電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

教育漢字の読み書き調査

2005-01-31 20:25:14 | 子ども・教育
 財団法人総合初等教育研究所の教育漢字の読み書き調査について朝日新聞の記事「『楽書き』『電園地帯』……子どもの苦手な漢字くっきり 」によれば、1980年に行われた調査と比べて漢字の力は、落ちていないと言う。ただ、低学年ではかなりの子どもたちが習った漢字を読み書きできているが、学年が上がるに従って、読んだり書いたりできない漢字が増えていくと言う。当然、習う漢字が増加していくわけだから、高学年に行くほどしっかり漢字の勉強をしておかないと、読み書きできない漢字は増えるのは当たり前だと思われる。しかし、低下の仕方が極端ではないかという感じがする。
 正答率が80%に達した字が全体のどれだけあったかを調べると、読みでは、小2を調査対象とする1年で学んだ漢字(1年字)は89%で、中1を調査対象とした6年字は77%。書きでは1年字が92%で、6年字になると16%までダウン。読み・書きとも学習する字の数が増える2年字(160字)から3年字(200字)の間で大きく低下した。

  
 総合初等研究所は、「学校は、児童一人ひとりの漢字学習の状況を次の学年にきちんと引き継ぐなどの工夫が必要だ」と提言しているそうだが、私は読みの低下と書きの低下の仕方がかなり違うことが気になる。つまり、読みについては77%なのでかなり読めるが、書きとなると16%になると言うことだ。正答率が80%の漢字という言い方をしているが、これはかつて文科省が指導要領で漢字が大体読めたり書いたりできるというのはどのくらいかと言われて、80%という基準を出していたことによると思う。そうすると、読みは大体読めるが、書きはほとんどできないということになる。

 
 この問題は、算数で分数ができなくなる問題とよく似ているかもしれない。今回の学力低下問題の発端は、分数の計算ができない大学生がいるということだった。しかし、読み書き計算の基礎学力が高学年になるとしっかりやられていないのではないかということも原因の一つかもしれないが、漢字については違った問題があるような気がする。この点に関しては、同じ調査の取り上げ方でも、読売新聞の記事「小中学生の読み書き能力、なじみ薄い漢字に弱点」の方が、着目点がいいと思った。
 
 80年の調査と比べて、正答率が大きく低下したのは、6年生で学ぶ「戸外(こがい)」の「戸」の字。80年には、5年修了時で17・3%が正しく書けたのに対し、今回は6年修了時で、6・2%の正答率だった。
 逆に、「地層」の「層」の字の書きは、80年の19・7%から、67・9%に上昇。同研究所では「一戸建ての減少で『戸』の使用が減ったのに対し、『層』の字は、『高層マンション』などの使用例で目にする機会が増えたためではないか」と分析している。


また、ちょっとした誤答が多いことにふれて、調査責任者の小森茂・青山学院大教授の「パソコンの普及で字を書く機会が減っていることが影響していると思われ、正確な手書きを指導する必要がある」と言う言葉を紹介している。読売新聞は、この調査については1月29日の社説でもふれていて、文化として漢字の手書きの大切さを強調している。

 漢字入門期の子供には、学校と家庭が連携し、漢数字を含んだ言葉を繰り返し耳や目に触れさせるようにしたい。国語辞典や漢字辞典も利用しよう。調査を担当した研究者は、そう言っている。

 古典などの読書指導を一層充実させよという指摘も、もっともだ。
 さて、大人はどうだろうか。

 パソコンや携帯電話の普及で、最近は筆記具を使い、紙に字を書く機会が減ったと感じている人は少なくないだろう。読書量も減り、漢字や文章を書く力が低下している、と言われている。


 ただ、この引用部のすぐ後で、「手で書くことは日本の文化として絶対に捨ててはいけない」と言っているが、それには少し違和感を覚える。もし、「日本の文化」だけの問題なら、場合によっては捨てることがあってもいい。ある意味では、「なじみ薄い漢字」については、書けなくてもいいくらい考えてもいい。なぜなら、その漢字はこれからあまり使われなくなると思われているからだ。これは、手で書くこととは直接関係ないが、「なじみが薄い」ととらえたのなら、それをもう少し掘り下げて欲しかった。
 
