電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

二大政党制への移行

2009-08-30 23:25:38 | 政治・経済・社会

 今回の衆議院議員の選挙は、民主党の圧勝で終わった。小泉首相の後を継いだ、福田首相、安倍首相、麻生首相が、それぞれ延ばしに延ばしてきた選挙が、任期ぎりぎりで解散になり、やっと選挙となった。この間、まるで自民党の凋落に拍車をかけるような流れだったということができる。最後の最後になって、結局、国民は皆、今の自民党ではもうだめだと判断したと言える。民主党は、おそらく小沢代表代行の戦略だと思われるが、「政権交代」というたった一つのスローガンで勝った。今回の状況を見ると、国民は2大政党制への期待を示していると考えるのが、いちばん合っているように思われる。

 参議院では既に与野党が逆転しており、民主党が108人で第一党になっているので、今後の国政は、民主党を中心として動いていくことになる。ところで、これから民主党の政権運営が始まるに当たって、民主党の最重要政策を確認しておきたいと思う。

1 ムダづかい
 国の総予算207兆円を全面組み替え。税金のムダづかいと天下りを根絶します。議員の世襲と企業団体献金は禁止し、衆院定数を80削減します。
2 子育て・教育
 中学卒業まで、1人当たり年31万2000円の「子ども手当」を支給します。高校は実質無償化し、大学は奨学金を大幅に拡充します。
3 年金・医療
 「年金通帳」で消えない年金。年金制度を一元化し、月額7万円の最低保障年金を実現します。後期高齢者医療制度は廃止し、医師の数を1.5倍にします。
4 地域主権
 「地域主権」を確立し、第一歩として、地方の自主財源を大幅に増やします。農業の個別所得補償制度を創設。高速道路の無料化、郵政事業の抜本的見直しで地域を元気にします。
5 雇用・経済
 中小企業の法人税率を11%に引き下げます。月額10万円の手当つき職業訓練制度により、教職者を支援します。地球温暖化対策を強力に推進し、新産業を育てます。
(「民主」号外/2009.8.20「政権製作特集号」 政策の詳細は、
民主党のHP参照。)

 細川政権、小渕政権の経済政策を支えてきた中谷巌が懺悔の書『資本主義はなぜ自壊したのか』(集英社インターナショナル/2008.12.20)を書いて、今までの市場に任せておけば資本主義は、自分で問題を解決していってくれるといういわゆる「市場原理主義」的な政策の誤りを反省していた。この反省がどれだけ有効かどうかは別として、アメリカの金融危機を契機にして、「新しい資本主義」への期待が始まった。アメリカのオバマ政権の成立もその流れの中にある。日本の民主党の政権もその大きな流れの中にある。それは、実現できるかどうかは別として、民主党の政策の中に掲げられている。

 おそらく、民主党は、これからの政権運営にとてつもなく苦労すると思われるが、そこから日本が少しでも変化してくれることを期待したい。そして、それは、「国民の期待」でもあるのだ。しかし、問題は、民主党の重要政策が、どのように実現されるかということにある。あるいは、どうのように実現されないかということであるかもしれない。なぜなら、民主党は、そうした重要政策をどのように実現していくかについては、ほとんど具体的には語って来なかったからだ。まるで、そうなことは、政権を取ってから考えればいいと思っていた節がある。民主党も、こんなに圧勝するなどとは思っていなかったに違いない。

 ただ、私には、衆議院議員の総選挙の結果は、新しい時代の幕開けであることだけは確かなように思われる。確かに、官僚の抵抗は強いかもしれないが、自民党と違って、民主党はしたたかでないだけ、混乱を生み、その混乱がシステムを変えていくことになる可能性がある。つまり、今まで通りには行かないということが、あちこちで起こるに違いないのだ。そして、それは、蜂の巣をつついたようにマスコミで取り上げられることになるに違いない。そして、騒げば騒ぐほど、何かを変えざるを得なくなっていくに違いないのだ。私は、「国民の期待」の重さに押しつぶされそうな顔をして、ほとんど具体的なことを語らなかった、鳩山代表のインタビューをテレビで見ながら、そんなことを思った。


