電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●囲碁AIと現代囲碁について

2024-09-07 06:48:26 | スポーツ・ゲーム
 Facebook囲碁クラブの Wenzhe Songという人が、2024/9/4に、AlphaGoがアジアの囲碁産業を破壊したという記事を書いていて、偶然にそれを読んで衝撃的なうけた。私は、技術進化に驚き、そんなことができるようになったのかと開発者たちをどちらかというと賞賛し、人類に新しい一歩がつけ加えられたと思った。しかし、彼は、AIの出現によって、囲碁界は、活況を呈しているように見えるが、本当は囲碁という芸術を破壊してしまったといっている。その上、それゆえ、もう囲碁を勧めることもできなくなったと言っている。

<GoogleのAlphaGoがすでにアジアの囲碁産業を破壊してしまったからです。
AlphaGoに敗れたとき、李世乭は、自分の人生観が覆されたという趣旨の発言をしました。彼は一生をかけて修行が必要な芸術だと信じていた囲碁が、AlphaGoが数時間のトレーニングでその生涯の芸術を消し去ってしまったと感じたのです。
 さらに悲惨なことに、李世乭は最終的に1局勝利しましたが、韓国棋院はしばらくの間、李がAIアルゴリズムを欺いた奇手を打ったとして祝っていました。しかし、そんなことは無駄で、AIにトリックは通用しません。AlphaGoは李世乭の棋譜を使ってさらに強化され、一年後にはまるでアルファ・ティラノサウルスのように強力になって再登場し、柯潔は全局敗れてしまい、1局で泣き出すほどでした。私も泣きそうでした。その後、韓国棋院はAlphaGoとのトレーニングのおかげで成績は良かったと言われていますが、棋士たちは次第に興味を失っていきました。ため息が出ます。>

 李世乭が、この後、確かに囲碁の世界から引退してしまった。彼は、どう頑張っても、自分が世界一になれない世界があると言っている。彼は、囲碁は一種の芸術と考えていたようだが、AlphaGoの登場によってそうでないことがわかってしまったのだ。私は、例えば、陸上競技のように、人間は自動車より、早くは走れないが、機械と競争などしなくでも、人間同士の競技はなりたつのだから、問題はないのではないかと思っていた。要するに、囲碁AIと人間は、共存できるのであり、問題は付き合って行くのかだと考えたわけだ。

 しかし、Wenzhe Songは、もっと本質的な問題があると言っているようだ。

<かつては半ば神秘的な分野であり、人生哲学や深い智慧が織り交ぜられ、「道」のレベルにまで昇華されていました。しかし今や、アメリカ人によってその正体が暴かれました。それは単なる複雑な最適化問題であり、人生の概念を持たない機械が計算した最適解は、神秘主義に基づくものよりもはるかに優れています。何年もかけて吹き込まれた神秘主義、禅学、道学、国学、そして「棋感」などの概念が、強力な計算能力の前には何の価値もないことが明らかになりました。例えば「金角銀辺草肚皮」といった格言も、AlphaGoが中央に一手打つだけで、トップ棋士たちは一気に転げ落ちます。昔は囲碁の解説を見ていて、とてもエキサイティングで、棋士たちがとても優秀に見え、遠い先まで読めることに感心しました。しかし今では、オンラインの解説者がAIを使って簡単に分析し、「あぁ、黒がうまく打てなかったが、白もチャンスを活かせなかった」と言えるようになりました。>


 Wenzhe Songの言っていることはよく分かる。しかし、それでも私は、囲碁や将棋は人間と人間のゲームとしては成り立つのではないかと思っている。だが、彼は、それは幻想かもしれないという。確かに、昔は、誰々は、限りなく神に近い手を打つというようなことを言っていたことがあるが、現実には、人間よりはるかに、神に近いのはAIのほうだったからだ。

 実際、『碁ワールド』では、2024年の新年号から、中根囲碁道場コラボ企画として、「打ち込み十二番碁 中根九段vs.AI」という連載が始まり、9月号現在、6子局までに打ち込まれてしまっている。これは、KataGoというAIとの対局だが、AIに完全に圧倒されている。もちろん、私も趣味として囲碁をやっていて、Webでは四段くらいだが、囲碁AIとプロの最高棋士との力の差は、私とプロの囲碁棋士との力の差くらい違っているとも言えそうだ。