 また、「手で書くことは日本の文化」というのはおそらく書道を想定しているものと思われるが、私は文字というものは基本的には手で書くことを通じて最も合理的に習得できるのではないかと思う。聞く話す、読み書くということは、言語活動の基本だ。それは、まず、身体を使ってやってみることが大事だと思う。そのとき、ワープロなどで書くのではなく、手を使って書くことが大事だと思う。もちろん、日本の文化である書道を利用してもよい。手を使って書き、声を出して読むということは脳の活性化にもいいと言われていて、そのために「大人のドリル」までできているが、それよりも脳が形成される12才ごろまでに手で書くという作業を通して、文字言語に対するしっかりとした言語脳をつくることのほうが大事だと思われる。
 
 小学校の1、2年生は素直に紙に書いている。やがて、高学年になると、手書きからPCや携帯電話に移る。 これでは早すぎるのではないか。少なくとも小学生の間は、書くことは、清書用かプレゼンテーション用に使う場合を除いて、パソコンを使わない方がいいと思う。徹底的に紙の上に手で書くことが大事だと思う。私は、ゲームやビデオが悪いとは思わないが、ゲームやビデオが中心になると、ほかの発達すべき脳への刺激がなくなることが心配だ。それが、読み書きであり、聞く話すという言語活動である。
 
 毎日新聞の「苦手な読み書き、時代を反映」も読売新聞と同じような視点からこの調査を取り上げて、小森茂教授の「漢字の力は落ちていないが、環境の変化を反映して書き言葉と話し言葉がかい離している。家庭で言葉を使うようにしてほしい」という言葉を引用していたが、そこは簡単にはいかなそうだ。まずは、家庭で子どもと積極的な会話ができるような状況を作らなければならない。家庭だけでなく、学校でも。学校があまり期待できないので、まず家庭からというのでは困るが、子どもと日常的に会話をすることはとても大切なことだと思う。

 しかし、全体としてみれば、漢字に対しては、みんなかなり興味関心もあり、今後ともそれなりに学習していくのではないかという印象を受けた。特に、最近は、読み書き計算に関しては、すべての学校で指導を強化しているし、いろいろな工夫がされているように思う。私は、この調査とその結果、およびその反応を見て、何となく安心した。もちろん、こうした調査を受け入れた学校は学級崩壊など起こしていないだろうし、そういう意味では少なくともある程度漢字指導が徹底できた学校だとお思われるので、前回よりよかったということをそのまま素直に信じることはできないかも知れない。また、漢字力が落ちていないからといって、これでいいと言いたいわけではない。今後、デジタル化が進むにつれて、いま少し気になるという問題がやがて大きな問題になりそうだと思う。

トヨタ自動車の躍進の秘密

2005-01-30 23:04:40 | 政治・経済・社会
 トヨタ初の国産大衆車トヨダAA型がデビューしたのは、今からおよそ70年前の1936年だった。やがて国際的な企業として世界的に認知されるようになり、ついに2003年度には、日本企業として初めて連結経常利益が1兆円を超えたトヨタ自動車。もちろん自動車業界としては、純利益世界1である。トヨタ自動車については、いろいろな本が出ている。自動車に興味がある人を除いて、私たちはたいてい、トヨタ自動車がどうしてこんなに発展できたのだろうかというところに興味を持つ。これは、松下電器やソニーやホンダなどについてもそう思っているようだ。そして、いくつかの立志伝的な伝記を読んで、何となく理解した気になる。豊田左吉や豊田喜一郎、松下幸之助や井深悟、本田宗一郎などである。彼らはいずれも創業者であり、今のトヨタ、松下、ソニー、ホンダの基礎を築いた人たちである。
 
 私はこうした企業の創業者の中で、ソニーの井深さんには面談して、トランジスタ・ラジオの開発について話を聞いたことがある。そして、「高度な技術の問題になると誰か一人が一人の力だけで実現したのなどと言うことはあり得ない」ということを教えてもらった。もちろん、彼は、強力なリーダーシップを持って、それを実現したのであるが、それまでこつこつと蓄えてきたソニーの利益と組織的な力が最終的には成功に導いたと言っていた。だから、今回のトヨタ自動車の躍進の秘密が、何か一つの原因があってそれがこうした成功を導いたということはおそらくないと思う。
 
