電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

●平安時代の浄土思想について

2025-02-05 17:21:59 | 生活・文化
 西行は、1118年に生まれ、1190年になくなっている。同時代人は、平清盛だが、出家遁世の生活を送った人としては、私たちは『方丈記』を書いた鴨長明を知っている。鴨長明は、1155年に生まれ1216年になくなっている。歌人の藤原定家は、1162年に生まれ、1241年になくなっている。長明はどちらかというと定家と同世代というべきかも知れない。
 西行は、出家してからあちこちに庵を作って暮らしていたようだが、多分その生活は長明のような生活だったのかもしれない。長明もまた、都からそんなに離れていなくて(西行のような遠くまでの旅はしなかったが)、歌を詠んだり、文を書いたりしていた。

<いま、日野山の奥に跡を隠して後、東に、三尺余りの庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南に、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚を造り、北に寄せて、障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、傍に、普賢を懸け、前に、法華経を置けり。東のきはには、蕨のほとろを敷きて、夜の床とす。西南に、竹の吊棚を構えて、黒き皮籠三合を置けり。即ち、和歌・管弦・往生要集如きの抄物を入れたり。傍らに、琴・琵琶各々一張を立つ。いわゆる折琴・継琵琶これなり。仮の庵のありよう、かくの如し。
 その所のさまを言わば、南に、懸樋あり。岩を立てて、水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木を拾ふに乏しからず。名を外山といふ。まさきのかづら、跡を埋めり。谷しげけれど、西晴れたり。観念の便り、無きにしもあらず。
 春は、藤波を見る。紫雲の如くして、西方ににほふ。夏は、郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、日ぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞ゆ。冬は、雪をあわれぶ。積もり消ゆるさま、罪障に喩えつべし。>(鴨長明『方丈記』より)


 長明もまた、西方浄土を願って生きている。しかし、法然(1133年~1212年)や親鸞(1173年~- 1263年)のように浄土教を徹底して、極めたわけではない。前に、『源氏物語』について書いた時すこし触れたが、浄土思想が日本でどのように受容されたか興味深い。藤原道長が死ぬとき、釈迦入滅と同じ北枕で極楽浄土があるとされる西の方向に向かって向かって横たり、手には阿弥陀如来像に結ばれた五色の糸が握られていた。

 阿弥陀仏と浄土三部経については、岩田文昭著『浄土思想』(中公新書/2023.8.25)の解説が興味深い。浄土三部経とは、「無量寿経」「阿弥陀経」「観無量寿経」の3つである。

<阿弥陀仏とはどういう仏か。阿弥陀のサンスクリット原語は、「アミターユス」と「アミターバ」である。「アミターユス」とは「無量の寿命(無量寿)」を意味し、「アミターバ」は「無量の光明(無量光)」を意味する。「阿弥陀仏」とは、この無量寿仏と無量光仏の二つの語の意味を含む音写語である。つまり、阿弥陀という仏は、時間的に無量の寿命があり、空間的に制限のない旧済活動をする仏ということを意味する。>(同上p8)


そして、この浄土三部経の語り手は釈尊であり、釈尊が弟子たちに阿弥陀仏の存在と極楽浄土について紹介するという形式をもっている。つまり、釈尊は、阿弥陀仏の極楽浄土の素晴らしさを説明し、そこに生まれて(すなわち往生して)容易に仏になれることを説いているわけだ。ところで、この阿弥陀仏の存在については、「無量寿経」にある宝蔵説話に由来する。

