電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ウルトラマンネクサス』を観ながら

2004-10-30 21:03:49 | 文芸・TV・映画
 子どもは休みの日は本当に早く起きる。今朝も子どもに起こされる。「もうすぐ7時だよ。『ウルトラマンネクサス』が始まるよ!」という声。外は、まだ暗い。昨日の天気が嘘のように、今日は朝から雨になりそうだった。すぐに起きて、顔を洗い、窓の外を見る。もうぽつりぽつりしている。妻が、「早めに花を植え替えなきゃ」と言う。昨日、花の苗を買ってきたそうだ。体操をしてから、子どもとテレビを観る。

 『ウルトラマンネクサス』は、10月2日から始まった新シリーズだ。今日で第5話目になる。もう初代のウルトラマンが誕生してから38年になるという。私は、この新しいシリーズを初めて観た。平成になってからウルトラマンはM77星雲からやってきたのではなく、地球の過去からやってくる場合もあったりして、どうもその出自がわからなくなってきた。そのためか、正義の味方かどうかもはっきりしなくなった。そこで、主人公が悩んでいたりする。

 もちろん、最終的には、ウルトラマンは正義の味方であり、ウルトラマンの敵は悪であると思う。小さな子どもにとってはそうに決まっている。しかし、もう少し大きくなると、ほんとにそうかな、みんなはウルトラマンが正義の味方がどうか疑っているようだということに気づく。そして、大人は、ウルトラマンが最初は味方ではなく、むしろ敵だと見なされて、攻撃されてるところから始まり、やがてウルトラマンは本当は地球の味方だったのだということに気づかされるという物語を予想する。それが、平成のウルトラマンの特徴になっている。

 こうした傾向は、『仮面ライダーブレイド』にもある。強い力を持つ自分は、何のためにこんな力を持ったのだろう。自分の戦いで、周りの人々が傷つく。それでも自分は、戦わなければならないが、自分はひょっとしたらその力を魅せられて戦っているだけではないか。そんな悩みを抱きながら、我らがヒーローは戦っているのだ。その理由は、もう既に戦いが正義ということでは納得できなくなっている。守るべき人びとの姿がはっきりしないと、不安になるのだ。『スパイダーマン』というアメリカ映画もそれで主人公のヒーローが悩んでいた。

 ウルトラマンは最初は負けそうになる。それから、逆転する。昔はなぜあんなに強い必殺技があるのなら、初めから使えばいいのにと思っていたが、それではダメなのだ。初めから圧倒的に勝ちまくったら、みんなが不安になる。みんな自分が持てない圧倒的な力には反対なのだ。負けそうになったとき、自分たちでも努力すれば身につけられそうは、根性とか、愛とかそんな力が一押しして逆転しなければならないのだ。

 『仮面ライダー』にしても『ウルトラマン』にしても、結局は、力対力、人間の力を越えた圧倒的な暴力と暴力の戦いで最終的に決着をつけなければならない。そこに「正義」など存在しないのかもしれない。我らがヒーローが戦いに負けそうになったとき、自分を奮い立たせるのは「正義」への思いなんかではなく、「愛」だったりする。それが暴力的な場面ばかりを次から次へと繰り出し、子どもたちを魅了することへの、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』の制作者たちのとまどいと不安の表れかもしれない。

 今朝のニュースで、日本人と思われる遺体が見つかり、ひょっとしたら香田証生さんかもしれないと言っていた。どうやら、夜のニュースでは香田証生さんではないらしいと伝えていた。私は、ほっとした。イラクでアメリカは、ウルトラマンになろうとしたのかもしれない。けれども、ウルトラマンが戦うと、周りの人々に被害が及ぶのだ。そのことにどれだけ、気づいていたのだろうか。そう、戦争では必ず敵も味方も傷つくのだ。その上、「正義の戦い」というのが本当かどうかじっくり考えたことがあるのだろうか。

 というわけかどうか知らないが、「ウルトラマンネクサス」は、時空の歪みに「メタフィールド」と呼ばれるバトルゾーンを形成し、敵をこの空間に引き込み、戦いを繰り広げる。しかし、戦いのステージはそこであっても、やはり被害はそこだけで収まらない。「メタフィールド」を形成できる時間は、わずか3分間しかないのだ。そんな時間で、何かを解決するなんて不可能だ。当面の敵をやっつけることはできるかもしれないとしても。