 ところが、トヨタの成功について知りたい人は、何か一つの原因が欲しいらしい。これが、成功の秘密だということを知りたいらしい。そして、それをみんなに知らせ、我が社でもそれができれば成功するということを言いたいらしい。できたら、我が社でやろうとしていることを支持するようなエピソードであって欲しいと思っているようだ。あるいは、関連会社の人たちに、こういうことを是非やらなければならないということを言いたいのだ。私に、ある人からトヨタの成功の秘密を調べて欲しいという依頼があったが、おそらく同じような意図があってのことだと思う。

 トヨタ自動車については、中沢孝夫・赤池学共著の『トヨタを知るということ』(日経ビジネス文庫/2004.11.1)という名著がある。これは、2000年4月に講談社から単行本として出版されたものを文庫化したものだ。文庫化するに当たって、かなりの加筆が加えられている。これと平行して、日本経済新聞社編の『奥田イズムがトヨタを変えた』(日経ビジネス文庫/2004.5.1)という本も参考になる。どちらも、現在のトヨタを奥田・張の社長時代のトヨタを中心に分析したものだが、誰かひとりの力とアイデアがトヨタを作り上げたようには書いていない。見えてくるのは、トヨタという「ものづくり」にかけたきた日本を代表する組織の力である。

 NHKの人気番組に、「プロジェクトX」というのがあるが、トヨタ自動車は、ある意味ではそうしたプロジェクトXがいくつも立ち上がっているようなものだ。大野耐一の指導で「カンバン方式」とか「ジャストインタイム」という言葉で知られるトヨタ式生産システムが整えられていったが、それは現場にたくさんのプロジェクトXをつくることだったと言ってもいい。また、新しい車の開発を任されるCE(チーフエンジニア)というシステムも、プロジェクトリーダーによる強力なリーダーシップが発揮できる制度だと言える。小型車「ヴィッツ」の開発のCEをつとめた市橋保彦さんや新プレミアムセダン「マークX」の開発を統括したCEの山本卓さんなどはそうした人たちだ。

 トヨタ自動車の「アニュアルレポート」を見るとそうした新車開発だけでなく、いろいろなところで新プロジェクトが立ち上がっている。そうした、人材の裾野の広さが現在のトヨタ自動車の強みだと思われる。それは、簡単にマネができるようなものではないことだけは確かのようだと思った。しかし、それでもそれらを研究し、参考にすることは、それはそれで大切なことだと思った。まさにトヨタ自動車のなかに、日本の「ものづくり」の過去と現在と未來が凝縮されているようなのだ。

諏訪大社上社本宮初詣

2005-01-23 14:54:20 | 生活・文化
 我が家の親子3人と義理の姉と一緒に諏訪大社本宮に初詣に行った。年末は雪のため夫婦だけになったが、昨日は早朝5時に起床し親子3人で日高の実家により、義理の姉を乗せて中央高速で諏訪に向かった。日本海側は昨日より大荒れで雪だったが、長野県の南部は快晴だった。しかし、空気は冷え込み、神社の境内はマイナス12℃だと宮司さんに教えて貰う。祝詞をあげて貰うために、拝殿に上がりコートを脱ぎ床に座ったとき、あまりの寒さに凍り付きそうだった。諏訪大社は、諏訪造りという、拝殿の先に本殿が無く、背後の山がご神体になっているという独特の様式になっている。
 諏訪大社は、諏訪湖の南北に二社ずつ、四ケ所に鎮座している。諏訪湖の南側で八ヶ岳の麓にあるのが諏訪大社上社で、本宮と前宮に分かれている。また、北側にあるのが、諏訪大社下社で、こちらは春宮と秋宮に分かれている。私たちが行ったのは、上社の本宮で、諏訪インターを出て、数分のところにある。10時頃に神社に着き、東京の銀座在住の6名の知り合いと一緒に、祝詞をあげて貰った。日高の実家の近くで歯科医院を今年の2月に開業する予定の義理の姉の付き合いの関係で、10人の団体になった。たくさんの仲間と一緒にお参りに行くと神様もたくさん出てきてくれる(?)らしいというので、一緒に祝詞をあげて貰う。

 私はどちらかというと無神論者であるが、妻の気持ちを大切にし、妻の気持ちが落ち着けばそれで気分がいい。そんなわけで、妻が参加するこうした神事に加わっている。息子は、温泉に入ることが目的のようだ。この諏訪大社上社については、八ヶ岳原人さんの「御柱と諏訪大社上社」というサイトでいろいろ学んだ。ちなみに、このサイトのトップページの巫女さんとても美人だが、私たちが行ったとき私たちを案内してくれた巫女さんも、とても美人だった。銀座のグループの人たちの関係で、この巫女さんを知っていたらしく、とても親切だった。

 とても寒い朝だったが、何組かの団体さんが神社を訪れていた。30人くらいの韓国からのツアー客もいた。彼らも賽銭を投げ、神式に乗っ取り、お祈りを上げていた。私たちは、祝詞が終わってから、お札を買ったり、お神籤を引いたり、お守りを買ったりした。そして、境内を少し散策した。空気は冷たく、残っている雪が踏むときゅっきゅっと音がする。滑らないように注意しながら、境内にある一乃御柱と二之御柱を見る。テレビで七年に一度行われる「おんばしら」の祭りを見るが、実物の木は確かにとても大きく、神々しく立っていた。

 参拝の後は、新しくつくられた鳥居の前に並ぶ土産物店で甘酒を飲む。冷えた体を暖めてくれるとても美味しい甘酒だった。その後、上諏訪温泉に行き、「RAKO華乃井ホテル」に寄る。ホテル付属の「レストラン・フォーシーズンズ」で和食バイキングの昼食を取り、12時からオープンの4階の「シェスタフロア」で温泉に入る。ここには、大浴場、ドライサウナ、露天風呂、地酒風呂などがあり、別料金でプールやジャグゾー、水流バス、フィットネスルームがあったりする。予定では、10年ほど前に泊まったことのある「ぬのはん」の日帰り入浴を考えていたのだが、ここは1時からなので、こちらに変更した。息子は、ほぼ貸し切りの大浴場に大変満足したらしく、機嫌良く帰途につくことができた。

 1時少し過ぎに上諏訪温泉を出て、諏訪インターから中央高速に乗り、途中談合坂サービスエリアで休憩して、無事、埼玉県日高市に4時半に帰り着いた。実家に寄り、少し休憩し、自宅に帰る。これで、1月の大きな行事がほぼ終わった。さすがに、昨日は朝早かったせいか、息子は早く眠りについた。私は、テレビを見たり、PCに向かったりで、結局のところ1時頃に眠った。

MI理論からみた日本の教育

2005-01-21 11:08:53 | 子ども・教育
 MIというのは、Multiple Intelligencesということで、日本語で「多重知能」と訳されている。アメリカのハーバード大学のハワード・ガードナー教授がMI理論を提唱した。ガードナーは、知能を「情報を処理する生物心理学的な潜在能力であって、ある文化で価値のある問題を解決したり成果を創造したりするような、文化的な場面で活性化されることができるもの」(『MI:個性を生かす多重知能の理論』新曜社/2001.10.20)というように概念化している。そして、こうした知能は、IQのようにただ一つではなく、いくつかあり、それがそれぞれ独立していながら、お互いに関連し合っているという。ガードナーは、認知心理学と脳科学から、こうした知能が脳の構造に対応していると考えている。
 MI理論で認められている知能としてガードナーは、そこで次の7つをあげている。
 ①言語的知能……話し言葉と書き言葉への感受性、言語を学ぶ能力、およびある目標を成就するために言語を用いる能力。
 ②論理数学的知能……問題を論理的に分析したり、数学的な操作を実行したり、問題を科学的に究明する能力に関係する。
 ③音楽的知能……音楽的パターンの演奏や作曲、鑑賞のスキルを伴う能力。
 ④身体運動的知能……問題を解決したり何かを作り出すために、体全体を使う能力。
 ⑤空間的知能……広い空間野パターンを認識して操作する能力や、また、もっと限定された範囲のパターンについての能力。
 ⑥対人的知能……他人の意図や動機づけ、欲求を理解して、その結果、他人とうまくやっていく能力。
 ⑦内省的知能……自分自身を理解する能力。自分自身の欲望や恐怖、能力も含めて、自己の効果的な作業モデルをもち、そのような情報を自分の生活を統制するために効果的に用いる能力に関係する。
 
