電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●弥生人と古墳時代について

2025-02-21 17:41:57 | 政治・経済・社会
 国立科学博物館長の篠田謙一が『人類の起源』(中公新書/2022.2.25)で次のように述べていた。

<世界史でも日本史でも、私たちが学校で習うのは、文化や政治形態の変遷です。他方で、ヒトの遺伝子がどのように変わって行ったのにかについては考えることはありませんでした。
 ヨーロッパ、特に北方地域では青銅器時代以降に、集団の交代に近い変化がありました。日本でも縄文時代から、彌生・古墳時代ににかけて、大規模な遺伝的変化が起こっています。しかし、文化の編年を見るときには、そのことはあまり意識されることはなく、何となく集団としては連続しているように考えてきました。
 たとえば、「弥生時代になって古代のクニが誕生した」という言い方をします。このような表現をすると、日本列島に居住していた人びとが、弥生時代になった自発的にクニをつくり始めたと考えがちです。けれども、これまでのゲノム研究の結果からは、おそらくその時代に大陸からクニという体制を持った集団が渡来してきたと考えるほうが正確だということがわかっています。古代ゲノム解析は、これまで顧みられることがあまりなかった、文化や政治体制の変遷と集団の遺伝的な移り変わりについて、新たに考える材料を提供してくれているのです。>(同上/P264・265)


 まさしく、2024年4月に放映された「NHKスペシャル 古代史ミステリー」は、この篠田謙一の指摘をある意味では実証してくれた。私は、そのときの番組を見たが、その番組の取材を踏まえてNHK取材班著『新・古代史──グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』(NHK出版新書/2025.1.10)でより詳しい内容が展開されている。

 鳥取市青谷町にある青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)は、弥生時代前期の終わり頃から古墳時代前期に当たる、約2400年前から約1700年前まで栄えたとされている集落の遺跡である。この遺跡には、とてもたくさんの弥生時代の人骨が見つかっており、それは、墳墓からではなく、集落を囲む溝から見つかったものである。そこには、痛めつけられて殺された痕跡が残っている。これらの人骨を古代ゲノム研究の手法で調査した結果驚くべきことがわかった。

 一つは、古代の集落は、人の往来が少ないので、同族の人などの血縁関係がある人が多くなると予想されたが、ほとんどの個体は、母系の血縁が認められなかったことである。つまり、「青谷上寺地遺跡は外部との人的交流が少ない集落ではなく、様々な地域から絶えず人が流入を繰り返す、都市型の拠点であった可能性が高い」と考えられている。

 そして、もう一つは、篠田謙一が言っていたことである。

<驚くべきことに、分析を行った三二個体のうち三一個体が渡来人系で、縄文人系は全体の3パーセントにあたる一個体しかなかった。つまり、青谷上寺地遺跡の弥生人骨は、縄文人と渡来人が徐々に混じり合って弥生人が誕生したという、これまで盛んに唱えられてきた定説とは異なる結果を示したのだ。>(『新・古代史』p95)


<鳥取県内の遺跡では、弥生時代中期までは、土壙墓群や木棺墓群といった死者を単体埋葬した墓域が確認されており、そこに有力者たちも埋葬されていた。ところが、身分の差がよりはっきりしてくる卑弥呼の時代・弥生時代後期になると事情が異なってくる。支配者層の墳丘墓など巨大な墓が相次いで見つかる一方、被支配者の埋葬地は確認しづらくなるのだ。
 棺に入れられることもなく、うちすてられた大量の奴隷の亡骸……。それが青谷上寺地遺跡の出土人骨の正体なのではないかと(青谷上寺地遺跡の発掘調査を担当する鳥取県文化財局の)濱田さんは推測する。もしそうであるならば、各地から連れて来られた奴隷たちは、栄養状態が悪く結核などの病に苦しんだり、争いに巻き込まれたりして亡くなったことになる。決して平穏とは言えない当時の社会状況を、人骨はありありと伝えているのだ。>(同上・p97)


