電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『街場のメディア論』、あるいは「著作権」について

2010-08-28 22:23:21 | 文芸・TV・映画

 内田樹さんの『街場のメディア論』(光文社新書/2010.8.20)を読んだ。第1講の「キャリアは他人のためのもの」と第6講の「読者はどこにいるのか」に感動した。内田さんは、この本の中で、「知の流通過程」の現状について語っているが、どちらかというと出版メディアのサイトについて言えば絶望的な状況が、読者のサイトについて言えば多少の明るい状況が描かれている。若い人に対して、特にこれから出版メディアに携わりたいという人に対しては、最低知っておくべきこととしての心構えを、そして、私たちのような出版メディアに携わっているものに対しては警告を述べていると言ってもよい。少なくとも、私は、そう理解した。

 まず、最初に、最近の「キャリヤ教育」に触れて、とてもおもしろことを述べている。これは、最近の内田さんのブログでも時々話題にしている「働くこと」について関係している。確かに、「キャリア教育」ということが高校や大学だけではなく、今では、中学校、いや小学校まで叫ばれている。特に大学生は、「自分の適性」ということを考え、そしてその適性にあった「天職」を探そうとしているが、そもそもそれが間違っていると内田さん言う。そもそも、仕事とか労働というのは、自分の為にやるのではなく、他人の為にやるものであるということを、内田さんはブログで述べていた。

 人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」にあうことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。
 宗教の用語ではこれを「召命」(vocation)と言います。神に呼ばれて、ある責務を与えられることです。でも、英語のvocationにはもう一つ世俗的な意味もあります。それは「天職」です。callingという言葉もあります。これも原義は「神に呼ばれること」です。英和辞典を引いてください。これにも「天職」という訳語が与えられています。(『街場のメディア論』・p30より) 

 「天職」というのは適性検査で見つけるものでもなければ、中教審が言うように「自己決定」するものではなく、仕事をすることを通して、また、労働することを通して、「他者に呼び寄せられること」であり、「自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験」だと述べている。なんともはや、凄い言葉だと思う。そして、最近の教育論に対する痛烈な批判でもある。

 さて、第6講は、いわゆる著作権についての内田さん独特の主張である。内田さんは、著作権の中の特に財産権は、はじめから、自分の作品の価値に伴って存在しているものではなく、いわば、それは「読者からの返礼」だと言う。そして、作品はと言えば、著者からの「読者への贈り物」であるということになる。それ以上でもなければそれ以下でもないというのが、内田さんの著作権の考え方だ。これもまた、凄い考えだと思う。そして、おそらくそれは、正しいと思われる。

 というのは、本を書くというのは本質的には「贈与」だと僕が思っているからです。読者に対する贈り物である、と。
 そして、あらゆる贈り物がそうであるように、それを受け取って「ありがとう」と言う人が出てくるまで、それにどれだけの価値があるかは誰にもわからない。その書きものを自分宛の「贈り物」だと思いなす人が出現してきて、「ありがとう」という言葉が口にされて、そのときはじめて、その作品には「価値」が先行的に内在していたという物語が出来上がる。その作品から恩恵を被ったと自己申告する人が出てきてはじめて、その作品には浴するに値するだけの「恩恵」が含まれていたということが事実になる。はじめから作品に価値があったわけではないのです。(同上p145・146より)

 グーテンベルグの印刷術の発明により、資本主義社会の発展の中で本は商品となり、やがて、まず出版社の権利が出版権として認められ、その後、著者の利益が著作権として認められるようになった。これは、本にそういう価値が存在するからではなく、ルールとして認められた権利として存在するのである。それは、ルールであるが故に、創作に沢山労力が必要だからとか、神聖な行為だからとかいうこととは一切関係ない。高名な作家の作品だろうと私たちのような名もない庶民の日記であろうと、その権利は同じ権利である。この点では、かつて文化庁著作権課長の岡本薫さんが名著『著作権の考え方』(岩波新書/2003.12.19)のなかで、「知的財産権は、『ルール』であって『モラル』ではない」と述べていたが、その通りである。

 私たちが今、日本の古典を読むことができるのは、いろいろな人たちが、自ら筆で筆者してくれたからこそである。そして、印税は「創作に対するインセンティブ」として必要だと言うけれども、その恩恵にあずかっているのは、ほとんど最近の作家だけであって、古典の作者は、おそらく彼らの著作でもうけたなどということはほとんどないはずだ。本だけではなく、モーツアルトもベートーヴェンも、著作権などというものは知らずに作曲したのだ。それでも彼らは素晴らしい作品を作った。

 売れている一部の作家たちが、自分たちの本が図書館で借りて読まれることを批判していたが、それに対する内田さんの批判はよく分かる。私たちが、自分で本を買って読むことができるようになったのは、つい最近のことだ。それまでは、私たちの先祖は、誰かに借りて読んだし、必要なら自分で書き写して持っていて読んだ。マルクスは、ほとんど図書館で資料を読み、必要な部分をノートに書き写していた。そして、その結果、書き表した書物は、また、貸し出したり、書き写されて読まれていったのだ。そういう前史を本は持っている。それだけではなく、私たちの読書体験もまたそうである。

 「本を自分で買って読む人」はその長い読書キャリアを必ずや「本を購入しない読者」として開始したはずだからです。すべての読書人は無償のテクストを読むところから始めて、やがて有償のテクストを読む読者に育ってゆきます。この形成過程に例外はありません。ですから、無償で本が読める環境を整備することで、一時的に有償読者が減ることは、「著作権者の不利」になるという理路が僕には理解できないのです。
 無償で読む無数の読者たちの中から、ある日、そのテクストを「自分宛の贈り物」だと思う人が出てくる。著作者に対して反対給付義務を感じて、「返礼しないと、悪いことが起きる」と思った人が出てくる。そのときはじめて著作物は価値を持つ。そのような人が出てくるまで、ものを書く人間は待たなければならない。書物の価値は即時的に内在するものでなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。(同上・p187より)

 現在、ほとんどの出版人は、「本」を商品として、それ故、「紙から電子」までの多様な媒体による流通過程の中で成り立つビジネスモデルとして追究している。そのこと自体が間違っているわけではない。しかし、図書館においてある「本」が本ではないように、商品ではない「本」も考えておくべきべきである。内田さんは、第6講の「読者はどこにいるのか」のなかで、このことを明解に述べている。こういうことを言ったのは、内田さんが初めてだと思う。凄い言葉だと思った。

 書物が商品という仮象をまとって市場を行き来するのは、そうしたほうがそうしないよりテクストのクオリティが上がり、書く人、読む人双方にとっての利益が増大する確率が高いからです。それだけの理由です。書物が本来的に商品だからではありません。商品であるかのように流通したほうが、そうでないよりも「いいこと」が多いから、商品であるかのような仮象を呈しているにすぎません。
 ということは、もし、書物がもっぱら商品的にのみ流通することで、「いいこと」が損なわれ、「よくないこと」が起きるなら、商品としての仮象を棄てるという選択肢は当然検討されてよい。僕はそう思います。(同上・p139)

 本当に、「著作権」というのは不思議な権利だ。それは、ルールであるが故に、みんなで別な風に変えることができるのは当然であるが、その前に、「著作権」は「私権」であるがゆえに、「著作権者」が自分でどのようにも処理できることもまた、事実である。内田さんの『街場のメディア論』は、今まさに目の前にある事態を取り上げながら、とても長い射程距離を持った書物だと思う。読み終わって、すぐに忘れないように、私もまたいくつかの断章を書き写してみた。


「○○本バブル」について

2010-08-21 20:45:18 | 文芸・TV・映画

 そもそも発端は、「ブックファースト・遠藤店長の心に残った本」というコラム
から始まった。この記事を、内田樹さんが読み、ブログに「ウチダバブルの崩壊」という記事を書いた。そして、この記事を中心にして、茂木さんと勝間さんが自分なりの考えを表明している。そして、それらを踏まえて、続きを内田樹さんが書いている。私には、内田さんの主張がよく分かった。茂木さんや勝間さんの主張は、当事者として、これもまっとうな主張であり、彼らはそう答える以外に答えようがないのも確かだ。ただ、著者のスタンスとしては、内田さんの立ち姿が、自覚的で、私には最も心に響いた。

 今最も、売れているらしい著者たちが、自分たちの出版された本について語っていて、とても興味深かった。特に、勝間さんは、自分の本をいかにして売るかというマーケティングも含めて、出版社と緊密な連携の基に出版活動を続けていた。ある意味では、書店にたくさんの本が並び、それなりに売れていくということにおいては、彼女の選択が正しかったことを意味している。その結果をバブルと呼ばれるのは、確かに心外であるに違いない。しかし、自分の本が、数万から数十万にの読者を持つとしたら、それは異常だと思った方がよいと思う。少なくとも、大衆文芸に10年近くかかわり、いかに出版活動を持続できるかということで、新人発掘から著名人の活用までいろいろ考えて、結局は失敗した弱小出版社の元経営者としては、それは僥倖と考えるべきだと思う。

