電脳くおりあ

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『コロナワクチンその不都合な真実』を読む。

2024-01-14 14:04:41 | 自然・風物・科学
 まだ、コロナの感染は終息していない。2023年8月に7回目のワクチンを接種してから、私の体調がおかしくなり、腰痛が悪化した。もちろん、それがワクチンのせいだとは言えない。むしろ、今年の異常な暑さの中で、汗をかいたままスタバで体を冷やしたことが何度もあったため、体温調節の機能が乱れたのが原因だと思われる。冬になり、今度は冷え性が進んだ。そんな中で、アレクサンドラ・アンリオン=コードの『コロナワクチンその不都合な真実』(詩想社新書/2023.12.25)を読んで、私は恐ろしくなった。

 mRNAワクチンによってどのように、新型コロナを防ぐことができるのかについて、GoogleBardは次のように解説してくれた。

mRNAコロナワクチンは、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の表面にあるスパイクタンパク質の設計図となるmRNA(メッセンジャーRNA)を脂質の膜に包んだワクチンです。接種すると、mRNAが筋肉細胞内に取り込まれ、細胞内のリボソームによってスパイクタンパク質が合成されます。このスパイクタンパク質は細胞の外側に出力され、免疫細胞によって認識されます。免疫細胞は、スパイクタンパク質を抗原として認識し、それに対抗する抗体を産生します。また、細胞性免疫によって、ウイルスを攻撃する細胞を活性化します。このようにして、mRNAコロナワクチンは、新型コロナウイルスに対する免疫を獲得し、感染や重症化を防ぐと考えられています。

具体的には、以下の2つの方法で、新型コロナウイルスを防ぐと考えられています。
・中和抗体による防御
中和抗体は、ウイルスと結合して、ウイルスの感染や増殖を阻害する抗体です。mRNAコロナワクチンによって産生された中和抗体は、新型コロナウイルスが細胞に感染するのを防ぎ、感染を予防します。
・細胞性免疫による防御
細胞性免疫は、ウイルスに感染した細胞を攻撃する免疫です。mRNAコロナワクチンによって活性化された細胞性免疫は、新型コロナウイルスに感染した細胞を排除し、重症化を予防します。

mRNAコロナワクチンは、従来のワクチンと比べて、開発期間が短く、安全性も高いことが特徴です。また、冷蔵保存が可能なため、配送や保管が容易です。ただし、mRNAコロナワクチンは、完全な予防効果を示すわけではありません。接種後も、マスクの着用や手洗いなどの感染対策は継続する必要があります。

 アレクサンドラ・アンリオン=コードによれば、このワクチンの問題点は、異常な速さで開発され、十分に検証されないまま実用化されてしまったこと、およびmRNAが人間の遺伝子にどのような作用をするかが十分に確認されていないことだ。確かに、結果的には数十億の人が接種し、それなりに効果があったように見えるが、それによって死亡したり、副作用に苦しんでいる人もいることは否定できない。しかし、統計上は有効な結果に終わっているように見える。もちろん、今後の遺伝子に関わる影響はまだわかっておらず、これから何が起こるかは不明である。

 私は高齢者であり、持病もあるため、7回ワクチンを接種した。そして、これまでコロナには感染していないようだ。私の妻と息子はワクチンを接種していないが、感染した様子はないマスクをして、密を避けていれば、インフルエンザと同様にある程度は防げるようだ。したがって、ワクチンは高齢者や持病のある人にはある程度の有効性があるようだが、若い人や持病のない人には必要ないかもしれない。むしろ、害を与えることがあるかもしれない。

 私はコロナについて都市伝説のように流布された陰謀論を信じていないが、アレクサンドラ・アンリオン=コードが指摘するようなリスク、つまりmRNAワクチンによる遺伝子の修正リスクは、完全に解明されていないと思っている。壮大な人体実験が行われ、その結果はいずれ分かることになる。