『終の住処』

2009-08-16 10:55:41 | 文芸・TV・映画

 磯﨑憲一郎は、1965年生まれの三井物産の現役の社員だ。彼は、仕事と趣味を上手く両立させているようだ。もちろん、現代の企業は、いずれ、彼の趣味もビジネスの一部として取り込んでしまうかもしれないが、今のところ趣味は趣味として行われているようだ。彼は、とても、有能なビジネスマンであるように思われる。『終の住処』(第141回芥川賞受賞作)の主人公の「彼」が製薬会社の中で、自然に上昇気流に乗っていつの間にか、画期的な仕事をこなし、重要な役割をするようになると語られているが、それは磯﨑憲一郎の立ち位置と同じような気がする。

 この小説は、主人公と彼の妻が結婚してから、およそ20年間のことが描かれているが、それは象徴的な時間として描かれている。その20年間にあったことで、この小説の世界に登場してくるのは、主人公「彼」のいずれ崩壊してしまう妻以外の女性とのもつれた愛情関係と、それに比べてきわめて明るく楽天的な製薬ビジネスの成功と冒険のようなアメリカでの企業合併の交渉だ。それぞれの文は、暗く、もつれたように長く、いずれも固有名詞を持たない主体について語っている。象徴的という意味は、「死が遠くないことを知る」ために必要な時間という意味だ。

 私は、この小説を読んだ時、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいた。これほど違う文体を同時に読むのは希有な体験だが、描き出された世界もまた、とても好対照的な世界だ。『ダンス・ダンス・ダンス』は数ヶ月の世界であり、これからひょっとしたら主人公の「僕」と「ユミヨシさん」が一緒になるかもしれない物語だが、『終の住処』はまるでせかされたように出会い、結婚に向かった「彼」と「妻」の二人がその後20年近い歳月を経て、家を建てそこに落ち着くまでの世界である。

 彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目遣いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで、こんな年から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった。じっさい、交際し始めて半年で彼は相手の実家へ挨拶に行ったのだ。それから何十年も経って、もはや死が遠くないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなお互いの表情だった。(「文藝春秋」九月特別号・p364より)

 この小説は、「彼」と「妻」の物語であるが、時々「娘」が登場するだけで、家庭そのものは、殆ど描かれていない。むしろ、なぜだか分からないが、突然「妻」が11年間も口をきかなくなってしまったり、家を建てたら建てたで今度は「娘」が自分と交替でアメリカに行ってしまったりする。家庭は、「彼」にとって、あちら側の世界のように存在している。「彼」にとってのこちら側の世界は、次から次へののめり込んでいかざるを得ない、女性との不思議な関係であり、なぜか知らないが勝手にうまくいってしまうビジネスの世界である。どちらの世界も、「彼」にとっては、よく分からない世界のように描かれているが、本当によく分からないのは、あちら側の世界だけである。

 磯﨑憲一郎も小説の中に、謎を仕掛けている。その謎は、しかし、妻と自分との関係の中の謎である。あるいは、「家族」というものの謎だというべきかもしれない。11年間も口をきかない関係とは何か、また、自分の知らないうちに、知らない世界に行ってしまう娘との関係とはいったい何か。この小説の中には不可思議な場面がいくつか描かれているが、よくよく読んでみると、この小説の中で、本当によく分からないのはその二点だけなのだ。というのは、、「彼」のこちら側の世界には、未知の世界があるのではなく、「彼」の心理の異常さとして描かれているのであり、「彼」のビジネスの成功は「彼」の超能力のせいでもなく時代と「彼」の意志の結果であるといえるからだ。

 もちろん、不思議なことに、家族の一般論から言えば、それは謎でも何でもない世界であり得る。ほとんど家庭など顧みない「彼」のような存在がいれば、「妻」や「娘」のような存在が導き出されるのは必然であるというように。こんなことを考えながら読んでいると、磯﨑憲一郎は、この小説の中で、終の住処を見つけるまでの20年間をこの短編の中に凝縮して、ある種の色を着けることを意図したよう考えられる。そして、20年間という時間は、そうした色に染めない限り、たいした意味がなくなってしまうように思われているのではないか。そのためにだけに、この小説の中で、時間を凝縮して色づけがされているような印象を持った。