  このほかに、ガードナーは、⑧博物的知能と⑨実存的知能の存在の可能性もあげている。こうした知能は、脳の一部が損傷されるとそれに対応した能力が喪失することでもわかるように、脳では全く別の知能として局在化されて機能している。また、こうした知能は、直接的には、道徳的な判断を伴うものではない。それらの能力は、善悪とは別であり、どのように使われるのかは人間の価値判断によることになる。さらに、人によってはある知能が突出している場合もあるということになる。要するに、ガードナーによれば、人間はこうしたそれぞれ独立した多重の知能を持っているのであって、それらを考慮しながらそれぞれの知能を活用し、そしてそれらの知能をうまく育てて行くことが大事であると言う。
 
 こうした理論からは、教育は当然にも画一的なものではなく、「個に応じた教育」と言うことが大切にされる。学校では、一つのクラスに多くの児童生徒がいて、それぞれがいろいろな個性を持っているとき、個人ごとに設計された教育について考えるのは確かに難しい。ここで、ガードナーは、日本の教育についておもしろいことを言っている。つまり、日本の教育は、全体的にアジアの教育もそうだが、画一的な学校教育がなされているように見える。それにもかかわらず、学力の比較調査ではアメリカより成績がいいのは何故だろうかというのだ。ガードナーは、ここで日本の教育が「信じられているよりもずっと個性化されている」と次のように述べている。
 
 日本のような国では、教育の最初の数年間は、生徒の社会的な理解や、いっしょに学ぶ能力を伸ばすのに費やされる、という事実を考慮したい。作業の多くはグループで行われ、そのなかで生徒は、助け合って、他の子供の学び方に注意を払うよう奨励される。しかし、最も重要なのは、学校を補佐するしくみである。東アジアでは、学校の社会化の側面が大変重要で、まさにそうだからこそ、社会は、認知の側面が軽視されないように手段を講じる。だから日本では、多くの生徒が放課後に[塾などの]指導を受けに行く。そこでは授業は、必要に応じて個性化されている。そして、ほとんどすべての生徒に、最低一人の家庭教師がいる。つまり、親、たいていは母親である。この家庭教師には、子供にとって決定的な試験[入試など]への準備をさせるという、ただひとつの目標があるので、教育も、必要に応じて個人ごとに設計されることができる。(『MI:個性を生かす多重知能理論』p221・222より)
 
 ガードナーは、ある意味では画一的な学校の仕組みと、地域(塾など)や家庭の連携がうまく機能して、東アジアの学力の向上が作り出されていることを見事に言い当てていると思う。問題は、現在そうした連携が、少しずつ壊れてきているということだ。学校で授業がうまく成立しないという事態や、不況の中で放課後の勉強の仕方に社会的な格差が生じたり、また夫婦共稼ぎが増加し子供を顧みない親が増え、家庭が崩壊したりしている。つまり、これまでうまく機能していた、社会全体の教育環境が今危機に瀕しているような気がするのだ。さて、日本の文科省はこれらの課題にうまく応えられるのだろうか。
 
 

文部科学省が変わる?

2005-01-20 17:02:36 | 子ども・教育
 18日の朝日新聞によれば、中山文部科学相は、宮崎県の学校を訪問して教職員や児童生徒と直接意見交換する「スクールミーティング」のあとで、記者団に「文科省は、子どもの学力低下を認めたがらなかった。ゆとり教育のせいじゃないかと言われるのが嫌だということだった。私はゆとり教育が低下の原因の一つかも知れないと言っている。また、勉強する動機が弱くなったことを憂えている」と語ったという。初めて、「学力低下」を文科省が認めた言葉として、ニュースになった。文科省は、変わろうとしているのだろうか?
 これに先立って、年末ぎりぎりに文科省の事務次官の人事が内定し、今年のはじめに異動があった。旧科学技術庁の技官出身の結城章夫次官である。これについては、日刊現代が「中央官僚自ら『霞が関改革』着手」という記事を書いている。そこでは法文系官僚が主流の中央省庁に技官出身のトップが登場したことにエールを送っている。