 どうやら弥生人とは、主として、農耕をもたらした渡来人系の人たちが縄文人に置き換わって成立したもののようだ。そして、農耕だけでなく、鉄器なども武器や農具としてもたらし、やがて、古墳のよう大土木事業もできる人たちがやってきた。彼らは国づくりや戦闘さえも弥生人の中にもたらしたとも言える。それが、邪馬台国卑弥呼の時代であるらしい。当時は、朝鮮半島とは、いまよりももっと交流が活発であったと思われるのだ。卑弥呼の話は、主として「魏志倭人伝」によるところが大きいが、魏の国とは、あの「三国志」に出てくる、「魏・蜀・呉」の中の「魏」の国である。

 そして、五世紀になると、朝鮮半島にも前方後円墳ができるようになった。最初に前方後円墳ができたのは、三世紀の後半の近畿地方であり、つまり、卑弥呼がなくなるころである。朝鮮半島にも前方後円墳があるということは、直接ヤマト政権に所属していたということもあるかも知れないが、それほど、日本と朝鮮半島殿間には、交流があったということである。そうれも当然で、当時の中国、朝鮮は、常に紛争が起きていて、大量の移民が日本にもやってきていたようだし、渡来人の先輩がすでに弥生人になっていたのだ。

 残念なことに、『新・古代史』では、卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのか、また、墓はどこにあったのかは、いろいろな説をのせているが(全体として近畿説に近いようだが)、断定はされていない。最大の謎は、『日本書紀』や『古事記』に「邪馬台国」も「卑弥呼」も登場していないということだと思う。『日本書紀』によれば、神武天皇が即位したのは、紀元前660年とされているが、その後、彼の子孫が代々天皇になったことになっている。しかし、卑弥呼がいた時代から始まる古墳時代におそらくヤマト政権の基礎ができて、連合国家のようになっていたのだと思われる。そして、古墳時代が終わるころには、中央集権的な大和政権が確立していたようだ。

 ところで、日本人が馬に出会ったのは、高句麗との戦いによるという説がある。「広開土王碑」にある倭国との戦いでは、高句麗の騎馬軍団が活躍し、それを見た倭人は驚いたに違いない。そして、日本にも馬がやってきた。

<最新の化学分析によって導き出された内容を整理しておこう。朝鮮半島から渡ってきた馬は、五世紀のうちに東日本へと拡散。馬の成育に適した火山灰草原を有する広大な牧で、盛んに出産・飼育が行われた後、ある程度まで成長を遂げた個体は機内に移動した。そこでは個体ごとに管理が行われ、厩舎で大切に世話をされていた。古墳時代、日本列島にまたがる馬の生産体制が築かれようとしていたのである。>(『新・古代史』p249)


 多分、大和王権は、鉄と馬を支配することによって、できあがった王権だったにちがいない。そう考えると戦後すぐに発表された、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」も必ずしも成り立ち得る説だと思われる。

<騎馬民族征服王朝説(きばみんぞくせいふくおうちょうせつ)とは、東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓(任那)を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配し、それと合作して征服王朝として大和朝廷を立てたとする学説。単に騎馬民族説(きばみんぞくせつ)ともいう。

東洋史学者の江上波夫が、(1) 古墳文化の変容、(2) 『古事記』『日本書紀』などに見られる神話や伝承の内容、および、(3) 4世紀から5世紀にかけての東アジア史の大勢、この3つを総合的に解釈し、さらに (4) 騎馬民族と農耕民族の一般的性格を考慮に加えて唱えた、日本国家の起源に関する仮説である。

この説は戦後の日本古代史学界に大きな波紋を呼んだ。一般の人々や一部のマスメディアなどでは支持を集めたが、学界からは多くの疑問が出され、その反応は概して批判的であった。ことに考古学の立場からは厳しい批判と反論がよせられた。21世紀にあっては、この説を支持する専門家はごく少数にとどまっている。

なお、この説の批判者である白石太一郎や穴沢咊光は、騎馬民族による征服を考えなくても、騎馬文化の受容や倭国の文明化など社会的な変化は十分に説明可能であると主張している>(「Wikipedia」より)


 私も、「騎馬民族征服王朝説」が正しいと思っているわけではないが、「邪馬台国」や「卑弥呼」が消された『日本書紀』や『古事記』の歴史の背後に、中国、朝鮮半島との交流の結果、縄文人が弥生人に置き換わっていく過程が隠されていることだけは確かだと思う。その意味では、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は参考にすべき説だと改めて思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●永田和宏著『象徴のうた』(角川新書)を読み終えて

2025-02-17 17:26:36 | 政治・経済・社会
 永田和宏と彼の妻・河野裕子は、2人とも皇居の正殿松の間出行われる歌会始の選者だった。残念ながら、河野裕子は、平成22年に癌でなくなった。永田和宏は、定家にならったわけではないだろうが、それぞれ秀歌100首を集め、『近代秀歌』と『現代秀歌』(ともに岩波新書)つくった。とても、興味深く読んだ。

 その『現代秀歌』の中に、皇后美智子の作品として下記の歌が取られていた。

・てのひらに君のせましし桑の実のその一粒の重みのありて


 この歌は昭和34年につくられたものであり、永田によれば結婚直後の東宮御所の散歩の折につくられたもののようである。彼は「共に住んでまだ日が浅く、庭のひとつひとつの樹々や草花を、先輩である皇太子が教えながら歩かれたのであろう」と解説していた。そして、次のように評している。

<「桑の実のその一粒の重みのありて」という第三句以降に初々しい喜びが感じられる。「君」が手ずから載せてくれた一粒だからこそ感じられる重みなのであり、その重みには「君」の愛情の重みもまた同時に感じられたのであろう。そしてまた、その一粒の重みには、これから皇太子妃、そして皇后として自らが担うことになるであろう特別の人生が、重みとして確かに予感されていたはずである。>(『現代秀歌』p14)

 その解説の後に、参考として、次の歌が掲載されていた。


・かの時に我がとらざりし分去れ(わかされ)の片への道はいずこ行きけむ


 この歌を読んだとき、私は軽い衝撃を受けた。この歌は、結婚後30年を経た時点で詠まれた歌である。そういえば、私は結婚が遅かったので、丁度現在、結婚後30年を経たところである。私と違って美智子皇后は国家的な決定の中にあったわけであり、「片への道」はまったくいまの道とは違っていたはずである。しかし、彼女もまた、私たちと同様に、多分、30年を経て複雑な思いも抱いていたに違いないのだ。

 さて、そんな美智子皇后の相手の平成天皇とは、昭和の天皇とは違って生まれながらにして象徴として日本国憲法と皇室典範に縛られた「象徴」としての存在だった。そして、「象徴」がどうあるべきかは憲法には書かれていない。もちろん、天皇がしなければならない国家行事と役目は決まっている。しかし、「象徴」とな何かについては、何も決まっていない。

<それでは<象徴>とは何か。日本国憲法の第一章第一条は、

 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

と天皇について規定している。私は以前から、これほど大切で、かつこれほど無責任な規定はないのではないかと思ってきた。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と繰り返される「象徴」。しかし、「象徴」とは何か、どうすれば「象徴」たりうるのか、憲法の条文はいっさい何も語らない。これではあたかも「象徴とは何か」は、その地位についた天皇ご自身でお考えください丸投げしているようなものではないか。
 平成の天皇は、その即位のときから、「象徴とは何か」、その誰も答を持たない難問に正面から向き合い、自らの問題として一貫して考えて来られたのだと思う。それが平成時代であり、平成の天皇の歩まれた道であった。>(『象徴のうた』p262・263)

 永田和宏著『象徴のうた』は、まさしくその問に全力で取り組まれた平成天皇と皇后の心が描かれている。もちろん、それなりの教養をつけられている皇室関係者であるから、皆、それなりのうたを詠うことができる。しかし、天皇や皇后のうたからは、それ以上のものが溢れていると思われた。ひとりの「人間」でありながら、しかし「象徴」であることの真摯な姿が、詠われているのだ。永田和宏は、それを「国民と共にある、国民に寄り添う」と言っている。

・贈られしひまわりの種は生え揃い葉を広げゆく初夏の光に

これは、平成31年、平成の天皇皇后両陛下が出席された最後の歌会始で詠われた天皇のうたである。このひまわりとは、「はるかのひまわり」と呼ばれるものである。

<この震災(阪神・淡路)で犠牲になった当時小学校六年生の加藤はるかさんの自宅跡地に、その夏、ひまわりが花をつけた。はるかさんが隣家のオウムに餌として与えていた種が自然に芽をだしたようだ。
 人々はそれを復興のシンボルにすべく、種を全国に配り、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったのである。両陛下は、その種を蒔き、花が咲くと、そこから種を採り、毎年皇居の庭で育てて来られたのだ。>(『象徴のうた』p258・259)

 こうした天皇の「象徴」としての行為は、自覚的おこなわれたものであり、そのことは天皇が自ら述べている。

<私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間かん私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行おこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。>(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(平成28年8月8日)宮内庁>

 私は、日本の伝統的な制度としての天皇制はいつかなくなると思っている。しかし、そのときは、日本国憲法の改定のときになる。今のところ、女性天皇の是非が論じられている程度だ。こちらは、憲法ではなく皇室典範の改定になる。エマニュエル・トッドが言っているように、同じ立憲君主制の国でも、イギリスは男女同権であるが、日本は家父長制を採用している。いずれにしても、「象徴」は「人間」でもあるけれども、基本的人権があるわけではない。彼らは国民でもない。しかし、現在のところ、どんな国会議員より、日本のことを考え、戦争を始めてとして、さまざまな人災・天災の都度、心を痛め、必死に祈ってくれているのが、平成天皇と皇后であったことだけは覚えておくべきだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●朝鮮半島の危機

2024-12-16 11:42:08 | 政治・経済・社会
 朝鮮日報オンラインの12月16日の記事に次のように書かれていた。

<尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領の弾劾訴追案が14日に国会本会議に上程されてから可決まで1時間もかからなかった。禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長は弾劾訴追案可決と同時に訴追議決書の正本と写本を憲法裁判所と韓国大統領府に送付した。これにより尹大統領の権限は直ちに停止となり、憲法裁判所は事件を受理し弾劾審判の審理手続きに入った。>


 世界中が、紛争を抱えている中で、特に、北朝鮮がロシアに軍隊を送り、ウクライナとの戦いに参加させている中で、韓国は政治的な危機の状態になっている。今は、明日何が起きるかよく分からなくなっている。今のところは、北朝鮮は、すぐにどうこうと言う動きはなさそうだが、これから、何が起きるか分からない状況だ。

 そんな中で、丁度橋爪大三郎著『火を吹く朝鮮半島』(SB新書/2024.9.15)という本を読み終えた。橋爪大三郎は、北朝鮮の核の保有が東アジアの政治バランスを変え、日米安保条約の意味まで問いなおされている状況を丁寧に解説している。こうした検討は、本当はもっと必要だろうと思われる。

 特に、核をもつということの意味をもっと問いなおしてもいいと思われる。北朝鮮は、ある意味では、世界に対して、小さな国が何ができるかを証明しようとしているのだ。直接的には、対アメリカに対して、同等に渡り合えるという状況を作り出している。内部からの崩壊さえ食い止められれば、案外、長く続く政権かもしれない。そして、いつも、周囲の国に対して、驚異となっている。

 日本も核兵器を持つべきだと指摘したのは、エマニュエル・トッドであるが、橋爪大三郎も「核のレンタル」という形式を提案しているのは、面白い発想だと思われる。しかし、現在の平和ボケした日本では、微妙に難しい問題でもある。特に、何の思案もなく、ただ、アメリカの政界戦略に唯々諾々としたがっているだけの日本の政府では、本当に上手く対応できるか疑問である。

<北朝鮮は、日本と国交がない。行き来も少ない。でも一世紀前、朝鮮半島の人々の国籍は日本人だった。日本の敗戦でバラバラになり、以来、独自の道を歩んでいる。
 朝鮮半島が南北に分断されているのも、元はと言えば、日本が原因なのだ。
 北朝鮮は国際的に孤立し、独裁的な政権のもと、人々は苦境にあえいでいる。そして核兵器を開発した。戦争の危険が迫っている。本書の分析するとおりだ。
 日本はかって、アメリカを相手に無謀な戦争をした。いまの北朝鮮は当時の日本と似たところがある。北朝鮮の人々はなぜ、こう行動するしかないのか。北朝鮮の追いつめられた状況を、日本人は内側から理解できる可能性がある。
 この国のことをいちから考えよう。そして、最悪の事態を防ぐため、自分たちは何ができるか考えよう。大急ぎで取り組むべき課題だ。>(同書「あとがき」より)