 ところで、芥川賞選評を読んでみると、山田詠美、小川洋子、黒井千次、川上弘美、池澤夏樹が高く評価し、石原慎太郎、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍が低く評価している。何となく分かるような気がしないでもない。宮本輝と村上龍の評はほぼ同じような指摘をしているが、宮本輝はこの作者の可能性に期待しているところがある。そして、私も、宮本輝のように、磯﨑憲一郎の実験的な試みから伺われる彼の才能については面白そうだと思った。しかし、この作品だけでこの作家の評価を決めるべきではないが、この作品について言えば、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』や、また芥川賞をもらえなかった村上春樹の『風の歌を聴け』よりも私が物足りなさを感じたのは確かである。 


夏の金沢の短い1日

2009-08-14 12:07:36 | 生活・文化

 9日から11日まで旅行。金沢、白川郷、高山、恵那峡、中津川市民病院、諏訪大社等々。金沢と恵那峡にそれぞれ一泊する。駆け足のような旅行。妻と息子と私の3人。金沢では、私の大学時代の思い出にふけり、妻と子どもたちに馬鹿にされる。金沢白鳥路ホテルに宿泊している時に弟から電話があり、親父が中津川市民病院に入院しているという連絡を受ける。その日は、もう一人の弟夫婦が中津川にいるとのこと。早速連絡を取り、10日の夕方には病院に着けると連絡をする。親父には、7月の終わりに、11日にお墓参りをし、その後一緒に昼食を食べる約束をしていて、恵那峡に止まる予定をしていたのが、急遽お見舞いになってしまった。

 9日は、午前3時半に家を出る。プリウスには前日、ガソリンを満タンにしてある。日高・狭山インターから圏央道に入り、そのまま関越道経由で、上越道に入る。長野を通り、上越インターで北陸自動車道に入る。そして、10時半頃金沢市に入る。まず、金沢市角間にある金沢大学に向かう。私は、金沢大学出身だが、40年近く昔の話で、こんな山の中に大学が移るとは想像だにしなかった。大学周辺はさすがに山の中らしいが、少し下るとそこには郊外住宅地のように拓けていて、大学関係者や学生たちの街らしい、マンションやアパートやらが建ち並び、大きなショッピングモールもできていた。

 それから、金沢城の近くに戻り、ホテルの場所を確認してから、「六角堂」でランチ。この店に入るのは6年振り。私は、「六角亭」というように名前を記憶していて、ナビ設定で少し混乱をしたが、11時30分頃に入ることができた。予約をしていなかったが、その時間だとまだ空いていて、中央のカウンター席にすぐ座ることができた。妻と息子と私の3人とも、黒和牛のステーキランチを食べる。肉は150g。妻が運転なので、私だけ赤のハウスワインを飲む。息子は、美味しいと満足していた。妻は、5月に鎌倉の葉山牛ステーキハウス「マザース オブ 鎌倉」で食べたステーキランチとまた違っ味だが、それなりに満足しているようだった。

 昼食後、金沢白鳥路ホテルに向かう。ホテルの駐車場はかなり混んでいたが、何とか駐められたのでフロントに寄り、夕方まで散歩に行って来ると告げてから、歩いて外に出る。そこから、金沢城まで歩いて3分くらい。ぼつりぼつりとしている空模様の中、傘を持って、石川門から中に入る。6年前に来た時は、まだ大学の跡地の整理が完全ではなかったが、一部の工事を除いて、ほぼ昔の大学敷地内が公園に生まれ変わっていた。そして、そこでは「金沢城オペラ祭2009」が開催されていた。その日は初日で、「第8回YOSAKOIソーラン日本海百万石会場」になっていた。
 

 私は、息子と妻に、ここが教育学部があったところ、ここが法文学部で私がここにいたこと、それから、学生会館のあったところ、最後に教養部と理学部がここにあったといいながら、順に案内した。二人は、疑り深そうに私の話を聞いていた。しかも、私は、「石川門」がいわゆる東大の「赤門」に対抗する「黒門」だと思っていたが、実は、「黒門」は別にあり、それは「大手門」の方に、「黒門跡」として残っていた。妻と息子に、「本当に、ここに大学があって、本当にここに通っていたの?」と言われてしまった。

 それはそうだろう、もう40年ばかり昔の話だし、午前中にみた角間キャンパスの全てが、この中にはいるとはとても思えなかった。もちろん、当時から、医学部と工学部は別の所にあった。しかし、その後いろいろできたのだと思う。そして、息子は、この城の中の大学ならいいがあの山の中の大学はいやだと妻に言っていた。しかし、金沢城公園の中を一週してみると、大学の校舎があった時とは違った、広がりが感じられた。そして、この城がこのように開放されるのはとてもいいことだと思えた。私の青春時代は、どこかに行ってしまうとしても。

 金沢城を石川門から出て、兼六園に入る。学生の頃、私は小立野というところに住んでいたので、兼六園を通って大学に通っていた。今は、ここは入園料が必要だ。桂坂から中に入り、眺望台を通り、眺望亭で抹茶を飲む。とても美味しい。それから、明治記念之標の前を通り、すっかり緑になった梅林の中を抜けて時雨亭の前に行く。そこから真弓坂を下って、兼六園の外に出る。夏の兼六園は、少しばかり退屈だった。ただひたすら緑の公園だった。

 公園を出てから、21世紀美術館により、香林坊のほうに向かう。息子が、どうしても本屋さんに寄りたいというのだ。私は、片町に宇都宮書店があったことを思い出した。私が学生の頃は、香林坊にも北国書店という大きな書店があった。しかし、北国書店がなくなったのは、6年ほど前に金沢に来た時知った。確か、宇都宮書店が倒産したという話は聞いていないのであるはずだと思った。しかし、昔あった場所にはなかった。そこは、別の店になっていた。

 仕方なく、片町を歩きながら、宇都宮書店があった場所の反対側に少しばかりしゃれた商店街があるのに気がつき入った。少し入ったところに「ぶどうの木・片町店」というレストラン(カフェ)があり、そこでブドウジュースを飲む。店の前に大きな葡萄の木が植えられていて、沢山の実がついていた。そこの店員に、宇都宮書店のことを聞いたら、もう少しその横町を奥に言ったところにあると言う。彼は、最近金沢に来たらしく、片町の方に宇都宮書店があったことを知らなかった。その書店は正式には、「うつのみや」で、息子はミステリーを数冊買い、私は衝動的に『村上春樹の「1Q84」を読み解く』(データハウス刊/2009.7.7)を買った。

 「うつのみや・柿木畠本店」の周辺は、再開発され、まったく新しい街並みになっていた。しかし、そこに私が学生の頃よく通った昔のままの「芝生」という喫茶店があった。多分ここも、新しい金沢の観光スポットなのだと思った。それから、ゆっくりと街を見学しながら、広坂を通り、また再び兼六園の中を抜けて、ホテルに戻った。ホテルに戻り正式なチェックインをして、部屋に荷物を運び入れた。ちょうど5時半になるところだった。ホテルの駐車場が満車だったので、これから車を出しても大丈夫かと聞いたら、泊まる方にはちゃんと駐車場を確保するから大丈夫だとのことだったので、車で夕食を食べに行く。

 「第7ギョウザの店」に行く。茂木健一郎がどこかの講演で金沢に行ったら是非「第7ギョウザの店」に行ってくださいと強調していた。広い店だが、込んでいた。まだ時間が早かったので、10分くらい待っただけで席に着けた。私たち親子3人で、ホワイトギョウザ大2人前、焼きギョウザ大・小、蒸しギョウザ大とライスセット2人前、キムチ、茄子の漬け物を注文。私たちは、熱々のギョウザを食べるのに、必死になった。量も多いのだが、ホワイトギョウザはかなり堅く、食べるのに大変だった。それでも、私たちは、全てを平らげてしまった。

 店を出る時には、沢山のお客が並んで待っていた。昼の「六角堂」といい、夜の「第7ギョウザの店」といい、実にタイミング良く店に入ることができ、金沢の食を堪能した。ホテルに帰って少し休憩している時に、弟から電話が入った。親父が入院したと言う。次の日恵那峡のホテルの泊まり、その次の日に中津川の実家に寄る予定だったが、急遽、次の日の夕方には中津川市民病院に入るように予定を変更する。その日はとても疲れていたので、ホテルに帰り、風呂に入り、大河ドラマ「天地人」を観てから、9時に眠った。次の日は、5時に起きて、少し早めに白川郷に向かうことにした。


小学校の英語教育について

2009-08-02 12:18:54 | 子ども・教育

 いよいよ今年から小学校でも英語教育が始まった。一応「外国語活動」という名の下に行われるので、「英語活動」というのだそうだが、これは明らかに「英語教育」というべきである。教科でないのは、教科書がなく、教師もまた英語の指導の資格がないからだ。つまり、条件がまだ整備されていないので、暫定的に「英語活動」と読んでいるにすぎない。いずれ、環境が整備されてくれば、「英語教育」ということになると思われる。私は、少し前に出された、大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』(慶應義塾大学出版会/2004.7.31)を読みながら、それから5年後の世界がどうなったか考えてみた。

 小学校での英語教育の是非については、かなり前から論議されてきたが、最終的には、産業界の要請と、インターネット等の発達にあわせて、国際標準としてのコミュニケーションの手段となってしまった「英語」の役割に押される形で、小学校から英語教育が導入されることになった。現在の学習指導要領では、英語は、総合に時間のなかで、「国際理解教育の一環」として位置づけれていたが、新しい学習指導要領の第4章に「外国語活動」が設けられた。そこに小学校英語教育の目標が明確に掲げられている。

 外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうととする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う。(『小学校学習指導要領』第4章「外国語活動」より)

 そして、この場合の外国語は、英語と指定されているし、解説書では、中学校英語の基盤づくりと明確に規定されている。さらに、今年度より、前倒しして「英語活動」の授業が始まっている。現在のところ、5年と6年に週一時間というに限定されているが、いずれ教科になって、中学年、低学年でも取り上げられるようになり、時間も増えていくのではないかと予想される。もちろん、こうした小学校英語の導入は、現在の英語教育の問題点、つまり中学、高校、大学と10年近く英語教育を受けても、ほとんどの者が、英語を話すことができるようにならないという状態を打開するものであるかどうかは、あまり関係ないと思われる。

 むしろ、普通の人の場合は、ほとんど英語など必要ない生活だからだ。私の場合でも、英語の勉強を始めたのは、Webの世界に接するようになってからだ。おそらく、英語が必要な環境が増えてくれば、日本人でも必然的に英語を話すようになると思われる。そして、また、そういう時にどうしても英語が身につかなくて困るという人も出てくるに違いないが、それは小学校から英語教育をやったかどうかとはあまり関係がないのではないかと思われる。

 私は、今年から始まった小学校英語教育にもし意義があるとしたら、それは経済的にまたは文化的に恵まれない子どもたちにも、英語に接する機会を作っているということだと思う。それ以上でも、以下でもないような気がする。日本人の英語の早期教育の是非については、ある意味では理論的な解決をみたというより、多数決で決まったということができる。これは、総合の時間ができたり、その前に小学校低学年で社会や理科がなくなって生活科ができた時とは、明らかに異なっている。

 好むと好まざるとにかかわらず、ますますグローバル化している現代の社会にあって、英語は世界の共通語化しつつあります。その、コミュニケーションの手段を「気軽」に使用するためには、小さいときからの訓練が必要です。世界の原状をみても、理論的にみても、小さいときからの第二言語の導入が、母語の発達や子どもの人格の発達を阻害するという証拠は全くありません。小学校に英語教育を導入することを根拠もなく恐れてはなりません。(大津由紀雄編著『小学校での英語教育は必要か』・p81)

これは、まだ、総合の時間で英語活動が始まったばかりのころに述べられた早期英語教育推進派の慶応大学唐須教光教授の言葉だ。確かに、「母語の発達や子どもの人格の発達を阻害する」と脳科学的に証明されているわけはないが、阻害しないということが証明されたわけでもない。その意味では、実験であり、今後の膨大な実践によっていずれ検証されることになるに違いない。ただ、この唐須教光教授の言葉が、おそらく大勢をしめるようになったことだけは確かだ。その意味では、次の明海大学の和田稔教授の主張がとても興味深い。

現在のところ、文部科学省は細心の工夫を払って、過大な期待、大きな「夢」を売ることを避けています。ご存じのように、文部科学省によれば、小学校英語教育は「総合的な学習の時間」のなかで、「国際理解教育に関する学習の一環」として行うことになっています。そして、その目標は「児童が外国語(英語)に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりする」ことです。また、小学校英語教育は中学校の英語学習の前倒しになってはいけないと繰り返し警告しています。しかし、他方、「大衆」は文部科学省の細心の配慮とは無関係に小学校英語導入に「夢」を託しています。たとえば、小学校英語教育の開始で「英会話がペラペラになる」と期待している「大衆」が多いように思われます。>(同上・p127)

 文部科学省は、いよいよ、「中学校の英語教育の前倒し」を始めたわけだ。ただ、現実は、お寒い英語教育の現状があるだけだと行っても過言ではない。 上記の本の中で、小学校への英語教育導入に対して反対している慶応大学の大津由紀雄教授は、国語教育というより、日本語教育と言うべきだと言いつつ、母語教育としての日本語教育と外国語教育としての英語教育は言語教育として連携すべきだという。その上で、言語教育の目的を3つ挙げている。

【目的1】言語の面白さ、豊かさ、怖さを学習者に気づかせる。
【目的2】言語は人間にだけ、しかも、人間に平等に与えられた、種の特性であり、個別言語間に優劣はないことを学習者に気づかせる。
【目的3】言語を使って自己の思考を表現し、同時に、他者の言語表現のいとするところを的確に判断することの大切さを学習者に気づかせる。

 私は、「実社会に役立つ」ということを強調して、「確かな学力」を身につけさせることを最大の関心事にして改訂されようとしている新しい教育課程の危うさの中で、こうした指摘はとても大切だと思う。なぜなら、小学校に英語教育を導入したからと行って、「大衆の夢」が実現することなど、ありえないに違いないからだ。本当に社会に役立つ英語力を身につけた人たちは、学校教育だけでそれを実現したわけではない。彼らは、必要から、あるいは異文化への関心から英語力を身につけたのだ。

 同じ本の中で、岐阜大学の松川禮子教授(当時・現在岐阜県教育長)が「公立小学校での英語教育の目的」について次のように述べているが、この言葉は、大津教授の言葉を踏まえた上で、多分、現在の小学校英語教育(活動)の基本的な理念にしていい言葉だと思われる。

 それは、「外国語との付き合い方を教える」ということです。「付き合い方」には、言葉そのものとの付き合いと、言葉に対する偏見との付き合いも含まれます。英語を通して外国吾との付き合い方を教えるのですが、「上手い、下手」だけでない多様な英語との付き合い方、楽しみ方があることを伝えたいと思います。それが結局は「英語に慣れ親しむ」ことでもありますが、上手くなるためだけにそうするのではなく、英語と付き合うことが子ども自身にとって意味のあることに思えるような教育活動を創造することができたら、小学校で英語を教える本当の意義があるのではないでしょうか。そして、それが将来にわたっての長い外国語との付き合いの始まりになるのなら、本当の意味で一貫性のある外国語教育の一歩と言えるように思うのです。(同上・p43・44)

 私は、個人的には、日本語と英語をともに学ぶということは素晴らしいことだと思う。特に、日本語と英語は、言語としてはいろいろな意味で対照的な関係になっているので、言語教育としてはぴったりではないかと思う。大津教授は、「外国語活動」がなぜ「英語」なのだとよく言っているが、私は、「英語」だからこそ面白そうだと思う。中国語や韓国語は、ある意味では、日本語できあがる時に多大な影響を及ぼした言語であり、日本語の学習の中で、私たちは中国語や韓国語を考えることができる。しかし、英語は、もっとも日本語から遠くに離れた言語だと思う。だから、面白い。やっと今頃、そんなことを考えるようになった。