電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ジェンダーについて

2009-11-23 16:49:03 | 政治・経済・社会

 生物学的な「性」(セックス)については、かつて福岡伸一の『できそこないの男たち』から学んだ。そこで私たちは、「アリマキ」を通して、生物にとっての「性」とは何かを知った。つまりそこでの「性」の仕組みは、子孫をいかに生物学的に繁栄させていくかに基礎づけられており、デフォルトでは「メス」である生物は、種としての自分たちの遺伝子を豊かにするためにだけ「オス」を必要としているのだ。だから、最もシンプルな生物には、生殖したら死んでいくだけの「オス」が存在している。そうした世界では、「メス」と「オス」の違いや役割は実に明快なのであり、人間もまた、そうした側面を引き継いでいる。

 この意味では、生物学的には、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉は間違っていて、「人は男に生まれるのではない、男になるのだ」というのが正しい。しかし、生物学的な「性」を、いわゆる社会学的な「性」(ジェンダー)に繋げていくためにはいくつかの段階があり、難しい問題をはらんでいる。とにかく、人間の場合は、生物学的な「性」から乖離してしまったところに、「性」の問題が存在しているといってもいいくらいだ。だから、私たちは、「ジェンダー」という言葉を作ったのだと考えた方がいい。

 斎藤環著『関係する女 所有する男』(講談社現代新書/2009.9.20)は、こうした生物学的な「性」から、乖離してしまった社会的な「性」(ジェンダー)について、積極的に論じている。今更、私たちは、「性」を生殖という観点から考察しても、あまり得るものはないように思われる。確かに、私たちもまた生殖のためにセックスをする。しかし、そうした男女二人が、80年近い年月を一人か二人の子どもを生み育てるためにだけ存在していると考えるのは、間違いではないにしても、正当ではないと思われる。況んや、独身者や子どものいない男女を差別してはいけないという考えが正当だとすれば、「性」は根本的に見直される以外に仕方がない。

 ジェンダーとしての男女の差異は、事実としては存在するが、権利としては存在しない。女と男は違っている。当たり前だ。しかし、この差異は「男らしさ」「女らしさ」という表現において、しばしばループする。現実から理念が生まれ、理念がふたたび現実を作る。そういう「ループ」だ。
 こうした「ループ」の起源は、そのまま僕たちの生きる現場でもある。「現場」とは、まず家庭であり、子育てであり、ついで教育であり、世間でもある。しかし果たして「女は女らしく、男は男らしく」という教育方針は、現代においてどれほどの価値を持っているのだろうか?(関係する女 所有する男』p4・5)

 現実的な男女差について、斎藤環は「ジェンダー・センシティブ」という立場から、「あらゆる個人が、ジェンダーゆえの不利益を一方的に被ることがないように制度や規範を調整すること」の大切さを強調している。そして、利益のバランスをとるためには、平等が望ましい場合もあれば、区分をもうけたほうが良い場合もあるという柔軟な現実感覚を述べている。つまり、「性」的な差異については、「理念に対する忠実さよりも、ここでは常識のほうが高い価値を持つ」と考えている。

 この点では、斎藤環が、村上春樹の『海辺のカフカ』で、主人公のカフカ少年が訪れた四国・高松の甲村記念図書館に、二人のフェミニストらしい女性が、やってきて、「トイレが男女別でない」とか「分類カードで男が女より先にある」とかとクレームをつける場面を取り上げ、村上春樹のフェミニストに対する蔑視の視線を問題にしているところが面白かった。ここで斎藤環は、そういうフェミニストも問題だが、そのフェミニストの批判を「大島さん」にやらせるのはフェアではないと言っている。

 僕は村上春樹ファンだけど、この司書のセクシャアリティ設定だけは、ちょっと卑怯じゃないかと感じた。「大島さん」の批判に迫力があるのは、「彼」が女性の身体を持っているからだ。つまり「大島さん」はFTM(Female to Male)という過酷なジェンダーの宿命を戦ってきた人であり、その重圧な履歴の前には、そこらの浅薄なフェミニストの主張など瞬殺だ、というニュアンスが透けてみえるのだ。
「大島さん」の主張は、それはそれでいい。僕が問題にしているのは、硬直したシステムの代表としてフェミニズムをやり玉にあげるという作者の選択だ。別にマルクス主義でも官僚主義でもいいはずなのに、この選択はちょっとどうかと思う。思わぬ形で村上春樹のミソジニー(女性嫌悪)を知らされたような、ちょっといやな気分だった。(同上・p38)

 私も、ちょうど村上春樹の長編の全作品を読み直していて、この『海辺のカフカ』の場面を印象深く読んだ。ある意味では、村上春樹の主人公「僕」と登場する女性たちの精神分析を斎藤環はしている。「関係する女」「所有する男」という概念は、とても納得できる。もちろん、斎藤は、現実の女性原理が「関係」の原理を基本とし、男性原理が「所有」の原理を基本としているという言っているだけで、そうでなければならないと言っているわけではないことは注意しておいたほうがいい。むしろ、斎藤は、人間は、男であれ女であれ、「関係」の原理を選ぶのか、「所有」の原理を選ぶのかは自由であると言っている。

 斎藤環によれば、一青窈(ひととよう)の言葉、「(思い出を)男はフォルダ保存、女は上書き保存」は、「所有」と「関係」の原理を上手く言い表していると言う。

 男は恋愛感情の思い出を、別々の「フォルダ」にいつまでもとっておける。だからこそ、同時に複数の異性と交際できるのである。もちろん現在の恋人には、もっとも大きなフォルダがあてがわれるだろう。複数の恋人がいる場合は、本命、二番手、三番手とフォルダの大きさが小さくなる。女性にとっては驚きかもしれないが、過去の恋人に対しても、実は小さめのフォルダがずっと残ることになる。(中略)
 いっぽう女は、現在の関係こそがすべてだ。女にとって性関係とは、まさにあらゆる感情の器におはならず、それゆえ「一度に一人」が原則だ。新しい恋人が出来るたびに、過去の男は消去(デリート)され、新たな関係が「上書き」される。恋人フォルダには一人分の容量しかないからだ。(同上・p166・167より)

 これは、あくまでも現実の男と女について一般的にいえることであるが、斉藤は、これを固定的とらえているわけではない。この人間の欲望の「所有原理」と「関係原理」は、ジェンダーと絶対的・固定的に結びついているわけではない。斉藤環の面白さは、この先にあるようだ。

 だから所有原理を主張する女性がいてもいいし、関係原理にこだわる男性がいてもいい。僕の知る限りでは、ゲイの欲望には、しばしば所有原理と関係原理が共存しているように思う。実は、この二大原理を踏まえて欲望を考えることは、男と女という単純すぎる二項対立から離れて、ゲイやレズビアン、性同一障害など、多様なセクシャル・マイノリティの欲望について考察をすすめるための準備運動でもあるのだ。(中略)
 圧倒的なまでに「所有者」が支配するこの「世界」の中で、いかにして「関係者」の存在を認識していくか。これはジェンダー・センシティブであろうとする態度から導かれた、もう一つの問いかけである。(同上・p246~248より)

 ここまでくると、もう「ジェンダー」という言葉は、「性」というより「欲望」または「意識」の原理のようなものととらえられている。私は、人間の「性」が生物学的な「性」から乖離し始めたとき、こうした問題を孕んだのだと思われる。私たちは、おそらく、経済と医学の進歩により、人間としての寿命を延ばしてきた。そして、それは、たぶん生物としては未知な世界なのだと思う。つまり、そこは「遺伝子」が保証していない世界なのだ。ジェンダーや成人病や老人介護問題などは、「遺伝子」には組み込まれていない問題であることは確かだ。そして、それ故にこそ、人間的な問題なのだ。斉藤環の主張は、今のところもっとも妥当な人間の「性」についての一つの考え方と思われる。


民主党政権に対する20%の期待と80%の不安

2009-11-08 00:34:24 | 政治・経済・社会

 まるでパレートの法則みたいだが、これが自民党と政権交代した民主党内閣に対する私の現段階の感想だ。民主党のマニフェストに書かれている公約は実にたくさんあるが、それぞれの公約は国民全ての利益になるものではない。大体において、選挙公約というものは全ての国民1人1人が自分たちの利益になるものというより、特定の人々の利益になることを掲げたものである。それを自分たちの利益だと考えた人たちが、その政党を支持するわけだ。しかし、今回の民主党の衆議院選挙の圧勝は、そうした選挙公約を理解し、それを支持して民主党に投票したと言うより、今までの自民党政権に対する批判票として投票したという側面を持っている。

 今話題の、四ツ場ダムの建設中止、高速道路の無料化、沖縄基地の見直し、農家への所得補償などについて見ればすぐ分かると思われるが、それらは賛成と反対がはっきりと際だち、大きな混乱を生んでいる。はっきりしていることは、こうした民主党の政策が特定の人たちには利益になり、別の人たちには不利益になると言うことだ。もちろん、これらの民主党の政策が上手く実現されるのかどうかは、今のところ不確定である。むしろ、これらは新しい政策というより、これまでの自民党政権によってやってきたことをひっくり返そうとした政策で、それだけ抵抗が大きい。これが、既成事実の重みだと言うことができる。

 一度決めたことを白紙に戻したり、あるいは見直したりすることは、別に悪いことではない。しかし、考えてみれば、過去の決定にはそれなりの根拠があったのであり、それを覆すためには相当な力が必要になる。国の政策である以上、決定の変更には理論的な根拠と経済的な根拠が必要である。私には、現在の所、変更の根拠は、きわめて脆弱だと思われる。私が20%の期待というとき、こうした問題を含みながらも、既成事実の上に組み立てられた過去の国の政策を見直すことは、今までの日本をよりよく変えてくれそうな期待を残しているからだ。既成事実のというのは、なかなか変えられない。私たちの生活でもそうだ。そういう意味では、とても勇気のあることだし、特に長く自民党政権が続いていたこをを考えれば、必要なことでもある。ただ、叩けば埃が出るからと言って、検討もせずにすべてを否定することだけは避けてもらいたい。

 そして、80%の不安と言うとき、マニフェストに書いて、それで当選したのだから、その公約は無理矢理にでも実現しなければならないと考えている民主党の不安定さである。おそらくは、民主党のうちの何人かは、そんなことなぜ書いたのかと疑問に思っているに違いない。それは、自民党に対抗するために書かれてたマニフェストなのであり、本来はそんなに違っていなかった政策をより違いをつけるために追加して行ったためである。つまり、ある意味では万年野党的な公約だった言うべきかもしれない。

 現在の臨時国会の野党の民主党内閣に対する追求の仕方を見ていると、とても不思議な気持ちがしてくる。特に、自民党の追求の仕方は、「本当にそんなことができるのか」ということと「それはもう動き始めたことだから、やめるべきではない」という主張に要約される。まあ、これはこれで自分たちがやってきた政策だから仕方がないのだが、あまりに後ろ向き的な追求の仕方ではある。これに対しての民主党の応答は、なれていないと言うか、初めての体験なので仕方がないのかもしれないが、あまりにもお粗末な気がする。こちらは、それで選挙に勝ったのだからやるしかないのだと言う返事しかしていないように思われる。

 そんな論争を尻目にと言うべきか、あまりに膨大な予算が組まれようとしている。今までとは、はっきり違う政策が行われようとしていることだけは確かだ。全ての国民に平等に利益になるようにという政策は、本当はまやかしである。そんなことはありえない。どんな政策も、それが政策として打ち出される以上、誰かの利益を損なっているはずなのだ。そうでなければ、そんな政策はとっくに現実が解決しているに違いない。政治経済的な構造とはそういうものだと思う。いずれ、とても沢山の税金が必要になって来ることだけは確かである。そのとき、国民1人1人から平等に税金を取ることが可能かどうか、今から考えておくべきだろう。そして、民主党は、自分たちがどんな日本をつくろうとしているか、明確なビジョンを打ち出すことが必要になるに違いない。

 本当にそうできるかどうかは別にして、四ツ場ダムは、造らなくて済むものならやめた方がいいに決まっている。また、高速道路は無料の方がいいし、沖縄には基地などないほうが良いに決まっている。ただ、農家への所得補償についてだけは、私にはよく理解できない。これは日本の農業とは何かという大きな問題がある。日本が本当に貿易立国としてこれからもやっていくのなら、農業などもっと工業化してしまったほうが良さそうに思われる。どちらかというと合理的でないの農業を奨励するような所得補償の意味がよく分からない。多分、これは、経済合理性からやがて消えて行かざるを得ない農家に対する補助のようなものとしての役割しかないように思われる。

 と言うことを考えながら、民主党の公約を一つ一つ点検していけば、それが今の日本を変える素晴らしい政策であることでないことだけはよく分かる。政策としては、場合によっては今の日本をもっと悪くすることになるかもしれないとさえ思われるものもありそうだ。確かなことは、今のところ、民主党に代わりうる政党はいないし、自民党が民主党に代わるためには、また何年かかかることなりそうだ。そうした、とても不安定な状態を見ていると、民主党自体が分解しそうな恐れさえある。それが、80%の不安の中身である。いずれ、民主党は今のやり方を変えるときが来るに違いない。つまり、政治的な危機が遠からずやってきそうな気がして仕方がない。そのときは、選挙のためだけのような個々の公約ではなく、民主党のビジョンが問われるときだ。


「北澤美術館」

2009-11-03 22:46:17 | 生活・文化

 1日に中津川に行った。前回に行ったと同じように、かみさんの運転で、親父の見舞いと中津川の実家の処理について親族会議。今回は、早めに終わったので、その足で諏訪に向かい、諏訪に泊まる。宿泊は、「ルートイン・上諏訪」。中津川を午後4時頃出たのだが、途中で激しい雨になり、中央高速を時速70Km~80Kmくらいで走る。ホテルに着いた時も、激しい雨だった。ホテルは、上諏訪駅のすぐ近くにあるのだが、日曜日だということと、雨のせいで、夕食を食べるところがなかなか見つからなかった。上諏訪駅前の蕎麦屋に入り、冷酒を飲みながら「蕎麦御前」を食べる。

 次の日は、昨日の雨などまるで嘘のようによく晴れた天気だった。しかし、気温はまるで冬のように低い。今日の目的は、諏訪大社で家内安全の祈願をすることと、北澤美術館に寄ることだった。諏訪にはかみさんと何度も来ているが、いつも通り過ぎるか、諏訪大社に寄ってすぐ帰るかで、泊まったことはなかった。もちろん、私は別の機会に、諏訪に泊まったことがあるが、かみさんと一緒に泊まったことはない。折角、泊まるのなら、是非、北澤美術館の寄りたいというのが、前からの望みだった。

 「ルートイン」は、私とかみさんが一緒の場合は、たいてい泊まる。会員になっていて、ポイント制になっていので、5パーセントのバックがある。最近は、温泉宿に泊まるより、こうした一種のビジネス・ホテルに泊まり、夕食は地元の面白いお店に行ったほうが、やすくて美味しいものが食べられる。温泉宿の豪華な宴会料理は、とても食べきれないし、自分ですきなものを選べない。というわけで、最近は「ルートイン」をよく利用している。10月中旬の函館旅行も「ホテルグランティア函館駅前」を利用した。夜の函館の街探訪もまた楽しかった。また、「ルートイン」には、たいてい大浴場がついており、「ルートイン・上諏訪」の大浴場は、なかなかの温泉だった。

 ところで、北澤美術館には、フランス近代ガラス工芸の巨匠、エミール・ガレとドーム兄弟のガラス細工が展示されている。北澤美術館は、株式会社キッツが出資した財団法人北澤美術館が運営している美術館で、諏訪には本館と新館があり、清里に清里北澤美術館がある。新館には、日本最大級のガラスミュージアムショップがある。かみさんは、どちらかというと、箱根仙石原にある箱根ガラスの森美術館が好きらしいが、そこはヴェネチアン・グラスである。

 私たちは、まず、9時少し前に諏訪大社に寄り、9時から始まる祈祷を済ませ、北澤美術館の本館に向かった。本館は、諏訪湖の北側にあり、1階はアール・ヌーヴォーからアール・デコ期のガラス工芸コレクションの常設展示なっている。また、2階は東山魁夷や杉山寧などの現代日本が巨匠のコレクションの常設展示だ。1階も2階もそんなに広くはないが、特に2階では、中央の椅子に腰掛けて、ゆったりと日本画が鑑賞できる。そして、その部屋から出て、喫茶室に入り、紅茶のケーキセットを注文し、諏訪湖を眺める。諏訪湖畔沿いの遊歩道に植わっている落葉樹はすっかり紅葉し、ススキの白い穂が風に揺られている。時々、散歩をしている人がいるが、もうすっかり今日は、冬支度のようだ。

 本館で1時間ほど過ごしてから、ちょうど諏訪湖の反対側にある北澤美術館の新館に向かう。こちらは、2階がガレ、ドーム、ラリックの3大コレクションの企画展示になっていて壮観である。私の個人的好みから言えば、ガレよりもドームの繊細なデザインの方が気に入った。ガレの草花は華やかだが、ドーム兄弟の草花は繊細で可憐である。それらは、私たちに不思議な安らぎを与えてくれる。私は、備え付けの椅子に座って、仄かにライティングされて、薄暗がりの中に浮かぶ、ガラスの花器をしばらく眺めていた。かみさんも、珍しく静かに光の饗宴にしたっているようだった。

 ところで、新館の1階はとても大きなガラスショップになっていて、じっくり見ていると疲れてしまいそうな所だ。かみさんは、ガラスの箸置きのセットとネックレスを買った。それから、新館の中にあるレストランで昼食を食べる。本館と新館と併せて1000円の入館料になっていて、そんなに高いわけではないが、ついついガラスの工芸品を買ってしまうので、思わぬ出費になったりする。新館を昼少し過ぎに出たが、諏訪は少し曇りはじめ、空気はひんやりとしていた。天気予報では夜に雪になるかもしれないと言っていた。

 私たちは、追われるように、諏訪インターから中央自動車道に入ったのだが、そのとき、北澤美術館・新館が「諏訪湖SA」のすぐしたにあったことに気がついた。そんなものなのだ。道路は、空いていて、3時前に飯能に帰り着いた。圏央道の狭山・日高を出た時、1500円と表示された。高速料金は2日もかなり割引されているようだ。ところで、今日は、本当は仕事があったのだが、私は有給を取った。せわしない旅行ではあったが、精神的は今回はとてもゆったりとした旅行だった。多分そう感じたのは、中津川の親父の病気の症状と実家の処理の仕方がそれなりに良かったからだと思われる。ただ、これからは仕事がとても忙しくなり、旅行どころではなくなるのが気になる。