 そして、現在、プロ棋士は、AIと対局したり、AIによってようy打碁の分析をしたりしている。もはや、誰も人間の師匠の教えてもらって強くなるというより、AIが師匠になってしまっている。だから、囲碁は、AI的になっていることになる。つまり、勝つためにはAIのように打たなければならなくなっているのだ。そして、AIと仲良くなっている棋士こそが、棋戦で勝ち上がることができるのだ。これは、自動車と陸上選手が競争などしないということとは、本質的に違った事態だと思われる。そのことは、もう少し、深く考えて見たいと思っている。

 現在NHK杯の中継の時に使われている囲碁AIは、KataGoのようだ。プロ棋士の解説のときに、AIの手の意味の説明をする人は少ないようだが、少なくとも現在のプロ棋士より、3子以上強いAIなのだから、単なる参考ではなく、なぜ、そこに打つとよいのかという解説が欲しい。AIは理由はいわない。ABCの三手を教えてくれるのだから、なぜそこがAなのか知りたいと思う。もう少し、折角、形勢判断と推奨する手を示しているのだから、これを利用しないのはもったいない。もっとも、プロ棋士のメンツがあるのかもしれないが。

棋譜には著作権はなさそだ!

2024-01-20 17:39:45 | スポーツ・ゲーム
 2024年1月17日付けの日経新聞によって、棋譜には著作権がないという大坂地裁の判決を知った。

<将棋のタイトル戦の棋譜を盤面図に再現した動画配信が著作権侵害だとして削除されたのは不当だとして、男性ユーチューバーが、棋戦を中継する運営事業者「囲碁・将棋チャンネル」に対し約340万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が16日、大阪地裁であった。
 武宮英子裁判長は「動画の棋譜は原則として自由利用の範疇(はんちゅう)に属する情報」として、約120万円の支払いを命じた。>(日経デジタルより)


 この裁判をめぐって、将棋界、囲碁界とも、激震が走ったようだ。これまでも棋譜の著作権について賛否両論があり、法曹界では、著作権はないという見解のほうが多かった。それでも、日本将棋連盟も、囲碁の日本棋院も、棋譜に著作権があるという利用規約を掲載していた。しかし、この裁判では、著作権はないと断定している。ある意味では、スッキリしたというべきかもしれない。実際、ユーチューブ動画などでは、一部許諾を受けて配信したものもあったようだが、ほとんど棋譜は自由に配信されていたと思われる。勿論、韓国や中国では、自由に配信されてる。

 この裁判については、弁護士であり、「将棋AI水匠」を開発した杉村達也によって、 この裁判についての解説動画がYouTube動画としてアップされている。現在のところもっとも分かりやすく、正確な解説と思われる。

<【棋譜の権利裁判】大阪地裁の判決を弁護士が基礎から考察!【将棋AI水匠/たややん】
https://www.youtube.com/watch?v=wOlMSaCZYAM>

杉村達也の略歴は以下のとおり。
<本八幡朝陽法律事務所弁護士
1986年千葉県生まれ。慶応義塾大学法学部法律学科、千葉大学大学院専門法務研究科を卒業後、2014年に弁護士登録。千葉市内の法律事務所にて一般民事・労働問題・中小企業法務などの案件を経験後、19年4月から本八幡朝陽法律事務所に参加。千葉県弁護士会法律相談センター所属。自身が開発するAI(人工知能)搭載の将棋ソフト「水匠(すいしょう)」は、22年12月に開催されたオンライン将棋の世界大会「第3回世界将棋AI電竜戦本戦」で優勝。同ソフトは藤井聡太五冠や渡辺明名人をはじめ、多くのプロ棋士らが将棋の研究に使用。>(日経ビジネスより)


 囲碁の日本棋院の棋譜使用についてのガイドライン(https://www.nihonkiin.or.jp/sitepolicy/link.html)も日本将棋連盟の棋譜利用のガイドライン(https://www.shogi.or.jp/kifuguideline/terms.html)も、棋譜は著作物であり、著作権があり、勝手に利用できないと一方的に宣言している。私としては、囲碁・将棋チャンネルが、なぜ、「棋譜には著作権がある」と主張しなかったのか疑問だったが、囲碁・将棋チャンネルは、棋譜には、著作権はないと理解していたようだ。大坂地裁の判決文では、「棋譜は、事実の羅列であって、そこには、著作物としての要件である、思想及び感情の表現はみとめられない」と理解しているようだ。そして、公開されてからは、棋譜の利用は自由だとしている。だから、こういう判決になった。