 実際、結城氏本人、さらに旧科技庁の技官たちは今回の人事を絶好の機会として、停滞している教育行政を改革しようと躍起になっている。旧文部官僚に学習意欲を植え付けるのはもちろん、小泉政治がたなざらしにしている霞が関改革を官僚自ら率先して動こうというのだ。新年らしい快挙。温かく見守ろうではないか。

 
 そこにどんな深謀遠慮が働いていたのかはわからないが、一応、中山大臣や小泉総理の了承を得てやられていることだけは確かだと思われる。そういう意味では、「日刊現代」が「もう小泉なんていらない」というのはおかしい。中山・結城ラインとでもいう路線は、それなりの意味があると思う。おそらく、「変革」ということに対する小泉総理のこだわりを私は感じる。それは、とにかくとして、中山大臣は、先ほどの記者会見で、次のようにも言っているという。
 
 文科相は「(理科などの)授業時間がだいぶ減っており、学力が上がるはずがない。特に国語・数学・理科・社会という基本的な教科の時間をいかにして確保していくかだ」として、4教科の授業数を増やす考えを強調した。そのうえで、「総合的な学習の時間や、選択教科をどうするかを含め、国語とか算数とかにもう少し力を注ぐべきではないか」と述べた。

 
「自ら学び、考える力をつける」ことを目的に、教科横断的な学習として2002年度から本格的に導入された「総合的な学習の時間」が、明らかに否定されている。文科省も、これを受けて、学習指導要領の改訂をすると言っている。「総合的な学習」が教科としてうまく機能していないのではないかということは、これまでもしばしば、マスコミに取り上げられてきたことではある。それにしては、あまりに早い、否定論で、現場はおそらく混乱するだろうと思われる。しかし、そんなことは文科省もわかっていることではないだろうか。

 では、何故、文科省は今ここで、矢継ぎ早に教育の改革論を次々と出すのだろうか。普通に考えれば、文科省は、本当に学力の低下が深刻で、対面にこだわっている場合ではないと考えていることになる。そして、それを本気で考えているのは、中央省庁の中で自分たち文科省だけであるということを強調しているということだ。それは、そうでなければ困る。もちろん、今回の発言に対してではないが、中山大臣の一連の「学力低下」を認めた発言に対して次のような記事が書かれている。
 
 規制緩和と地方分権の進展の中で、教育行政における文科省の地位は次第に低くなっている。そればかりか、いわゆる「三位一体改革」によって、文科省の根幹とも言える義務教育国庫負担金制度は、廃止の瀬戸際まで追いつめられている。うがった見方をすれば、文科省の生き残りを図るために、あえて学力低下を認めて、社会の危機感をあおった上で、日本の子供全体の学力向上を行えるのは文科省だけだ、とアピールすることが本当のねらいだった、と受け取れなくもない。(『内外教育』2005.1.18「ラウンジ」より)
 
 私は、どんな意図があろうと、本当に本気になってかかってくれればそれでいいと思う。危機感のない中央省庁では、なくてもいいことになって当然だからだ。問題は、改革の内実だと思う。本当に、「総合的な学習の時間」はやめていいのだろうか。私は、もちろん、「総合的な学習の時間」そのものがなくてもいいと思うが、そこで目指されたことについては、大切なことだと思う。今一度、見直して見る必要があると思う。
 
 いままで、教科書と指導要領に規制されて、授業の中で行われてこなかった教科の発展的な学習や、他教科との連携をこの時間が目指していた。もちろん、そんなにうまくいっていないことだけは事実だ。それは、おそらくあまりに「生きる力」と言うことにこだわり、「学力」と言うことと切り離して、「総合的な学習」ということが強調されていたからだと思われる。私は、いくつのすばらしい実践があるということを聞いている。それは、今後とも授業に生かしてほしい。私たちは、ともすれば、最初の新聞発表の時だけ注目して、後は忘れてしまうが、大事なことはこれからだ。文科省が何をしようとしているのか、しっかりと見届ける必要がある。