 結果的に、数十億の人がワクチンを接種したことになる。これは壮大な実験でもあるが、確かに、ワクチンの開発が早すぎた。日本の製薬企業は、米国などのワクチンの開発に全く追いつけなかった。ただ、アメリカなどのワクチンを厚生省が早急に認可し、国の施策としてワクチン接種を急いだ。私たちは最初の多くの患者の死亡(主に老人)に恐れを抱き、国の指導に従った。結果として死亡者は減少した。もちろん、ワクチンの副反応によって死亡した人や後遺症に苦しんでいる人たちも報告されている。

 現時点で、私にはコロナワクチンが有効であるように思われる。まだコロナは終息しているわけではない。ただし、ワクチンを接種する人たちは減少している。落ち着いているように見えるのは、ワクチンのせいなのか、それとも別の要因があるのかは定かでない。いずれ専門家がその検証を始めるだろう。その時には、ワクチン開発の実績があるはずの日本の製薬企業がなぜワクチンを開発できなかったのかの秘密も明らかになるかもしれない。

進化について(『動的平衡2』を読みながら)

2011-12-29 17:23:22 | 自然・風物・科学
 私たちは、生命の多様性には驚かされる。そして、その多様な生命の形態の複雑さにさらに驚かされる。スギはどこに行ってもスギのように見える。しかし、身の回りの人間が栽培してきた木や花を見ていると、同じ種類の木や花なのにどうしてこんなに違うのか不思議になる。また、ガラパゴス島に住む動物とともに特殊な進化を遂げた植物を見ていると、進化が何か意志があるようにさえ思われてくる。私には、花屋の花なら人間の意志が、またガラパゴス島では、動物と植物の共生への願いがそうした進化をもたらしたとしか考えられない。しかし、私たちが学んだ進化論では、遺伝子とその突然変異だけが進化の要因であり、突然変異とその環境によるふるいが進化の説明原理とされている。いわゆる「獲得形質」は遺伝しないというのが、現在の常識になっている。

 福岡伸一は、『動的平衡2』(木楽舎/2011.12.7)で、今までと少し違う遺伝の可能性を示唆している。ここで福岡伸一は、親から子どもに受け継がれるのは遺伝子(DNA)に書き込まれた情報だけではないと言う。親が環境に適応して獲得した形態の情報もまた、受け継がれる可能性があるという。これは、昔、ラマルクがとなえた「獲得形質」の遺伝の可能性と同じである。福井伸一によれば、ダーウィンもまた、ラマルクを尊敬し、ラマルクの獲得形質の遺伝と同じことを考えていたらしい。しかし、そうした獲得形質は、遺伝子を変化させることはできない。それでは、個体の環境の変化に対応する適応によって得られた身体的変化に必要な情報は、子孫に絶対に受け継がれないのだろうか。

 では、どうやってその情報を伝えているか。ここが大問題である。実は、遺伝子自身が決めている部分もあるのだけれど、そうではない部分もありそうなのだ。
 動物の受精卵はメスの卵子とオスの精子の結合によって誕生する。オスの精子からは一組のDNAがもたらされるだけなので、遺伝子に記された情報しか来ない。それはメスのDNAと合体してワンベアになるのだが、メスの卵細胞には、そのワンペアのDNAを動かすための装置が予めいろいろと用意されている。その装置、つまり卵細胞の環境が、誕生する生命体に大きな影響を及ぼすことになる。
 卵細胞の環境とは、すなわち母なる生命体が生きて獲得した情報である。卵細胞の中に何が含まれでいるのかはまだ分からないのだけれど、基本的な卵環境はメスを通じて代々受け継がれでいく。(『動的平衡2』p56)

 ここでは、受精卵の特殊性について述べられている。この卵細胞は、オスからはDNA以外のものを受け継げないが、卵細胞そのものは、まさにメスの細胞そのものを受け継いでいるのであり、そこにには、「母なる生命体が生きた獲得した情報」が受け継がれているということになる。