「死」と「自然」と

2004-10-28 23:30:55 | 子ども・教育
 煩悩の固まりのような私が、死について考えていることはただただ怖いということだけだ。だから、人の死など見たくもない。それは、まさしく、不気味な存在だ。いつもそこで私の思考はストップしている。ロボット工学での「不気味の谷」のことを書いたが、人間の死も同じかもしれない。というより、人の死体こそが「不気味」である。今までそこで元気に話していた友達が、一瞬の後に殺され、無様な形で自分の前に転がっているのを見て、恐怖を感じない人がいるだろうか。遠くイラクでそれが起きようとしており、また新潟の地震でそれが起きたし、大阪市池田小学校でもそのような事件が起きた。

 そうした「死」を目の前にして私たちの感じることは、「不気味」という気持ちと同時に「無力感」である。それは絶対的な無力感である。次に自分が殺されるかもしれないという恐怖と、殺されるのを助けることができなかったことへの罪悪感。何かとてつもなく、取り返しのつかないことが起きてしまったということ。見ていることしかできなかったことへの「無力感」。衝撃波のように私たちを襲ってきた「殺戮」と「叫び」の残像。それは、そのように抽象的に言うこと以外に今の私には表現できない。

 友人から、今年の8月に行われたあるセミナーの講演の記録のコピーが送られてきた。それは、ノートルダム学院小学校教諭の菅井啓之先生の「いのちと向き合い 自然とふれあう心の教育」という講演の記録だった。菅井先生は、平成13年6月8日には、大阪教育大学付属池田小学校の理科の専科の先生だった。2年南組では女の子ばかり5人亡くなった。担任の先生はいろいろな状況の中で担任を続けられなくなったので、菅井先生がその代わりに2年南組を急遽担任することになったという。

 菅井先生のすごいところは、理科の専科の先生という自分のいる位置から徹底的に子供たちとつきあったところだ。いろいろな自然を見せることによって子供たちを癒していく。初めての子どもたちとの出会いには、ムクロジを沢山持って行ったそうだ。ムクロジというのは、羽子板の羽の下についている黒くて丸い実になるものだ。ムクロジの皮をとり、水に入れて振ると自然の石けん水でとてもこまやかな泡が立つそうだ。そうした自然の不思議を見せて、子どもたちと仲良くなったという。

 亡くなった子どもたちの親たちが、今まで通り自分の子どもの机を残して、そこに友だちと一緒に居られるように、写真や花を飾って欲しいという要望をした。そのとき、別の保護者から、それは子どもたちにとって思い出したくない恐怖を思い出させるので止めた方がいいという意見があり、子どもの思い出を残して欲しいという意見と対立したという。それに対して、菅井先生は、子どもたちに、蝉の抜け殻を見せて、「世の中には見えないからといってないと言えないものがある」ということを話してあげて、その後で子どもたちに亡くなったお友だちの机を置いておいてもいいかどうか決めさせたという。結局、すべての子どもに納得してもらって、友だちの机を置いておくことになったという。

 その2年南組の子どもたちが、その事件以降に書いた詩集と俳句集があり、それの紹介がある。「死」を見てしまった子どもたちが、「死」と「命」について必死に問いかけている詩が沢山ある。菅井先生の「つらい悲しい事件に対して前向きに進んでいかなきゃいけないという」願いが子どもたちに届いたのか、子どもたちは徐々に立ち直っていく心の軌跡が見える。先生や、親、子どもたちは癒されない心を抱きながら、それでも前に進んでいかなければならない。その過程でのいろいろな試みや、思索や対話を菅井先生は切々と語られていた。

わすれようとおもう。
だから、ほかのことをかんがえると、よけいおもい出してしまう。
でも、じかんがたつとわすれた。
人間ってふしぎな力をもっているんだな。


 これは、そんな成長の過程にある子どもの詩だ。「自然」の治癒力ということだと思う。菅井先生は、子どもに「忘れる力も人間にとって大切なんだよね」とコメントしている。それ以外にどんな治療があるのだろうか。子どもたちの中の自然の力が子どもたちを癒しているのだ。菅井先生が子どもたちに沢山見せて上げた自然が、大きな役割を果たしているのだと思う。こんなに自然に詳しく、自然に優しい理科の先生がいたのだ。

 私たちは、悲惨な事件のことなどできるだけ早く忘れて欲しいと願う。忘れて、自分の人生を大切にして生きて欲しいと願う。けれども、簡単には忘れることができない。ただ、自然の時間だけが解決してくれるのかもしれない。自然の中の生き物を見ていると、子どもたち自身の中の自然の力を甦ってくるのかもしれない。そんな菅井啓之先生が『ものの見方を育む自然観察入門』(文溪堂)という本を書いている。どちらかというと教師向けに書かれた本であるが、普通の父親が見ても役に立ちそうだ。幸い、私の近くにはまだ、自然がいっぱいある。子どもと一緒に自然観察をしてみたいと思った。


『脳の中の小さな神々』

2004-10-27 23:17:13 | 自然・風物・科学
 とても刺激的なタイトルだが、これは茂木健一郎さんの本のタイトルだ。茂木健一郎・歌田明宏共著の『脳の中の小さな神々』(柏書房)は、今年の7月に出た本である。この本は、歌田明宏さんが聞き役となり、茂木さんが現代脳科学の最先端の問題をわかりやすく解説してくれる本だ。本当に分かり易い。そして、脳科学の知見に基づくいろいろな問題の見方、考え方も興味深い。引き込まれたまま、読み終わってしまった。

 ところで、脳科学の根本問題として、「同一性」の認識ということがあるそうだ。つまり、意識があるものをあるものと認識するのはどうしてかということだ。この点は、プログラミング言語の話を思い浮かべながら、興味深く思った。特に、オブジェクト指向の考え方がよく似ていることを扱っているように思う。プログラミング言語の実行環境というのは、プログラミング言語の作者の意識がモデルになっているはずだ。実行環境の中でのオブジェクトのあり方がこの問題と関係していそうな気がした。

 例えば、「見る」という行為は、私たちが目で、外界の何かを見ると言う形で理解される。向こうから車が走ってくるのが見えるとは、まさに向こうから車が走ってくるのを見ているのである。しかし、脳科学によれば、私たちは直接外界の車を見ているのではなく、外界の車は目を通して網膜にある刺激を与える。この刺激は、脳の神経細胞に対する入力となり、神経細胞が特定のパターンで活動する。この活動自体が視覚イメージである。この視覚イメージを私たちは見ていることになる。この「視覚イメージを見る」ということが、根本問題だという。

 脳科学が説明してきたのは、脳の中のある神経細胞の活動と、外界から入る刺激の「対応関係」だけである。そのような「対応関係」を通して脳の中で生み出された神経活動の一つ一つが、「私」にとって、どのようにして「赤」や「つやつや」や「リンゴの形」といったクオリアとして成立しているのか、というメカニズム自体を説明するわけではない。
 むずかしい言葉を使えば、私たちが「見る」という体験のなかにとらえている、さまざまな視覚的特徴の「同一性」自体を説明するわけではないのである。(P244)


 ここで「同一性」というのは、「私」のとっての「赤」は、いつでも同じ「赤」であるという意味だ。「私」の感じる「赤」と他人の「赤」は違うかもしれないが、「私」は同じと理解する。丁度、下手くそな字で書いてあっても、上手に書いてあっても同じ「赤」という漢字と理解するように同一だと見なすことである。さっきの神経細胞の活動パターンと今度の神経細胞の活動パターンは、なぜ同じだと理解されるかということだ。この同一性は、「私」が見ていてそう判断しているのである。この「私」が問題なのだ。「私」とは一種の「ホムンクルス」である。

 ホムンクルスという主観性の枠組みは、脳の前頭葉を中心とする神経細胞のあいだの関係性によって生み出される。そのようにして生み出されたホムンクルスが、自分自身の一部である神経細胞のあいだの関係性を、「あたかも外に出たように」眺めることで、そこに「つやつやとした赤いリンゴ」というイメージが生じる。どうやら、私たちの意識はそのようにして生み出されているようなのである。(P258)


