電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

野草観察の愉しさ

2010-05-23 22:19:24 | 自然・風物・科学

 最近、日高市の住人を中心とした自然植物の観察会に参加した。たまたま、その世話人がお茶会でよく知っている人だったので、強引に参加させてもらった。これから、時間が合えば、参加して、自分たちのまわりの自然について学んでいこうと思った。ところで、私は、岐阜県中津川市のどちらかというと山沿いの農家に育ったのだが、自然にはいつも触れていたのに、そこにあった植物をあまりよく覚えていない。世話人のAさんは、専門の植物学者ではないが、それでも、とても植物のことを知っている。私の方は、折角Aさんから名前と特色を教えてもらいながら、しばらくするとすっかりその名前を忘れてしまっている。

 この植物観察会は、日本の野草や樹木を中心に観察し、親しみ、お互いに親睦を深めるというのが目的であるが、始めて参加して多少は緊張していたが、和やかな雰囲気で愉しかった。同年齢の人たちが多く、話も合いそうだ。これから、他の人の足を引っ張らないようにお付き合いして、自分の得意分野を作っていけたらいいなと思った。どちらかというと、私は、野草に興味を持った。特に、万葉の頃からずっと生き延びてきた野草が気に入っている。この観察会のことは、また詳しく書いてみたい。

 ところで、最近、学研のフィールドベスト図鑑『日本の野草 春』を買って、散歩の途中で写真に撮った雑草を調べている。この図鑑は、花の色を基準にして、調べやすいようにしてある。「ピンク・赤・紫・青の花」「黄色やオレンジ色の花」「白い花」「緑や褐色の花」という順に並んでいる。簡単に言うと赤、黄、白といった方がいいかもしれない。確かにこの色が私たちが見る野草のほとんどだ。私の散歩道では、白と黄の花を咲かせる野草がいちばん多かった。赤や紫などは、外来種のものが多いような印象だった。

 さて、この花の花弁やがく片は葉から進化したものだそうだが、葉っぱや花が、いくつかにくびれているのは、なかなか面白い。それらにはいろいろな理由があるのだろうが、まだ、私の知らないことばかりだ。植物の数の不思議は面白そうだ。ただ、花は植物の生殖器官であり、花に色があり、香りがあり、また、形があるのは、より子孫を繁栄しやすい、つまり、より受精しやすい構造へと進化したものであることだけは確かだと思われる。

 岩科司著『花はふしぎ──なぜ自然界に青いバラは存在しないのか?』(講談社ブルーバックス/2008.7.20)によれば、植物の赤い色は主としてアントシアニンという色素が、黄色はカロテノイドという色素が作り出しているという。当然、花弁は、葉っぱが進化してできたものなので、こうした色素は葉っぱにもあって、葉っぱの色を変える。紅葉はアントシアニンが増加することによるし、イチョウの葉が黄色になるのはカロテノイドが秋に増加するからである。興味深かったのは、白色は、色素のせいではないというところだ。

 色は、一般にその物質から反射された光の色に見える。つまり、黄色は、黄色以外の色を吸収し、黄色の波長の光を反射しているのだ。また、白色は、すべての光を反射しているのだし、黒い色の花はすべての光を吸収していることになる。カロテノイドは、だから、黄色以外の色を吸収し、黄色を反射する色素だと言うことになる。また、アントシアニンは、赤色の光を反射してそれ以外の色を吸収している。また、黒い色というのは、ほとんど濃い赤紫色であり、これもアントシアニンの働きによるという。さて白はどうかというと、白はこうした色素の働きではなく、花の中に沢山の空気の泡があることによる。つまり石けんの細かい泡が沢山できると白く見えるのと同じように、白い花の場合は、光が乱発射しているのだそうだ。白い花をすりつぶしてみると、手が白くならないのはそのせいだということになる。

 ところで、こうした花の形や色は、花粉を運ぶ昆虫たちを引きつけるために生まれた。つまり、その花に密を吸いに来て、花を受粉させる昆虫と一緒に花は進化してきた。この例として、岩科司は、「ダーウィンのラン」の話をあげている。このランは正式には、アングレクム・セスキペダレというマダガスカルに生育するランで、このランは花に距と呼ばれる最長で40センチほどにもなるチューブ状の器官があり、その中にある密を吸うためにはストロー状の長い口が必要になっている。そして、マダガスカルにはスズメガの一種に長い口を持ったものがいることが分かったという。

 このスズメガの口吻の長さが距と同じか、やや短いときにこのランの花粉がスズメガの顔につき、次の花で蜜を吸うときに、花粉が別の花の雌しべにつき、受粉が成立するしくみである。
 仮に距が短すぎると、スズメガは簡単に蜜を吸うことができるが、ランの花粉は運ばれない。逆に長すぎると、花粉は運ばれるが、スズメガは蜜をすうことができない。そのためにランにとっては簡単に蜜を吸われない個体が有利で、逆にスズメガにとっては少しでも口吻の長い方が確実に有利で、そのような性質を持つ個体がともに子孫を残してきた。これを長い間くり返した結果、ランとスズメガにはともに40センチもの長い距と口吻が成立したのである。(『花はふしぎ』p38・39より)

 こうなると、このランとスズメガはお互いに必要となり、片方がなくなったらもう片方も生存できなくなってしまうという関係になっている。ラン科植物の場合は、あらゆる環境に適応できるのだが、多くの種が受粉という点では大きく昆虫に依存しているものが多く、絶滅の危機に陥りやすいのだそうだ。しかし、そのために花の変形は多様であり、人間は品種改良により、更に多様な花を作ってきた。そして、もうそれらの花は、昆虫ではなく、人間にだけ見られるために咲いているものがある。確かに、人間がそれを今後とも必要とするなら、人工受粉すればよい。それもまた、ランの「特殊化」なのかもしれない。

 けれども、私は、人間に向かって咲いている花よりも、自然の生態系のなかで生育している、野草のほうが好きだ。人間に向かって咲いている花は、何となく不自然な印象がする。我が家の庭には、野草だけではなく、人間に向かった咲いている花々も植わっていて、雑草は、かみさんに抜かれてしまうけれども、時々生き残っているものがいる。そんなとき、私は、かみさんには悪いと思いながらも、思わず拍手をしてしまう。今のところ、植物観察会の効用があるとすれば、私にそんな思いを抱かせるようにさせたことかもしれない。


「普天間 私も考えた」

2010-05-04 21:46:41 | 政治・経済・社会

 朝日新聞の5月4日の朝刊社会面に「普天間 私も考えた」という記事が載っていた。5月3日に「護憲パレード」「改憲集会」「銀座の街頭」で聞いた声だ。当然予想される意見が書かれている。「護憲パレード」での意見は、「他の県に移っても問題解決にはならない。フィリピンのように日本も米軍基地をなくすべきだ。基地がなければ攻撃されることもないはずだ」。一方、「改憲集会」での意見は、「ぼくなら米軍に出て行ってもらうよ。そのかわり憲法を改正して、自衛隊を軍にして任務を担わせる。当たり前だ」という。どちらも、沖縄基地撤去という考えでは一緒だ。

 これに対して、広島から銀座に旅行に来たという50代後半の夫婦の考えは、「自民党時代の辺野古案は、異なる意見を煮詰めたものだった。その意味ではベストだったのかも」というものだ。この夫婦は、夫が、「国内に移設すると必ず反対が起きる。国外に行くべきだ」というと、妻が「米軍がいなくなったら、日本を守るものがなくなる。現実的ではない」という。面白いのは、その妻が、「できもしないことを言って沖縄に期待を持たせた民主党の罪は重い。前回の衆院選で1票入れた自分の責任を感じる」と述べていることだ。

 今日、沖縄に行った鳩山首相が、沖縄県民から総スカンを喰らったのはあまりにも当然である。「最低でも県外」と発言していた鳩山首相が、「県外移設は困難」と沖縄県民に伝え、「認識が浅かった」とお詫びしたのだ。読売新聞の報道によれば、移設先について「最低でも県外」と発言したことについて、「公約というのは選挙時の党の考えということになる。私自身の代表としての発言だ」と述べ、「最低でも県外」というのは党の公約ではないとの考えを示したという。確かに、民主党のマニフェストの中には、「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」という言葉はあっても、「基地の県外移設」という言葉はない。それにしても、これには、さすがに私も「えっ」と絶句してしまった。

 最も、民主党のマニフェストについて言えば、アメリカの方で、実は、よく理解できていないようなのだ。つまり、そのくらい、何を言っているのかよく分からない表現なのだ。もちろん、私は読んでもよく分からなかった。毎日新聞社の古森義久著『アメリカが日本を捨てるとき』(PHP新書/2010.4.30)によれば、アメリカの対日政策に携わっている高官たちが、この民主党のマニフェストを読んで、困惑していたそうだ。そして、鳩山首相の「東アジア共同体を目指してのアジア集団安保体制」論に、疑惑を抱いているようだ。その上、「対等な日米同盟」という言葉を聞けば、なおさらだ。

 私たちは、この鳩山首相振る舞いに気を取られていてはいけない。本当は、私たちは、今、沖縄の普天間基地をどうするかをめぐって、とても重要な問題に突き当たっているのだ。過去のではなく、今の「戦争と平和」について私たちは、どういう立場を取ればいいかということが今問われていると言ってもよい。そして、その中で、日本とアメリカとの関係は、どうあらねばならないかということが問われているのだ。アメリカは、沖縄の基地問題が紛糾してくる中で、今、やっと、日本の位置づけを渋々ながら本格的に考え始めたところだと言える。オバマ大統領やクリントン国務長官の言動から考えると、最近のアメリカにとって今いちばん大事な問題は、対中政策であり、日本の問題などあまり重要視していなかったと言った方がよい。

 先に引用した朝日新聞の護憲派、改憲派、そして市民の夫婦の言葉のいずれも私たちのとる立場ではないと思う。私たちは、それとはちがう、新しい立場を見つけなければならない。なぜなら、それらは、いずれも、現実的ではなく、また、日本のため(国益)にもはならないからだ。日本という国は、アメリカと中国という大国に挟まれて存在している。アメリカと中国という国の間でどう生きていくのかということが、これからの日本の大きな課題だと思われる。沖縄の普天間基地を撤去すると言うことは、本当は、日米安保条約の改定ということを含んだ問題だ。そして、今や日米安保条約については、中国の存在を抜きにしては語れないし、語っても意味がない。

 今、中国では、奇しくも、上海万博が始まったばかりだ。そして、その中国を北朝鮮の金正日総書記が訪れていた。足を引きずりながら歩く金正日総書記の姿が、テレビで報道されていた。そして、その映像と一緒に、私たちは沖縄県民の前で無様な姿をさらした鳩山首相の映像を見せつけられた。一方では、連休中の帰省から帰りの高速道路の渋滞が気の遠くなるような長さになっているかと思えば、他方では、上海万博には、1日20万人以上の入場者があり、日本館にも沢山の人たちが押しかけている。

 沖縄の普天間基地問題は、当分は、解決してはいけないのだ。というより、そう簡単に解決などできるはずがない。ある意味では、憲法など関係ないといっても良い。私たちは、日本にアメリカ軍の基地があることにこれまでならされてきた。それが、本当に役に立っていたのかなど考えてこなかったのではないか。私たちは、「戦争の解決の手段として軍隊に依存しない」という憲法を持っていながら、戦争を解決する手段について、本当に考えてきただろうか。私たち日本人は、アメリカの「核の傘」の下で、平和ぼけしながら、経済的な成功を実現してきただけではないだろうか。そのほかに、私たちは、何をしてきただろうか。何もしてこなかった。しかし、これからは、何ができるかを考えるべきだ。これまで築いてきた経済的な成功さえ今や危うくなってきた今こそ、私たちが本当にできることは何かをじっくりと考えて見るべき時だと思う。それしか、方法はない。そして、もし、それが分かったら、それこそが、基地に代わる何かになるのだと考えるしかないと思われる。