電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『日本語が亡びるとき』

2008-11-23 21:38:17 | 文芸・TV・映画

 池袋のジュンク堂で水村美苗さんの『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』(筑摩書房/2008.10.31)買って来て、急いで読んだ。と言っても、買ったのは火曜日だから、4日ほどかかって読み終えたことになる。梅田望夫さんが自分のブログで2度ほどすべての人に読むようにアピールした気持ちはよく分かる。読まずにいろいろ言うより、まず読んでみることを私もお薦めする。おそらく、水村さんも遠からず日本語は亡びると思っているのだと、私には思われた。

 ところで、水村さんの問題意識は、一つは、日本の近代文学とは何だったのかということである。そして、もう一つは、インターネットの時代に入り、英語が<普遍語>として登場した現在、日本語はどうなるのかということだ。私は、前者についての水村さんの分析は正しいと思う。私には、何故、川端康成や大江健三郎がノーベル賞を取ったのかよく分からなかったが、水村さんの分析で少し分かったような気がした。しかし、後者についての水村さんの提言には、多少注文がある。運命の予測という点について言えば、あまり違っていないとしても。

 さて、国語ということを考えるときに、「書き言葉」と「話し言葉」とは本来は全く別の発達の仕方をしたということを押さえておかなければならない。「書き言葉」は、単に「話し言葉」を書き写したものではないのだ。「書き言葉」は、むしろ「話し言葉」では通用しないからこそ、生まれたものだ。そして、「国語」とは、常に「書き言葉」の問題なのだ。「国語」というのは、言うまでもなく近代国家の誕生とともに、国民の言葉の問題として発生した。英語やフランス語、ドイツ語と同じように、極東の国でも、日本語が国語として生まれた。これが水村さんの国語に対する基本的な考え方であり、私もその通りだと思っている。

 日本の場合は、不思議なことに、国語の政策者たちの思いとは別に、漢字仮名交じり文として国語が誕生した。この漢字仮名交じり文は、一方では英語やフランス語、ドイツ語の翻訳を通して、普遍的な真理を表現する言葉として練り上げられるとともに、言文一致体として日本の和文の伝統を引き継いだ書き言葉として洗練させられていった。こうして、極東に誕生した国語としての日本語は、英語やフランス語、ドイツ語と同じように、<文学の言葉>と<学問の言葉>を二つながら内包することが可能となったわけだ。

 <国語の祝祭>の時代とは<文学の言葉>と<学問の言葉>が同じように<自分たちの言葉>でなされる時代だというだけではない。<国語の祝祭>の時代とは<文学の言葉>が<学問の言葉>を超越する時代である。非西洋国の日本においては、まさに、非西洋語で学問することからくる二重苦ゆえに、<文学の言葉>が<学問の言葉>を超越する必然が、西洋とは比較にならない強さで存在した。<国語の祝祭>の時代は、より大いなるものとならざるをえなかった。日本においては<文学の言葉>こそ、美的な重荷のみならず、知的な重荷をも負う言葉として、はるかに強い輝きを放った<国語>たる運命にあったのだった。(同上・p203)

 このすぐ後に、「そして、その強い輝きを放った<国語>は、小説から生まれ、小説を産んだ」と書かれているところを見ると、水村さんは、英語やフランス語、ドイツ語と比べるといかに日本語の特殊性として、日本の文学を、特に日本の近代小説を高く買っていることが伺える。つまり、日本語の場合は、常に、文学が主であり、学問としての言葉としてはあまり活躍していないと言っているわけだ。多分、水村さんによれば、日本語は、学問の言葉としては、常に翻訳語としてしか機能していないということになるらしい。しかし、私は、思考する言葉としての日本語は、翻訳を通してこそ鍛えられてきたのだと思う。たとえば、日本語は翻訳を通して語彙の体系を拡張してきたのだ。

 くり返すが、この世には二つの種類の<真理>がある。別の言葉に置き換えられる<真理>と、別の言葉には置き換えられない<真理>である。別の言葉に置き換えられる<真理>は、教科書に置き換えられる<真理>であり、そのような<真理>は<テキストブック>でこと足りる。ところが、もう一つの<真理>は、別の言葉に置き換えることができない。それは、<真理>がその<真理>を記す言葉そのものに依存しているからである。その<真理>に到達するには、いつも、そこへと戻って読み返さねばならない<テキスト>がある。(同上・p251)