 この本のなかで、橋爪大三郎は、「アメリカ軍も韓国軍も、そして自衛隊も、北朝鮮の突発的な軍事行動を想定して、態勢を整え始めた。準備ができていないのは日本の世論である。」(p158)と述べているが、橋爪大三郎に考え方自体については、必ずしも賛成ではないとしても、当たっている指摘だと思った。しばらく、韓国の混乱がどう収まるか注視しながらも、橋爪のがいう日米安保同盟が機能しないという事態、つまり「ポスト日米安保同盟の時代」については、改めて考え見る必要がありそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●東京都知事戦が終わった

2024-07-10 17:18:29 | 政治・経済・社会
 東京都知事戦が終わり、小池百合子が圧勝した。 3選を決めた現職の小池百合子(71)は291万8015票を獲得。 前広島県安芸高田市長の石丸伸二(41)は165万8363票で次点に入った。 元参院議員の蓮舫(56)は128万3262票で、3位に沈んだという結果になった。投票率は60・62%(前回55・00%)で、平成以降の計11回の都知事選では、衆院選と同日だった2012年に次いで2番目の高さとなった。私は、石丸伸二の得票数にびっくりした。

 結果的には、自民党、公明党のバックアップがあった小池が、立憲、共産党のバックアップを受けた蓮舫を圧倒したことになる。そのこと自体は、不思議でもなんでもなく予想された通りだった。不思議に思えたのは、前広島県安芸高田市長の石丸伸二(41)が165万8363票で次点に入ったということだ。石丸は、ネットなどでは、ホリエモンなどの支援を受けていて、どちらかというと新保守的な立場の人である。都民は、小池百合子の続投を臨んだのだが、若い世代が石丸をのぞんでいたようだ。

 ネット、特にユーチューブ動画などでは、小池批判や蓮舫批判が多く、小池の学歴詐称問題や強引なん都庁運営などの批判も目立ったが、自民、公明の組織票に勝てなかったという結果だと思われる。特に、蓮舫は、共産党との共闘が裏目に出た印象であり、自民党の金権政治に批判が空回りしていた。そういう意味では、石丸が健闘したと言うべきで、分析する対象としては、彼をなぜ皆が支援したかにあると思う。石丸は、ネットをとても上手く活用していたと思う。選挙参謀が、維新系の人だといわれているが、とても上手く、今後の、選挙活動の方法に一石をと投じたと言ってもよいと思われる。

 私は、小池百合子が都知事になる前に、都民を止めて埼玉県民になったので、今回の選挙は横目で眺めていたが、興味深い選挙だったと思う。8時の開票と同時に、小池百合子の当確が発表された。NHKはなぜ大河ドラマを放映品かかったのかと疑問に思った位だ。石井妙子著『女帝』を読んだ者としては、一方ではひどい女性なのだなという印象を持ったが、他方では、日本の政治家の世界で女性が生きていくには、このくらいの性格を持っていないとやっていけないのかもしれないとも思った。

 いずれにしても、自民党には逆風になっているが、そうかと言って代わりになる政党は存在しないというのが現在の日本の政治状況だ。この点が、欧州やアメリカなどとまったく異なった状況である。日本人は、円安やインフレのなかでもそれなりに、まだ自分たちの生活は安泰だと思っている人が、かなりいると思われる。

 最近、マルクス・ガブリエル著『倫理資本主義の時代』という本を読んだが、ある意味では、日本の経営者や労働者たちは、企業がもっと倫理的に運営されれば、日本の社会はよくなると思っているのかもしれない。ガブリエルが、最初にこの本の日本語版を出版(ドイツ語版より前に)した理由が、何となくわかる気がする。ガブリエルは、脱成長論者ではない。倫理資本主義による経営が成長することがいずれ今の世界の危機を救う道なのだと言っている。そして、日本の経団連の人たちがそれを聞いた何を考えたかは、私にはわかるような気がする。

 確かに、斎藤幸平や、白井聡、大澤真幸、そして、柄谷行人などが資本主義の批判をしているが、資本主義を超える理念を打ち出せていない。この本の監修者が斎藤幸平だというところもすごいのだが、ガブリエルの提案が日本では受け入れられようとしているのかもしれない。しかし、多分、この動きと日本の政治状況とは上手くマッチしていないように思われる。日本の政治は、対米従属のなかで、主権さえ保てなくなりつつあるのを見ていると、日本の保守とは一体何なのか、考え直す必要がありそうだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今、何が起きているのか

2024-02-20 16:03:22 | 政治・経済・社会
 日本の空き家は現在1000万戸にぼると言われている。そして、あの東京都世田谷区には、なんと5万戸の空き家があるという。(NHKスペシャル取材班『老いる日本の住まい』(マガジンハウス/2024.1.25)すごい数だと思う。核家続の子どもたちが巣立ち独立していったあと、残された夫婦がやがてなくなり、その後の処分が上手くいかずに放置されているというのが大部分だそうだ。私は、この話を聞いて、痛みのようなものを感じた。

 その痛みを感じるのは、多分そこのなくなった夫婦のすこし後輩にあたるのが私たち団塊の世代だからだ。現在では考えられないが、私たちの少し前の世代とそして私たちも、普通のサラリーマンをやっていれば、東京にだって家を持てた時代があったのだ。勿論、私の世代では、もう少し郊外になったけれども、確実に、持ち家を得ることができたのだ。多分、高度経済成長時代を経て持家が増大していった結果が、現在の空き家の問題をつくっているのだ。

<実際、1957年から73年にかけて、日本は年平均10%以上の経済成長を達成しています。せいぜい1%程度、時にはマイナス成長で停滞している現在からは、とても信じられない数字で、高度経済成長期の日本は、失業率も1%台でした(オイルショック時は3%mバブル経済時は2%、2022年時の失業率は3.27%)。しかも男性であれば毎年給料も上がるし、ボーナスは数ヶ月分も出る。それであれば、男性ひとりの収入でも、家電製品はもちろん、マイカーも勤め人を続けていれば手に入れられるはずです。

 大切なのは、当時、経済成長の恩恵を手に入れられるのは、社会の上層部だけではなかったという点です。高学歴・高所得者だけでなく、低学歴・低所得者層であっても、むろん給料やボーナスとしてもらう額面や待遇には差があったとしても、それなりに昇給・昇進が約束されていた時代でした。要するに、真面目に働いてさえいれば、ほとんど皆が、「今日よりは明日、明日よりは明後日の方が、生活はよくなる」実感を得られたのです。>(山田昌弘著『パラサイト難婚社会』(朝日新書/2024.02.28)より)


 私たちは、全てではないが、1960年の安保闘争や、その10年後に大学で吹き荒れた学園紛争になんらかのかたちで関わり、その後、この高度経済成長のなかで、そのことをすっかり忘れてしまい、最後は、マイホームの中で老後を迎えていたのである。そして、気がついたら、いつの間にか、経済成長はストップし、一億総中流世界は終息し、格差社会になっていた。30年近くも、給料はほとんど上がらないばかりか、非正規雇用労働者が増加して、若者たちは結婚さえままならない事態になっている。

<持家政策は、アメリカの家族制度と住まい方をモデルに策定されました。GHQが日本政府に持家政策の導入を進言したことには、さまざまな意図が込められていました。家族としては最小単位である核家族がそれぞれの住まいを持つようになれば、そこで生活する家族は、自分たちの生活を守るために、自然に保守的な思想をもつようになると考えられたのです。つまり持家制度は終戦後に頭をもたげてきた共同体的な思想、すなわちもう一方の戦勝国であるソヴィエト連邦や中華人民共和国などお社会主義や共産主義陣営の思想に対する対抗策として導入されたといわれています。>(難波和彦著『住まいをよむ』(NHK出版/2024.1.1)より)


 1979年にソヴィエト連邦は崩壊し、中華人民共和国も1979年に改革開放を始め、資本主義社会への転換を果たした。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』が書かれてのは、こうした時期だった。私たちも、多分、共産主義や社会主義ではない、新しい資本主義の時代が始まるのだ思った。しかし、それは、間違いだった。フクヤマは、現在では、『アメリカの終わり』を書いているし、いろいろなところで、戦争が始まり、紛争が起きている。環境問題など地球と危機だと叫ばれているのに、帝国主義的な対立が、世界に起きている。いつの間にか、世界は、変わってしまっていたのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする