電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「学力格差」と「対人能力格差」

2005-03-21 22:02:48 | 子ども・教育
 「中央公論」4月号に「学力崩壊──若者はなぜ勉強を捨てたのか」という特集があった。全体として『論争・学力崩壊』をまとめた中井浩一さんのトーンが流れていて、かなり興味深い構成になっているが、私が特に興味をそそられたのは、「対人関係」について触れた、原田曜平さんの「学力を捨て、『ケータイ』へ向かった十代」と、本田由紀さんの「『対人能力格差』がニートを生む」という論文だった。原田さんは、今の若者は「学力」は捨てたかも知れないが、その代わりに高度な「コミュニケーション能力」を身につけるようになったとして、その「対人関係能力」の意義について書いている。そして、本田さんは、その「対人関係能力」も「学力格差」と同じように「格差」を生んでいるという。
 原田さんも本田さんも、「学力だけが問題ではない」という。ただ、原田さんは「学力を失った今の子供たちが、学力の代わりに、上の世代が幼少時代に持っていなかった力を身につけ始めている」と「ケータイ」世代の「コミュニケーション能力」を高く評価している。これに対して本田さんは原田さんのように楽観視していない。むしろ、「『対人能力』と『学力』はどちらも家庭のあり方に左右されるが、『対人能力』のほうがより直接的に、家庭環境の質的な格差を反映している」と見ている。もちろん、原田さんも「対人関係能力」がすべての子どもに同じようにあると言っているわけではない。

 私は、今の子どもたちの学力がそんなに落ちたとは思っていない。だが、画一的でなくなったことだけは確かなようだ。つまり、「学力格差」というものは現実にあると思うし、拡がっているというデータはいろいろある。そのこと自体は、「ゆとり教育」の結果かも知れないが、「ゆとり」ができたら勉強しなくなったというのは、なにも子供のことだけではないのではなかろうか。我々大人が、生活が豊かになったとたん、何をして良いか分からなくなり、あまり勉強しなくなったからではないだろうか。「バブルの時代」というのはそういう時代だった。そして、いま、バブルが崩壊し、リストラが始まるとともにITを中心にしながら時代が大きく変化し始め、大人も勉強が必要になってきたのと同じことが、子どもにも要求されるようになったのだと考えた方がよい。

 昨年の12月に発表された、PISAやIEAの国際学力調査の結果が発表され、成績が多少落ちたことが強調され、特に、数学の成績はいいのに数学は嫌いだという子供が多いことが問題にされた。「数学の成績がいいのに、数学は嫌い」という傾向は、前からあったようだ。むしろ、前よりは「数学や理科が好き」という子供は増加しているが、国際平均と比べるとまだまだ少ないということのようだ。成績のいい子供が、「勉強が好き」と言うかどうかは、微妙な問題だ。私は、みんなが「勉強が好き」ということのほうが異常のような気がする。

 それはとにかくとして、学力低下問題から始まり、いまや国の教育政策全体が見直されようとしている。見直すことは決して悪いことではないが、いろいろなことが言われている中で、子どもたち全員に必要なことと、そうでないことはしっかりと区別しておくべきだと思う。それこそ、特定の子どもたちにやらせた方がいいことは選択制でいいと思う。ナショナルスタンダードというのは、おそらくどの子供も身につけるべき事柄であると思う。それが、何であるかはなかなか難しいが、少なくとも社会の中で生きていく上での最低限の「学力」と「対人関係能力」は必要な能力であるのではないだろうか。

 さて、それでは、「格差」というものは本当に無くすることができるのだろうか。それは、教育政策だけでは解決できないような気がする。それが、家庭の環境に大きく依存している以上、所得と教養の格差が無くならない限り不可能に違いない。しかし、大切なことは、教育はそうした家庭の格差を超えて、すべての子どもたちに一定の能力を身につけさせるために学校という制度を通して行われるとということだ。そのために学校はあるのだということを今一度確認すべきかも知れない。それこそが、公教育である。

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「勉強」と「教養」

2005-03-13 21:44:51 | 子ども・教育
 誰でもそうだったようだが、教科書の文章はつまらなかったが、親に内緒で読んだ小説はとても面白かった。同じように、「勉強」は嫌だったが、「教養」には憧れていた。私よりずっと若い世代に属する斎藤孝さんも同じような気持ちだったと言う。しかし、斎藤さんは、その「勉強」の重要さと楽しさや面白さを説いている。中・高校生向けに書いた『斎藤孝の勉強のチカラ!』(宝島社/2005.2.3)は、「勉強は僕らに生きる力を与えてくれる」ということを訴えている。斎藤さんによれば、生きる力を支えてくれるのが「教養」ということになる。つまり、「勉強」と「教養」は本当は地続きだというのが斎藤さんのいちばんに言いたいことのようだ。
 斎藤さんが『座右のゲーテ 壁に突き当たったとき開く本』(光文社新書)を書いたのがよく分かる。ゲーテは、ドイツ教養主義の時代の文豪だ。少し前に、山形浩生さんが『新教養主義宣言』(晶文社/1999.12)を書いているが、何となく最近また、教養ということが見直されているようだ。「勉強」とは、多分「学ぶ」ことと言い換えてもいいし、「教養」とは多分「知」または「文化」ということを指している。

 ところで、なぜ、「勉強」であり、「教養」なのだろうか。斎藤さんは、「受験勉強を通じて行ったトレーニングが、仕事をする能力の基礎になっている」とか、「勉強すること、勉強そのものが、人の能力を磨く、ひいては社会で活躍できる人材を作る」と言う。そして、「日本社会を覆っている、勉強を否定し、学ぶことそのものをないがしろにする空気」を批判している。私の考えでは、斎藤さんは「ゆとり教育」の中で、安易に「個性」と言うことを理由に「学ぶ」ことから逃避していく子どもたちに対して、「勉強」というトレーニング的な側面をもつ言葉を敢えて選んで使うことによって、自分から努力して乗り越えていくという「勉強」の面白さを強調したかったのだと思う。

 学ぶことで得られる興奮や歓び。これを勉強という面から見ていくと、大きく2つの柱で成り立っています。ひとつは「感動」、もうひとつは「習熟」です。学ぶこととは、この2つに尽きると思います。
 まず「感動」とは、発見の驚きや歓び。知らないことを知ったとき、疑問に思ったことが解決したときの「そうだったのかー!!」という感じのことです。(中略)
 習熟の楽しみとは、「できるようになること」自体がおもしろいということです。(P46・53)

 「感動」については読書で、「習熟」についてはスポーツで私たちは実感することができる。斎藤さんは、そうした「感動」や「習熟」の楽しさは、勉強の中で味わうことができるし、「勉強」することは本来そういうものだと言いたいらしい。この本が、中・高校生に向けられて書かれているからかも知れないが、「勉強すると頭が良くなる」「受験勉強で育つ『段取り力』が仕事に生きる」「勉強をすると仕事にタフな人間になる」「受験で得る『自己客観視力』」「勉強でしか身につかない、言語能力の重要性」など「勉強」の効用も書かれている。

 それならば、「教養」という言葉にはどんな意味が込められているのだろうか。この本の第4章は、「『教科』の楽しみと学び方」となっている。そして、「各教科の感動を発見しよう」ということで、国語、古文・漢文、英語、数学、物理、生物、科学、歴史、地理の楽しさ、面白さを解説している。つまり、「教養」とは、あらゆる分野に向かって延びていく知的好奇心を支えている原動力のようなものとしての「知」をさしているようだ。今や中学生の90%以上がが高校へ進学し、更に高校生の50%以上が大学へ行く時代だ。そのとき、彼らの身につけているべきものは、あらゆる可能性を持った「教養」であるべきなのかも知れない。

