電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

家族と家庭の変化

2006-12-17 22:28:54 | 政治・経済・社会

 家族の形がものすごい勢いで変化しているような気がする。もちろん、教育の形も変わっている。東京学芸大学教授の山田昌弘さんの『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書/1999.10.20)、『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書/2004.10.10)を読んでいると日本型家族の形がグローバル社会の変化に翻弄されて変化している様子がよく分かる。この変化は、教育のあり方の変化にも影響している。というより、今日の教育の諸問題は、こうした家族の状況に大きくな要因を持っているような気がする。15日に教育基本法が改正されたが、この改正教育基本法の第10条に家庭教育の条項がある。

 第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

 こうした条項は、旧教育基本法にはなかった。今回、こうした条項が入ったのは、それだけ家庭教育の機能の低下が問題にされているからだ。基本的な生活習慣が身についていない子どもたちが、沢山いると言うことでもある。基本的なルールや法意識、さらには社会的常識さえ喪失している子どもたちが沢山いると言うことは、しかしほとんど学校教育以前の問題である。本来なら、学校に行くようになる前に、また、学校に行くようになってからも、家庭で親が子どもを育てるときに留意すべきことがらだ。

 以前に学力の2極化について書いたが、家庭こそが2極化しているいるのであり、家庭の教育力が2極化しているのだ。2極化とは、二つのグループに分かれてしまうということだ。かつて、一億総中流時代ということがいわれたが、そういう時代は遠い過去になりつつある。今や、中流がいなくなっているとのだ。この中流が、分解していると言った方がいい。私の想像では、一部の豊かな層やきわめて貧しい層は、こうした問題にはほとんど関係していないのではないかと思われる。むしろ、中間の層が、分解していくことが問題なのだと思う。

 現段階では、世界一の個人資産の持ち主である日本人の一般家庭は、貧困にあえいでいるわけではない。まだ、豊かだ。しかし、その豊かさが、溶解し始めたのだ。東京都の一部の区の生活保護世帯の増加数は、驚く程だ。そうした貧困家庭は、どのように生まれてきたのだろうか。おそらく、彼らには、二つの出自がある。一つは、会社が倒産したり、事故にあったりして、経済的に追いつめられた家庭が貧困かしていくコースだ。もう一つは、パラサイトしていたために、自立したとき貧困となって放り出されるコースである。昔は、どちらの場合でも、その後努力すれば、暮らしは次第に改善されたし、収入も増加していく希望を持つことができたが、現在では、それが不可能になっている場合がある。

 一昔前までは、人々は貧しさの中で、明日への期待を持って働き、現にそうして所得を増加させてきたし、実際に増加したのだ。そのころは、人々は、ひたすら経済的豊かさを追い求めていて、豊かさの中でどう過ごしたらよいかわからなくなっていると言うことが問題にされていた。ところが、現在なら、豊かさの中で育った世代たちが、貧しさに向かいつつある時代の中でどう振る舞ったらよいか分からなくなってきていると言うべきかも知れない。私たちの、生活基盤は、まだ家族ととともにある。特に、現在また、家族が大切なよりどころになりつつある。

 私の甥や姪の中にも、もうとっくに三十を過ぎているのに、未だ「パラサイト・シングル」をしているものがいる。しかも、定職に就かず、フリーターのままでいるのが増えた。親と同居しているので、彼らはまだそれなりに豊かな生活をしているが、もし親の収入が途絶えたらどうするかなどまるで考えていないようだ。アルバイトをして稼いだお金は、そのまま海外旅行費などに使ってしまっていて、貯金しておこうなどという気は、全くなさそうだ。親に聞いてみたところ、「嫁行くか、そうでなければ一生親の面倒を見るかどちらかにしなさいと言ったら、親の面倒を見ると答えた」と言う。

 こうしたパラサイト社会は、もちろん、高度成長経済の中で、それなりの所得を作ってきた親たちと長男・長女のとて作られた最近の家族であるがゆえに、現在のところまだ完全な崩壊を免れている。しかし、現在の家庭のあり方、教育のあり方、そして、経済社会のあり方を見ていると、早晩、このパラサイト社会は、中流の崩壊とともに完全に崩壊していくのではないかと思われる。そして、それは、パラサイト社会ではなく、必然的に共同で作り上げるべき家族として作り直されていくに違いない。その時に人々の意識は、豊かさや貧しさをどうとらえ直して、自分たちの生き方をどう作り直して行けるのか、本当に考えるときだと思われる。そして、その時は、すぐそこにやってきそうな気がする。


『功名が辻』が終わる

2006-12-10 22:41:09 | 文芸・TV・映画

 戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、ついに土佐20万石の大名になってその生涯を遂げた山内一豊とその妻千代の生涯の物語が、今日で終わった。大体において、NHKの大河ドラマは、一人の歴史上の人物の一生を1年間で描くという仕掛けになっているので、毎年この時期になるとそうした物語の最終回となり、主人公の最後の場面になる。自分の年が、もうすぐ山内一豊の死んだ60歳に近くなるということが頭にあるせいか、今回の最後の場面になると何となく考えさせられてしまった。彼は、最後は大名にはなったのだが、それは幸せな人生だったのだろうか。彼は、多くの戦場での危機を乗り越えて大名になった。しかし、最後は病には負けて、60歳で死んだ。

 大河ドラマのナレーションでは、彼らが死んだ後、彼らの思いとは別に、戦がなくなったわけではなく、今も続いていると言うことを訴えていた。しかし、一豊と千代は、徳川の時代になって、平和の時代、戦いのなくなった時代が来たこと信じて、死んでいったに違いない。徳川の代の終わりに、日本の新しい時代のために活躍した、山内容堂と坂本龍馬のことを思うと、不思議な気がする。土佐の国藩は、徳川時代の初めと終わりにそれなりの役割を果たすべく運命づけられていたのかも知れない。しかし、人の一生を時代の中で位置づけると、時代の転機を担った人と、全くそうでない人に分かれてしまう。

 NHKの『プロジェクトX』は、ほとんど時代の象徴になれそうにない人たちを、時代を象徴する仕事を通じて描いてみた物語だった。彼らは、決して山内一豊のようには取り上げられない人たちだ。そした、本来なら、その他大勢で片づけられるべき人たちだった。しかし、一つの時代を象徴する仕事が、あるいは彼らが作り出した商品が、時代を象徴することによって、彼らは時代の表面に現れてきた。これは、おそらく、現代の産物だと思う。現代は、まさしく、そうした個人を個性ある人物として描かざるをえなくなった時代なのだ。これが、山内一豊の時代と、私たちの時代との決定的な違いだと思う。

 昨日、NHKの総合テレビの7時30分から10時30分までの一般参加者も含めてインターネットの将来を考える討論番組『日本の、これから』を観た。結論は何となくわかっていた。そして、まさしくそういう結論に落ち着いた番組だったと思う。一般参加者も含めて、みなかなりインターネットを活用している人たちが話していたように思う。現在のインターネットの光と陰の部分をどうするかということは大変難しいことだと思う。最終的には、国で規制するかどうかと言うところに行く可能性があり、現にここでの話も、NHKのストーリーとしては、そうなっているようだった。実際に、世界という観点から見れば、既に必要ならば国は規制しているし、監視もしている。

 この点からだけ述べれば、大切なことは、インターネットを安全で、信頼できるものとして使いたい人たちをどう保護するかと言うことだと思う。規制ではなく、どうサポートするかだと思う。プロバイダーは、そうする社会的責任があると思う。つまり、私たちは、ある意味では、自分の選んだプロバイダーに自分のプライバシーを預けているのであって、それはプロバイダーが自分でするべきだと思う。そして、そのプロバイダーが、会員の中で犯罪を起こしているものがいるのであれば、適切に排除できるような仕組みを持つべきだと思う。それを警察や国家がやるのではなく、プロバイダーがやるべきだと思う。