 さて、人間とチンパンジーのゲノムを比較すると98%以上は相同であるという。そうすると残りの2%足らずの情報が、ヒトを特徴づける特別の遺伝子かというとどうもそうではないらしい。その違いは、多少のタンパク質の量的な差異にすぎないという。確かに、私たち人間とチンパンジーは生物全体の進化から見れば、そんなに遠くないつい最近に共通の祖先から枝分かれした子孫だと学んだ。そうである以上、遺伝子の構造が、ほとんど同じだと言うことは納得がいくし、その違いがコピーされてくる段階で生まれた多少の変異としての違いだと言うことにも納得する。もしそうだとすれば、私たち人間とチンパンジーの違いは、何によるのだろうか。

 脳でスイッチがオンになる一群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、作用のタイミングが遅れる傾向が強い。つまり、脳のある部位に関していえば、ひとはチンパンジーよりもゆっくり大人になる。ヒトはチンパンジーよりも長い期間、子どものままでいる。そういうことになる。
 脳だけではない。外見的な特徴を見ると同じ傾向があることに気づかされる。ヒトは、チンパンジーの幼いときに似ている。体毛が少なく、順も扇平だ。生まれたばかりは無力で、そのあと長い育児期間が必要だ。数年で性成熟するチンパンジーに較ぺて、ヒトは第二次性徴を経て、生殖可能年齢に達するまでどんなに早くとも十数年を要する。
 つまり、チンパンジーが何らかの理由で、成熟のタイミングが遅れ、子ども時代が長く延長され、そして子どもの身体的な特徴を残したまま、性的にも成熟する。そのような変化があるとき、生じた。そして、それがヒトを作り出した。そのような仮説である。
 子どもの期間が長く、子どもの特徴を残したままゆっくりと性成熟することを生物学用語で「ネオテニー」と呼ぶ。そして、ネオテニーには外見が子どもっぼいということ以上に、進化上、意外な有利さがあった。子どもの期間が延ぴるというのは、それだけ、怖れを知らず、警戒心を解き、柔軟性に富み、好奇心に満ち、探索行動が長続きするということである。また試行錯誤や手先の器用さ、運動や行動のスキルを向上させる期間が長くなるということでもある(同上p210・p211)


 ここで、この「ネオテニー」が人間の成立の根拠だとすれば、「ネオテニー」がおきる根拠が遺伝子の「環境」だったと言うことになる。先ほど福岡伸一が述べていた卵細胞の環境こそ、こうした成熟のタイミングをコントロールできる環境である。その環境こそが、遺伝子の活性化を制御できる仕組みということでもある。ここでは、「遺伝」の仕組みについての新しい考え方が生まれつつあるような気がする。

 ここで重要なのは、このような変化は、遺伝子自体に突然変異が起きて、遺伝子Cが、遺伝子Xに変わらなくても、ただ、遺伝子Cの活性化のタイミングが遅れさえすれぱ、実現できる変化だということである。
 そして遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが、遺伝子A、B、C、Dとともに世代を超えて受け渡されれぱ、同じA、B、C、Dという遺伝子のセットを受け継いでも、それが作動する結果としての生物、つまり現象としての生命は、異なる特徴を発現できることになる。
 このような仕組み、つまり遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みの受け渡し(世代を超えて、その様式が伝わるのであれば、これも遺伝と言ってよい)が最近、特に注目されてきている。それがエピジェネティックスである。
 それはいったいどのようなものだろう。ひとつには細胞由来の物質がある。受精の瞬間、DNAは精子由来のものと、卵子由来のものが合体して一つの新しいゲノムを作る。しかし次世代に受け渡されるのはDNAだけではない。そのDNAを包み込む、卵細胞にはさまざまな物質があらかじめ含まれていて、それは母から子へと遺伝する。
 この卵細胞の中には、マターナルRNAというものが準備されている。これは受精卵のゲノムからできたものではなく、あらかじめ卵細胞が形成される時すでに準備されている、母由来の遺伝子である。マターナルとは文字通り「母の」ということである。母が用意する環境である。
 マターナルRNAがまず最初のスイッチとなって、それが新しいゲノムの働き方を決める。だから、どのようなマターナルRNAがどれくらい卵細胞に用意されているかが、ゲノムDNA上の遺伝子のスイッチオンのタイミングを決めることになる。マターナルRNAにどのようなものがあり、どんな働きをしているのか、それはまだほとんど明らかになっていない。(同上p212~p214)

