電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●白内障の手術をした

2024-08-20 11:02:37 | 日記
 最初は、4月15日と25日に予定していた白内障の手術が、腰部脊椎管狭窄症の手術のため延期になり、やっと8月1日、と15日に行うことができた。

 手術は所沢市にあるB大学校病院だったので、規定により前日入院し翌日手術、当日は眼帯したまま宿泊して翌日退院というスケジュールになっていた。入院の受付は、9時からだが、8時半ごろ病院にいき番号札をもらって、順番に手続きをすることになっている。最初の時は、4番だったが、2回目は1番の番号札をもらって、手続きを済ませた。手術室は2階だが、入院棟は西M棟の509と506だった、両方とも、4人部屋の窓際の部屋だった。

 パジャマとバスタオル・フェイスタオルはレンタルにした。すると簡単な生活上の日用品も無料で使用可能になっている。リンス・シャンプ、ボディソープ、歯磨きセット、コップ、ティッシュなどがあり、歯磨きセット以外は、それらを利用した。手術後は、顔を洗ったり、頭を洗ったりするのが1週間ほどできなくなるので、入院日は、浴室(シャンプーしかできない)を4時半に予約して、頭と体を洗った。

 翌日は、1日は9時半から、15日は、9時15分からの1番の手術だった。大きな病院なので、入院病棟の5階から2階の手術室までは、車椅子で10分近くかかった。執刀医は、外来で担当してもらっているO先生だが、直ぐ横で先輩の先生がサポート指示をしていた。その他にも数人の先生がいて、看護師も含めると10人近い関係者がいた。点滴をして、部分麻酔をしてベッドに横になって手術だが、部分麻酔なので、会話が聞こえて、時々、心配になったりする。最後に、指導医の人がOKを出し、終了。この間30分くらいかかかった。

 私は、白内障の手術については、深作秀春著『白内障の罠』 (光文社新書/ 2023.12.13)しか読んでないので、いろいろな方法があることは知っていた。B大学校病院では、濁った水晶体の中味を取り除き、患者にあった眼内レンズを入れるというもので、「単焦点眼内レンズ」だけを行っている。これは、健康保険の範囲内での手術になるが、この病院の「水晶体再建術」の解説には以下のように書かれていた。

<現在、世界中で最も一般的に使用されている眼内レンズです。単焦点眼内レンズを挿入すると、手術後の目の調節機能がなくなり、焦点(ピント)が合う範囲が限定されます。つまり、遠くにピントを合わせれば近くが見えにくくなり、近くにピントを合わせれば遠くが見えにくくなります。したがって術後は少なくとも1種類以上のメガネ(老眼鏡など)が必要になります。健康保険の範囲内で手術を行うことができます。>


 実際の手術の過程については、ChatGPTが以下のように教えてくれました。

<白内障手術は、濁った水晶体を取り除き、人工のレンズ(眼内レンズ)に置き換える手術です。以下は一般的な白内障手術の流れです。
手術前の準備:
患者には局所麻酔薬が目に点眼され、手術中の痛みを感じないようにします。
まれに、リラックスさせるための軽い鎮静剤が投与されることもあります。

手術のプロセス:
眼科医は角膜(目の表面)に小さな切開を行います。
小さな超音波プローブを使用して、濁った水晶体を分解し、吸引します。この手法を「超音波乳化吸引術」と呼びます。
残った水晶体のカプセル内に折りたたまれた状態の人工レンズ(眼内レンズ)を挿入します。レンズは自然に広がり、元の水晶体の位置に固定されます。

手術後のケア:
手術後、目に保護パッチがつけられることがあります。
数日間、抗生物質や消炎剤の点眼薬が処方されます。
通常、視力は数日から数週間で改善し、完全に回復するまでにはさらに時間がかかる場合もあります。


 これがオーソドックスの手術過程であり、私の手術もこのように行われました。私は、元々近視だったので、焦点距離50cmの固定レンズにしてもらった。ということは、50cmの距離のものがいちばんよく見え、それより短い距離のもの、長い距離のものは見にくくなる。多分、2種類のメガネが必要になると思われれるが、視力が安定するまでにすこし時間画かかりそうだ。

