電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

定年退職と年金

2006-11-26 22:05:01 | インポート

 22日に出版厚生年金基金主催の「年金ライフプランセミナー」が、神楽坂の出版クラブ会館であった。9時から4時半くらいまで、年金の説明や講演などでスケジュールが一杯だった。出版厚生年金基金は、今年の10月1日で20周年で、記念行事があった。この基金も、しばらく前の運用益は、3年間程マイナスの時があった。しかし、ここ3年は、株価の上昇に伴い、かなりの運用益を上げて、すっかり自信を取り戻している。もちろん、その分をわれわれに即還元というわけではないが、基金のスタッフたちはかなり自信にあふれていたように思う。もちろん、私たちの年金は、3.5%を標準利回りとして考えられていて、渋い計算をしていた。確かに、今年は8月末現在での修正総合利回りはマイナス0.49%である。

 このライフプランセミナーは、取次や出版社に勤務し出版厚生年金基金の加入していて、しかも2年後くらいまでに定年退職をする人を対象としている。だから、セミナーの参加者は、ほぼ私と同じ団塊の世代であった。事前に、個人個人が年金の計算を依頼しており、当日基金から、個人個人に退職後の年金を試算した報告書が配られた。最近は、個人情報保護がかなり厳しく、直接本人からの申請でないと、年金の試算をすることができないことになっている。その報告書で、私は初めて、自分が今後もらえるであろう年金の金額を教えて貰った。私たちの世代から、年金の満額支給は64歳からになる。

 年金は、こうした出版厚生年金基金に加入していると、いわゆる3階建てになる。1階部分は国民に共通の「国民年金」であり、2階部分は民間企業などえ働く人のための「厚生年金保険」で、この二つは国が運営している。「出版厚生年金基金」は、3階部分に当たり、基本年金に対するプラスアルファ部分と、加算部分がある。このうち、公的年金のうち、定額部分(老齢基礎年金)と報酬比例部分(老齢厚生年金)とでは、支給開始日が少しずれている。昭和36年4月2日以降に生まれた男性か、同41年4月2日以降に生まれた女性は、支給開始時期が全て65歳からになるが、それ以前は異なっている。私の場合は、定額部部は64歳からだが、報酬比例部部は60歳から貰えることになっている。

 60歳から全く出ないかと思っていたが、そうではなく、いくらか出ることがわかった。もちろん、出版厚生年金基金の平均では、月々10万少々の金額であり、それだけで生活できるわけではないが、多少は楽になる。私たちの世代の場合、おそらく、64歳からは20万円と少々というのが普通であるようだ。もちろん、夫婦共働きの場合、その倍になるわけで、まあ、何とか生活できるくらいの金額になる。しかし、我が家のように、これから子どもが大きくなり中学・高校・大学へ行くという家庭で、妻は専業主婦という場合は、よほどの資産を持っていないと、退職金やその他の資産を食いつぶすことになり、かなり大変だと思う。つまり、退職金やその他の資産を活用しても、退職後しばらくは夫婦ともに働かないと、大変だと言うことだけは確かなようだ。

 しかし、このセミナーはかなり役に立った。年金の実態がどうなっているかということや、実際の金額がどのくらいだということが、始めて理解できた。そして、出版厚生年金基金のようなものがとても有意義なものだということを知った。普段は、給料袋からかなりの金額が社会保険料として天引きされていて、理不尽な気持ちだったが、いざ自分たちが定年を迎えることになって、有り難みがわかってくる。これから、社会状況が今のままだと、支給が減少していく可能性があるが、しかし、貰えなくなるわけではないし、特に出版厚生年金基金のようなものは、国の年金とは違って、そんなに減らないと思われる。

 また、退職後の生活の仕方と、健康管理のための講演が二つあったが、退職後の生活の仕方の基本的なスタイルについては、なかなか面白かった。退職後に私たちが取得できる資産がどのくらいあるのかということも大切だが、それ自体は当然格差がある。そうした格差を配慮しながらも、退職後と退職前では、生き方に違いがあるというのは、面白い。もちろん、経営者はそうではないのだろうが、私たちサラリーマンは、定年によってはっきりと人生設計を変えるべきだというのはその通りだと思った。つまり、定年前は、働きながら資産形成もしていたわけだ。しかし、定年後はそうした資産は、年金とともに残りの人生を豊かに過ごすために有意義に使われるべきだということは確かだ。

 私たちは、老後のために働いてきたのであって、退職後は、少ない年金を貰うわけだが、その年金は、貯金をするためにあるわけではなく、今まで造ってきた資産とを合わせて、楽しい生活を設計すべきだというのは、正しい。だが、結婚を初めとして、さまざまな社会的なステイタスが高齢化してきていて、退職後がすなわち老後ではないという時代では、「楽しい生活」を設計すべき総資産として、私たちのサラリーマン生活で作り上げてきた資産では足りないかも知れないということもまた確かである。そして、それが、現在の「老後の不安」という大きな社会問題でもある。しかし、私たちは、まだ働けるのであって、そのつもりで頑張るしかない。そのために、これから準備をしっかりとしておく必要がありそうだ。