 これまで、斎藤さんはたくさんの本を書いてきた。特に、教育関係の書物は圧倒的に多く、しかもそのうち多くがベストセラーになっているが、斎藤さんの本は大人もそれなりに楽しんで読むことができる。斎藤さんの本に共通するテーマが、実はいつもこの「勉強」と「教養」ということだったということに驚かされる。「ゆとり教育」の批判や「学力低下」論争などを通じて、私たちは、子どもたちではなく、実は自分たち大人の「勉強」や「教養」を本当は問題にしていたのかも知れない。

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「人気度がすべてを決める」という堀江貴文社長の発想

2005-03-05 10:10:49 | デジタル・インターネット
 ライブドアとフジテレビによるニッポン放送の株式の攻防は、トヨタ自動車が中立の立場を表明したことによって新しいステージに入った。フジテレビのTOBは、3月7日が期限だが、株主のことを配慮したトヨタの態度表明は、いまだに態度保留をしていた大株主にある程度の影響を与えるものと思われる。そうした中で、会社の同僚から、「新聞・テレビを殺します」 ~ライブドアのメディア戦略という江川紹子さんのライブドアの堀江社長に対するインタビュー記事を教えて貰った。その中で、堀江社長が、記事の選択を読者の判断に任せ、インターネットでの人気ランキングによって記事を編集するということを言っていたのを目にして、ついにこういうことを正面からいう人が出てきたのかということにある種の衝撃を受けた。
 江川さんは、堀江社長の「人気度がすべてを決める」という発想に対して、マスコミの「"志"の功罪」を認めながらも、少数意見や多様な意見を採り上げるマスコミの良さを無視してはいけないと述べていた。これに対して、堀江社長は、一貫して、人気のない記事は人気がないのだから載せる必要はないと主張していた。それは、極端のようだが、本当は視聴率を気にして番組編成を考えているだけなのに、まるでマスコミには高邁な使命があるかのように話すマスコミ人に対する痛烈な批判であると思う。堀江さんは、マスコミにケーションの新聞記事にまで、「売れる商品はいいものだ」という論理を徹底させていると考えてよい。

――ある程度の方向性がないと、何でも載せますというわけにはいかない。
 いいんじゃないですか。自分で判断して下さい、と。それで、世の中の意向はアクセルランキングという形で出てくるんですから、その通りに順番並べればいいだけでしょ。
――みんなが注目すると大きく扱われるが、埋もれている話を発掘できないのでは?
 埋もれていることを発掘しようなんて、これっぽっちも思ってないんですってば。そういうのは情報の受け手、興味を示す人が少ないわけですから。ニッチな情報なわけですから、いいじゃないですか。一応ネットには載せておきますから、(興味のある人が)勝手にアクセスして下さい、と。

 私は、この記事を読みながら、堀江さんにビートたけしさんのような感性を感じた。ビートたけしさんもまた、多少露悪的な表現を使って、刺激的な発言をしながら、鋭い文明批評をしていた。かつて吉本隆明さんが、テレビに対して、それぞれの番組にはそれぞれの制作者の思いが入っているのは当然だが、全体として見たときにはその行為にある文化的な意味づけをすることに対して批判し、「テレビというものは面白ければいいのだ」という意味のことを言っていたことを思い出す。心の中では、どんな志を持ち、どんな思いを持っていても自由だが、資本主義社会の中の商品となった番組は、そんな制作者の思いやイデオロギーなど無視して、商品の論理で流通していくことになる。そして、その一つ一つの商品の価値は、買い手が自分で決めることだ。わざわざマスコミのスポンサーに決めて貰う必要は無いわけだ。

 堀江さんの理論の面白さは、しかし、その先にある。テレビの番組をこれから売り出す商品と考えてみる。たくさんの企画があり、たくさんの能書きがある。そのどれに投資しいくべきかというのが、テレビ放送局の戦略になる。結果的には選択しなければならない。堀江さんは、このとき、それは、インターネットでの人気ランキングで決めればいいのであって、そこにどんな意味も持ち込む必要はないと言っていることになる。堀江さんの核心は、この「人気ランキング」をつくるシステムにある。

