電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

教育再生会議

2007-01-28 22:01:39 | 子ども・教育

 新聞によれば、東京では18日に梅が咲いたそうだ。平年より11日早いという。こんなに早く咲いて、受粉の仲立ちをしてくれる昆虫は来るのだろうかというが当然の疑問ではあるが、そういうことを調べた人がいるそうだ。農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所の研修生の久保田博文さんは、華の前にビデオカメラを設置して、集まる虫の種類を調べたそうだ。そうしたら、色々な虫が集まるのだが、虫の数が少ないらしい。「早咲き不作」というのは、梅栽培のイロハだそうだが、教育再生会議の提言を読んで、この梅の花のような印象を受けた。

 「社会総がかりで教育再生を」という第1次報告を巡っては、色々な人たちがそれぞれの立場から意見を述べている。一番大きな声は、現場の実情をよく知らない人たちが作った作文だというものだ。確かに、現場の教師がほとんどいない。いわゆる、教育問題の専門家や評論家や大企業の経営者たちがそこにはいる。勿論、再生会議の裏方には、文部科学省の役人もいるわけで、全く的はずれというわけではないが、現場をよく分かっていないということはあり得る。しかし、現場を知らないからこそ何かを言えることもあり得るのであって、現場の困難な状況に直面して、にっちもさっちもいかない教師たちの何かの約立つことはあるかも知れない。

 しかし、書かれていることは、いずれも総花的で、今回の教育改革でそんなにたくさんのことができるのだろうかということは確かだ。いじめ問題や格差問題が強調されているので、見逃されがちだが、教育再生会議の提案の基本には、イギリス流の新自由主義的な教育改革の流れが透けて見える。グローバル社会の中で、世界的な「知」の世界の競争に勝ち抜くために、高度な専門的な人材や国際的に活躍できるリーダーを養成する必要があるという認識のもとに、競争原理を導入した学力向上への方向がしっかりと提案されている。

 「社会総がかりで教育再生を」という発想は、そもそも間違っている。現在の教育問題を現在の教育制度の問題としてとらえ、その教育制度をどのように変えていくのかが問題であり、今一度制度の問題を徹底的に検討すべきだ。制度の問題を論じるときに、制度を担う人間の能力の善し悪しを問題にしても仕方がない。そうした問題も含めて制度は作られているべきだからだ。また、制度のほころびを、「社会総がかりで」といってみても始まらない。なぜなら、教育制度は、「社会総がかり」でできないからこそ存在する制度なのだ。

 ところで、現在の教育問題の中心は、現在の教育制度が、現実の社会の動きに十分うまく機能できていないところにある。現在の社会の動きは、「競争」と「自己責任」ということであり、教育再生会議の言葉で言えば、「教育は保護者の経済力にかかわらず、機会の平等が保障されるべきであり、絶対に教育格差を生み出してはいけません。」という言葉に象徴されていると思われる。一応、頑張れば報われるということを言っているように見える。しかし、現在の教育理念と制度の徹底的な検討が加えられることなく、思いつき的に制度をいろいろいじってみたところで、現状が大きく変わるとは思えない。「競争と自己責任」は、理念ではなく現実の論理なのだ。

 私には、教育再生会議の提言通りに教育改革が行われたら、今より効率的で機械的な学校ができあがるだけで、楽しい学校などできるとは思えない。勿論、子どもたちは、学校で学ぶだけでなく、あらゆるところで学ぶのであって、学校が少々おかしくなったとしても、たくましく生きる可能性はある。なぜなら、常に子どもたちは、社会を鏡として生きてきたからだ。私たちの経験から考えても、学校の授業で学んだことは、現在の私たちの学力のほんの一部でしかないと思う。教科書を厚くして沢山教材を載せれば、学力が保障できるわけではない。私たちは、教科書以外から、たくさんのものを読んだり、学んだりしてきた。むしろ、こっそり隠れて読んだ本の中に私たちの心の中に響くものが沢山あったように思う。

 学校というのは、子どもたちにとって単に通過するところである。それ以上でも以下でもない。何かそれが深遠なことであるわけではない。深遠に見えるのは、そこによい教師や素晴らしい子どもたちが存在するからだ。通過する道は、厳しいこともあれば、優しいこともある。おそらく、学校というところは、通過するところに意義があるように思う。それは、同じ年齢の仲間と一緒に行動しながら学ぶという経験を通じて、競争や争いや、あるいはいじめなど、今後出会うであろう社会での問題の縮図を体験することができる。それが通過するということに意味である。

 いずれにしても、教育再生会議の提案は、現在のところ考えつくすべての教育改革の提案が盛り込まれているように見える。しかし、それがどうしたら実現するのか、あるいは、実現したら何が起こるのかという見通しは、定かではない。後は、安倍総理がどうこれを推し進めるかにまかされていると言っても良い。私は、論議をどんどんやって欲しいと思う。しかし、現在必要ななことは、思いつき的な提案ではなく、現状のしっかりした分析であるように思われて仕方がない。まずは、今年の4月に行われる「全国学力調査」によって何が起こるかが、今のところ、学校現場としては最大の問題であると思う。「塾に頼らなくても学力がつく」というのは、本当はどういうことなのかが問題だと思う。


そのまんま東が宮崎県知事に当選

2007-01-21 22:14:17 | 政治・経済・社会

 このニュースは、NHKの大河ドラマ「風林火山」を見終えたすぐ後のニュースで知った。そして、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のそのまんま東(49)の項で、9時前に既に「ビートたけし率いる芸人集団たけし軍団の元一員でビートたけしの最初の弟子。平成19年(2007年)1月21日投票の宮崎県知事選挙への出馬を表明した。 そして2007年1月21日、宮崎県知事に当選」と書かれていた。彼は、ネット上に公式サイトを持っているが、今はつながらない状態になっている。

 数日前の新聞のニュースでも、かなり健闘している様子が報じられていた。彼の宣教活動のやり方が草の根的で、これはひょっとしたら、青島幸男のようになるのではないかと思っていた。結果はその通りになった。東京都の石原知事、この前落選してしまった長野県の田中知事に続いて、3人目のユニークな知事になりそうな気配である。ついでに、NHKのHP上のニュースでは、次のように書かれていた。

 官製談合事件で前の知事が辞職したことに伴う宮崎県知事選挙は、21日投票が行われ、無所属の新人で元タレントのそのまんま東氏が初めての当選を確実にしました。そのまんま東氏は49歳。宮崎県都城市出身でタレント活動を続ける一方で、7年前から大学で地方自治などを学び、今回の選挙に立候補しました。( 1月21日 20時9分 )

 ところで、現在この記事を書いている時点で、実際の得票数は、次のようになっている。
   開票率 5.6%
  ・川村 秀三郎 無・新  13,784
  ・そのまんま東 無・新   8,670
  ・持永  哲志 無・新   6,523
  ・津島  忠勝 共産・新   360
  ・武田  信弘 無・新    152
    (1月21日9時15分、MRT選挙速報による)
この記事にも、既にそのまんま東のところに「当確」という文字がついているのであり、各種の調査を総合して、判定が下っているようだ。投票は、午後8時に締め切られたのだから、ほとんど投票が終わると同時に「当確」が出たことになる。(ただし、この記事を書いている時点では、朝日新聞はまだ「当確」を出していない。)

 午後3時半での推定投票率は、48・7パーセントと、前回を10・22ポイント上回っていた。自民党の政治家がしばらく前に、投票率はかなり低くなり、そのことがそのまんま東に不利に働くだろうと予測していたが、結果はその逆になった。出口調査によれば、自民党支持者、民主党支持者のかなりの層に、そのまんま東への支持が拡がっているようだ。今回の選挙は、県発注の設計事業を巡る官製談合事件による前知事辞職によるいわば世直し選挙になるわけで、同じ無所属新人で元林野庁長官の川村秀三郎(57)や元経済産業省課長の持永哲志(46)などを破っての当選ということになる。持永哲志は自民・公明の推薦である。

 私の印象では、そのまんま東は、タレントとしては、まともすぎるような気がしていた。7年前から、大学に通い地方自治の勉強をしていたというのは、何だがあまりにまっとうすぎるような気がする。勿論、彼のブログの日記を読んでいても、彼のまっとうさはよく伝わってくる。そして、それを何のてらいもなく書けてしまうところがそのまんま東の特色なのかも知れない。芸人として人に奉仕することを仕事にしてきた彼が、今度は宮崎県知事としてどこまで宮崎県民のために奉仕することができるのかどうか、これからが見物だと思う。おそらく、多くの宮崎県民は、そう彼に期待したのだと思う。

 20年程前にあった、ビートたけしに率いられて講談社を襲撃した「フライデー襲撃事件」では、たけし軍団のリーダー的立場で参加したが、本人はかなりいい加減な態度であったようだ。その後も、いろいろとトラブルに巻き込まれているが、そのことについてはそれなりに彼は自分のHPで触れている。そうした事件でほのみえてくる彼の行動は、何となくいい加減だなあという気がするが、今回の政治家への立候補とその後の行動を見ていると、これだけは本気でやっているような気がする。

 どちらにしても、私は部外者であり、宮崎県民が選んだ知事は、そのまんま東だった。これから彼が何をするか、よく見てみたい気がする。彼がどんな政策を選択するのか、そしてそれは、これからの時代に合った選択なのかどうか、注目していきたいと思う。何故だか分からないが、現在は、知事の存在がクローズアップされてきた時代でもある。それが、本来の意味での「地方の自立」ということであればとても結構なことなのだが、今は地方は、危機の時代でもある。それだけに、知事の役目は重要だと思われる。もともとの談合体質がどれだけ変えられるのかが、まず最初の試金石になるに違いない。

 それにしても、これは、そのまんま東の「夢」の実現であることだけは確かだと思われる。しかし、政治家としては、これは最初の一歩に過ぎない。たとえそれが「夢」のような出来事だとしても、まだ、始まったばかりなのだと思う。本当の「夢」は、その先にあって欲しいと思う。