 卵細胞の中にあるのは、遺伝子だけではないということは、改めて指摘されれば、まさにその通りである。そして、卵細胞とは、母の細胞そのものであり、私たちは、卵細胞の中に、「母が用意する環境」をもっているというのだ。つまり、遺伝子は、この環境との相互作用によって、自らの情報を発現していくことになる。私たちは、この「母が用意する環境」の意味についてもっと考えるべきだろう。この環境の科学的な仕組みは、まだ解明されていないが、ここから、福井謙一は、次ような考えに発展していく。
 
 視覚が有利な形質で、それを持った生物が選ばれるのはわかる。しかし、水晶体だけが出来た生物はまだ視覚を得てはいない。機能しないサプシステムは繁殖戦略にとって有利に働きようがない。それゆえサブシステムは全体が完成する前には自然選択の対象にはなりえない。
 ところが、生命現象ではこのような複合的システムがあらゆるところで成立している。これは一体どうしてだろうか。この疑問に対して、ダーウィニズムの「適者生存」という論理だけでは説明しきれない。生命現象や進化は、突然変異と自然選択の原理以外の何かによっても制御されているのではないだろうか。
 私は『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の中で、生命現象を特徴づけるものは自己複製だけではなく、むしろ合成と分解を繰り返しつつ一定の恒常性を維持するあり方、つまり「動的平衡」にあるのではないかと考えた。
 そして『できそこないの男たち』(光文社新書)では、性の由来とあり方について考察してみた。その過程で徐々にわかってきたもの、それは次のようなことだった。
 私たちは、常に、生理的な要求、脳が命じる行動、あるいは性的な欲求に突き動かされ、束縛されている。これは遺伝子の命令であると言うこともできる。そして、これはドーキンスの利己的遺伝子論の源泉でもある。
 しかし、同時に、私たちはその命令を相対化し、それに背くこともできる。私たちは結婚しないでいることもできるし、家庭を持たないでいることもできるし、子どもをつくらないでいることもできる。「できるLということは、つまり、そのような可能性・可変性もまた生物の有り様の一つなのだと考えてよいだろう。
 とすれぱ、遺伝子の中には「産めよ殖やせよ」という命令の他に、あらかじめ別の橦類の命令が含まれていることになる。それは「自由であれ」という命令だ。その由来と意味を考えることがおそらく『動的平衡』(木楽舎)に続く本書における私の新たな課題となるだろう。(同上p41・p42)

 確かに、ここには飛躍があるように思われる。しかし、ここには、とてもエキサイティングな何かがあるように思われる。そこに福井伸一の魅力がある。この遺伝子の中に書かれた、「自由であれ」という命令は、何を意味しているのだろうか。私には、この場合の「自由」とは、「遺伝子からの自由」と言うことで、それは、「環境への適応」ということと同じ意味だと思われる。勿論、その場合の「環境」というのは、直接には「遺伝子」にとっての「環境」ということであって、いわゆる人間のそとにある社会的な環境のことを言うわけではない。しかし、人間が社会をつくり、生物的な成熟とは違った、社会的な成熟を経て人間になっていくことができたのは、おそらくそうした「自由」があったからだと思われる。


10月の「槻の会」植物観察会

2011-10-09 22:39:15 | 自然・風物・科学
 今日は、秋の第2回植物観察会。日高市の武蔵台公民館駐車場に午前9時に集合し、天覧山北湿地を経由して多峯主山山頂まで行って、また武蔵台公民館まで帰ってくるというルートだった。公民館に戻ったのは、ほぼ午後3時頃だった。参加者は、三連休の真ん中ということで、いつもより少なく、10名ほどだった。武蔵台公民館駐車場から多峯主山までの往復はかなりのアップダウンがあったが、思ったより楽だった。途中に木の杖がおいてあり、それを借りたせいか、歩きやすかった。寒いかと思い、ダウンのベストを着ていたが、歩いていると暑いくらいだった。空気も澄み、気持ちよい植物観察会だった。
 「槻の会」世話人の秋葉さんの説明を受けた植物を中心にして、今日見た植物名をあげておく。武蔵台公民館周辺では、シロナタマメ、ケヤキ、ゲンノショウコ、コブナグサ、イヌコウジュ、ヤマハギ、コウゾ、ミズヒキ、ヤブマオ、アキノエノコログサ、ドクダミ、ヤマノイモ、オバナなどを見た。公民館から山道に入る前、武蔵台団地の住宅街では、庭や塀に鮮やかな草花が植えられており、その中に山野草を庭一杯に種を蒔いて育てている家があった。家の主人と奥さんが、親切に草花の名前や、育て方を教えてくれた。夫婦二人ともが、草花が好きだという様子て、幸せそうだった。また、門や塀にテイカカズラを一杯にからませている家があり、眺めていて飽きない。

 林の入り口では、ホトトギス、コマツナギ、ミツバアケビ、タマスダレ、ヘクソカズラ、ノガリヤス、サルトリイバラ、ヤクシソウ、クズ、オバナ、ヤマハギ、メドハギ、タヌキマメ、アキカラマツ、ツユクサ、タカトウダイ、イヌタデ、ハナタデ、オオアブラススキ、センニンソウ、アオツヅラフジ、カニクサなどが、沢山あった。歩いていて、自転車で登ってくる親子にであった。最近、山道を歩いていると、時々、自転車で山登りをしている人たちに会う。彼らには、また、多峯主山山頂でも出会った。さすがに、そのときはびっくりした。

 林に入ると、沢山のヒノキやスギが間伐されており、入り際のヒノキやスギの林床には、ルナリアの残骸があったのにはびっくりした。ルナリアは、ヨーロッパ原産の草花で、二〇世紀初頭にフランスから日本に持ち帰った合田清さんの名前にちなんで、ゴウダソウ(合田草)という和名がついている。円形の莢が特徴的だ。その他には、シュウカイドウ、チヂミザサ、ササクサ、カクレミノ、シュウブンソウ、ガンクビソウ、チャ、ヤツデ、カクレミノ、フユイチゴ、ヤブラン、リュウノヒゲ、ウメモドキ、サカキ、ヒサカキ、アラカシ、シラカシ、ネズミモチ、トウネズミモチ、テイカカズラ、ヤノネグサ、ミゾソバ、イヌタデ、ハナタデ、ボントクタデ、キンミズヒキ、ミズタマソウ、セイダカアワダチソウ、ヌカキビ、ヤブマメ、ヌスビトハギなどがあった。

 途中、所々樹木に名札がついていた。その中で、一つ間違いを見付けてしまった。親切に散策者に名前を教えてくれるのはありがたいが、アカシデなのに、イヌシデという名札が付けられていた。みなさん、残念そうなブーイング。その道には、サルトリイバラやゴンズイの実が沢山稔っていた。また、林の中に、大きなカラカサタケがあり、びっくりした。まるで、ディズニーのアニメの中に迷い込んだようだった。このキノコは、食べられるそうで、参加者の中に食べたことがあるという人がいた。たった、一本だけぽつんと生えていたが、だれも採取しないのは、礼儀のせいか、それとも食べられるとは知らないせいか、どちらだろうというのが、皆の疑問。私は、多分毒キノコだと思われたせいだと思った。

 湿地周辺では植物や動物も見ることができた。植物としては、シラヤマギク、オトコヨウゾメ、ヤブマメ、ヤブツルアズキ、ノハラアザミ、ススキ、ヌカキビ、ヨモギ、チカラシバ、アキノウナギツカミ、ママコノシリヌグイ、ヤマノイモ、キンミズヒキ、ワレモコウ、クサボケ、ヨシ、コブナグサ、ツリガネニンジン、アキノタムラソウ、ミゾソバ、アキノノゲシ、キンエノコロ、ユウガギク、ヒルムシロ、ヒメクグ、オオバコ、オニドコロ、ヌスビトハギ、メナモミ、ツルグミ、オオバギボシ、ナンバンギセル、ムカゴニンジン、ノダケ、タカトウダイ、アズマネザサ、キフジ、ガマズミなど。

 この湿地の近くで、ジョロウグモの巣を見かけたが、大きな巣の中央にジョロウグモがいて、周辺に三匹のオスグモがいた。ジョロウグモは、9・10月ごろが成熟期で、今が丁度交尾期になる。大変危険な交尾で、場合によってはオスはメスに食べられてしまうことがあるそうだ。ジョロウグモのオスは、ほんとにみすぼらしい。まあ、彼らは、交尾することだけが生きる目的なので、仕方がないことかもしれない。そういえば、その近くで、大きなお腹をしたカマキリも見た。確か、カマキリもまた、交尾を終えたオスはメスに食べられてしまう。自然というのは、ある意味では、残酷である。

 多峯主山近辺ではアオハダ、ゴンズイ、ナツハゼ、コナラが、それぞれ実を付けていた。私たちは、実を見たり食べたりしてみた。ところで、多峯主山に登ったのは初めてだった。天覧山と多峯主山は飯能市に属していて、私の家から歩いても多分2時間もかからないところにある。多峯主山は、海抜271メートルの小さな山だが、それだけに歩きやすい。今日は、休日でもあり、途中で沢山の人たちに出会った。小さな子ども連れから、お年寄りの女性のグループまで、みな礼儀正しく挨拶しながらすれ違った。ただ、私たちは、ゆったりと、植物を見ながら、歩いていたので、小さな子どもたちからは何となく不審そうに見られたようだ。

 植物は、動物のように動くことができない。だから、私たち人間は動いて見に行かなければならない。そもそも、植物は動く動物の利用して、自分たちの種を遠くまで運んでもらっている。そのために、彼らは、美しく着飾っているのだ。つまり、花は、もともと、動物のために咲いているのだ。そして、動物が見に来てくれることを待っている。勿論すべての植物が動物に頼っているわけではないが、少なくとも美しい花を持っている植物は動物に頼って生きている。人間やあるいは動物がいなくなったら、滅んでいく植物はたくさんある。進化の綾の中で、植物と動物はお互いに関係し合いながら、生きてきたことだけは確かだ。また、動物は、そして人間は、植物の光合成による栄養を摂取することによってしか生きていくことができない存在でもある。私たちは、植物によって生かされているのだ。今日は、そんなことを考えながら、植物を観察した。

「野生植物が語る武蔵野の景観」

2010-10-17 22:40:41 | 自然・風物・科学

 入間市博物館で、9月23日から11月23日まで、アリットフェスタ2010特別展「野生植物が語る武蔵野の景観」が開催されている。やっと時間がとれたので、かみさんに送ってもらい、9時に博物館に行った。博物館の隣が、甥が通っている東野高等学校だとは気が付かなかった。現地に行って、初めて知った。なかなかいい環境だと思う。初めて来た私は、博物館はすでに開いていたが、博物館の周りを少し歩いてみた。博物館の入り口前の市民広場の片隅に、いろいろな茶の木が植えられていた。さすがに、狭山茶の産地入間市の博物館だと感心した。この博物館のHPのお茶のコーナー「お茶の博物館」は、とてもいいページだと思った。

 ところで、「アリットフェスタ」の「アリット」とは何かというと、「ALIT」のことで、これは、市民からの案の中から選ばれた博物館の愛称だそうだ。意味は、「 Art・Archives」・「 Library」・「Information」・「Tea」の略であるという。この中にも、お茶が関係している。市民広場の横にレストラン「茶屋町 一煎」があり、いろいろなお茶を出してくれたり、そこから南に少しくだったところに、茶室「青丘庵」があったりする。博物館の前に、和服姿の女性がちらほら見られるのは、今日もそこでお茶会があるからだった。博物館の裏には、雑木林があって、そこには、入間市のあちこちから、消えてしまいそうな植物が移植されている。私は、この博物館がすっかり気に入った。

 不思議なもので、そういう気持ちで中に入ると、私の気持ちを察したかのように、受付の館員態度がとても親切に思える。特別展と常設展があり、それぞれ200円ずつの入館料が取られるのだが、両方見る場合は、割引で300円になっていた。特別展は、武蔵野の野生植物について、常設展は、それだけではないが、入間の歴史とお茶の展示である。どちらも見たくなってくるから不思議だ。もっとも、お客は、その時間は私一人であり、のんびりと展示を眺めることができた。野生植物の展示の方は、市内で採集した野生植物の押し葉標本が約160点と市民が市内の野生植物を描いた植物画約80点が主で、後は武蔵野の歴史の中で変化してきた景観がよく分かるような図や資料の展示がなされていた。

 その中で、興味深かったのは、「入間市の潜在植生」についてと、「自然景観の変化」についてだった。入間市の自然植生については、勝山輝男著『野山の野草』(2001年)によると、氷河期は、寒さの厳しさに適応した落葉広葉樹林帯(ブナ、ミズナラなど冬に落葉する樹木からなる植生帯)であり、間氷期である現在は、シラカシなどの常緑広葉樹による照葉樹林帯が自然植生だという。ということは、放っておけば、入間市の森は、シラカシなどが中心の森ができるということになる。

 というわけで、武蔵野台地は、昔は、落葉広葉樹林が中心だったが、その後常緑広葉樹が中心の森になっていたが、そこに人間が住むようになり、一部森が切り開かれて、草原になったらしい。そして、人々は、そこを秣場として、馬などの家畜の飼料採取や放牧をはじめ、肥料としての芝草や、食用の山菜を採取するなど、生活の必要な場所として活用していたという。中世までには、武蔵野台地はほとんど草原のようなところだったようだ。『伊勢物語絵巻』の武蔵野の場面(第12段)の様子や、『太平記絵巻』での合戦の場所は、小手指ヶ原をはじめ、武蔵野大地上の「原」が合戦場所に選ばれていることからも、そのことがよく分かる。

 万葉集の巻14にある、武蔵の国の相聞歌9首のうちの第4首から7首までの4首(ある本の歌を入れると5首)は、すべて草(植物)に寄せる恋を歌っている。

恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ(3376)
武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも 君がまにまに 我は寄りにしを(3377)
入間道の 於保屋(おおや)が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 我にな絶えそ(3378)
我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを(3379)
                   (集英社文庫・伊藤博著「万葉集釈注7」p296・297より)

 ここで、具体的な植物名として、「うけら」と「いはゐつら」が出てくる。そして、「於保屋(おおや)が原」というのは、埼玉県入間郡越生町大谷あたりかと言われている。(実際は、いくつか、ここがそうだという説があるが)というわけで、私たちは、この武蔵野で、万葉の時代から「うけら」や「いはゐつら」が親しまれていたことが分かる。このうち、「うけら」は、現在の「オケラ」のことだとされている。オケラは、山野に自生するキク科の多年草で、秋に白またはピンクの筒状花をつけるとても面白い植物だ。今日の展示にも、オケラの押し葉標本があったし、写真もあった。

 一方、「いはゐつら」については、いろいろあり、「スベリヒユ」・「ジュンサイ」・「ネナシカズラ」・「ミズハコベ」などの説がある。確かに、どれも、引っ張るとするすると引き寄せられて来る。それは、とにかくとして、植物をじっと観察している万葉人の眼を感じる。つまり、あるとき、ふっと、そうした植物をよく見て観察した時が必ずあったに違いないのだ。おそらく、「うけら」も「「いはゐつら」も万葉人にとって、食用になっていたに違いないと思われる。