 投資ということについては、ケインズの有名な「美人投票」の比喩がある。ケインズは、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(ケインズ全集第7巻・東洋経済新報社/1983.12.8)の中で、資本主義社会の投資を美人投票にたとえて説明している。この場合、投資家のなすべき行為は、誰が美人かを自分の判断で決めるのではなく、みんなが誰が美人だと思うかを当てることだという。例えば、株式はそれ自体の価値によって決まるわけではなく、みんなに人気がある株式に価値があるのであり、将来人気が出そうな株式に投資することが重要だということだ。そのことを、ケインズは次のように述べている。

 玄人筋の行う投資は、投票者が100枚の写真の中から最も容貌の美しい6人を選び、その選択が投票者全体の平均的な好みに最も近かったものに賞品が与えられるという新聞投票に見立てることができよう。この場合、各投票者は彼自身が最も美しいと思う容貌を選ぶのではなく、他の投票者の好みに最もよく合うと思う容貌を選択しなければならず、しかも投票者のすべてが問題を同じ観点から眺めているのである。ここで問題なのは、自分の最前の判断に照らして真に最も美しい容貌を選ぶことでも無ければ、いわんや平均的な意見が最も美しいと本当に考える容貌を選ぶことでもないのである。われわれが、平均的な意見はなにが平均的な意見になると期待しているかを予測することに知恵しぼる場合、われわれは三次元の領域に到達してしている。さらに四次元、五次元、それ以上の高次元を実践する人もあると私は信じている。(p157)

 ここに投資の難しさがある。もうけが大きくなればリスクも大きくなり、それは投資というより、投機に近くなる。私たちの出版業界で言えば、100本の企画から6つの企画を選んで出版するときの判断をどうしたらよいかと言うことであり、新聞の1面で考えれば100個のトップ記事中から6つの記事をトップに持ってくるととしたらどれにするかということでもある。それは、投資ではなく、出版社のポリシーであると言う考えもある。しかし、資本主義社会の商品は、投資されない限り商品化されないであり、それは、出版社の単行本でもそうであり、新聞の記事でもそうだと考えるべきだという考え方もある。そして、投資は、ケインズは基本的には「美人投票」の結果を当てることと同じだという。

 堀江さんは、インターネットを利用できれば、投資のような難しいことを考えなくても選択が可能だと言っているように見える。それが、彼の「人気ランキング」ということの意味のように思われる。堀江さんがランキングだけが重要で、記事の内容には興味が無いという言い方をしているのは、おそらく、内容にこだわるとおかしくなるということを知っているからだと思われる。マスコミが、記事の内容の特定の事実だけにこだわりそのために記事全体がおかしな論調になっていくことを盛んに指摘しているのは、そのことだと思う。それは、自分が時の人で、いつも新聞記事に載っているだけに、よけい実感しているのだと思われる。ただし、「人気ランキング」に従って編成した新聞が本当に売れるかどうかは、これまた、予測不可能だというほか無い。なぜなら、堀江さんも指摘しているように、紙の世界は紙の世界で、また別の「美人投票」が行われているからだ。

 マスコミケーションがインターネットというものが登場して変わりつつあることだけは確かだ。堀江さんの考えにどれだけ普遍性があるか分からないが、いままで「文化的価値」というようなもので粉飾されていた「対象(商品)」を裸の「対象(商品)」にして見せたことだけは確かのようには思われる。蒸気機関が発明されて50年後ぐらいに鉄道がしかれ、交通革命が起こったように、コンピューターが開発されて半世紀後にインターネットが大衆化した。これから、どのような情報の流通が行われるのが未知数ではあるが、堀江さんの登場は、マスコミュニケーションが確実に変わりつつあることの象徴のような気がする。
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