 確かに売れると言うことは、それなりのオーラを持った著者の力であり、この力は、読者の支援と運とに支えられてある時期どこかに集中して現れるものらしい。そして、その流れは、出版社や流通を等して、色々なところに経済的な利益をもたらし、その利益の故に更により利益を求めて活動が拡大していくことになる。もし、この活動が、大手出版社だけの活動であるなら、まあ、彼らは少々のこととでは、大けがはしないのだが、弱小出版社を巻き込むと、どこかにアクセルだけでなくブレーキを踏むという操作を自覚的に行わないととてつもないことが起こりうる。本は沢山発行しただけでは、まだ、利益にならず、最終的には読者が買ってくれないとお金にならない。しかし、売れようが売れまいが、費用は発生してくるからである。

 ところで、何故、いま、茂木健一郎や内田樹や、池上彰や勝間和代さんがこんなに読まれているのだろうか。彼らに共通して見える立ち位置がある。彼らは、それなりに自分の専門としての分野を持っていて、それをバックボードにしながら、文明や文化を批評している。しかも、一応、彼らは、現在のどの政党ともつかず離れずの関係を持ちながら、自分の意見を主張している。勿論、共通の読者もいると思われるが、コアな読者は、多分かなり違っていると思われる。そして、違っているところがまた面白い。

 私は、茂木さんは勝間さんの初期の本は、ほとんど買って読んだ。しかし、ある時期からたまにしか買わなくなった。それは、ブックファーストの遠藤社長の指摘した時期と合っているように思う。しかし、買わなくなったのは、特別に内容が雑になったからというより、内容が啓蒙的なものになり、あちこちの出版社からいろいろな本として出版されるようになり、それらをカバーするのが面倒になったからだ。多分、Webからの情報を見ていれば、彼らの主張はそんなに多くの本を読まなくても分かるようになったからかも知れない。つまり、茂木さんや勝間さんはこの点についてどんなことを考えているだろうかということを知りたくて、本を買うと言うことがなくなったということでもある。

 茂木さんは、脳科学の世界で、ダーウインのようになりたいと言っていたが、まさしく、NHKの仕事などそのためのフィールドワークということが言えるかも知れない。茂木さんについては言えば、1997年に日経サイエンス社から出された『脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか』の続きが読みたい。また、勝間さんについて言えば、これまた、彼女の出版活動自体が彼女のマーケティング理論の実験のようなところがあり、私としては、2008年に東洋経済新報社から出た『勝間式「利益の方程式」 ─商売は粉もの屋に学べ!─』の続きが読みたい。ある意味では、マーケティングという観点から見た日本論を期待しているのかも知れない。彼女は、おそらく、大前研一さんのようになるのではないかというのが、私の印象である。

 他方、遠藤さんは、内田本についてバブルということは言っていないが、不思議なことに、今のところ、内田さんの本は新刊が出るとほとんど買ってっている。それは、内田さんのスタンスのせいかもしれない。池上さんの本は、余りに急に書店に並び始めたので、どれを読んだらよいか迷っているうちについ買いそびれている気がする。茂木さんと勝間さんと内田さんは、ともにブログの記事をよく読んでいるので、いま、本を読まなくてもすんでいるのかも知れない。そして、内田さんの本が、他の二人より出版点数が少ないので買っているのかも知れない。

 ところで、彼らの本が何故こんなにたくさんの読者を獲得したのだろうか。確かなことは、Web上で流れている、無数の主張に対して、多分、彼らの主張がある種の道標となっていると思われるからだ。彼らは、Webの世界と対応している。ある意味では、Webを通してできたファンクラブが彼らのコアな読者層だといえる。しかし、これは、彼らの著作がWebの世界から生まれているということを意味しない。確かに、内田樹さんの場合は、Webでいろいろ言ったことが、まとまって単行本になっていることもある。だが、彼らの本に内容は、Webとは別のところで作り出されている。少なくとも、彼らは、今、Webの世界も含めた、現実の状況の中で戦っていることだけは確かだ。そして、彼らが戦っている限り私も彼らを見守りたい。