電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

人を殺してはいけないということ

2007-07-22 23:06:24 | 子ども・教育

 最近子どもが友達を殺してしまうという事件がよく起きている。また、いじめで、自殺をしてしまうという子どもも増えてきた。簡単に、自他の生命を殺してしまうことが、まだ幼い子どもたちの間で起きていることにショックを受けて、文部科学省では、「生命の尊重」ということをスローガンにして、学校で命の大切さを教えて行くことを大きな課題にしている。そして、そのために道徳の時間を教育再生会議では教科にしようということにもなる。しかし、子どもたちが、簡単に殺人を犯したり、自殺をしたりしまうということを防ぐためには、それでいいのだろうか。

 私は、人間というのは、生まれながらにして人を殺してはいけないということがインプリンティングされた存在だと思っている。つまり、本能的なレベルでは、人は人を殺せないのだと思う。『歎異抄』の中で、親鸞が述べているように、人は、「機縁」がなければ、人を殺さないものであるのだ。人を殺してはいけない理由は沢山挙げられる。しかし、そんな理由によって人は、人を殺さないのではない。人は、成長するに従って、人を殺してはいけないという心情を持つようにプルグラムされているのだと言っても良い。人は、生まれて、父親や母親に慈しまれながら育つことによって、人の存在の大切さを知るのであり、自分とは違う人の存在こそが自分の存在の根拠であることを自覚するのである。

 それでは、なぜ、人は人を殺してしまうのだろうか。『誇大自己症候群』(ちくま新書)や『脳内汚染』(文藝春秋刊)を書き、現在京都医療少年院に勤務している精神科医の岡田尊司は、「脳内汚染」によっても、人を殺すことができるようになるという。岡田は近著『脳内汚染からの脱出』(文春新書/2007.5.20)で次のように述べている。

 生物には、同種のものを殺すことを抑止する仕組みが備わっている。その禁止プログラムは、通常はとても強力なもので、たとえ法律的に正当な理由があって人の命を奪う場合も、激しい抵抗感と思いストレスを生む。(同書/p107より)

 法律的に正当な理由がある場合とは、死刑の執行や、戦争、そして、正当防衛でやむを得ず殺してしまうときなどである。ここで、岡田は、アメリカの軍事評論家のデーヴ・グロスマンの著書『殺人論』に基づきながら、戦場での兵士たちの行動と心理を紹介している。

 戦場でもっとも強いストレスは、敵と顔を合わせ、殺そうと決意して攻撃を行い、自分の行為の結果として、めのまえで一人一人の人間が死んでいくのを目撃することだという。それは、最も根源的で、外傷的な体験となる。
 多くの軍事パイロットも、敵を撃つことにためらいを覚えてきた。撃墜するどころか、撃とうとさえしないパイロットが、大方を占めたという。グウィン・ダイアによると、実際、戦果の四割は、わずか1%のパイロットによってもたらされていたのである。といって、他のパイロット達が、勇気がないわけではなかった。彼らは編隊を組んで適地へと乗り込み、当然そこでは、危険にさらされたのである。攻撃しないことは、むしろ自分の命が脅かされること意味した。だが、彼らは撃たなかったのだ。(同上・p107・108より)

 アメリカという国の恐ろしいところは、こうした心理的な人間性を理解して上で、「殺人に対する抑止を取り去る方法」を考えて実践するところにある。そのための方法とは、「脱感作」と「オペラント条件付け」と「否認」という防衛メカニズムである。「脱感作」とは、恐怖や不快なことでも何度も体験させることにより、感覚麻痺を起こし、平気になってしまう現象のことである。また、「オペランド条件付け」とは、一定の状況下で、ある刺激が提示されると、特定の行動を行うことを学習させることである。最後に、「否認」とは事実を本当だと認めないことにより、自分の心を守る仕組みのことである。

 「脱感作」については、次のように述べられている。

 軍隊では、敵を殺すことが愉快な行為として語られることが好まれる。心の底から、そう思ってはいなくても、敵の命を虫けらのように扱い、それを踏みにじることを楽しむような口ぶりが賞賛されるのだ。最初は、違和感を覚えていても、爆弾を落としたり、ミサイルを撃ち込むことを、トイレで用を足してきたくらいに笑いめかして話しているのを聞き、一緒になって笑っているうちに、次第に暴力や殺人行為を、大したことに思わない態度や心構えが作られて行くのである。(同上・p109より)

 「オペランド条件付け」について。

 軍隊の射撃訓練には、かって、「ブルズ・アイ(雄牛の目)」と呼ばれる、黒丸の標的が使われてきた。ところが、先ほども述べたように、実際に戦場に出てみると、人間に向かって引き金を引くことができた者は、わずか15~20%に留まったのである。 
 そこで、従来のブルズ・アイに代わって、導入されたのが、ポップ・アップ式の人型シルエットである。バネ仕掛けで、人間の形に切り取られた板が、突然起き上がるというごく単純な仕掛けである。起き上がった瞬間に、兵士達は発砲する訓練を下のである。標的に命中すれば、標的は再び倒れる。そして、標的を沢山倒した兵士は、ポイントが貯まると、バッジを貰えたり、休暇を与え足りする。
 たったこれだけの訓練法の変更であったが、その効果は驚くべきものがあった、そうして訓練を受けた兵士達が送り込まれたヴェトナム戦争では、発砲率は90~95%にも達し他のである。(同上・p111より)

 最後に「否認」について。

 この否認のメカニズムを容易にしているのが、高度なシミュレーション訓練だと言える。現実に似せた訓練を重ねた兵士は、現実の出来事も、また訓練の延長のように思いこむことで、現実感や共感性を働かすことから免れるのである。訓練の標的が、人間ではなくモノであったのと同じように、それと似た現実での出来事も、人間ではなく、モノをターゲットにしていると錯覚することができるのである。
 そんな馬鹿なと思う方もいらっしゃるだろう。だが、最近の研究では、相手が人間だと感じるか、もんだと感じるかは、現実に相手が人間かモノかではなく、その人の心の持ちようによるということが裏付けられている。(同上・p113より)

