電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

アインシュタインでなくダーウィンを

2007-05-20 23:48:31 | 自然・風物・科学

 前回のブログで、梅田望夫ばかりを取り上げ、茂木健一郎については全く触れなかったが、本当は、とても気になっていたことがある。それは、なぜ、『脳とクオリア』(日経サイエンス社/1997年)を追求していた茂木が最近いろいろなことに興味を持ち、とても忙しく、全力疾走をしているかということだ。彼のブログを読んだ限りでは、じっくりと脳について思いを巡らせ、それを実験しているという感じではない。あたかも、脳の中に生まれる無数のクオリアにとりつかれたかのように、フィールドワークを繰り返している。彼は、人間の意識の行為をフィールドワークして、何かを発見しようとしているように見える。

 しかし、茂木の現在をみて、学会の権威の中には眉をひそめる者たちも多いだろうし、マルチに活躍しているというだけで「専門で一流の仕事をしていない学者だ」と短絡する頭の古い者たちもいるだろう。では茂木は、そういうリスクを冒しながら、あえてなぜそんな生活を続けるのだろうか。(『フューチャリスト宣言』p208・209より)

 私もまた、梅田と同じように、次のような疑問を持っていた。

 抽象的なフォルマリズムで一刀両断の下に意識の問題が解決される、という可能性はもちろんあるんだけれども、その一方で、ダーウィンがやったように、「自然誌」という立場から意識の問題を究明する必要があると思っている。つまり、現時点で意識について知られている経験的事実をきちんとと押さえ、それを総合する視点が必要ではないかと考えている。その上で、ダーウィンが到達した「突然変異」と「自然選択」に相当する、意識の起源を説明する第一原理を提出する必要があるのではないかと考えている。(『現代思想』2006年10月号特集・脳科学の未来より)

 ここのところを取り上げて梅田は、最近の茂木の活動の秘密を推測している。

 カギは、「いま自分が目指すべきは、アインシュタインではなくてダーウィンなのだ」という茂木の発見にある。茂木は自らの専門である脳科学や心脳問題(なぜ脳に心が宿るのか)の未来をここ十年考え続けた。そして彼はこんな結論に到達する。22世紀か23世紀の人が歴史を振り返ったとき、21世紀初等の脳科学研究のアプローチは「暗黒時代だった」として無視されるに違いないと。つまり、脳科学の分野では、同時代の既存権威が認めるお行儀のよい研究をやっていても、未来からきっと無視される。茂木にはそういう強烈な危機感が芽生えたのである。(『フューチャリスト宣言』p209より)

 梅田の解釈によれば、脳科学の現状から考えると、アインシュタインのような統一理論を発見することは、とても難しい。今は、ダーウィンがやったようなことしかできないと考えたことになる。

 ダーウィンの「突然変異と自然選択」に相当する概念を提示することこそを自分が目指すべきなのだと、茂木はあるとき大きな方向転換をしたのだ。そのためには、研究室にこもって実験や思索を繰り返すのではなく、ダーウィンがビーグル号に乗って世界を見て、大英博物館で森羅万象ありとあらゆる分野の文献を渉猟したように、彼も生来のマルチは才能を全開に、毎日さまざまな刺激を受けながら自由に疾走する生活を選び取ったのである。(同上・p210より)

 梅田の推測は多分当たっていると思われる。現在の脳科学でやっていることは、私たちの「心」は、脳のニューロンの発火現象であることまでは分かったが、実際にやっていることは、「ある脳の活動状況」と「ある心の状態」の対応関係付けをやっているだけである。つまり、人間がある活動をしているときは、脳のある部分が活性化しているという対応を調べている段階だということだ。つまり、ある活動をするとき、脳のある部分が活動しているということが分かってきたということでもある。そして、それ以上のことはほとんど分かっていない。

 しかし、私には、それだけでもかなりの進歩だと思われる。現在のところ、そうした対応関係を丹念に集めることがきっと大事だと思う。そのためには、茂木とは違って、「研究室にこもって実験や思索を繰り返す」ことも本とは大事なことだと思う。ただ、私には、茂木には、もっと先に進みたいという欲があるような気がする。今のやり方だと、自分が生きている間には本当のことは何も言えないのではないかという焦りがあるような気がするのだ。サルと人間を比べて、よく似ているという状況から、ひょっとしたら人間とサルとは共通の先祖がいたのではないか、と考えてみたいのだ。それについての善し悪しは、私には分からない。


