「人工知能」という言葉は、もうすっかり古くなった感があるが、「人工無脳」という言葉は、秋山智俊さんの『恋するプログラム──Rubyでつくる人工無脳』(毎日コミュニケーションズ)で初めて知った。「人工無脳」は「人工無能」とも言う。グーグルで検索してみたら、かなりの情報が集まった。要するに会話を楽しむためのプログラムのことであるらしい。色々な定義があるが、多分、Hatena::Diaryにある「主にチャット等で発言の中のキーワードに反応して適当な対応を返すプログラムのこと」という定義あたりが正しいのだろう。そして、この「人工無脳」が結構流行っているらしい。心を癒してくれるという「人工無脳」のサイトが幾つかある。
前述のHatena::Diaryでは、「人工無脳」サイトは、「従来の人工知能研究とは異なり、会話における『表象の現象だけ』を考えて会話をシミュレートしようとするアプローチを取る」と述べているが、「人工知能」ではなく「人工無脳」を楽しむのは、「脳らしさから心らしさへ」ということであるらしい。
とにかく、「人工無脳(能)」というとき、私たちはあまり肩肘張らないことが大切だ。そこに会話の面白さを見ればいいのだ。最近人気のロボットたちもいろいろ人間と会話することができる。それらも含めて、古くはElizaから最近では「どこでもいっしょ」のトロに至るまで、様々な「人工無脳(能)」があると考えていた方がいい。もちろん、最先端のところでは、おそらくそれらもまた「人工知能」ということと重なるはずだ。なぜなら、コンピュータというのは、もともと脳をシュミレータしてできたものだからである。機械によって脳をまねようとしたらコンピュータができたというのが正しい。もちろん、コンピュータは機械だから、脳とは違うに決まっている。しかし、コンピュータはいずれにしても最も脳に近づいた機械であることには変わりない。
さて、秋山智俊さんの『恋するプログラム──Rubyでつくる人工無脳』は、その「人工無脳」をRubyで実装しそのプログラムを解説したものだ。この本は、Rubyの入門書だけでなく、RubyでのGUIの扱い方をVisualuRubyで実装し、また形態素解析をするためにはフリーの形態素解析プログラム「茶筅(ちゃせん)」を使用して「マルコフモデル」を実装するなどの意欲的な試みをしており、その実装の仕方の解説書にもなっている。さらには、こうして実装された「マルコフ辞書」に学習させて語彙を豊富にさせるためにGoogleの「Google Web API」を利用させる方法もプログラムに組み込んでいる。
秋山さんが言うほど、単純な仕組みではないが、「成長」していくプログラムができることは確かだ。秋山さんは、最後に幾つかの課題を出している。「コンソールベースの小さなプログラムから、GUIをもち、学習することを覚え、ついにはネットワークに接続するまでに成長した」プログラムを更に発展させるために、プログラムの改良や、IRCなどのチャットやWEB掲示板での多人数での対話に発展させたり、日記やブログなどのモノローグでの出力ができるように拡張したりすることが課題として列挙されている。
残念なことに、この本をほぼ書き上げた翌日2月18日、秋山さんは36歳、クモ膜下出血で帰らぬ人となったそうだ。この本も、友人が応援をしてできたそうだ。私には、「Rubyでつくる人工無脳」という試みはとても面白い試みだと思った。そして、「人工無脳」を作るということは、Rubyというプログラムの学習にかなり適していると思った。私より、20歳も若い、有能なRubyプログラマーが亡くなったことを聞いて、とても残念に思う。Rubyでの「人工無脳」サイトは幾つかあるが、秋山さんの意志を継いで、たくさんの人たちがRubyでの「人工無脳」に挑戦して欲しいと思った。私も、遅まきながら、勉強してみようと思った。
前述のHatena::Diaryでは、「人工無脳」サイトは、「従来の人工知能研究とは異なり、会話における『表象の現象だけ』を考えて会話をシミュレートしようとするアプローチを取る」と述べているが、「人工知能」ではなく「人工無脳」を楽しむのは、「脳らしさから心らしさへ」ということであるらしい。
チューリングテストが目指している『人間らしさ』は概念操作や記号操作に重きをおく「知的さ」であって、我々が思う『人間らしさ』とは食い違っているからである。我々が会話していて楽しい相手、気の許せる友人の条件はチューリングテストなどで評価できるだろうか?我々の目的は、笑いやユーモアを感じさせるプログラムの創出なのである。この瞬間、人工知能と人工無脳は違う道を歩み始める。人工無脳は科学的であることをやめアートの一種またはおもちゃの一種になったのである。
とにかく、「人工無脳(能)」というとき、私たちはあまり肩肘張らないことが大切だ。そこに会話の面白さを見ればいいのだ。最近人気のロボットたちもいろいろ人間と会話することができる。それらも含めて、古くはElizaから最近では「どこでもいっしょ」のトロに至るまで、様々な「人工無脳(能)」があると考えていた方がいい。もちろん、最先端のところでは、おそらくそれらもまた「人工知能」ということと重なるはずだ。なぜなら、コンピュータというのは、もともと脳をシュミレータしてできたものだからである。機械によって脳をまねようとしたらコンピュータができたというのが正しい。もちろん、コンピュータは機械だから、脳とは違うに決まっている。しかし、コンピュータはいずれにしても最も脳に近づいた機械であることには変わりない。
さて、秋山智俊さんの『恋するプログラム──Rubyでつくる人工無脳』は、その「人工無脳」をRubyで実装しそのプログラムを解説したものだ。この本は、Rubyの入門書だけでなく、RubyでのGUIの扱い方をVisualuRubyで実装し、また形態素解析をするためにはフリーの形態素解析プログラム「茶筅(ちゃせん)」を使用して「マルコフモデル」を実装するなどの意欲的な試みをしており、その実装の仕方の解説書にもなっている。さらには、こうして実装された「マルコフ辞書」に学習させて語彙を豊富にさせるためにGoogleの「Google Web API」を利用させる方法もプログラムに組み込んでいる。
ネットワークにはいろんな人工無脳がいます。彼らはチャットや掲示板、インスタントメッセンジャーで人間とおしゃべりをして、笑わせたり感心させたりむかつかせたりしています。日記やブログを書いて、トラックバックをしてくる人工無脳もいます。
つまりはお遊びプログラム。人工知能までにはいたらないオモチャ。ではあるんですが、これがなかなかかわいいのです。しかも基本的な仕組みは単純なので、それなりのものを思いのほか簡単に作ることができます。(「はじめに」より)
秋山さんが言うほど、単純な仕組みではないが、「成長」していくプログラムができることは確かだ。秋山さんは、最後に幾つかの課題を出している。「コンソールベースの小さなプログラムから、GUIをもち、学習することを覚え、ついにはネットワークに接続するまでに成長した」プログラムを更に発展させるために、プログラムの改良や、IRCなどのチャットやWEB掲示板での多人数での対話に発展させたり、日記やブログなどのモノローグでの出力ができるように拡張したりすることが課題として列挙されている。
残念なことに、この本をほぼ書き上げた翌日2月18日、秋山さんは36歳、クモ膜下出血で帰らぬ人となったそうだ。この本も、友人が応援をしてできたそうだ。私には、「Rubyでつくる人工無脳」という試みはとても面白い試みだと思った。そして、「人工無脳」を作るということは、Rubyというプログラムの学習にかなり適していると思った。私より、20歳も若い、有能なRubyプログラマーが亡くなったことを聞いて、とても残念に思う。Rubyでの「人工無脳」サイトは幾つかあるが、秋山さんの意志を継いで、たくさんの人たちがRubyでの「人工無脳」に挑戦して欲しいと思った。私も、遅まきながら、勉強してみようと思った。