 術後1週間ほど頭を洗えないのは、夏場はきつい。また、視力が安定するまで、メガネを浸かられないので、文庫本を読んだりするのは難しい。だから、しばらくは、読書は、もっぱらKndle版にして、iPadやKindle Paperwhiteで読んでいる。

 いちばん驚いたのは、見えるものがとても大きく見えることだ。私は、中学生のときから近視になり、それいらメガネを書かしたことがない。手術前の視力は、裸眼だと0.3以下だったし、かなり強力な近視用のメガネをつけていた。そのせいか、裸眼だけでものを見たり、読んだりしたことがほとんどない。白内障の手術後初めて、メガネにない生活をして、周りのものがとても大きく見えることには本当にびっくりした。
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腰部脊柱管狭窄症の手術をした

2024-05-11 14:04:25 | 日記
 2024年3月22日、埼玉県日高市にあるM病院に入院した。その1週間前ほどから、腰部の痺れが増加し、体を伸ばすと痛くなって戻せなくなったり、ペットとの散歩の時に、屈むと立ち上がれなくなったりしていた。
 
 2019年の11月にMを訪れ、MRIで確認して腰部脊柱管狭窄症と診断され、その後、薬を飲んでいたが、リハビリを一時提案されたのが、2021年5月だった。この病院に通いははじめて5年、リハビリを受けて3年が過ぎている。
 
 そして、その痛みが最高になり、ついに、21日に通っていたM病院に電話して相談して、22日に入院することになった。そして、入院したとき、K先生に「手術をお願いします」とはっきりとお願いした。あまりの痛みに、逡巡している暇がなかった。手術をするのだから、病院を調べ直した方がいいのではないかとも思ったが、K先生の人柄に感銘して、M病院に任せた。
 
 外科手術は、頭でやるのものではない。それは、一種の料理人の腕のような経験と技術によってできるものだ。もちろん、いい設備の病院であることには越したことはないが。私は、所謂ネットでの病院探しはしなかった。この病院は、リハビリ施設も充実していて術後も、とても安心だと思った。つまり、私は、K先生にかけたのだ。
 
 体は、痛いながらも、背中を伸ばさなければ(年よりが背中を丸めるように)、多少普通のことはできそうだ。K先生と話としてから受け付けで入院の手続きをする。部屋は個室。1泊5、500円。まあ仕方がない。私は、iPad Airtスマートキーボード付き)と普通のiPad、スマホ(Gyarlcy)と、Kindlr PaperWhitteを持参した。入院する時、ひょっとすると5月の中旬ごろの手術になるかもしれないと言われ、準備。しかも、この病院は個室にいるとWiFiが自由に使えた。
 
 入院した時は、5月かもしれないということだったが、その後先生が頑張って調整し、結局4月11日が手術日になる。私は、色々な病院(心臓や眼科など)に通っていて、色々な薬を飲んでいる。ここでは他の病院のことは書かないが、一つだけ狭心症の手術をしていて、血液をサラサラにする薬を飲んでいる。そのため、手術日が決まったら、その前1週間から飲むのを中止し、手術後様子を見てまた飲むようになる。要するに血が出る手術の時は、血液サラサラにする薬はやめないといけないということだ。ある意味では、脳梗塞などの循環器軽の病気になりやすくなるということだ。その意味でも、病院に入院していることは、いいことだと思った。
 
 手術までの間は、だいたい、午前1回、午後1回のリハビリ(筋肉を低下させない運動がメインに)をするだけ。痛みは、我慢できる程度。屈んでいれば大抵のことはできる。風呂は入れずシャワーが、週に2回程度。パンツと靴下以外は、病院で支給。入院中は、動画を見たり、日記を書いたり、ラジオを聴いたり、調べ物をしたりして過ごした。看護師さんは毎日変わりすぐ離れていってしまうので名前を覚えられないが、リハビリの担当者は全て名前を覚えた。残念ながら、顔はマスクをしていたので、完全とはいえないが、背丈やカッコで大体わかる。リハビリはBチームだった。どうやら、3年前に、リハビリを少しやってもらったチームのようだ。
 
 手術は、11日。前日にはしっかりシャワーを浴び、体をきれいにして、夕食だけを食べる。当日は、6時から、水も飲めなくなる。その後、点滴が始まる。水分補給のためだそうだ。9時半に手術用の格好にになる。素っ裸になり、前から着る手術服。手術は、うつ伏せになり背中から切ることになる。妻も当日の朝は、来てくれた。手術室に入り、全身麻酔の点滴が始まり、私の記憶はそこで切れた。
 
 11日の夕方気がつく。時間は覚えていないが5時過ぎ。夕食があるとかないとか話していたが、多分なかった。上向いで寝ているが、傷口が痛いのと腰が痛いので、半分うめきながら寝ていた。しかし、痛かったら看護師を呼んでと言われたが、その日は我慢した。知らないうちにペニスに管が入り、オムツをしていた。
 
 12日になり、食事が出るようになる。それとともに、リハビリも始まった。おむつをして、オシッコは管を入れてそこから出るようになっていたが、すぐにオムツだけになり、トイレに行く時は、看護師さんを呼び出し、車椅子で、トイレに行く。まだ自由に歩けないのだ。もちろん、その他は自分1人で処理。基本的には、点滴もあり、ほとんとベッドだが、それなりにリハアビがある。手術後、便秘になり、看護師さんから浣腸しましょうかと言われる程だったが、便秘対策用の薬を出してもらい、4日かの便秘が治った。
 
 その後、時々のK先生の傷のチェックがあり、その時が一番安心できた。少しずつ、よくなって行くようだ。そして、普通の点滴は終わり、しばらく朝夕の1時間程度の炎症を防ぐ点滴。また、時々熱が出たので、コロナとインフルエンザの検査もあった。こちらは無事、陰性。この間、おむつしているがオムツの中で漏らしたことはない。
 
 19日に久しぶりにシャワーを浴びることができた。ただ、背中の傷があり、簡易ベッドに寝たまま、頭も体も洗ってもらうことになる。介護士さんは子持ちのようで、とても親しみのある人で、昔女子校の教師だった頃の話をして、生徒の要望でちあきなおみの「喝采」を歌ったことを話したら、どんな歌か知らないということで、「いつものように云々」と少しだけ歌ってしまった。しかし、とても気持ち良いおシャワーだった。この時から、オムツを外し、普通の下着になる。
 
 また、その日、妻見舞いに来て、ゴールデンウィークが明けるまで退院しないでくれと言われた。実は、この病院は、義母が何度か入院してしていて、最後もここで看取られたところだ。もちろん、コロナの時だったので、質素な葬式になったが、一応、火葬場まで行けるようになっていた。そのときに色々お世話になったのが、理事長のK先生だが、妻は私が入院していることを少し話したらしい。
 
 その後、日々の生活は、読書、Netflixでドラマ、YouTube動画。手術後。13日より、iPadで日記を書くようになっていた。とりあえず、リハビリの時が一番長い付き合いになる(1回40分)。それで、名前を全て覚えてしまった。これは、ある種のボケ防止。住んでいるところなど、療法士相互の間でも知らない個人情報まで仕入れてしまった。他の療法士のひとが、知らなかったということまで、仕入れていた。
 
 担当の古波蔵先生から、私の手術の方法を聞いた。「腰椎椎弓形成術」という手術らしい。AIによれば、次のような手術だそうだ。
 
<腰部脊柱管狭窄症徐圧式追及形成術(または腰椎椎弓形成術)は、主に黄色靭帯骨化症や骨棘形成などによる脊柱管狭窄症に対する手術です。この手術では、腰椎部分の椎弓の一部を切除して脊柱管を広げ、神経の圧迫を解除します。

具体的な手術の流れは以下の通りです:
皮膚切開: 腰~背中の部分に皮膚切開を行い、腰椎の後面を露出させます。
棘突起の切除: 背骨の飛び出している部分(背中を触ると触れる部分)を切除します。

椎弓の一部切除: 椎弓の一部を切除して脊柱管を広げ、圧迫を解除します。
その他の処置: 黄色靭帯が脊髄を圧迫している場合や椎間板ヘルニアが脊髄を圧迫している場合は、それぞれ切除して圧迫を解除することもあります。

術後経過: 患者さんの状態によって異なりますが、広範囲椎弓切除術の場合は、術後数日の安静が必要となります。部分椎弓切除術の場合は術後2~5日目からの歩行が目安となります。最低でも1ヶ月間はコルセットを装着します。

この手術は、腰部脊柱管狭窄症や腰椎椎間板ヘルニアなどに適応され、治療効果の高い手術の一つです。ただし、手術には合併症のリスクもあるため、慎重に検討されるべきです。>


 色々な対応の手術だと知った。先生の話では、同じ時期に三人のほぼ同じ手術をしたそうだ。その中では、短い方だったのこと。そして、血液をサラサラにする薬を飲んでいる人は多いそうだ。K先生は、この手術のベテランであるようだ。安心した。
 
 退院は、5月7日に予定になった。他の病院に行かなければならないが、薬を1ヶ月分くらい余分にもらうことになった。その間に予約をtって行くようにすることになる。退院後すぐに行っても大丈夫だと言う。
 
 退院までの生活は、だいたい、7時半ごろに朝食を食べ、その後、看護師かんから今日の予定の連絡があり、それに合わせて、2回のリハビリがあり、その合間に、自分で廊下を散歩、2回。1回に3往復歩く。
 
 以上、無事、5月7日に退院した。そして、5月12日から、コルセットなしの生活になった。しばらくは、注意しながら生活しようと思った。
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鳥山明の急性硬膜下血腫による急死について

2024-03-12 17:01:36 | 日記
 鳥山明の仕事については、私には書けない。あまりに、偉大過ぎる。彼は私より、10歳ほど若い。そして、私はいい読者ではなかったが、時々読んだり、確認していたりしてきた。特に、編集者時代は、子ども向けの本や教材をつくっていたので、子どもたちが読んでいた漫画には関心は持っていた。いまでも、『キングダム』だけは、全巻買い続けている。

 今回のブログでは、鳥山明に死をもたらした、急性硬膜下血腫についてのいろいろな記事を読んでいて、これは自分のことだなと思ったことがあり、書いている。それは、「鳥山明氏の命奪った『急性硬膜下血腫』…血液サラサラ薬服用者は、ちょっとしたケガでも発症リスクが」(日刊ゲンダイDIGITAL2024/03/12より)を読んだからだ。その中で、東京都健康長寿医療センターの元副院長で、「東都クリニック」循環器内科の桑島巌氏が次のように述べていた。

<脳は、硬膜という膜で覆われていて、その外側を包んでいるのが頭蓋骨です。事故やスポーツなどによる強い外傷で脳が傷つくと、脳の表面から出血が起こることがあります。出血がひどく、急速にたまった血の塊で脳を圧迫する病気が、急性硬膜下血腫です。すぐに失神したり、半身麻痺になったりして、片目の瞳孔が開くなど重症が多くなります。すぐに手術で血腫を取り除かないと、脳のダメージが残り、命が危ないのです>(桑島巌氏の言葉)

 まず、強い衝撃をうけた場合にどのように急性硬膜下血腫が起きるかを述べているが、私が注目したのは、その後に述べていることである。それは、急性硬膜下血腫は、強い衝撃でなくても発症するということである。「その方が怖い」という。そして、その怖さのベースにあるのが、「いわゆる血液をサラサラにする薬で、血液を固まりにくくする薬」だというのだ。そして、その薬を私は飲んでいる。

<不整脈のひとつ心房細動や心筋梗塞、脳梗塞、狭心症などがある方は、抗凝固薬や抗血小板薬といった血液を固まりにくくする薬が処方されます。そういう方は、糖尿病や高血圧などの生活習慣病や加齢の影響が強く、動脈硬化が進んでいて、血管が切れやすいのです。それで、万が一、血管が切れると、薬の影響で出血が止まらず、血腫ができる。それが脳で生じると、硬膜下血腫になります。で、こういうタイプは、血管が切れやすいので、強い衝撃でなくても硬膜下血腫を起こしやすいのです。──中略

たとえば、開いている扉に気づかず頭をぶつけたり、座って居眠りしているときにうつらうつらして壁にドンと頭を打ったりするケースです。血管がモロくなっていると、生活の中でのちょっとした衝突や転倒でも脳の血管が切れて、急性硬膜下血腫を起こすリスクがゼロではありません。そういう場合、衝突直後の患部の痛みはあっても、意識障害はないことがほとんどで、1週間くらいして“ふらふらする”“何となく気分が悪い”などの症状が現れます。血腫による症状が現れたら、事故直後の発症と同様にすぐに治療しないと危ない。迷わず救急車を呼んでください>(桑島巌氏の言葉)


 とても怖くなった。その上、現在、腰部脊椎管狭窄症が悪化して、手術直前の状態で、痛さにたまらず、やっと手術の要望を主治医に伝えようと決心したところである。時々、夜中に頭痛もする。下半身の痛みで、歩行が少し困難になっていて、時々ふらつく。とても危険なん状況であると思う。そして、これこそが、鳥山明が私に送ってくれたのメッセージなのかもしれないと思った。
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紙の年賀状を終了すると書いた2024年の年賀状

2023-12-25 17:07:14 | 日記
 年賀状については、今年を最後にするつもりだ。そのために、その旨、2024年の年賀状に書いた。私も時代の流れに合わせて、紙の年賀状は、もう終わにしてもいいと思ったからだ。勿論、日本人の人間関係から難しい問題もありそうだが、その点は、割り切ることにした。

 折しも、郵便料金の改訂のニュースが流れてきた。かなりの値上げになっている。しかし、これだけ値上げしても、直ぐに、赤字に成ってしまうそうだ。つまり、システムとして、手紙やハガキの配達というのは、非常に非効率的な仕事なのだということだと思う。ある意味では、インターネットとスマホの普及のせいでもあるが、物流の経費がいちばんの理由だろう。人件費の高騰、あるいは、人不足だ。固定電話が使われなくなり、電話ボックスもほとんどなくなってしまった。多分、駅には、どこかにまだ残っているものあるようだが。それと同じように、紙の通信はこれから、変わっていくものと思われる。

 ダンバー数という概念がある。ダンバー数は、イギリスの社会人類学者であるロビン・ダンバーが、1992年に発表した論文「The Social Brain Hypothesis」の中で提唱した概念である。ダンバーは、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であると提案した。そして、ダンバー数は、新石器時代の村落におけるコミュニティの人数や、軍隊における中隊の人数、効率よく仕事ができる組織の人数、などが150人程度であることから、人間の脳の構造と関係があるとされている。私の年賀状は、多いときは250枚だったが、今では100枚余になっている。まあ、私の人間関係もダンバー数に合っていることになる。

 人によっては、年賀状がなくなるというのは寂しいことだと思うかもしれないが、スマホ時代の私たちは、多分、スマホを通じて同じような数の人間関係をつくっていると思われる。最も、SNSのフォロー数を増やそうとしている人は、果てしない野望を持っているうようだが、このブログは私の覚書のようなものなので、ダンバー数ぐらいでとしよう。実際、しばらく(とても長いが)、投稿していなかったにもかかわらず、1週間のアクセス数はそのぐらいはあった。これからは、残り少ない人生を有意義に過ごしていきたい。まず、ブログから。
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2016年の初めに

2016-01-05 20:52:05 | 日記
 今年から、このブログを再開することにした。ここ2年ほど、facebookと別のHPづくりに関わり、ブログの記事を書く時間が取れなかったことと、勤め先が変わったこともあって、放置していた。

 最近、WordPressを少し勉強して、日記風のブログ(「Natsuの囲碁日記」を立ち上げたので、身辺雑記風の記事は、そちらで書くことにして、こちらは、少しまとまった記事をアップしていきたい。

 それにしても、最近のWebの技術の進歩には驚かされる。特に、スマホやタブレットへの対応は素晴らしい。おそらく、こうしたブログも多分、スマホやタブレットで読む人のほうが多いと思われる。WordPressでつくったブログは、スマホやタブレットやPCに対応して見やすい画面になる。

 また、このブログは、原則、画像は添付しない。文章だけで、書いてみたい。
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