ネットの可能性

2007-05-13 21:11:38 | デジタル・インターネット

 梅田望夫と茂木健一郎の『フューチャリスト宣言』(ちくま新書/2007.5.10)を読んだ。これほどインターネットの可能性に楽天的な文章を読んだのは初めてだ。確かに、タイトルがそうなのだから、インターネットの可能性を信じるしかないのだが。ただ、私も、彼らと同じように考えているところがあって、素直に納得しているところもある。Web2.0という言葉には色々な定義があるが、ある意味では、インターネットは紙以上の存在になってしまったということだ。もう既に、インターネットは、メディアでない。それは、一つの大きな共同の仮想空間だというべきだと思う。大前研一風に言えばそれは、新大陸だ。この本では、梅田望夫の発言のほうが面白かった。

 ヤフーやMSNのトップページは、まだ、何となく雑誌の表紙か目次のような印象を与える。しかし、グーグルのトップページは、まさしく、Web2.0に相応しく、グーグル的としか、言いようがない。このグーグルのトップページについて、梅田望夫は次のように語っている。

グーグルの画面というのは、深い思想に基づいています。そのときのユーザーが必要としている情報しか出さないということです。その人が必要としているときに必要としている情報を正しい場所に出す、という考え方が貫かれているわけです。つまりグーグルにポンと飛んできた人は、検索をしたいだけで広告を見たいわけじゃない。だからあそこには一切広告は出さない。デザインの美しさから画面を真っ白にしたいんじゃなくて、検索したくてグーグルに飛んできた人に広告を見せる気はないという意思表示なんです。(『フューチャリスト宣言』p23より)

ところで、グーグルは、広告収入で莫大な利益を上げている。言っていることとやっていることが矛盾しているようだが、その点について、梅田は次のように解説している。

グーグルという会社はいろんな意味で思想を先に作ります。「我々は邪悪なことはしない」とかね。そんな大げさなことを言うから「邪悪とはなんぞや」といろいろもめるんだけど、そういう思想の一つに、必要とされるところにのみ情報を置くんだというのがある。広告とは情報である、という思想なんです。検索した後に出てくる広告というのは、検索した言葉が既に入力された以上、その人にとって価値がある情報のはずだ、だからそこに出しているんだ、そういう論理です。その思想に合わないところの場所には、一切広告はださない。(同上p24より)

 何となく分かったような分からないような言い方だが、グーグルというものの存在の意義については、何となく分かる。今のところ、グーグルもユーチューブを買収して映像というものの意味を探っている状態だが、インターネットを流れるデジタルのテキストのレベルにおいては、世界と支配しつつあり、インターネットの世界に一つの革命をもたらしたことだけは確かのようだ。そして、それはマイクロソフトに対抗しうる企業が初めて現れたということでもある。グーグルのような企業は、どこかの会社に属していたらおそらく実現できないものである。

 勿論、ユーチューブのような企業を作ることでも、おそらく日本ではできないと思われる。日本の優良なデジタル企業で、ユーチューブのような発想をしたら、すべて潰されてしまうに違いない。それほど、日本の企業の場合は、お互いに依存しあっているところがある。それなら、企業に属さないで、こうした起業が可能だろうか? それは、今のところ分からない。一部、ITバブルの頃、渋谷の一角が日本のシリコンバレーと呼ばれたことがあったが、いつの間にか、損沿いそのものが忘れ去られようとしている。私には、携帯にうつつを抜かしている日本の国家戦略が間違っているような気がする。携帯の害というのは、本当は携帯がダークサイトとつながるからではない。

ネットの上で何かを中途半端に有料にして生計を立てようというのは、うまくいきません。パスワードが入って検索エンジンに引っかからなくなるから、ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通は入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。(同上p105・106より)

 私には、この梅田の言葉が、よく分かる。携帯サイトは、常にリアルを引きずっているのだ。リアルの中の便利さ、心地よさ、人間関係づくりに依存して存在しているのが、携帯サイトのあり方だ。だから、携帯電話でのビジネスは、インターネットに吸収されない限り、どうしても限界に突き当たる。残念ながら、今のところ、人がどれほど批判しいようが、検索エンジンによって検索されないサイトは、存在しないと同じであるのだ。おそらく、SNSの世界と携帯電話の世界は、かなり似ているように思われる。