 勿論、地裁判決なので、今後の控訴などでどうなるか分からないが、私も、杉村達也がいうように、「棋譜には著作権はない」という見解はひっくり返る可能性はないと思う。今後は、いかに上手く棋譜を利用して、有意義な解説や動画ができるか考えるべきだと思う。詳細な棋譜がないと、解説は中途半端になるし、十分な理解ができない。そこに、AIの評価値などが入れば、もっと分かりやすくなる可能性がある。それほどに、棋譜というのは役立つ情報だ。

 囲碁や、将棋の普及は、ある意味では分かりやすい棋譜の普及にかかっていると思われる。世界的には、囲碁ではどんな棋譜も自由に利用されている。インターネットが普及した時代では、もっと自由に棋譜が活用された方が、普及に役立と思われる。確かに、どの棋戦も経営は厳しいと聞いているが、それは、囲碁や将棋を愛好する人たちの存在に依存していると思われる。囲碁や将棋の愛好家の数が増えない限り、棋譜利用を有料したところで、ほとんど意味はないと思われる。

「ワールド・カップ」

2006-06-19 00:26:04 | スポーツ・ゲーム

 沢木耕太郎さんのサッカー観戦記に『杯[カップ] 緑の海へ』(新潮文庫/2006.5.1)がある。私は、時々現在進行中のワールド・カップをテレビで観戦しながら、沢木さんの文章を読んだ。日本対クロアチア戦が始まる少し前に、この本を読み終えた。この本では、1998年のフランス大会で最初にサッカーに目覚めた、沢木さんがそれから4年後、日韓共催で行われたワールド・カップを殺人的なスケジュールで、日韓両国を移動しながら、彼が重要だと思った試合を見ることとそのための移動の中で出会った、日本と韓国の人々や生活などを記している。

 ところで、沢木さんは、私と同じ年齢で、子どもの頃のスポーツは、野球が中心だった。サッカーなどやったことがなかったという。スポーツライターでもある沢木さんがサッカーに関心を持ったのは、Jリーグができてからだと言う。私の記憶でも、子どもの頃からサッカーをやっていたという人がいたらそれはかなり珍しい存在だったと思う。私の弟のうち3人までが、サッカーをやることになったが、それは高校には行ってからだった。つまり、小学校や中学校で正式にサッカークラブがあったのは珍しかったと思う。だから、次のような沢木さんの指摘は、その通りだと思った。

 ところが、サッカーに関心を持っていた少年にとって事情は全く違っていた。当時の日本にはサッカーのプロリーグがなかったことはもちろんのこと、アマチュアにも大したチームがなかった。そのため、サッカー好きの少年たちは、ヨーロッパや南米のチームと選手に感心を向けざるをえなかったのだ。眼を世界に向け、新聞や雑誌でわずかな情報を自分で集め、苦労しながら知識を積み重ねていったような子たちが多かった。その意味で、彼らはインテリジェンスがあり、賢かったはずだが、同時に、みんなが「おい野球をやろうぜ」と誘いに来ても背を向けるような、わりと偏屈なところがある子だったような気もする。それが私たちの世代における「サッカー少年」の像だった。(『杯』p91・92)

 Jリーグは1993年に開幕したが、その前後に、少年野球チームと少年サッカーチームが逆転した。そして今では、子どもたちの間で最も人気のあるスポーツにサッカーはなった。私の息子もサッカーチームに入っているくらいだ。子どもたちの間でどうして、野球をするのが減って、サッカーをやるものが増えたのだろうか。Jリーグができる直前に、テレビで特別番組が組まれ、その中でサッカー少年たちにインタビューをするというコーナーがあったそうだ。その時の少年たちの言葉に沢木さんは、驚いている。

