前回のブログで、梅田望夫ばかりを取り上げ、茂木健一郎については全く触れなかったが、本当は、とても気になっていたことがある。それは、なぜ、『脳とクオリア』(日経サイエンス社/1997年)を追求していた茂木が最近いろいろなことに興味を持ち、とても忙しく、全力疾走をしているかということだ。彼のブログを読んだ限りでは、じっくりと脳について思いを巡らせ、それを実験しているという感じではない。あたかも、脳の中に生まれる無数のクオリアにとりつかれたかのように、フィールドワークを繰り返している。彼は、人間の意識の行為をフィールドワークして、何かを発見しようとしているように見える。
しかし、茂木の現在をみて、学会の権威の中には眉をひそめる者たちも多いだろうし、マルチに活躍しているというだけで「専門で一流の仕事をしていない学者だ」と短絡する頭の古い者たちもいるだろう。では茂木は、そういうリスクを冒しながら、あえてなぜそんな生活を続けるのだろうか。(『フューチャリスト宣言』p208・209より)
私もまた、梅田と同じように、次のような疑問を持っていた。
抽象的なフォルマリズムで一刀両断の下に意識の問題が解決される、という可能性はもちろんあるんだけれども、その一方で、ダーウィンがやったように、「自然誌」という立場から意識の問題を究明する必要があると思っている。つまり、現時点で意識について知られている経験的事実をきちんとと押さえ、それを総合する視点が必要ではないかと考えている。その上で、ダーウィンが到達した「突然変異」と「自然選択」に相当する、意識の起源を説明する第一原理を提出する必要があるのではないかと考えている。(『現代思想』2006年10月号特集・脳科学の未来より)
ここのところを取り上げて梅田は、最近の茂木の活動の秘密を推測している。
カギは、「いま自分が目指すべきは、アインシュタインではなくてダーウィンなのだ」という茂木の発見にある。茂木は自らの専門である脳科学や心脳問題(なぜ脳に心が宿るのか)の未来をここ十年考え続けた。そして彼はこんな結論に到達する。22世紀か23世紀の人が歴史を振り返ったとき、21世紀初等の脳科学研究のアプローチは「暗黒時代だった」として無視されるに違いないと。つまり、脳科学の分野では、同時代の既存権威が認めるお行儀のよい研究をやっていても、未来からきっと無視される。茂木にはそういう強烈な危機感が芽生えたのである。(『フューチャリスト宣言』p209より)
梅田の解釈によれば、脳科学の現状から考えると、アインシュタインのような統一理論を発見することは、とても難しい。今は、ダーウィンがやったようなことしかできないと考えたことになる。
ダーウィンの「突然変異と自然選択」に相当する概念を提示することこそを自分が目指すべきなのだと、茂木はあるとき大きな方向転換をしたのだ。そのためには、研究室にこもって実験や思索を繰り返すのではなく、ダーウィンがビーグル号に乗って世界を見て、大英博物館で森羅万象ありとあらゆる分野の文献を渉猟したように、彼も生来のマルチは才能を全開に、毎日さまざまな刺激を受けながら自由に疾走する生活を選び取ったのである。(同上・p210より)
梅田の推測は多分当たっていると思われる。現在の脳科学でやっていることは、私たちの「心」は、脳のニューロンの発火現象であることまでは分かったが、実際にやっていることは、「ある脳の活動状況」と「ある心の状態」の対応関係付けをやっているだけである。つまり、人間がある活動をしているときは、脳のある部分が活性化しているという対応を調べている段階だということだ。つまり、ある活動をするとき、脳のある部分が活動しているということが分かってきたということでもある。そして、それ以上のことはほとんど分かっていない。
しかし、私には、それだけでもかなりの進歩だと思われる。現在のところ、そうした対応関係を丹念に集めることがきっと大事だと思う。そのためには、茂木とは違って、「研究室にこもって実験や思索を繰り返す」ことも本とは大事なことだと思う。ただ、私には、茂木には、もっと先に進みたいという欲があるような気がする。今のやり方だと、自分が生きている間には本当のことは何も言えないのではないかという焦りがあるような気がするのだ。サルと人間を比べて、よく似ているという状況から、ひょっとしたら人間とサルとは共通の先祖がいたのではないか、と考えてみたいのだ。それについての善し悪しは、私には分からない。