 この同一性ということについて、私はオブジェクト指向プログラミングの「オブジェクトの同一性」ということを思い浮かべる。オブジェクトにはすべてIDがあり、そのIDを調べることにより、同一性が認識できる。例えばJavaであれば、JavaVMの中で、あるメソッドを使ってみればよい。この仕組みと、脳の中の同一性を支える仕組みが同じかどうかはわからないが、Javaの場合でいえばJavaVMというシステムが稼働していて初めて比較できることだ。つまり、まずオブジェクトが作られなければならない。作られたオブジェクトは、IDを持っており、それは動的に決まる。これと似ているような気がしないでもない。似ているのは当然で、コンピュータのほうが脳をマネしているからだ。

 「私」はこの宇宙全体を見渡す「神の視点」はもたないが、自分自身の一部をメタ認知し、自分の脳の中の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」はもっている。私たちの意識は、脳の中の神経細胞の活動に対する「小さな神の視点」として成立している。
 私たちの脳の中には、小さな神が棲んでいるのである。(P259)

 JavaのGC(ガベージコレクション)という概念は、JavaVMというシステムがオブジェクトを常に監視していて、誰からも参照されなくなったときにオブジェクトを破棄するという活動をさす。脳とコンピュータは全く別のものだが、コンピュータとは脳をモデルにして発展してきたものだということが、よくわかる。やっとここまで疑似化してきたのだというように考えるか、まだこんな状況だ考えるかはむずかしいところだ。私には、JavaやRubyにも小さな神が棲んでいるように思われる。


ライブドアと楽天の新球団名が決まる。

2004-10-26 20:47:47 | スポーツ・ゲーム
 ライブドアと楽天の新球団名が決まった。まず楽天が、「東北楽天ゴールデンイーグルス」というチーム名にした。(朝日新聞10月22日の記事「チーム名は『楽天イーグルス』 三木谷社長が発表」より)

 楽天の三木谷浩史社長は22日、プロ野球への新規参入を認められた場合のチーム名を「東北楽天ゴールデンイーグルス」とすると発表した。ゴールデンイーグルは英語でイヌワシを意味し、国の天然記念物のニホンイヌワシは東北6県にも生息する。
 約200の候補から選んだ三木谷社長は「東北地区をベースに愛されるチームを作りたく、6県に共通するので決めた」と説明。「少し長いと迷ったが、サッカーの『浦和レッドダイヤモンズ』は『浦和レッズ』なので、通称『楽天イーグルス』と呼んでもらえれば」と話した。

 次に、ライブドアが「仙台ライブドアフェニックス」に決まった。(朝日新聞10月26日の記事「新球団名は『仙台ライブドアフェニックス」と発表 』による) 
 プロ野球への参入を目指すライブドアの堀江貴文社長は26日、東京都内で記者会見し、新球団が認められた場合のチーム名を「仙台ライブドアフェニックス」に、チームカラーは赤にすると発表した。
 同社はチーム名をインターネットで公募し、上位10件を対象に決選投票を呼びかけ、同日正午で締め切った。1万8000票余の投票があり、不死鳥を意味する「フェニックス」が約3400票で1位になった。
(中略)
 堀江氏は「いい名前に決まった。チームは死なない、永遠に続いてほしい、という思いを投票者に込めてもらった」と話した。


 球団名の決め方や、思いがそれぞれの社風を表しているようで面白いと思った。私は、「仙台ライブドアフェニックス」が好きだ。「東北楽天ゴールデンイーグルス」のほうが、地方色がありそうだが、「フェニックス」という気障っぽさがいい。もちろん、単なる好みの問題であり、それ以上でも以下でもない。

 どちらの球団になるのか、不確定だが、とても難しい事態になっていることだけは確からしい。審査は、とても大変だと思う。普通に考えれば、どちらがなってもおかしくないからだ。いろいろな問題が取りざたされたが、結局のところ、どちらもどちらというのが結論だと思う。その上、何か欠点を見つけ、資格の問題にすると、そのまま今の球団の経営の問題になりそうだ。ほんとに大変だと同情する。いまさら、どちらも不適格とは言えないよね。


