現在起きている世界的な不況を、浜矩子教授は『グローバル恐慌──金融暴走時代の果てに』(岩波新書/2009.1.20)の中で、「恐慌」としてとらえている。サブタイトルに「金融暴走時代の果てに」とあるように、世界金融危機を踏まえながらも、既に事態は、「金融が暴走した結果、恐慌に至った」というわけである。ところで、金融が暴走するのは、何故なのか。おそらく、現在の危機的な事態は、そこに大きな要因を持っているので、そこのところがしっかり認識されていないと、事態の真相は見えてこないに違いない。
浜矩子教授は、この金融の暴走の出発点を、1971年8月15日のニクソン・ショックに求めている。その日は、アメリカがドルの金交換を停止した日である。この日までは、ドルは一定の交換比率で金と交換可能な唯一の通貨だった。いわゆる、ドルの金本位制ということだ。しかし、ニクソン・ショックから、ドルは金というモノの世界から解き放たれて、ある意味では自由になった。金本位制から管理通貨体制に変わったわけであるが、このときから金融は全く新しい道を踏み出そうとしていたといえるかもしれない。それは、未知な領域である。
金融はなぜ暴走したのか。答えは簡単だ。金融が一人歩きし始めたからである。かつて、金融には二人三脚のパートナーがいた。その名は実体経済、すなわちモノの世界だ。カネがモノとたもとをわかって別行動するようになってしまったところから、状況がおかしくなった。(浜矩子著『グローバル恐慌』まえがきpⅶより)
ところで、たくさんお金を持っている人がより豊かになるのは、持っているお金を投資して、利益を得るからである。現在、日本だけでなく政界中で、お金は貯蓄してもほとんど利益を生むことがない。限りなく預金金利はゼロに近くなっている。お金は、投資しなければ利益を生まないのである。投資とは、ハイリスク・ハイリターンということである。この投資の世界をさらに複雑にしたのが、様々な金融商品の開発である。サブプライム問題も、この新しい金融商品により、世界中に広がった。現在の金融商品の典型は、サブプライム問題に見られてように、いわゆる債権を証券化した金融商品にある。浜教授は、この「債権の証券化」をいわば「債権の福袋化」と呼ぶ。
証券化を活用する金融機関は、ツケで飲む客が多い飲み屋のようなものである。なじみ客が増えるのは結構だ。だが、ツケはあくまでもツケである。請求書を現金代わりにして仕入れの代金を払うわけにはいかない。店を拡張するための設備投資にも使えない。しかも、請求書の山には必ず貸し倒れの危険がつきまとう。
そこで、飲み屋は一計を案ずる。たまった請求書を切り分けたり束ねたりして、たくさんの福袋をつくるのである。その福袋を町中の人々を相手に売りまくれば、飲み屋の手元には福袋代という形の現金収入が入ってくる。同時に貸し倒れリスクも福袋の買い手に転化することが出来る。請求書の山が突如として現金に化けるは、リスクは人に押しつけられるは。これぞまさしく、金融錬金術だ。(同上・p23より)
この福袋が、債権の証券化商品ということになる。とてもうまいネーミングだと思う。いま、私たちは、たくさんの債権を作っている。たとえば、カードでモノを買えば、そこに債権が生まれる。ローンで家を買えば、そこにも債権が生まれる。いわゆる、サブプライムローンもそうした債権である。債権である限りは、根本的に一般多数に転売することはできない。しかし、証券になってしまえばそれが可能になる。債権の証券化は、アメリカでは金融商品の開発の中でも積極的に行われた。そうすることによって、カネを貸した上に、債権の商品化によって、カネを得て、再度投資に使えるということにになる。経済が常に成長している場合は、これがうまく回っていく。つまり、福袋は福袋なのだ。
はたして、1986年にはクレジット・カード債権の証券化が始まった。その後、商業用不動産に関する債権担保証券も登場することになる。住宅ローンの比べれば、何かと透明性が低くなりがちな分野だた、そんなことで二の足を踏む感覚は、1980年代のアメリカ金融市場には無縁のものだった。そして、1987年、ついには銀行の一般債権に関する証券化が始まった。いわゆる債権担保証券(CLO)である。第1章でみたCDOと基本的には同じ仕組みだ。銀行融資の全てが証券化の対象となったのである。(同上・p67より)
さて、この福袋の魔術の2段構えの大きな落とし穴を、浜教授は次の二つの問題として指摘している。一つは、福袋の禍福袋化してしまったらどうなるかという問題であり、もう一つは、福袋がたくさん出回ってしまったら何がおこるかという問題である。もちろん福袋が禍福袋になれば、価値がなくなるわけだが、それだけでなく、あまりに多種多様な福袋があって、どれが禍福袋かわからなくなってしまって、疑心暗鬼になってくるという問題である。こうなってくると、場合によっては、優良債権も不良債権化することにもなる。これが、サブプライム問題が、世界に波及した実態であるという。サブプライム・ローン証券化商品こそ、禍福袋の一つなのである。さらにこの禍福袋は、アメリカの住宅バブルの影響で巨大化していたわけだ。
ところで、こうした金融危機は、管理通貨制度の下では、通貨の供給量を増やすことによって、回避されてきた。アメリカは、今度も同じように対処しようとしたのであるが、そして実際、多額の支援策を打ち出したのであるが、これがうまくいくのかどうかは全く未知数である。むしろ、金融危機による消費の縮小は、実体経済を大きく後退させている。そして、グローバルな恐慌となった故に、この解消は各国がばらばらではほとんど解決不可能だということも意味している。しかし、現在つい先ほど行われたG20金融サミットで保護主義封じ込め宣言をしたけれども、自国経済をどうするかについては何も切められなかったことからわかるように、「保護主義に靴音」が聞こえてくる。浜教授によれば、保護主義には、「自国産業に対する保護合戦」という形の「通商戦争」と、「為替切り下げ競争」による「通貨戦争」ということになる。アメリカのオバマ新大統領がいかなる道を進むのか、とても気になるところでもある。
消費も投資も生産も、全てが金融化の波に乗せられて膨張して来た。信用の巨大なネットワークの存在を前提にしてこそ、人間の営みとしての経済活動はここまで地球的な広がりを持つようになってきたといっても過言ではない。
そのような実態があるにも関わらず、金融が人間とそのモノづくりという営みを置き去りにして一人歩きを始めてしまった。これでは、問題が起きない方がおかしい。ヒトとモノはカネによって作られた梯子のおかげで、想像を絶する高みに登った。そして、その頂点で梯子をはずされて、ヒトとモノが大不況の奈落の底に急落下していこうとしている。それが現状だ。このままではいけない。金融もまた人間による人間のための営みであることを、地球経済が思い出すときが来ている。(同上・p197・198より)
浜教授の『グローバル恐慌』は、21世紀型の資本主義の恐慌の本当に意味がこれから明らかになってくるということを教えてくれる。金融危機は何度もくり返されてきた。そして、その都度、管理通貨制度によって何とか危機を乗り切ってきた。しかし、現在の金融危機は、管理通貨制度によってだけでは、おそらく乗り切ることが出来ない。むしろ、管理通貨制度であるからこそ、根底的な恐慌になりつつあるようにさえ思えてくる。これから、私たちは、資本主義がどう変貌していこうとしているか、しっかり見極めなければならない。それは、おそらく、とてもつらい事態になるかもしれないことを覚悟しながら。