 これは、要するに日本語の文章というのは、科学的な真理を表す限りは翻訳可能だが、文学的な価値を知るためには翻訳は不可能で日本語の表現自体を味わうほかないということを言っているわけだ。このことは、特別に日本語の特色ではない。どこの国の言葉もそうした運命をになっている。そして、母語として身につけていない限り、どの国の言葉も本当の意味では理解できないことも確かである。たとえば、短歌や俳句の音数律がその短歌や俳句に与えている微妙なニュアンスは、日本語を母語としていない限り、おそらくは分からないに違いない。さて、水村さんは、こうした論理展開の当然の帰結として、「問題はこの先いったい何語でこの<テキスト>が読み書きされるようになるかである」と考える。今は、インターネットの時代であり、「英語の世紀」である。

 <学問の言葉>が英語という<普遍語>に一般化されつつある事実は、すでに多くの人が指摘していることである。たが、その事実が、英語以外の<国語>に与えうる影響に関してはまだ誰も真剣には考えていない。<学問の言葉>が<普遍語>になるとは、優れた学者であればあるほど、自分の<国語>で<テキスト>たりうるものを書こうとはしなくなるのを意味するが、そのような動きは、<学問>の世界にとどまりうるものではないのである。<学問>の世界とそうではない世界との境界線など、はっきりと引けるものではないからである。英語という<普遍語>の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっていくのを究極的には意味する。>(同上・p252・253)

 そして、水村さんは、もし夏目漱石が今生まれたとしたら、彼は国語で文学を書かないだろうという。もし、そうなら、もう結論は出ていることになる。それなのに、彼女は、「日本語が『亡びる』運命を避けるために何をすべきか」と問う。そして、英語教育と日本語教育の在り方を提言している。おそらく、漱石なら放っておいたほうがいいと言うに違いない。個人的な意見を言うなら、日本語は亡びてほしくはない。しかし、言語というのは、人間が話したり書いたりするものであるだけでなく、人間が考える時にも使われるものである以上、人間が変われば変わりうるものであるとしか言い様がない。

 ただ、私は、思考というものは、母語でするものだと思っている。だから、母語を学問をするに耐えうる言葉に鍛えることこそが大事だと思う。今年、ノーベル化学賞を受賞した日本の科学者たちは、英語で論文を書いたかもしれないが、日本語で思考したと思われるのだ。また、確かに国語というが、まさしく国語を作ってきたのは、国の政策ではなく、日本の近代文学だったということを水村さんは述べていた。とするなら、私たちは、日本語をもっと鍛えていくしかないのであり、そういう意味で、英語を読む能力を鍛えると同時に日本語を大事にしていこうと言うことはとても理解できる。そして、さらに言うなら、母語を思考に耐えうる言葉に鍛えるためには、書き言葉を鍛えなければならないということになる。思考というのは、おそらく、表現することを通してしか鍛えられないと思われる。

 私が水村さんに違和を感じるのは、ここのところだ。それは、ある意味では、七章全体の問題だと思われる。なぜなら、それまでに書いてあることから考えると、七章で展開されていることなど、ほとんど無意味に思われるからだ。そこまで読んできた私たちとしては、後は、時代の必然に任せるほかないという結論にならざるを得ないのだ。にもかかわらず、何故、七章を必要としたかと言うことかもしれない。しかし、七章のようなことを論ずるならば、その前にやらなければならないことがあるような気がする。それは、一つは、英語とは何であり、<普遍語>となった英語は今までの英語と同じなのかどうかということである。もう一つは、英語が<普遍語>になったとき、各国の国語はどのように変わっていくのかということだ。さらに、もっとも非西洋語になる日本語の特質とは何であり、それは<普遍語>に対してどんな役割を果たすようになるかということでもある。

 言語というのは、ある一定程度の人々が使っている限り、簡単には亡びないことは、ユダヤ人たちが証明してみせた。その上、過去の<普遍語>がいずれ<普遍語>の位置を別の言語に譲ったように、英語も未来永劫<普遍語>という位置にいるという保証など少しもない。私は、七章以降でこうしたことを展開してほしかった。それがない限り、日本語は、ただ物珍しい言葉であるが故に、保存されるべき言語ということになるだけだ。私たちにとって、日本語とは、本当は何であるのかということを、やはりもう一度根本的に考えてみるべきだと思われる。<書き言葉>は、<話し言葉>をただ写し取っただけのものではないという指摘や、学問的な真理と文学的な真理は違うという指摘などは鋭いものであり、私たちは、言語の本質をもう一度考えながら、もっと遠くまで考えてみるべきだと思う。

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「篤姫」と家族について

2008-11-17 17:56:53 | 政治・経済・社会

 宮崎あおいの演じる「篤姫」が人気である。NHK大河ドラマとしては、久しぶりのヒットではないかと思われる。女性が嫁ぎ先に自分の人生を捧げるという現代ではほとんど見られない物語なのに、若い女性にも人気があるというところが面白い。新しい家族像への期待のようなものをそこに感じるのは、私の深読みだろうか。「篤姫」では、家族は単に徳川家だけではなく大奥全体にまで拡大されている。ペ・ヨンジュンが自分のファンを家族と呼んでいたが、それと同じような意味を持っているのかもしれない。

 「篤姫」の中にもし、現代の女性たちが「家族」のというものの在り方のなかで共感できる何かを見ているとしたら、それは何なのだろうか。朝日新聞の今日のテレビ欄の「試写室」で竹田さをりさんは、「女性が婚家に人生をささげるなんて家父長制バリバリの物語なのに、『篤姫』には心底はまった」と書いていたが、彼女たちはどこに心動かされたのだろうか。おそらく、それは家父長制ではなく、血のつながりのない母系制のようなものをそこに見ているからではないだろうか。徳川家を支えてきたのは、将軍ではなく、実は大奥の女性たちだったというのは、幻想であるとしても。

 内田樹さんが『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文芸春秋社/2008.1.30)の中で、家族の崩壊について次のように書いていた。

 日本の家族が崩壊したのは、これも繰り返し申し上げている通り、家族を解体し、家族ひとりひとりが孤立し、誰にも干渉されずに自己決定することの代償として、すべてのリスクを引き受け、すべてのベネフィットを独占する権利をてに入れるという生き方に日本人の多くが同意署名したからである。
 家族がいない方が競争上有利であると人々が判断したから家族は解体したのである。逆に、家族がいる方が生き残る上で有利である判断すれば、みんな争って家族の絆を打ち固めるであろう。(同上・p47)

 内田樹さんの言葉を借りれば、日本の家族は崩壊してしまっているのだ。それだからこそ、血のつながりのない関係で作り出されている「篤姫」の家族に思い入れるのだ。しかし、もともと、家族の起源は、血のつながりのない二人の男女によって作り上げられたものだということも真実である。あるいは、血のつながりがないからこそ、私たちは、家族という幻想が必要なのだといってもよいと思われる。そして、ひょっとしたら、私たちは、「篤姫」を通して、家族としての幻想を追い求め始めたのかもしれない。

 日本の合計特殊出生率は、2005年で1.26だという。この数字の裏には、子どものいない家族や、結婚をしていない家族がかなりいるということが想定される。今私たちは、自分たちに子どもがいなくても成り立つ家族像を欲しているのかもしれない。そう考えてみれば、篤姫も和宮も子どもがいない。大河ドラマが歴史を描こうとしたのではなく、歴史を借りて大衆の希望を描こうとしたとしたら、それは多分、篤姫や和宮が家族として考えたものにおそらくは共感しているのだ。
 
 こうした私の考え方は、一面的であるに違いない。一面的であるかもしれないが、多様化した家族の中で、いま、新しい家族像が求められるようになったことだけは確かである。そして、それは現在の社会のなかで経済的な状況がかなり厳しくなり、その圧力を若い女性たちが感じ始めたからに違いない。「篤姫」の中の徳川慶喜の家長としてのだらしなさと比べて、篤姫たち大奥の女性たちのたくましさは、私には少々まぶしかった。

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WALKMAN

2008-11-08 23:59:27 | 生活・文化

 「メモリープレイヤーのおすすめは何か」と姪に聴いたら、すぐに「ソニーのWALKMAN」という言葉が返ってきた。iPodも考えたが、今回は、素直に姪の助言に従い、池袋のBICカメラでソニーのWALKMAN(NW-S738F・ブラック)を買った。メモリーは8GB。動画はほとんど見ないので、これくらいあれば、私の場合は大丈夫だと思った。現在は、通勤途中に、音楽と英語の勉強、そして小林秀雄、吉本隆明、茂木健一郎の講演を聴いている。電車の中で、本を読むのとは違った楽しみができた。

 前に書いたことがあるが、電車の中で本を読むのはとても疲れる。東京から埼玉に引っ越しをしてから、しばらくは通勤電車の中ではほとんど本を読んでいた。しかし、会社の中で、PCを使い、インターネットに常時接続をしているようになると、会社にいるだけでかなり目を酷使することになる。その上、振動の激しい通勤電車に乗っての読書は、目に悪いことこの上ないと思われる。実際、私の目はそのためにいろいろ故障している。というわけで、WALKMANを買うまでは、どちらかというとうつらうつらして半分眠っていたわけだ。

 ところで、音楽を聴いたり、語学の勉強したりというのは、よくある話であり、それはそれで面白いこともあるのだが、私には、講演の楽しさを知ったことが、とても大きな事件だった。本の朗読を聴くということも面白そうだが、講演は面白い。「新潮」12月号で、小林秀雄について、茂木健一郎と白州信哉の対談が載っているが、この中で、小林秀雄の講演がかなり準備されていたものらしいことを知った。私は、少しの資料だけからその場の即興で話しているのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。白州信哉さんは小林秀雄のお孫さんであり、彼の話なので本当なのだろう。

白州  練り上げたどころじゃなく、原稿も時間をかけて作り上げて、練習も相当くり返したみたいです。口調が志ん生に似ているというのは、本当に志ん生の落語のテープを聴いていたらしいですから。そもそも講演はほとんど引き受けなかったんですよ。でも、たとえば義理があるから仕方なくといった場合は、覚悟のようなものを決めて、プロフェッショナルとして努力を積んだのでしょうね。頼まれたからにはきちんと務めようというような、几帳面なところもあったし。その成果がいまCDに収められているわけです。(「新潮」2008年12月号p192より)

 頭のちょうど真ん中あたりで、小林秀雄と吉本隆明と茂木健一郎が話をしている。彼らに、共通しているのは、一つのことを、いろいろの方向から語っていることだ。彼らは、対象としている概念を明確にするために、とても多様な言葉を使う。彼らの著作の中では、彼らはおそらく一言で言い表して終わりにしていることに対して、いろいろな言い方をしてみせる。彼らは、そこで、本を書くのとはかなり違う方法で、彼らの思想を語っているのだ。本で言っていることとは全く別なことを言っているわけではないが、茂木健一郎の言葉で言えば、彼らは語ることによって何かをそこに創造しているようなのだ。本では絶対に読み取ることができない何かをそこで私たちは聴くことができる。

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振り込め詐欺

2008-11-03 22:16:21 | 政治・経済・社会

 最近、都内を散歩していて、小さな街角のATMコーナーの近くで警察官が立っているのを見かけた。どうやら、振り込め詐欺の警戒に当たっているらしい。2008年1月から4月までの被害件数は、約7800件だと言われている。これは、加害者が子どもを語って親にお金を振り込ませるという詐欺事件を中心としているが、かなりの件数だと言える。そして、2006年度の検挙率は、16%といわれており、なかなか捕まらない事件である。銀行から現金を引き出すときに見つからない限り、ほとんど検挙不可能なのだ。もちろん、犯人側もあの手この手を考え、ATMコーナーだけではなくなっている。

 ところで、この被害件数を見て、私は、その何倍かの実際の事態があると思われることにほうに驚く。つまり、現在の若い子どもたちは、親にそういう要求をしているらしいと言うことであり、そして親たちはそうした子どもたちにかなりの高額な振り込みをしていることになる。そして、その場合、ほとんど親子の会話などなくなっているのではないかということが推察される。つまり、そこには、親の事情も子の事情も忖度されることなく、要求があり、その要求が実現されているらしいのだ。

 以前に私のブログでも触れたが、東京学芸大学教授の山田昌弘さんの『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書/1999.10)や『パラサイト社会のゆくえ』(ちくま新書/2004.10)で描いた家族の世界の帰結でもある。山田教授は、生活に困ったら、親に何とか言えば助けてもらえる、況んや、同居している家族では、親に子どもの面倒を見てもらったいたりする最近の若者たちを取り上げていた。まさしく、そうした家族のあり方が、こうした被害を生み出しているとも言えなくはない。

 振り込め詐欺の被害額を見ていると、常識では考えられないような高額の要求がなされ、実際にその要求が支払わされていることに驚かざるを得ない。子どもが実際などんな状況なのか、ほんの少しの交流があれば分かりそうなものだが、現在のところ、日本の家族の一部では、親は、自分の子どもたちを金銭面で支援するということでかろうじて、その関係を持っているということかもしれない。

 こうした考え方を私に教えてくれたのは、この間、一貫して現場のフィールワークを通じて、家族について考えてきた石川結貴さんだった。『家族は孤独でできている』(毎日新聞社/2006.11)や『モンスターマザー』(光文社/2007)で、石川さんは、家族の現在を冷静に分析している。そして、それは、殺伐とした風景である。そんな石川さんが、自分のHPで、「コンビニ家族」というコラムを連載している。家族というのは、何も言わなくても、分かってくれる存在かもしれないが、しかし、そのことが現在危機に直面していると言うことができる。

 困ったときに駆け込めば、すぐに助けてもらえる。まるでATMのように、簡単にお金が引き出せる。といって、自分が家族に対して必死に尽くすとか、恩に報いるとか、誠心誠意面倒を見ていくというわけではない。利用したいときだけ利用する便利な機能。使いたいときだけ使いたい都合のいい存在。それが家族の、ひとつの現状なのだと思う。(「コンビニ家族 連載(2)より)

 この家族の現在については、まさしくその通りなのだが、何故、家族はそうなってしまったのだろうか。社会の中の個人主義が家族の中に侵入してきたというような問題ではないような気がする。家族は、ある意味では解体されている。家族の中で何が起きているのか、あるいは何が起きようとしているのか、もう少し考えてみる必要がありそうだと思われる。

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