家族の形がものすごい勢いで変化しているような気がする。もちろん、教育の形も変わっている。東京学芸大学教授の山田昌弘さんの『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書/1999.10.20)、『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書/2004.10.10)を読んでいると日本型家族の形がグローバル社会の変化に翻弄されて変化している様子がよく分かる。この変化は、教育のあり方の変化にも影響している。というより、今日の教育の諸問題は、こうした家族の状況に大きくな要因を持っているような気がする。15日に教育基本法が改正されたが、この改正教育基本法の第10条に家庭教育の条項がある。
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。
こうした条項は、旧教育基本法にはなかった。今回、こうした条項が入ったのは、それだけ家庭教育の機能の低下が問題にされているからだ。基本的な生活習慣が身についていない子どもたちが、沢山いると言うことでもある。基本的なルールや法意識、さらには社会的常識さえ喪失している子どもたちが沢山いると言うことは、しかしほとんど学校教育以前の問題である。本来なら、学校に行くようになる前に、また、学校に行くようになってからも、家庭で親が子どもを育てるときに留意すべきことがらだ。
以前に学力の2極化について書いたが、家庭こそが2極化しているいるのであり、家庭の教育力が2極化しているのだ。2極化とは、二つのグループに分かれてしまうということだ。かつて、一億総中流時代ということがいわれたが、そういう時代は遠い過去になりつつある。今や、中流がいなくなっているとのだ。この中流が、分解していると言った方がいい。私の想像では、一部の豊かな層やきわめて貧しい層は、こうした問題にはほとんど関係していないのではないかと思われる。むしろ、中間の層が、分解していくことが問題なのだと思う。
現段階では、世界一の個人資産の持ち主である日本人の一般家庭は、貧困にあえいでいるわけではない。まだ、豊かだ。しかし、その豊かさが、溶解し始めたのだ。東京都の一部の区の生活保護世帯の増加数は、驚く程だ。そうした貧困家庭は、どのように生まれてきたのだろうか。おそらく、彼らには、二つの出自がある。一つは、会社が倒産したり、事故にあったりして、経済的に追いつめられた家庭が貧困かしていくコースだ。もう一つは、パラサイトしていたために、自立したとき貧困となって放り出されるコースである。昔は、どちらの場合でも、その後努力すれば、暮らしは次第に改善されたし、収入も増加していく希望を持つことができたが、現在では、それが不可能になっている場合がある。
一昔前までは、人々は貧しさの中で、明日への期待を持って働き、現にそうして所得を増加させてきたし、実際に増加したのだ。そのころは、人々は、ひたすら経済的豊かさを追い求めていて、豊かさの中でどう過ごしたらよいかわからなくなっていると言うことが問題にされていた。ところが、現在なら、豊かさの中で育った世代たちが、貧しさに向かいつつある時代の中でどう振る舞ったらよいか分からなくなってきていると言うべきかも知れない。私たちの、生活基盤は、まだ家族ととともにある。特に、現在また、家族が大切なよりどころになりつつある。
私の甥や姪の中にも、もうとっくに三十を過ぎているのに、未だ「パラサイト・シングル」をしているものがいる。しかも、定職に就かず、フリーターのままでいるのが増えた。親と同居しているので、彼らはまだそれなりに豊かな生活をしているが、もし親の収入が途絶えたらどうするかなどまるで考えていないようだ。アルバイトをして稼いだお金は、そのまま海外旅行費などに使ってしまっていて、貯金しておこうなどという気は、全くなさそうだ。親に聞いてみたところ、「嫁行くか、そうでなければ一生親の面倒を見るかどちらかにしなさいと言ったら、親の面倒を見ると答えた」と言う。
こうしたパラサイト社会は、もちろん、高度成長経済の中で、それなりの所得を作ってきた親たちと長男・長女のとて作られた最近の家族であるがゆえに、現在のところまだ完全な崩壊を免れている。しかし、現在の家庭のあり方、教育のあり方、そして、経済社会のあり方を見ていると、早晩、このパラサイト社会は、中流の崩壊とともに完全に崩壊していくのではないかと思われる。そして、それは、パラサイト社会ではなく、必然的に共同で作り上げるべき家族として作り直されていくに違いない。その時に人々の意識は、豊かさや貧しさをどうとらえ直して、自分たちの生き方をどう作り直して行けるのか、本当に考えるときだと思われる。そして、その時は、すぐそこにやってきそうな気がする。