電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ひとり日和』

2007-02-18 22:33:47 | 文芸・TV・映画

 青山七恵さんの『ひとり日和』は、第136回の芥川賞を受賞した。石原慎太郎と村上龍がわざわざ記者会見をしたという話が新聞に載っていた。とにかく、二人は、べた褒めしていた。青山七恵さんは、1983年に埼玉県に生まれ、現在旅行会社に勤めているという。大学を卒業して、働きだしところである。『ひとり日和』(文藝春秋・平成19年3月号所収)は、青山さんと違って、高校を卒業して、フリーターをしていた主人公が、やがて池袋の会社の事務アルバイトから、正社員になるところまでの1年と少しの間を描いた作品である。

 高校の教員である母親(47才)が、中国に行くことになり、ついて行けない主人公(三田知寿)は、若い女性を下宿させてくれる荻野吟子という遠縁の70過ぎの女性と暮らし始める。この老女の家が実に巧みに設定されている。石原慎太郎の選評もそこのところを特別に取り上げ、ある意味では激賞している。

 都心の駅のホーム間近の、しかし開発から取り残されてしまった袋小路の奥の一軒家という寄宿先の設定も巧みだし、特に、その家から間近に眺め仰ぐ、多くの人間たちが行き来する外界の表象たる駅への視線は極めて印象的で、今は選者の一人となった村上龍氏の鮮烈なデビュー作『限りなく透明に近いブルー』の中の、ランチキ騒ぎ放埒の後眠りこけて遅く目覚めた主人公が、開け放たれたままの扉の向こうにふと眺める外界の描写の、正確なエスキースに似た、優れて絵画的な描写に通うものがあった。(石原慎太郎「大都会でのソリテュード」芥川賞選評より)

 これに対して、当の村上龍は、この作品の核になるべき場所として、この駅のホームを次のようにとらえている。

 この駅のホームは、作者が自らの視線と観察力を基に「構築」したものであり、作品全体のモニュメントのような象徴にもなり得ている。その場所に仲介されるように主人公は世界を眺め、外部から眺められる自身をイメージする。
 作者はそのような場所とその意味を、「意識的に」設定したわけではないだろう。おそらく、ふいに浮かんできたものを直観的にすくい上げたのだと思う。自覚や意識や理性など、たかが知れている。作家は、視線を研ぎ澄ますことによって、意識や理性よりさらに深い領域から浮かんでくるものと接触し、すくい上げるのだ。(村上龍「芥川賞選評」より)

 石原慎太郎と村上龍は、青山七恵さんの文学的な感性を直観的なものとしてとらえ、自分たちがかつて持っていたものと同じようなものと感じているようだ。これに対して、女性の高樹のぶ子は、この作品を「若い女性のもったりとした孤独感が描かれていて、切ない」ととらえているが、この作者のかなりの高度な作意をかぎ取っている。

観念から出てきた作品ではなく、作者は日常の中に良質な受感装置を広げ、採るべきものを採って自然体で物語をつむいだ、かに見えるのは、実はかなりの実力を証明している。四季を追って女性の変化を描く手法にしろ、七十代の男女と意識を絡ませたりすれ違わせたり、また盗癖や蒐集癖があざとくならず説明的にもならず、彼女の寂しさを十分に伝えているところなど、要点が押さえられているのに作意は隠されている。(高樹のぶ子「”作意を隠す力”」芥川賞選評より)

 私には、高樹のぶ子の選評がいちばん当たっているような気がする。

主人公の女性は二十歳、その母親は四十代だろう。この母親は中国に行き再婚するとかしないとか。さらに主人公がともに暮すことになる吟子さんは七十歳を過ぎているらしいが恋をしていて、男性と付き合っている。この作品はいまや三世代が恋愛の現役だということを、さらりと伝えている。主人公が失恋して呟く。「なんか、お年寄りってずるいね。若者には何もいいことがないのに」──若い女性の実感がぴしりと決まり、まさに今を言い表している。(同上)

 『ひとり日和』という作品の評価としては、この高樹のぶ子の選評がいちばん適切なような気がするが、それにしても青山七恵さんの才能は優れたものだと思う。私には、主人公の恋も母親の恋も、そしてさらには吟子さんの恋にも、切迫感が感じられない。あたかも人間は、恋をしなければ生きてはいけないものだという道理があるかのように見える。若い二人には、セックスが必要であり、母親の世代は生きていく支えが必要であり、そして老人たちが求めているのは、優しさだと言っているように思える。これは、まあ、主人公の恋愛観かも知れない。

 私が読んでいて、とても面白いと思ったのは、主人公のコンパニオンのアルバイトから初め、その次に少し長期の駅の売店の売り子、そして事務のアルバイトを得て、最後はそこの正社員になるという過程である。これは、何となくふわふわとしていた主人公の気持ちを現実的にし、やがては普通のOLになっていく過程だととらえられる。いままでの文学はその逆の過程がたいていは対象になっていた。そう、そうして主人公たちは、なんだか暗い自分の心の闇を見つめたり、あるいはまたそれを現実の中に見つけたりすることにもなる。しかし、この作品ではそれとは全く逆の過程が描かれている。そうすることによって、三世代のそれぞれの恋が、みな同じようにはかなく、そして切ないものに見えてくるから不思議だ。


「努力すればむくわれる」

2007-02-12 20:46:52 | 子ども・教育

 ベネッセ教育研究所の第4回学習調査によれば、子どもたちの学習時間は小中学生とも増加しているが、「日本は、努力すればむくわれる社会だ」という項目では、「小学生の68.5%が肯定している(「とてもそう思う」+「まあそう思う」)のに対して、中学生では54.3%、高校生になると45.4%と、学校段階が進むにつれて低くなる結果がみられました」という。逆に、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という項目では、増加する傾向を示している。これは、おそらく子どもたちの社会観の変化だけの問題ではないと思う。

 東京学芸大学の山田昌弘教授の『新平等社会──「希望格差」を越えて』(文藝春秋/2006.9.15)は、9章の「教育格差──希望格差社会とやる気の喪失」というところで、「勉強という努力が報われない」という問題として、教育に対して、独特の見解を示している。

 学力低下の問題を、ゆとり教育による教育内容の削減や学校週五日制、学校の先生の教え方が下手になったなど、学校教育現場の問題のみに還元してはならない。いくら優れた教育プログラムを用意しても、いくら先生の教え方が上手でも、学ぶ側に学ぼうとする意欲がなければ効果は上がらない。逆に学校教育が不十分でも、塾や家庭で勉強すれば、学力はつくのである。はっきり言って、10年前まで、日本の生徒が国際的に学力が大変高かったのは、受験塾から補修塾まで様々なレベルの塾や家庭学習など、学校外の学習時間の多さによるものだったと思っている。すると、塾に行って勉強したり、家庭学習をしない子が増えたことこそが、学力低下の原因であろう。(『新平等社会』p240より)

 教員養成大学の教授の発言にしては、かなり大胆な発言だというべきである。しかし、わたしは、山田教授の意見にほとんど賛成だ。先ほどのベネッセ教育研究所の調査で見られた子どもたちの社会観が「学ぶ意欲の喪失」を見事に示している。

 学力低下という現象は、「教育という領域で勉強という努力が報われない」という状況が拡がったから起きた現象ではないのか。勉強してもしなくても将来が変わらないと思えば、勉強に身が入らないだろう。そして、勉強努力が報われないという状況は、一方で、実際に苦労して勉強してもその努力が無駄になり絶望感に襲われる若者も生み出しているのだ。
 戦後、高度経済成長を経て、1990年頃までは、「学校教育」は、希望の象徴だった。それは、あらゆる生徒にとって、「勉強という努力が必ず報われる」という勉強努力保障システムが構築されていたからである。(同上・p242)

 山田教授によれば、戦後教育は、優れた「パイプライン・システム」ができていて、学校のコースによって、生徒たちの将来をうまく決めていたという。そして、誰もがそれなりの努力をすれば、一定の幸せを達成することができたという。しかし、このシステムは、1990年後半ごろからのニューエコノミーの登場によってパイプの出口に変化が起きてきたという。ものを作って売るという工業が主流であった時代から、情報やサービス、知識、分化などを売ることが経済の主流になってきた時代への変化である。この社会では、将来が約束された中核的、専門的労働者と熟練が不要な使い捨て単純労働者へ、職業を分化させるという。

 工業高校を出ても正社員になれない人、女子短大を出ても企業一般職になれない人、文系大学を出ても上場企業のホワイトカラーになれない人、そして、大学院で博士号をとても、大学専任教員になれない人が溢れ出す。それが、さまざまなレベルでのフリーターの出現となって現れる。彼らは、学校が想定する職に就くという「ささやかな夢」さえもかなえられなくなっている。
 そして、重要なのは、パイプがなくなったわけではないことである。大卒だからといってホワイトカラーにならないということは、大学に行かなくてもいいことを意味しない。大学に行かなければホワイトカラーになることはもっと難しいと言うことである。これは学校教育のリスク化と二極化が起きたと言ってよいだろう。(同上・p248)

 こうした状況が、子どもたちの、「日本は、競争が激しい社会だ」「お金がたくさんあると幸せになれる」という意識となって現れていると考えてもよさそうだ。私たち(団塊の世代)が、就職した頃は、学校を卒業して企業に就職することによって、将来が保障されたのであり、逆に決まったレールに乗って生きていくことに閉塞感さえ抱いていたものだ。しかし、今では、そうしたレールさえ不確かなものとなり、競争に晒されている。便利で、都合の良い携帯を開発するものがいれば、その携帯を肌身離さずに持っていないと落ち着かない人がいる。ただ、現在では、携帯を開発すること自体も競争社会であって、生き残りが大変難しい状況になっている。誰が、勝者で誰が敗者かは、明日になってみなければ分からないというべきかも知れない。

 文部科学省の「人間力」から始まって、色々なところで、「○○力」という言葉が氾濫している。誰もが「能力」を鍛えなければならず、鍛えられて「能力」は常に競争に晒されることになる。若者たちは、老人たちと違って、「能力」をつけること自体が、自分たちの将来を決めることになる。それだけ、大きなプレッシャーになっているに違いない。そして、いま、「学力向上」という名の下に、「競争」そのものが白日の下に晒されようとしている。それは、はっきりしたという点からでは、いいことだと思われるが、本当に「学力」の向上に結びつくかどうかは、定かでない。なぜなら、学力の二極化は競争の結果であって、「学力低下」の原因ではあり得ないからだ。現在は、本当に、努力しても報われない時代なのであろうか。