 「インターネットには、光と陰がある」というのは、昔から言われてきたことだし、これからも言われることだと思う。しかし、それは単に、社会では、良いことも起きれば、悪いことも起きるものだと言っているに過ぎない。便利だと言うことだけで、安易に使ってはならないということ以上のことを言っているわけではない。私たちは、既にインターネットの便利さと個別性に囚われてしまっている。私たちがインターネットの時代になって、どのような時代に直面しているか考えるべきだと思う。もし、「日本の、これから」ということを考えるのならば、私たちは、おそらく、『プロジェクトX』の時代をも超えて、インターネットを通じて、個が露出し始めた時代ということが重要なことだと思う。

 「個人情報の保護」ということが重要な課題になったと言うことは、ある意味では、インターネットの特色を映す鏡のようなものだ。インターネットは、その構造上、限りなく「個人情報」を露出していく性格を持っている。何かをネットに載せるということは、不特定多数にその情報をさらすということを意味しているのであって、文字通り、世界中にその情報をさらすことを意味している。山内一豊は作家によって、個性を晒され、『プロジェクトX』の登場人物たちは、NHKによってその個性を晒された。しかし、インターネットの時代は、匿名掲示板などを等して、個性を晒されているだけではなく、自分でブログを書いたり、HPを開くことによって、自ら個性を晒しているのである。

 だから、私たちは、インターネットの時代になって、初めて自分自らの行為が自分の個性を晒すことになるという自体に直面したのだと自覚すべきだと思う。そして、そのことは否応もなく、他人を巻き込んでいくことである。あるいは、他人に巻き込まれていくがゆえに、情報の露出に巻き込まれていくことでもある。『功名が辻』という言葉は巧みな言葉だ。インターネットの世界で、発信するということは、好むと好まざるに関わらず、『功名が辻』に自分の身をさらすことでもあるのだ。そのことが、戦国の世と、現代の違いとなってあらわれてきているのかも知れないと、思った。


突然の中津川行き

2006-12-03 22:46:58 | 生活・文化

 土曜日は、午前中会社で会議があり、午後になってから家に向かった。帰りの電車は整備点検があるとかで少し遅れていたが、飯能には3時頃着いた。電車の中で、かみさんから何回か電話があったようだった。飯能に着いてから、電話した。義理の母が、お歳暮のお礼の電話をしたら、中津川の私の父が、具合が悪そうなことを言っていたので、すぐに見に行った方がいいと言っているというのだ。普段そんなことを言うような父ではないので、よほど具合が悪いのではないかと言う。これも何かの知らせかも知れないし、都合がつくのであれば家族3人で中津川へ行ったらどうかということになった。

 私は、家に歩いて帰る途中、中津川へ電話を入れた。ヘルパーさんが電話に出た。すぐに父と代わった。父の話では、三叉神経痛になったらしい。父の話では、医者から薬を貰って飲むようになって、やっと痛みが取れたところだという話だった。耳が遠くなった父の話は、どうも要領がえない。ヘルパーさんに代わったが、ヘルパーさんは、今のところは大丈夫だということだった。父からは、しきりに今年のお正月に帰ってくるかどうか聞いているようだとヘルパーさんが言っていた。私は、その話は検討してまた連絡すると伝えて欲しいとヘルパーさんに告げた。その時は、これから中津川へ向かうということは告げなかった。

 妻と電話連絡をして、塾に行っているこどもと相談して中津川に行けるように準備するように話す。そして、中津川の「ルートイン中津川インター」というホテルの予約をする。さすがに土曜日の夜の予約ということで、3人分というのは難しく、シングル二つで、一つは子どもと一生の止まれるようにエキストラルームをお願いした。4時頃電話をしたのだが、埼玉県を5時頃出るので中津川に着くのは、9時から10時の間だと連絡する。ホテルの担当は、10時過ぎるようだったら、連絡下さいと言った。

 家族3人で中津川へ行くことについては、一瞬迷った。お正月に言った方がいいのではないかとも思った。しかし、行けるときに行った方がいいし、父親がどうなっているのか不明な今が一番いいときだと、妻と話し合い、中津川に行くことになった。妻が塾に出かけていき子どもに尋ねたら、一緒に中津川に行きたいと言ったようで、家族3人での中津川行きを決行した。すぐに中津川に電話をしたら、誰も電話に出なかった。そうこうしているうちに、妻と子どもが日高の実家から帰ってきた。取りあえず、途中で父には電話することにする。

