最近、日高市の住人を中心とした自然植物の観察会に参加した。たまたま、その世話人がお茶会でよく知っている人だったので、強引に参加させてもらった。これから、時間が合えば、参加して、自分たちのまわりの自然について学んでいこうと思った。ところで、私は、岐阜県中津川市のどちらかというと山沿いの農家に育ったのだが、自然にはいつも触れていたのに、そこにあった植物をあまりよく覚えていない。世話人のAさんは、専門の植物学者ではないが、それでも、とても植物のことを知っている。私の方は、折角Aさんから名前と特色を教えてもらいながら、しばらくするとすっかりその名前を忘れてしまっている。
この植物観察会は、日本の野草や樹木を中心に観察し、親しみ、お互いに親睦を深めるというのが目的であるが、始めて参加して多少は緊張していたが、和やかな雰囲気で愉しかった。同年齢の人たちが多く、話も合いそうだ。これから、他の人の足を引っ張らないようにお付き合いして、自分の得意分野を作っていけたらいいなと思った。どちらかというと、私は、野草に興味を持った。特に、万葉の頃からずっと生き延びてきた野草が気に入っている。この観察会のことは、また詳しく書いてみたい。
ところで、最近、学研のフィールドベスト図鑑『日本の野草 春』を買って、散歩の途中で写真に撮った雑草を調べている。この図鑑は、花の色を基準にして、調べやすいようにしてある。「ピンク・赤・紫・青の花」「黄色やオレンジ色の花」「白い花」「緑や褐色の花」という順に並んでいる。簡単に言うと赤、黄、白といった方がいいかもしれない。確かにこの色が私たちが見る野草のほとんどだ。私の散歩道では、白と黄の花を咲かせる野草がいちばん多かった。赤や紫などは、外来種のものが多いような印象だった。
さて、この花の花弁やがく片は葉から進化したものだそうだが、葉っぱや花が、いくつかにくびれているのは、なかなか面白い。それらにはいろいろな理由があるのだろうが、まだ、私の知らないことばかりだ。植物の数の不思議は面白そうだ。ただ、花は植物の生殖器官であり、花に色があり、香りがあり、また、形があるのは、より子孫を繁栄しやすい、つまり、より受精しやすい構造へと進化したものであることだけは確かだと思われる。
岩科司著『花はふしぎ──なぜ自然界に青いバラは存在しないのか?』(講談社ブルーバックス/2008.7.20)によれば、植物の赤い色は主としてアントシアニンという色素が、黄色はカロテノイドという色素が作り出しているという。当然、花弁は、葉っぱが進化してできたものなので、こうした色素は葉っぱにもあって、葉っぱの色を変える。紅葉はアントシアニンが増加することによるし、イチョウの葉が黄色になるのはカロテノイドが秋に増加するからである。興味深かったのは、白色は、色素のせいではないというところだ。
色は、一般にその物質から反射された光の色に見える。つまり、黄色は、黄色以外の色を吸収し、黄色の波長の光を反射しているのだ。また、白色は、すべての光を反射しているのだし、黒い色の花はすべての光を吸収していることになる。カロテノイドは、だから、黄色以外の色を吸収し、黄色を反射する色素だと言うことになる。また、アントシアニンは、赤色の光を反射してそれ以外の色を吸収している。また、黒い色というのは、ほとんど濃い赤紫色であり、これもアントシアニンの働きによるという。さて白はどうかというと、白はこうした色素の働きではなく、花の中に沢山の空気の泡があることによる。つまり石けんの細かい泡が沢山できると白く見えるのと同じように、白い花の場合は、光が乱発射しているのだそうだ。白い花をすりつぶしてみると、手が白くならないのはそのせいだということになる。
ところで、こうした花の形や色は、花粉を運ぶ昆虫たちを引きつけるために生まれた。つまり、その花に密を吸いに来て、花を受粉させる昆虫と一緒に花は進化してきた。この例として、岩科司は、「ダーウィンのラン」の話をあげている。このランは正式には、アングレクム・セスキペダレというマダガスカルに生育するランで、このランは花に距と呼ばれる最長で40センチほどにもなるチューブ状の器官があり、その中にある密を吸うためにはストロー状の長い口が必要になっている。そして、マダガスカルにはスズメガの一種に長い口を持ったものがいることが分かったという。
このスズメガの口吻の長さが距と同じか、やや短いときにこのランの花粉がスズメガの顔につき、次の花で蜜を吸うときに、花粉が別の花の雌しべにつき、受粉が成立するしくみである。
仮に距が短すぎると、スズメガは簡単に蜜を吸うことができるが、ランの花粉は運ばれない。逆に長すぎると、花粉は運ばれるが、スズメガは蜜をすうことができない。そのためにランにとっては簡単に蜜を吸われない個体が有利で、逆にスズメガにとっては少しでも口吻の長い方が確実に有利で、そのような性質を持つ個体がともに子孫を残してきた。これを長い間くり返した結果、ランとスズメガにはともに40センチもの長い距と口吻が成立したのである。(『花はふしぎ』p38・39より)
こうなると、このランとスズメガはお互いに必要となり、片方がなくなったらもう片方も生存できなくなってしまうという関係になっている。ラン科植物の場合は、あらゆる環境に適応できるのだが、多くの種が受粉という点では大きく昆虫に依存しているものが多く、絶滅の危機に陥りやすいのだそうだ。しかし、そのために花の変形は多様であり、人間は品種改良により、更に多様な花を作ってきた。そして、もうそれらの花は、昆虫ではなく、人間にだけ見られるために咲いているものがある。確かに、人間がそれを今後とも必要とするなら、人工受粉すればよい。それもまた、ランの「特殊化」なのかもしれない。
けれども、私は、人間に向かって咲いている花よりも、自然の生態系のなかで生育している、野草のほうが好きだ。人間に向かって咲いている花は、何となく不自然な印象がする。我が家の庭には、野草だけではなく、人間に向かった咲いている花々も植わっていて、雑草は、かみさんに抜かれてしまうけれども、時々生き残っているものがいる。そんなとき、私は、かみさんには悪いと思いながらも、思わず拍手をしてしまう。今のところ、植物観察会の効用があるとすれば、私にそんな思いを抱かせるようにさせたことかもしれない。