 私には、イラク戦争で、アメリカ兵たち自身が撮影したという、アメリカ兵達の非人間的な行為がなぜ行われたかが、やっと納得できた。また、現在、なぜ、人間の命が軽んじられているのかという理由もよく分かるような気がする。私たちは、テレビの映像や、テレビゲームの映像で、何度となく衝撃的な場面を眺めたり、残忍な気分になったりしている。その上、電車の乗客など単なる風景であって、自分勝手に携帯を使ったり、化粧したりしている人たちは、おそらく、人間を人間として見ていないに違いない。こうした事態を、岡田尊司は、「希薄な現実感と乏しい共感性」という。これは、学校の道徳の時間で解決できるような問題だとはとても思われないことだけは、確かだ。


両眼視野闘争

2007-07-01 22:15:38 | 自然・風物・科学

 私の左眼は、まだ、余りよく見えない。出血は止まり、少しずつ出血した血が吸収されているようだが、視力が元通りになることは多分ないと思われる。問題はどのくらいまで見られるようになるかだ。左目では、今のところ読書ができない。左目で見られる像は、ゆがんでいるだけでなく、中心部では色覚も異常を来していて、赤とか黄色がほとんど認識できない。しかし、部分的にゆがんでいる故に、所々視力が右目よりはっきりしているところがある。そうすると、私はとても見づらい状態になる。

 しばらく前までは、左目がほとんど見えなくなっていて、特に文字などは、左目では全く読めなかった。その時は、逆に本など読むときはわりと楽だったような気がする。つまり、左目が右目と違った見え方をし始めたために、どうやら私の脳の中で「両眼視野闘争」が起きているらしい。この「両眼視野闘争」というのは、茂木健一郎が、『クオリア入門』(ちくま学芸文庫)の中で、「主観性」の問題として論じている。いわば、茂木は、この「両眼視野闘争」から、「感覚的なクオリア」と「志向的なクオリア」を区別することを発見した現象だ。

 私たちの左目と右目から入る像は、それぞれ異なる視角から見ているから、一般には異なっている。しかし、私たちが外界を見るとき、その視角像は、視野の中に広がる統合されたイメージとして現れる。「両眼視野闘争」とは、私たちの脳が、左目と右目から入った異なる視角像から、いかにして統合された単一の視角像を作り上げるかという問題である。この問題は、しばしば、左目からの視角像と右目からの視角像のどちらを優先させるかという二者択一の「闘争」として現れるので、この現象を両眼視野闘争と呼ぶのである。(『クオリア入門』p128より)

 多少違っていてもほとんど同じように見えている視角像の場合は、どちらかが優先させられることになり、大抵それは効き目からの視角像が優先され、もう片方の眼からの視角像は、奥行きの知覚をもたらす働きをしているとはいえ、無視される。つまり、両眼視野闘争の結果、効き目からの「感覚的クオリア」がもう片方の「感覚的クオリア」を覆い隠して、志向されていることになる。

 ところで、こうした人間の眼に、それぞれ違うものを見せたらどうなるか。例えば、少し工夫して、左目には縦縞の像を、右目には横縞の像を見せたらどうなるかという実験である。この実験の結果は、驚くべき結果となる。視野のある部分では縦縞が見え、他の部分では横縞が見えることになるのだが、その領域の分布がドラマティックの変化するという。この「縦縞VS横縞」の組み合わせによる両眼視野闘争の結果は、次の三点に要約されるという。

(1) 視野のある特定の部分においては、二つの刺激(縦縞あるいは横縞)のうちの、どちらか一方だけが見える。両方が「融合」したような刺激が見えることはない。その意味で、視野のある特定の部分における「見え」は、排他的な、二者択一である。
(2) 二つの刺激が見える領域の間の境界は、ナイフで切ったように鋭利なものである。二つの領域の間に、ゆっくりと変化する中間的な領域が挟まれるということはない。
(3) 二つの刺激が見える領域は、刻一刻と変化する。その変化を自分の意志でコントロールすることはできないように思われる。(同上・p141より)

 茂木健一郎は、ここから、感覚的なクオリアだけでなく、志向的なクオリアの存在の発見へと進んでいくのだが、私には、(3)の「自分の意志でコントロールすることはできないように思われる」ということが気になった。確かに、左目と右目が全く別なものを見ていた場合、脳は、混乱するほかないのだろう。そして、感覚器官を通して作り出された視角像であるが故に、それは強固にそれぞれが自己主張するのである。つまり、私たちはそうした場合は、どちらか片方を、眼帯で見えなくしてしまうほかないのだと思われる。私の左目は、もう少し正常になるまで、あまり見えない方が疲れないような気がする。多見えると、そのためにとても疲れる。

 しかし、左目と右目の像の違いを毎日確かめながら(つまり、回復しているかどうかを確かめながらということだが)、人間の視覚の不思議が実感させられる。私たちは、単純に外観を反映した像を眺めている訳ではなく、視覚を通して、外界からの情報を色々加工しながら知覚しているのであって、その結果あたかも外界がそうでありそうな視角像を作り上げているのだ。私の左目の世界では、赤や黄色が正常に認識されない。私の左目の黄斑では、赤や黄色に正常に反応できないような状態が起きているだけのことだが、それだけでも風景は一変してしまう。しかし、今のところは、基本的には同じ対象を見ている訳なので、両眼視野闘争の結果、右目優位で何となく過ごすことができるということになる。