<過去久遠の昔、錠光という仏が世に出現し、多くの衆生を強化したのち、自らに入滅さらた。その後も次々と五十三の仏が出現し、五十四番目に出現したのは世自在王という仏であった。そのとき1人の国王がおり、世自在王仏の説法を聞き無常のさとりをえたいという心を起こし、国も地位も捨て、出家修行者の身となって法蔵と名乗った。才能が秀でて志しも強い法蔵菩薩は、世自在王仏の前で、苦悩の衆生を救いたいという願いを起こす。法蔵菩薩の決意の堅固さを知った世自在王仏は、法蔵菩薩を激励し、二百十一億の諸仏の国土に住む人・天の善悪、国の優劣をしめした。その全てをみた法蔵菩薩は、五劫という永いあいだ思惟して、すべての行きとし生ける衆生を救おうと決心し、四十八の願を建てた。法蔵菩薩はこの四十八願を完成するために兆載永劫(ちょうさいようごう)というはてしない長い時間をかけて行を修め、ついにその目的を達成した。理想の浄土を西方に建立し、自分もまたさとりを開いて仏になった。その仏が阿弥陀仏であり、その浄土が安楽国土(極楽)である。いまから十劫という昔に衆生を済度する救いが完成されたのであり、この極楽に往生すれば間違いなく仏になることができる。極楽では無数の菩薩が阿弥陀仏に供養し、さらに十方国土からも菩薩が集まってくる。
 釈尊は、このように極楽の素晴らしさを説き、この説教は将来にわたりとくに重要なので、素直に信じるようにと注意をして話を終える。>(同上p12・13)


これが、いわゆる法蔵説話といわれるものだが、この中の四十八願のなかの十八番目の願が、問題になってくる。十八願によれば、この誓いを信じ浄土に生まれたいと願い、高度な修行ではなく、念仏するすべてのものを救うことが誓われている。

<わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏をして、もし生まれることできないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。ただし五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。>(『浄土三部経 現代語版』二九より)

 つまり、法然や親鸞の称名念仏の教えとは、ここから生まれたものである。西行も長明も浄土思想に目覚め、それを実践しようとした人たちであり、そのために出家遁世をしたのであるが、彼らは法然や親鸞のように徹底できなかった。それは、それでよかったのかもしれない。彼らは、歌を詠み、文章を書くことによって生きる証とした存在であり、それを通して私たちは彼らと向き合うことができる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

●あらためて、西行を思う

2025-02-03 18:11:29 | 日記
 本当は、1月中に今年の抱負を述べる予定だったが、それができなかった。読んでいる本が、あまりに散漫で、まとまらないのだ。

 たぶん、今年の私の中心になるのは、西行だと思われる。小林秀雄の『モーツァルト・無常という事』にある「西行」から初めて、吉本隆明著『西行論』、いちばん新しい西行論としては、寺澤行忠著『西行──歌と旅と人生』、そして、白州正子著『西行』を今読んでいるところだ。小林と吉本の論は、何度か読みなおしているが、これからの影響は大きいようだ。皆、それとくらべてしまう。それぞれの人が、自分に会わせて西行について語っている。ただ、吉本が、西行の歌を分析する前に、「僧形論」「武門論」を書いているのはすごいと思った。

 大河ドラマで『光る君へ』が放映され、源氏物語というより、平安貴族の生き方のようなものがそれなりに面白く描かれていて、事実とは違っていても面白かった。紫式部も清少納言もまるで現代の女性のように描かれているが、それがかえって興味深かった。『光る君へ』の最後のシーンは、これから勃興する武家の時代を象徴していたように思う。そして、貴族の時代から武家の時代に変わるところで、西行が生まれる。歌人としての先輩には藤原俊成がおり、後輩には藤原定家がいる。しかし、西行は、私たちが知っているのは彼がつくった和歌を通してだけであるが、かれは俊成や定家のような歌壇には属さなかった。しかし、彼の存在は当時の歌人なら誰もよくしっていたようだ。

 西行は、平清盛と同じ年に武家の子として生まれているが、23歳の時に出家して、それ以来死ぬまで僧として生きながら、歌を読み続けた。
 西行の歌として次の2首は有名だ。

 願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃
 仏には桜のはなをたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば


 この歌は、『山家集』の春の部に収められているもので、彼が死ぬ十年以上も前によまれたものであるが、彼は、ほぼその歌の願いの通り、文治六年(1190)2月16日(太陽暦で3月30日)になくなっている。

 この歌を読むと、私は大学の後輩が同じ会社に入り、若くしてマンションの屋上から飛び降り自殺をしたことを思い出す。確か30前だったと思う。友人によれば、彼は、西行のこの歌のように生きたいと常に語っていたという。自殺の理由は、わからないとのことだった。そんなことを思い出しながら、今、西行に向き合っている。西行は、自殺ではなく、病で73歳でなくなった。私はといえば、もうすぐ77歳になる。これから残りの人生をどう生きるか、問われているのかもしれない。西行については、また、改めて書いてみようと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする