生物学的な「性」(セックス)については、かつて福岡伸一の『できそこないの男たち』から学んだ。そこで私たちは、「アリマキ」を通して、生物にとっての「性」とは何かを知った。つまりそこでの「性」の仕組みは、子孫をいかに生物学的に繁栄させていくかに基礎づけられており、デフォルトでは「メス」である生物は、種としての自分たちの遺伝子を豊かにするためにだけ「オス」を必要としているのだ。だから、最もシンプルな生物には、生殖したら死んでいくだけの「オス」が存在している。そうした世界では、「メス」と「オス」の違いや役割は実に明快なのであり、人間もまた、そうした側面を引き継いでいる。
この意味では、生物学的には、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉は間違っていて、「人は男に生まれるのではない、男になるのだ」というのが正しい。しかし、生物学的な「性」を、いわゆる社会学的な「性」(ジェンダー)に繋げていくためにはいくつかの段階があり、難しい問題をはらんでいる。とにかく、人間の場合は、生物学的な「性」から乖離してしまったところに、「性」の問題が存在しているといってもいいくらいだ。だから、私たちは、「ジェンダー」という言葉を作ったのだと考えた方がいい。
斎藤環著『関係する女 所有する男』(講談社現代新書/2009.9.20)は、こうした生物学的な「性」から、乖離してしまった社会的な「性」(ジェンダー)について、積極的に論じている。今更、私たちは、「性」を生殖という観点から考察しても、あまり得るものはないように思われる。確かに、私たちもまた生殖のためにセックスをする。しかし、そうした男女二人が、80年近い年月を一人か二人の子どもを生み育てるためにだけ存在していると考えるのは、間違いではないにしても、正当ではないと思われる。況んや、独身者や子どものいない男女を差別してはいけないという考えが正当だとすれば、「性」は根本的に見直される以外に仕方がない。
ジェンダーとしての男女の差異は、事実としては存在するが、権利としては存在しない。女と男は違っている。当たり前だ。しかし、この差異は「男らしさ」「女らしさ」という表現において、しばしばループする。現実から理念が生まれ、理念がふたたび現実を作る。そういう「ループ」だ。
こうした「ループ」の起源は、そのまま僕たちの生きる現場でもある。「現場」とは、まず家庭であり、子育てであり、ついで教育であり、世間でもある。しかし果たして「女は女らしく、男は男らしく」という教育方針は、現代においてどれほどの価値を持っているのだろうか?(関係する女 所有する男』p4・5)
現実的な男女差について、斎藤環は「ジェンダー・センシティブ」という立場から、「あらゆる個人が、ジェンダーゆえの不利益を一方的に被ることがないように制度や規範を調整すること」の大切さを強調している。そして、利益のバランスをとるためには、平等が望ましい場合もあれば、区分をもうけたほうが良い場合もあるという柔軟な現実感覚を述べている。つまり、「性」的な差異については、「理念に対する忠実さよりも、ここでは常識のほうが高い価値を持つ」と考えている。
この点では、斎藤環が、村上春樹の『海辺のカフカ』で、主人公のカフカ少年が訪れた四国・高松の甲村記念図書館に、二人のフェミニストらしい女性が、やってきて、「トイレが男女別でない」とか「分類カードで男が女より先にある」とかとクレームをつける場面を取り上げ、村上春樹のフェミニストに対する蔑視の視線を問題にしているところが面白かった。ここで斎藤環は、そういうフェミニストも問題だが、そのフェミニストの批判を「大島さん」にやらせるのはフェアではないと言っている。
僕は村上春樹ファンだけど、この司書のセクシャアリティ設定だけは、ちょっと卑怯じゃないかと感じた。「大島さん」の批判に迫力があるのは、「彼」が女性の身体を持っているからだ。つまり「大島さん」はFTM(Female to Male)という過酷なジェンダーの宿命を戦ってきた人であり、その重圧な履歴の前には、そこらの浅薄なフェミニストの主張など瞬殺だ、というニュアンスが透けてみえるのだ。
「大島さん」の主張は、それはそれでいい。僕が問題にしているのは、硬直したシステムの代表としてフェミニズムをやり玉にあげるという作者の選択だ。別にマルクス主義でも官僚主義でもいいはずなのに、この選択はちょっとどうかと思う。思わぬ形で村上春樹のミソジニー(女性嫌悪)を知らされたような、ちょっといやな気分だった。(同上・p38)
私も、ちょうど村上春樹の長編の全作品を読み直していて、この『海辺のカフカ』の場面を印象深く読んだ。ある意味では、村上春樹の主人公「僕」と登場する女性たちの精神分析を斎藤環はしている。「関係する女」「所有する男」という概念は、とても納得できる。もちろん、斎藤は、現実の女性原理が「関係」の原理を基本とし、男性原理が「所有」の原理を基本としているという言っているだけで、そうでなければならないと言っているわけではないことは注意しておいたほうがいい。むしろ、斎藤は、人間は、男であれ女であれ、「関係」の原理を選ぶのか、「所有」の原理を選ぶのかは自由であると言っている。
斎藤環によれば、一青窈(ひととよう)の言葉、「(思い出を)男はフォルダ保存、女は上書き保存」は、「所有」と「関係」の原理を上手く言い表していると言う。
男は恋愛感情の思い出を、別々の「フォルダ」にいつまでもとっておける。だからこそ、同時に複数の異性と交際できるのである。もちろん現在の恋人には、もっとも大きなフォルダがあてがわれるだろう。複数の恋人がいる場合は、本命、二番手、三番手とフォルダの大きさが小さくなる。女性にとっては驚きかもしれないが、過去の恋人に対しても、実は小さめのフォルダがずっと残ることになる。(中略)
いっぽう女は、現在の関係こそがすべてだ。女にとって性関係とは、まさにあらゆる感情の器におはならず、それゆえ「一度に一人」が原則だ。新しい恋人が出来るたびに、過去の男は消去(デリート)され、新たな関係が「上書き」される。恋人フォルダには一人分の容量しかないからだ。(同上・p166・167より)
これは、あくまでも現実の男と女について一般的にいえることであるが、斉藤は、これを固定的とらえているわけではない。この人間の欲望の「所有原理」と「関係原理」は、ジェンダーと絶対的・固定的に結びついているわけではない。斉藤環の面白さは、この先にあるようだ。
だから所有原理を主張する女性がいてもいいし、関係原理にこだわる男性がいてもいい。僕の知る限りでは、ゲイの欲望には、しばしば所有原理と関係原理が共存しているように思う。実は、この二大原理を踏まえて欲望を考えることは、男と女という単純すぎる二項対立から離れて、ゲイやレズビアン、性同一障害など、多様なセクシャル・マイノリティの欲望について考察をすすめるための準備運動でもあるのだ。(中略)
圧倒的なまでに「所有者」が支配するこの「世界」の中で、いかにして「関係者」の存在を認識していくか。これはジェンダー・センシティブであろうとする態度から導かれた、もう一つの問いかけである。(同上・p246~248より)
ここまでくると、もう「ジェンダー」という言葉は、「性」というより「欲望」または「意識」の原理のようなものととらえられている。私は、人間の「性」が生物学的な「性」から乖離し始めたとき、こうした問題を孕んだのだと思われる。私たちは、おそらく、経済と医学の進歩により、人間としての寿命を延ばしてきた。そして、それは、たぶん生物としては未知な世界なのだと思う。つまり、そこは「遺伝子」が保証していない世界なのだ。ジェンダーや成人病や老人介護問題などは、「遺伝子」には組み込まれていない問題であることは確かだ。そして、それ故にこそ、人間的な問題なのだ。斉藤環の主張は、今のところもっとも妥当な人間の「性」についての一つの考え方と思われる。