 そこにおける問いのひとつに、どうして君は野球ではなくサッカーをやったのか、と言うのがあった。言い換えれば、君はどうして野球は嫌いなのだ、というわけだ。
 最も多かった理由は何だったか? 彼らが野球を選ばなかった理由は、ユニフォームのカッコ悪さでもなければ、先輩との上下関係の厳しさでもなかった。彼らが野球を選ばなかった理由は私の想像を絶するものだった。なんと、もっとも多かった理由は「野球はルールが難しいから」というものだったのだ。(同上・p93)

 確かに、野球のルールは難しい。漫画や野球を見て、そして子どもの頃から野球をやってきた我々は、野球というスポーツを自然に覚えていったものだが、いざ初めにサッカーと野球を並べてどちらのルールの方が分かり易いかと問われたら、今の子どもならサッカーだと答えるに違いない。サッカーのルールで難しいのはオフサイドくらいしかない。オフサイドのルールは時代のよってかなり変化してはいるが、基本的には、ボールを前に出したとき、そのボールを受ける味方の選手と相手のゴールラインとの間に、相手の選手がいなければならないと言うルールである。現在は相手チームの選手が2名いればいいことになっているが、ゴールキーパーがたいてい一人いるので、もう一人いればいいことになる。

 私には、将棋のルールと囲碁のルールのような違いを、野球とサッカーのルールの違いに感じる。サッカーも囲碁もルールはとてもシンプルだが、シンプルゆえに奥が深い。しかし、囲碁とサッカーとは全く違うところがある。サッカーは、人間が体を使ってやるスポーツである。身体の動き自体がゲームを進行させる。囲碁は、必要なら自分で打たなくても戦うことができる。そして、サッカーの本当の面白さは、身体と身体の接触の仕方が反則になったり、反則にならなかったりするという微妙な綾によって加速される。ボールの奪い合いは、身体と身体が接触することによって行われることが多い。意図的に接触したのか、自然と接触したのかの違いが、審判によって判定される。その意味では、審判の主観がかなり強く入り込む余地を持っている。

 日本チームは、第1試合のオーストラリア戦に敗れたが、この試合でも身体と身体の接触の仕方が微妙に勝負のゆくえを左右した。ある時には、反則になり、ある時には反則にならなかったりした。そして、結局は日本は、破れてしまった。最初に1点を取られたオーストラリアのほうが、その意味では、幸運だったのかも知れない。彼らは、審判をも味方につけてしまったのだから。そして、審判は、絶対でもある。後でどうこう言っても始まらない。とにかく、相手以上のパワーを出すしかないのだ。1点取られた後が大事なのだと思う。それからの展開が観るものを暑くさせてくれるのか、冷めさせてしまうのかが、その試合を面白くさせてくれるのだ。

 ところで、沢木さんが最初に見たワールドカップはフランス大会であったのだが、その時は地元フランスが優勝した。その時、日本は、1次リーグで敗退した。日本の相手は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカだった。そう、その時も2戦目がクロアチアだったのだ。日本は、アルゼンチンに1対0で負けた。そして、次にクロアチアにも1対0で負けてしまった。これで1次リーグを突破できないことがほぼ決まったわけだ。今日の試合は、日本はよく頑張った。あのクロアチアに0対0で引き分けたのだ。首の皮一枚で残っている感じだ。一応、日本もクロアチアも、1引き分け1敗と言うことになった。

 ワールド・カップの楽しみ方には、自国の選手を応援し、その勝利の美酒に酔いしれてみるという楽しみ方と、最高の試合に出会い、その一部始終を見届けるという楽しみ方がある。その二つは全く別の楽しみ方なのだが、できたら二つとも同時に楽しみたいと思うのは、とても贅沢なのかも知れない。沢木さんの本は、サッカーの魅力がよく分からなかった私に、サッカーの楽しみ方を教えてくれた。


ネット碁は脳を活性化しない?

2006-02-12 21:51:38 | スポーツ・ゲーム

 夕方、NHKのニュースを見ていたかみさんが、読書していた私に、わざわざ言いに来た。「囲碁は、脳の前頭葉を活性化するにはとてもいいゲームなんだってよ。でも、パパみたいにインターネットでやっているのはダメなんだって。相手と向き合ってやる囲碁がいいらしいよ。」 このニュースは、9時少し前のニュースでもう一度流れていた。囲碁教室に通っている小学生が実験に参加し、光トポグラフィという装置を使い、赤外線を使って脳の血流の状況を測定して、対局中の脳の働きを調べたのだそうだ。実験は、東北大の川島隆太教授らの研究グループによるものらしい。

 私は、休みにの日に2局か3局くらい、インターネットで囲碁をする。テレビゲームをやったことがないせいか、まだなれないけれども、まあ、成績は勝ち負けが五分五分の状態だ。つまり、半年ほどやったけれど、ほとんど進歩していないということになる。ネット碁では、対局の勝ち負けでポイントを取ったり落としたりして、その結果一定のポイントを取れば、昇級・昇段することになる。その辺は、コンピュータの計算ですぐ結果は出るのだが、あがるためには勝ち越さなければならない。同じであるということは、棋力があまり上がっていないということになる。

 後ほど、ネットでNHKニュースを調べてみたら、「囲碁で脳の前頭前野が活発に」という記事があった。

実験には、囲碁教室に通っている9人の小学生が参加し、赤外線を使って脳の血流の状況を測定する光トポグラフィという装置を使って、対局中の脳の働きを調べました。その結果、創造性や感情抑制などをつかさどる大脳の前頭前野といわれる部分に血液が多く流れ、対局中は、この部分が強く働いていることがわかりました。前頭前野の活動は終盤よりも序盤や中盤が活発で、難しい局面になると活発になる傾向があったということです。また、パソコンでコンピューターソフトを相手に対局した場合は、碁盤を使って人間と対局した場合に比べて活動の程度が低いこともわかりました。

 ひょっとしたら、私の棋力が伸びないのは、ネット碁しかしていないからかも知れない。現在、プロ棋士たちは大抵、ネット碁をしているし、ここで勉強もしている。しかし、彼らはもちろん、現実の対局も沢山こなしている。これは、将棋の世界でも同じで、今の若い人たちはほとんど、囲碁や将棋の勉強はパソコンを使ったり、インターネットを使ったりして鍛えてきたらしいが、それだけで強くなったわけではなく、現実の対局のための勉強として、そうした機器を使っているわけで、ネット碁だけではダメなのかも知れない。

研究グループは今回の実験結果を詳しく分析して、前頭前野の中でも何にかかわる部分がより活発に働いているか調べることにしています。東北大学の川島隆太教授は「囲碁を打つことで、前頭前野が強く働くことが初めてわかった。特に人間相手にコミュニケーションしながら楽しんで打つとより効果が高いこともわかり、教育に生かすことができるのではないかと考えている」と話しています。

 ここでのポイントは、「人間相手にコミュニケーションしながら楽しんで打つ」ということが大切だと思われる。これがなぜなのかは、私にはよく分からない。同じことは、おそらくいろいろなゲームについても言えるに違いない。つまり、ここでは暗に、インターネットやパソコンでのいわゆるテレビゲームについても、ある意味で同じことを言っているように思われる。囲碁や将棋だけではなく、ほかのゲームもインターネットやパソコンで行われている。それらのゲームも本当は、目の前に相手がいて、コミュニケーションをしながらできたらきっとそれなりに前頭葉を活性化させるのかも知れない。

 川島隆太教授が脳の働きに効果があるというと、それなりに皆がなびくところがあるので、ひょっとしてまた囲碁の流行に火をつけることになるかも知れない。しかし、本当は、囲碁だけではなく、いろいろなゲームについて調べるべきだと思う。もともと、ゲームというのは、頭を使うものだ。つまり、人間の脳の方がゲームに適していると言うべきかも知れない。そもそも、人間の脳がゲームを発明したのであって、多分自分の脳の働きに似せて作ったに違いない。人間以外の動物はゲームなどしないと思われる。前頭葉が働いているというのは、いわば脳がゲームをしているといってもいいかもしれないのだ。もちろん、脳が働かないゲームもあるのかも知れないが。

 いずれにしても、前頭葉を働かし脳を活性化させるためには、パソコンやインターネット相手のゲームより、人間相手のゲームの方がいいというところは面白い結論だと思う。おそらく、人間相手にゲームをするときは、私たちはすべての感覚を使って情報を仕入れている。つまり、身体全体で感じ、考えているともいえる。それが、本当のコミュニケーションなのだと思う。モニターの向こう側には、だれがいるのか、本当は私たちには、分からない。ひょっとしたら、私たちの相手は、単なる機械かも知れない。相手が人間であるかどうかは、多分、私たちが身体全体で関係したときにしか分からないのだと思われる。身体全体で関係したときには、ほとんど直観的に相手が人間だと了解されるのだと思われる。


1年ぶりのゴルフ

2005-06-26 22:02:09 | スポーツ・ゲーム
 PCの画面に向かう時間が長すぎたせいか、網膜剥離の一歩手前まで行き、レーザー治療を受けた頃、血圧も高くなり、一時スポーツから遠ざかっていた。それまでは、月に1回くらいはゴルフに行っていた。練馬区の江古田から、埼玉県の飯能市に住むようになってから、ゴルフに行く回数が減ってしまった。昨年の夏頃ゴルフに行ったのが最後だったので、先日行ったのは1年ぶりだった。
 義理の母と義理の妹と私という何とも変な組み合わせのゴルフだった。義理の母と義理の妹は、ゴルフの練習ということも兼ねて私を誘い出したわけだ。私は、昔はそれなりにゴルフができたと思うが、そのときは全く自信がなかった。まあ、そんなに上手くなくても、精神的にゆとりを持てるようなゴルフができれば、一緒に回る人を楽しませることができる。そのためには、多少ゴルフが上手くないと、困る。

 ゴルフというのは、道具を使ってするスポーツで、体力に応じて色々工夫ができ、年を取ってもアマチアとしてはそこそこ競技が楽しめるスポーツだと思う。陸上だとか水泳だとか、自分の体力を主な力とするスポーツは、若い人には絶対に勝てない。勿論、ゴルフもプロ級の場合は、若さも必要だと思うが、私たちの場合は、かなりの年齢まで勝負ができるように思う。そんなわけで、また、時間と金を作って、ゴルフを始めようか思っていたところに誘いがかかり、私は乗ってしまった。その日は金曜日だったが、前日まで無理だと思っていた予定が、すべて前日に繰り上がり、休むことができてしまった。私が行けるよと返事をしたのは、前日の午後だった。

 コースは、日高市の平沢にある鶴ヶ島カントリークラブ。家から来るまで15分。過去に5、6回くらい来たことがある。2年ほど前に来た頃は、多分80台で回っていたように思う。1年くらいのブランクがあるが、日頃素振りなどをしっかりしていれば、基本的なところはそんなに崩れないことがわかった。ただ、多少なれるまでに時間がかかったが、過去の経験が役に立ちそうだ。結果は、49、51のトータル100だった。スコアには不満だったが、内容的には満足しできた。少し練習して、またコースに出るようになれば、多分、かなりのところまで昔のゴルフができそうに思えた。

 義理の母も妹もゴルフの経験だけは豊富で、しかも地元なので女性のキャディーさんと話も合い、意気投合していた。義母は73歳で、年齢に応じたプレーを楽しそうにプレーしていた。それでも、彼女はいつもハーフ60前後で回っている。すごいことだと思う。義妹は、キャディーさんの指導よろしく、ハーフを50台で回った。初めてだという。私は、それなりに貢献したことになる。

 丁度梅雨の中休みかといわれる時期で、とても暑かった。水を小刻みに飲み、しっかり汗を流し、よく歩いた。気持ちよく疲れた。シャラの白い花や、泰山木の白い花が林の緑によく映えていた。時々冗談を言いながら、1日付き合うのは、とても精神的にいいものだと思った。私の直接の母ではないが、義母はとても優しく、義妹もそれとなく信頼してくれている。彼女たちは自営業なので、私のようなサラリーマンの経験がなく、私が休みを取ったことに大変恐縮してくれた。私は私で、義理の母の注文を会社を休む口実にできて、幸いだった。

 勿論、妻や子どもにも多少後ろめたいような気もする。自分だけがいいことをしているのが何となく後ろめたいというのは、当たり前かも知れないが、それでも楽しいことも楽しいのだ。こうした楽しい体験は、とても貴重な気がする。PCの前で、囲碁をしている時間とは根本的に異なる楽しさだと思った。多少、時間と金が必要だが、これから思い切ってこうした時間を作ろうと思った。久しぶりに、仕事のことを忘れて遊ぶことができた。