三位一体の改革と義務教育(3)

2004-10-25 21:09:56 | 政治・経済・社会
 しばらく前の毎日新聞に「国庫負担廃止論にノーベル賞学者ら異議」という記事があった。その件について、「理系白書ブログ」の元村有希子さんが「科学者と政治」という記事を書いている。その記事に出てくる「日本の将来を憂える緊急メッセージ」そのものが読みたかったので、インターネットで検索したが、見つからなかった。それを読まないと感想も中途半端になりそうだ。その代わりというのも変だが、検索中に見つけたmy.Hurusato.orgさんの「丸投げする前に、内容を検討しなければ?」という記事は鋭いと思った。

上記の2つのエントリーとも、「公教育支出の削減=公教育の後退」と捉えられておられる様子なのが、私には少し気にかかる。注目すべきなのは、これまでの公教育支出の使途と、今回の削減内容であり、結果として得られる効果ではないか。
仮に、(訳の分からない使途に科研費を流用した事例もあったくらいだから)無駄な支出があったり、十分な効果を見込めない事がはっきりした事業があるのなら、その部分については随時修正するべきだろう。

 上記2つのエントリーというのは、一つは、先ほどの理系白書ブログの記事であり、もう一つはあざらしサラダさんの「教育を切り捨ててどうする」という記事のことである。いつの間にか、文部科学省を応援する団体ができていることも気になる。いろいろな組織が、文部科学省を応援しているので、厚生労働省のようにまたもや監修料の問題で批判されている省庁と違って、今のところ元気に見える。あの日教組でさえ応援団体になっているのだ。しかも、22日は中教審会長も反対を表明し、実行されたら止めるとまで言い出した。こうした事態を見ていると、次のような麻生総務相の考えもおそらく本当だろうなと思えてくる。

 こうした中で、麻生太郎総務相は22日「(反対論は)意見として分からないわけではないが、義務教育をやめるわけではない」と述べ、補助金をカットしても税源が移譲され、義務教育制度自体には影響がないと強調した。地方案擁護の同省は一連の反対運動の黒幕は文部科学省とみており、「ノーベル賞受賞者」らの権威をバックに「補助金カット=教育費削減」の図式が浸透し、世論が削減慎重論に傾くことを警戒している。


 「国庫負担金を地方に自由にさせたら地方の教育に格差が生まれるだろう」という発想はとても安易に思われる。地方自治体は危ないところがあり、そこでは教育に使われる資金を別の科目に使ってしまうに違いないという考えは(文科省はシミュレーションまでしたという)、本当に正しいだろうか。そういう地方の問題は、教育だけの問題なのだろうか。今のところ削減の対象になっている国庫負担金は中学校の教師の給与分だけだ。さらに、次のような問題もあるという。

浅野氏らが補助金削減をことさら重視するのは(1)使途が細部にわたり限定されている(2)使い切らないと減額される……という中央優位の性格にある。しかも補助金を「配る側」と「受け取る側」とも多くの要員がかかり、西日本のある県が今回の3・2兆円削減案の中の自県分にかかわる申請業務などに費やした人件費を試算したところ、年間3.6億円にも上ったという。


 いま、いわば建前が崩れようとしているのだ。義務教育を国で負担すると言うことであれば、それは国の負担金として残すべきだと思う。しかし、地方自治体が雇う教員の給与の負担金の補助によって、地方の教育人事をコントロールするという発想は止めるべきだ。自分たちがやらなければ、地方はそのお金を違うことに使ってしまい、国民の教育に格差が生まれるというのは、地方を見下した言葉だと思う。それとも、国はお金がいくらでもあるから大丈夫だとでも言いたいのだろうか。政府は28日までに対案を出すように言っているが、文科省には対案はないという。my.Hurusato.orgさんの次の言葉は、もっともだと思う。

こうした全体像を踏まえた検討がないままに、公教育支出の削減を論じても、財政上の制約が厳しい現状では、正確な結論は導けないし、世論にもアピールしないと思う。多くの人たちが、国の財政が火の車状態で、早く手を打たないと自分の将来の負担が増えることを、自分の問題として意識し始めているのだから。