 家の戸締まりなどをして、飯能の自宅を出たのは丁度5時だった。中津川に行くときは、実家では泊まる準備ができていないので、どうしてもホテルの止まることになる。その方が、妻も子どもも気が楽なようだ。特に今回は、中津川に着くのが夜遅くなりそうなので、ホテルの方が便利である。すぐ出発ということで、一晩の着替えと多少の食べ物、飲み物を持って急いで家を出た。電話をしたら、父親が出た。多少元気な声だった。明日の朝中津川へ行くと告げる。びっくりしたような声だったが、わかったらしく待っていると言った。

 運転は妻で、八王子までは、1時間程かけて裏道を抜けていった。八王子から中央自動車道に入る。八王子は通過したのは、丁度6時だった。息子は高速道路に入ると眠ってしまったので、そのまま走り続ける。韮崎の近くで息子が起きたので、諏訪湖サービスエリアにより、レストランで夕食を取る。諏訪湖を出たのが丁度8時15分くらいだった。途中でホテルに電話を入れた。中津川のホテルに着いたのは、9時半だった。途中で、トイレ休憩などをとったり、お茶を飲んだりするので、どうしてもそのくらいかかる。片道300キロ強の距離になる。ホテルに着いたら、すぐに風呂に入った。このホテルはビジネスホテルではあるが、個室ごとのバスルームとは別に大浴場があり、空いているとゆったりと風呂に入れるのがいい。他に誰も入っていなくて、子どもと二人ゆったりと風呂につかることができた。テレビを見たり、本を読んだりして、11時半くらいまで起きていた。

 翌日、ひげ剃り機を忘れたので、ホテル備え付けのひげ剃りを使ったが、案の定、唇を切ってしまった。私は、いつもカミソリでひげを剃ると必ずと言っていい程唇を切ってしまう。今回は、少し大きく切ってしまい、血が止まらなくて困った。特に、バイアスピリンを飲んでいるので、血が止まりにくい。結局、唇に大きな絆創膏をつけることになり、とてもみっともないことになってしまった。朝ご飯を食べるときに食べにくくて困った。9時頃、中津川の実家についたが、誰も私の唇の傷のことなど気にしていなかったようだ。

 父はとても喜んでくれた。その顔を見ていて、来てよかったと思った。義理の母と妻に心から感謝した。父を連れて、なくなった母親の墓参りをすませ、中津川の駅の近くのアピタにより、父が必要な買い物に付き合う。腰の曲がった父を連れて、アピタの中を少し歩いた。父と一緒に歩きながら、一人で生きている父に圧倒された。私だったら、多分一人でとても生きていけないのではないかと思った。さしあたり必要な食料や調味料などを買いそろえ、父がどうしても食べたいというので、今日の昼と夜の食事用に寿司を買った。夕方、ヘルパーさんが来るというので安心した。

 父の話では、1週間程前から、食事の時右の歯がとても痛くなり、歯医者に行ったそうだ。その時は、入れ歯のせいではないかということで、歯医者で入れ歯をしっかり固定できるようにして貰ったりしたのだが、どうしても痛みが取れなくて、3日前に中津川市民病院に行って三叉神経痛だと診断されたという。そして、薬を処方して貰い、それを飲んでやっと痛みが少なくなったという。しかし、時々はまだ痛むそうだ。次回は12月11日に診察して貰うことになっているとのことだ。父は、この薬でかなりよくなったと言う。しかし、完全に直ったわけではなさそうだ。

 取り急ぎ、父と一緒に家に戻り、昼飯を食べ、隣のいとこのところに挨拶に行ったり、弟のところに電話したりして、寂しそうな顔をする父を残して中津川を去った。父は、泣き出しそうな顔をしたが、元気よくまた来てくれと行って手を振ってくれた。風のようにやってきて風のように去ってきたわけだが、あまりゆったりしていると、時間的にも、精神的にも帰れなくなりそうな気がした。飯能に戻ってから、三叉神経痛について色々調べてみたが、この病気もかなりやっかいな病気だと思った。一人で痛みにのたうち回っていた父を想像して、とても溜まらない気持ちになった。弟たちとできるだけ連絡取り合うようにしたいと思った。