローになったようなイメージを持ち、身体を動かしているあの心の高まりが大切なのだ。年を取ると、そういうことが起こらなくなる。

 逆に、心ばかりは、なんだかよけいに細やかになるような気がする。とても感じやすくなるといってもいいかもしれない。映画などを見ていても、若い頃は涙など流したことがないような場面で、最近ではほろりとしてくる。これは、心の退化なのだろうか。耄碌したんだといわれそうだが、情緒的には細やかになっているような気がしないでもない。もちろん、だからといって、そうした情緒を表す表現がうまくできないことは事実である。だから、結局は、誤解されたりすることになるのだろう。心の動きと身体の動きの乖離がはっきりと感じられるようになってきたということは、私もはっきりと老い始めたと自覚した方がいいということである。

 そんなことを思いながら、息子のゴルフスイングを見ていた。息子は、私の忠告はあまり聞かない。親子の間で教えるということは本当に難しい。そのくせ、子どもは、知らない間に親の悪いところをマネをしている。困ったものである。再来週から、どうやらレッスンプロがついてくれるようになるらしい。息子の場合は、日曜日しか時間が空いていないのだが、どうやら日曜日にもジュニアゴルフ教室をやるようになるらしいのだ。私としては、その方がよいと思う。そして、いずれ、私は練習もやらなくなって、子どもの近くで、本でも読んでいることになるのかも知れない。

 


学力の2極化

2006-09-17 22:03:01 | 子ども・教育

 先日、下町の小学校の教員をしている友人と神楽坂で酒を飲んだ。年に2回程、冬と夏に美味しいものを食べながら、時代のあれこれについて話し合う友人だ。彼は、江戸っ子で下町の小料理屋に詳しく、田舎から出て来た私を連れて、美味しい食べ物やお酒を飲みに連れて行ってくれる。私と同じ年なので、彼も団塊の世代だが、生涯現役という思想の下、彼は管理職にならず、担任として子どもたちに接している。彼から聞いたところによると、彼のクラスの子どもたちのうち私立中学へ行くのは数名だけだが、それでも「できる子ども」と「できない子ども」の差は大きく、子どもたちの学力は2極化しているという。

 このことは、志水宏吉著『学力を育てる』(岩波新書/2005.11.18)にも触れられていた。志水さんによれば今の学校現場では、目に見える学力をテスト等で計ると、その成績は正規分布曲線を描くのではなく、「二こぶラクダ」の形状を描くという。いわゆる「できる子」と「できない子」への分極化傾向が見られるというわけだ。そして、志水さんは、PISA型の調査からも、全体としての学力の低下よりも、こうした学力の2極化の方が重大な問題であり、「問題なのは、子どもたちの全般的な学力の低下ではなく、『できない』層へのした支えがきかなくなってきていることである」と述べている。

 そして、こうした2極化の一番大きな要因は、家庭環境だと言っている。「できる」層に属する子どもたちは、恵まれた、安定した家庭生活をおくっており、そうでないグループは「できない」層に集まってくる傾向があるという。志水さんは、これを「家庭の文化的環境の差」というように言っている。私の友人も、全く同じことを言っていた。そして、彼は問題なのは、昔の親だったら、自分たちがダメな親だったら、「せめて子どもだけはしっかり勉強させていい学校へ行かせよう」と考えていたのに、いまの親たちは、「どうせ私たちの子どもだからダメなのよ」というあきらめのようなものがあると言う。

 今の親たちは、自分がダメなのは、社会のせいだとは考えないのだろうか。自分にやっぱり能力がなかったからだとすぐに諦めてしまうのだろうか。昔は、もっと、格差があったような気がする。私の子どものころも、塾などもあったが、行けること行けない子ははっきりしていた。私の家も貧しくて、それでも、両親は、勉強することを奨励していた。親たちは貧しさに対して怒っており、子どもたちにも貧しさに耐えることことを強いていたが、「勉強すればもっと高い地位を得ることができる」とか「努力すればもっと豊かになれる」と言っていたように思う。そして、私も幼心に、いま好きなことができなくても、勉強さえしっかりしていれば、やがてそれも可能になると信じていた。

 今教育の世界で「自尊感情」の低下というように言われていることはおそらくこうしたことがらを指しているのだろう。それは、子どもだけに欠如しているのではなく、既に親にも欠如しているらしいのだ。こうした考え方が生まれて来るには、それなりの社会的な背景がありそうだ。高度経済成長が終了し、バブルの崩壊以降経済が停滞していた頃、努力したからといって必ずしもいい結果になるわけではない、また、いい学校を出ていい会社に就職しても必ずしも幸せになれるわけではない、という現実を突きつけられて、人々は必ずしも勉強や努力を大切に思わなくなったということでもある。それは、一面では真実である。しかし、勉強や努力を怠れば更に酷くなるということもまた真実である。

 学校は今、とても重要な岐路にさしかかっているというのが、友人と私の共通理解だった。そして、私たちは何をしなければならないのだろうか。特別なし得ることがあるとは思われない。ただ、できる子どもにはもっとできるように支援することだし、できない子どもは少しでもできるように支援する以外に方法はない。これはとても難しいことだと彼は言う。全ての子どもたちが救われると言うことはあり得ないかも知れないが、少なくとも社会が緩やかに、子どもたちを受け入れてくれることを祈るしかないのかも知れない。

 クラスの中に、「できる子」と「できない子」に二つの層ができると、学級経営が途端に難しくなる。一部の「できる子」や「できない子」は例外として存在しうるが、これが大きな集団として存在すると、ある意味で学級崩壊が起こりやすい。現在行われている一斉授業が成立しなくなってしまうのだ。志水さんは、関西のいくつかの学校を調査して、これを乗り越えていくために、学校はかなりの努力を必要としているが、要はいかに子どもたちの関係がうまくいって、できる子どもができない子どもたちを助けてあげられるような関係になるかどうがポイントのようなことを言っていたが、それは簡単ではない。最近のテレビの学園ドラマで、やっとこうした助け合いが見られるようになった。「女王の教室」ではかなり遠回りではあったが、同じような課題に向き合っていたと思う。

 都市部では、小学校によっては、半分以上が私立の中学校へ進学していくという。丁度、先ほどの「できる子」の層と「できない子」の層が、都市部では私立中学校と公立中学校へと分かれていくことになる。いわば、小学校時代の学力の2極化が、中学校では学校格差として現実化していくことになる。子どもたちの学力は、小学校では今のところ、学校よりも塾などを媒介として向上し、私立中学校に行って更に花開くというコースができつつある。これは、学校が今後「選択と競争」の時代になり、激しく揺れ動き始める先駆けのような気がする。来年4月から始められるという文部科学省の「学力調査」がこの動きを更に加速させることは確かだと思われる。そうなっていく家庭で、私たちには、どんなフォローができるのだろうか。


『父親が教えるツルカメ算』

2006-09-10 21:09:10 | 子ども・教育

 新潮新書のベストセラーに藤原正彦さんの『国家の品格』があるが、この三田誠広さんの『父親が教えるツルカメ算』というのも、同じ新潮新書であり、しかもこちらは、藤原さんが、国家の品格の基礎作りになるいわば人間の品格の基礎として国語力をあげているのと対照的に、作家が「算数」の大切さを説いている。数学者が国語を持ち上げ、文学者が算数を持ち上げているところが、とても面白い。三田さんは、藤原さんのように国家などと言うことは持ち出さないで、忙しいサラリーマンの父親が、子どもとどう付き合ったらいいかを説いている。そのツールとして、算数があり、ツルカメ算があるというわけだ。

 ここで、三田さんが「ツルカメ算」ということで算数を象徴させているのは、算数を通じて培われる論理的思考力の大切さである。私には、武士道などを中心とした日本的な情緒を核に据えた国語力より、和算に代表される論理的思考力のほうが、分かり易いと思った。藤原さんは、ある意味では数学者としての論理的思考力を使って、国語力の大切さを強調しているが、三田さんは作家としての感性を上手く使って、算数の面白さを説いている。

 算数は、ただの計算問題ではない。たとえばツルカメ算というものがある。ツルとカメの合計の数がわかっている。足の数の合計もわかっている。そこから、ツルの数、カメの数を求める問題である。
 これを解くためには、全部ツルだと考えるか、全部カメだと考える。そういう極端な想定をしてから、最終的な結論に近づけている。こういう思考をたどって正解にたどりつくためには、「シミュレーション能力」といったものが必要だ。
 算数は、シミュレーション能力を鍛える。(三田誠広著『父親が教えるツルカメ算』新潮新書/2006/7/20、p11・12より)

 三田さんは、この本で、ツルカメ算のほかに和差算、差集め算、ニュートン算、ソロバン、流水算や図形の世界まで、およそ24種類の問題を取り上げ、とても面白く解説してくれる。ここで、三田さんが強調していることは、中学校に行ってから「数学」というものを習う前に、これらの問題を解くことの面白さと大切さであり、論理的思考力を鍛えることへの有効性である。確かに、ツルカメ算などは、連立方程式を使えば、簡単に解けてしまう。しかし、それでは、論理的思考力が養われない。こうした問題は、現在の小学校の教科書では出てこない。そこが問題でもある。

 三田さんは、自分の子どもの中学受験に関わったことがあり(『父親学入門』集英社刊/1995.10.30)、私立中学の入試問題を研究したり、塾の勉強を研究したりしていて、そこで算数の問題の面白さを発見したようだ。長男を公立中学校に行かせ、次男は私立中学校に行かせるという経験を経て、三田さんは学校の在り様を自分の体験と比較しながら理解している。『父親学入門』は10年前の本だが、そこで彼が考えていたことは、今でも十分通用している。そこで、彼は、「中学受験の効用」ということで次のように述べている。

 多くの人々は誤解しているのではないだろうか。中学受験というのは、決して苦行ではない。一種の知的なゲームのようなものだ。子どもというものは、知的好奇心をもっている。知性を刺激すれば、目を輝かせて、新たな知識を求めるようになる。
 それに、子供は自然な向上心をもっている。以前は出来なかった問題がうまく解けるようになると、それは子供にとって大きな喜びとなる。お金で買える玩具やゲームがもたらす喜びとは本質的に異なった、本物の喜びだ。
 中学の入試問題は、実にうまく工夫されている。なぜかと言うと、私立中学は、知的好奇心をもった生徒を必要としているからだ。知性がないのに塾で無理にマルバツ式の暗記だけをした子供では、太刀打ちできないような、深い問題を出す。
 そういう問題がうまく解けたときの喜びは、計り知れない。(『父親学入門』p151より)

 この三田さんの考えは、10年経った今もぶれてはいない。三田さんは、小学校の高学年という時期に論理的思考力を育てることの大切さを訴えているが、もちろん、それ以降も論理的思考力は常に鍛えていないと退化してしまうに違いない。私は、『父親が教えるツルカメ算』中の問題を考えながら、久しぶりに興奮した。というわけで、せっかくの休み、5年生の息子に、いくつか問題を出してみた。

【問題⑤】神社の長い階段で、太郎君と花子さんがジャンケン遊びをしました。勝った人は階段を5段上り、負けた人は2段下がるというルールです。25回ジャンケンをした結果、太郎君は花子さんより、35段上にいました。太郎君は何勝何敗だったのでしょうか。(『父親が教えるツルカメ算』p51より)

 この問題に対して、息子は少し考えて、ツルカメ算だということに気がついて、すぐに解けた。三田さんが言ったように、太郎君が全勝したとしたらという仮定をして計算してから、実際の結果との差を出して解いていた。そのほかのツルカメ算に類する問題や、差集め算というのは、図を書きながら解いていたが、おそらくその解法は塾で習ったものに違いない。三田さんもそうした図を使った解法について触れていた。しかし、次のニュートン算というのはダメだったようだ。私と同じように、ヒントを言われるまで、わからないようだった。

【問題⑫】一定の面積の牧場があります。ここに牛を20頭入れると8日で草を食べ尽くしてしまいます。25頭入れると6日で草を食べ尽くします。では牛を45頭入れると、何日で草を食べ尽くすでしょうか。

 実を言えば、私は説明されるまで、これが全くわからなかった。草は、毎日生えているのであって、1日に少しずつ増えているということに気づかなかったので、三田さんが言うように、私は迷路に入り込んでしまった。それにしても、私は、ニュートン算という名前があることを知らなかった。なぜこれをニュートン算というのかについて、常に一定に草が生えていくというところが、常に一定の力が働いている「重力」に似ているからだろうと三田さんは言っているが、塾ではこうした問題が色々工夫されて子どもの論理的思考力を育てるために勉強させているらしい。方程式を学び、いろいろな変数を数学的に処理して答えを出すということに慣なれてしまうと、こうした問題が方程式を使わないで解けなくなってしまう。

 ここに紹介されている24問だけでも、かなりの脳のトレーニングになりそうだ。5問程息子にやらせたが、かなり楽しそうに挑戦していた。ひょっとしたら、息子のほうが私より柔軟な思考力を持っているのかもしれない。三田さんは、この本を書くにあたって、啓明舎という塾で算数を担当されている後藤卓也先生の『秘伝の算数』(東京出版)というシリーズを参考にしたといっているので、私も読んでみようと思う。「脳を鍛えるドリル」よりは面白そうだ。普段は、口げんかばかりしているダメな親子だが、今日は久しぶりの知的な対話だった。三田さんに感謝。