格差社会の進展

2006-11-20 00:19:45 | 政治・経済・社会

 団塊の世代が、めざしてきたのはある意味では、「一億総中流社会」であり、「豊かな社会」であった。その「豊かな社会」が実現されそうになったとき、「心の貧しさ」が指摘され、「豊かな社会」応じた「豊かな心」の必要性が強調され始めた。しかし、現実社会はそれほど一枚岩的な社会ではなく、バブルの崩壊とともに明らかになったのは、「豊かな社会」とか「豊の心」ではなく、「勝ち組」「負け組」という言葉に象徴されるような格差社会の到来だった。もちろん、格差は、初めからあったのではあるが、やっとその格差が自覚され始めたと言うことでもある。「格差」は、高度経済成長の影に隠れていたと言うべきかも知れない。

 昨日、りりー・フランキー原作の『東京タワー オカンとボクと、時々オトン』というフジテレビで放映された映画を観た。東京に出て来た主人公が、なかなかうだつが上がらず、貧乏生活をしていた。やがて主人公は、絵で稼げるようになって、母親を東京に呼ぶことになる。しかし、その時は母親が既にガンに犯されていて、東京タワーが見える病院で母親の最後を看取るという話である。ここで、主人公たちはうだつの上がらない生活をしているのだが、決してニートでない。彼らは、それぞれ夢を描き、その夢をめざして現実逃避をしていたのだ。もちろん、その夢は、必ずしも実現されるわけではないが、夢を持つことが大切だった。

 現在の格差社会の到来を「希望格差社会」というように呼んだのは、東京学芸大学教授の山田昌弘教授である。彼は、『中央公論』2004年12月号の論文の中で、「努力の報われる人、報われない人」というとらえ方をしている。

 私が注目したいのは、近年(1990年代後半以降)、経済的な指標で計られる量的格差以上に、質的な生活状況の格差、いわば「ステイタス(立場)の格差」というべきものが出現してきたことである。そして、ステイタスの格差は、ただ単に、貧富の差に表れるだけではない。上位のステイタスにいる人々は、努力が報われる環境に自分の身を置き、将来生活に希望を持つことができる。一方、下位ののステイタスにいるものは、努力が報われない環境に押し込められ、徐々に希望を失っていく。つまり、ステイタスの格差に従って、将来に希望が持てる人と、希望が持てない人の分断が進行している。私は、この状態を「希望格差社会」と名づけた。(『論争 格差社会』文春新書・2006.8.20、p75より)

 山田昌弘教授の「格差論」は、独特の切り口であるが、少なくとも私には、とても納得できる表現である。戦後から高度経済成長期を経て、1990年ごろまでは、「努力が報われる社会環境」が成立していたというのは、私の実感としても確かだと思われる。もちろん、これは、男性であればという限定付だが。

 まず、職業世界においては、男性であれば、学卒後、企業に入社し、そこで人並みに努力すれば、仕事能力がつき、企業の内部で昇進し、収入が増えるという形で、努力が報われることが期待できた。学歴が中卒であっても、大卒であっても、企業内で昇進していくという構造は同じであった。学歴や能力の差は就職する企業規模の差、スタートラインの差、昇進スピードの差、到達点の差になって表れる。しかし、学歴が堂であろうと、平社員から始まって、企業内で昇進していくという構造は同じであった。つまり、男性であって職に就きさえすれば、希望が持てる環境にあったのである。(同上、p80)

 ところで、この希望が打ち砕かれるようになったのは、1990年代から始まった、ニューエコノミーによると山田教授は言う。グローバル化、サービス化、文化産業の発達などに象徴される世界的な社会・経済構造の転換によって、職業の2極化が生じた。トーマス・フリードマンが描いた『フラット化する世界』(日本経済新聞社刊/2006.5.24)は、一見平等な世界がもたらされたかのように見えるけれども、実はその裏側には、こうした職業の2極化をもたらしてもいたのである。

 ニューエコノミーがもたらすのは、将来が約束された中核的、専門的労働者と使い捨て単純労働者の分断なのである。IT分野では、高度な設計能力やセンスを要求される少数の専門労働者と、駅前でスターターセットを配ったりデータを打ち込む単純労働者への分化が進行する。ファスト・フード業界は、マニュアルを作る少数の中核社員とマニュアル通りに動けばよい大量のアルバイトを生み出す。そして、文化産業の拡大は、売れっ子のクリエーターと大量の下働きアシスタントへの分断を促進する。(同上、p82)

 映画『東京タワー』の主人公が絵で生きていけるようになったとき、彼を中心にして仕事が進行し、彼のしたには幾人かのアシスタント的な人たちが存在しているのは、象徴的である。まだ、彼らには夢があったはずだ。彼らは、いつかは、自分がアシスタントから自立していく夢を持っていたはずだ。それが、主人公の属する小さな会社の社風を造っていたはずだ。しかし、主人公の同級生たちのたどった運命は、本当は、それは夢だけは誰でも持てるということを意味していたのである。一人は、田舎で銀行マンになり、もう一人は、東京へ来て挫折し、また田舎に戻ることになる。そして、この挫折して田舎に戻るということが、現在では、「パラサイト・シングル」となり、都会で親の庇護のもとフリーターとなっているわけだ。

 こう考えてみると、「希望格差社会」というのもまた、今更始まったことではないということも正しい。しかし、資本主義社会の下での格差の必然性は理解しても、なぜ今、「格差なのか」という問いの答えを考えると、それは現代の意識の問題ととらえるほかないのであり、その意味では、山田昌弘教授の分析はとても分かり易いということができる。そして、『東京タワー』だけでなくその前の『ALWAWS 三丁目の夕日』が象徴している世界は、正に夢が夢として生きていた時代だと言うことができる。それにしても、「希望が持てる人と持てない人」という2極化は、あまりに大きな問題である。


二度目の眼底出血

2006-11-12 21:54:44 | 生活・文化

 しばらく、ブログの更新を休んでいた。仕事が忙しいということもあるが、もう一つは、左目の眼底出血のせいで左目で文字を読めなくなってしまったので、しばらくあまりPCで文字を書くのを避けていたからだ。まだ、左目で文字は読めないが、一部見えるようになってきた。昨日の検査で、出血がひき始めたと言われたので、多分少しずつ視力も回復してくるに違いない。もちろん、まだ、網膜の一部が腫れており、完全に視力が回復するかどうかは不明だが、多少は気持ちも落ち着いた。

 既に最初の出血については「蛍光眼底造影」というブログで書いたが、2回目の出血は、最初より少ないが、網膜の「中心窩」にかかっているため、今回は視力が落ちてしまった。最初に気づいたのは、9月の終わりごろである。出張先から帰る途中に、本を読んでいて一部本が読みにくくなって気づいた。左目だけで、本を読んでみて、何となく文字が一部ぼんやりとしていることに気がついたのだ。このときは、まだ、出血をしているときで、少しずつ左目がかすんで来たので、9月28日に眼科で検診を受けた。

 検査の結果、眼底出血があり、出血が網膜の中心窩にかかっているので、出血が止まらないと視力も落ちていくという診断だった。その後、前回と同様に10月10日に「蛍光眼底造影」を行った。今回も、心臓内科で処方され服用していた「バイアスピリン」の効果で、出血をした部分の血管の閉塞はなくなり、出血は止まったようだった。ただ、「バイアスピリン」は、血液をさらさらにする薬で、血管が閉塞しないようにするが、出血を止めることを遅らせる作用もするそうで、その分多少出血が多量になる可能性があるそうだ。そのためか、10月の中旬には、左目はほとんど見えなくなってしまった。丁度、雨の中でワイパーを回していないフロントガラスからの風景のように見えるだけだった。

 10月16日に検査の結果の説明があり、出血も完全に止まっているので、あとは出血が引いて行くのを待つだけだと言われた。丁度内出血をしたとき、初めはその部分が赤くなり、やがてしばらくするとそこが紫色に変わり、少しずつ色がなくなり、やがて元通りになるのと同じような経緯を経るらしい。確かに、最初の頃は、左目で見えるものが、多少赤みがかっているような気がした。現在は、紫色がかかったような感じだ。というより、赤信号が、赤でなく、青白い色に見えている。出血が引き始めているのだろう。そして、元通りになったら、視力はかなり回復するだろうが、どこまで回復するかは様子を見てみるしかないという。そして、もし視力が回復しなければ、レーザー手術ということになるそうだ。

 目が見えなくなると言うことは、とても不安なことだ。今では、かなり落ち着いているが、最初は完全に見えなくなったらどうなるだろうかと、悪い想像ばかりしていた。私は、どちらかというと最悪の場合ばかりを想像してしまう性癖があるようで、左目だけでものを見て、だんだん見えなくなっていくということを自覚したときは、本当に不安だった。人間の目は、二つあり、一つが見えなくなっても、もう一つが使える。実際、私は、今、残った右目で本を読んでいる。左目では、ワイパーが動き始めたくらいは見えるようになったのだが、まだ、文字は読めない。それでも、右目だけで本は読める。しかし、その時は、何故だか左目が見えなくなったのだから、ひょっとしたら右目も出血して見えなくなってしまうのではないかとよけいなことを考えてしまい、とても不安になったものだ。

 昨日の検査では、左目の視力は完全に回復しないかも知れないと言われた。その時はその時である。しかし、今は、文字はダメでもかなり見えてきたので、何となく明るい希望がある。それでも、左目の像が、まるでムンクの「叫び」のような状態だと、まだ、不安ではある。しかし、これからのことはどうなるかわからない。こうした状態で、本を読んだり、PCに向かって、読んだり書いたりするのはかなり疲れる。左目と右目とがかなり違う像を結ぶために、脳が調整しているようだが、そのためか時々頭痛がするようになった。だから、時々休憩しながらということになる。そして、左目がもう少し見えるようになり、脳が左目と右目の違いをうまく調節してくれるようになれば、もう少し楽になれるかも知れない。近眼で老眼と乱視がある右目だが、まだ世界はよく見えていると思う。