 さて、近世の武蔵野は、「草原」から「雑木林」へということになる。武蔵野の雑木林というのは、管理された森である。まあ、人工林というように呼んでもよい。江戸時代になると、武蔵野台地は、新田開発の対象となり、寛永16年(1639)から、川越藩主・松平信綱が野火止新田(新座市)の開発を始め、元禄7年(1694)からは、川越藩主・柳沢吉保が三富新田(所沢市・三芳町)の開発に着手した。こうした新田開発は、道路に面した表口を屋敷地とし、後方に、畑と雑木林を配置した「短冊型」の地割りで計画されたそうだ。そして、雑木林には、肥料用の落ち葉や燃料用の薪にするための落葉樹で、萌芽更新に適したコナラを植えたようだ。萌芽更新というのは、「樹木の伐採後、残された根株の休眠芽の生育を期待して森林の再生を図る方法」である。

 そして、現在は、こうした雑木林が消えつつある。一番大きな要因は、農業の変化である。人々は、肥料や燃料を提供してくれた雑木林を必要としなくなった。そして、農地ではなく森林である雑木林は、税金も高く、売って宅地化されてたり、商業地やゴルフ場になったりする一方、放置され雑木林は土地本来の潜在植生であるシラカシを主とした常緑広葉樹からなる照葉樹林へと遷移しつつあるところがあるそうだ。それが、いいことかどうか分からないが、そのために、いろいろな問題が起きている。いわゆる、生物の多様性というわけではないが、絶滅危惧種が増えてきているのだ。

 牛沢のカタクリ自生地は、入間市の景観50選に選ばれている。カタクリだけでなく、入間市には、ヒロハノアマナ、ヒメニラ、アズマイチゲ、ヤマブキソウ、ニリンソウ、イチリンソウなどの春に可憐な花を咲かせる植物がある。これらは、皆、氷河期の生き残りの植物たちである。こうした植物は大体において、今から1万年くらい前に氷河期が終わって、暖かくなると、落葉広葉樹林と一緒に、より気候の涼しい高緯度地方や高山に移動した。しかし、生き延びることができる場所もあった。カタクリの自生地は、そうした植物が生きていくのが可能な場所なのだ。それが、武蔵野台地の段丘崖である。しかし、そうした場所があるにもかかわらず、更に、「盗掘」のために、絶滅の脅威にさらされていると言う。

 1時間ほど、特別展にいて、それから、常設展に入った。入間市の歴史の展示を抜け、お茶の展示室に入る。茶の木も植物である。植物は、動物と違って動かない。しかし、茶の木は、中国の雲南省から始まって、日本にやって来た。そして、茶を飲む習慣は、中国から日本、日本からヨーロッパへと広がったらしい。そして、人々は、茶の木の生存に適した土地を探し、茶の木を広げていった。同じことは、葡萄にも言える。人間は、必要なら、このように植物を育て、広げることができる。お茶のことは、また、別の機会に書いてみたいが、博物館の売店で、美味しいお茶を出していただいた。そのお茶を味わいながら、植物の生き方について、思いを馳せてみた。


ヒガンバナとコスモス

2010-10-03 21:04:04 | 自然・風物・科学

毎年の恒例になった、巾着田探訪。ヒガンバナ(曼珠沙華)については、6年ほど昔に、「曼珠沙華、花言葉は『悲しき思い出』」という題でブログに書いた。 今年は、その時より更に暑い夏で、お彼岸の頃にやっと咲き始めたという感じだった。しかし、涼しい日が続いたせいか、先週から見頃になっていて、今週は沢山の人々が訪れていた。訪れた人たちは、いつもヒガンバナ(彼岸花)を見ながら、同じような疑問を持つらしい。今日は、「こんなに沢山どうやって増えたのかしら?」と話していたのを聞いた。このほかに、「葉っぱがないのに、どうして花が咲くのかしら?」というのもある。

 巾着田については、2年ほど前に、ミクシーで次のようなことを書いた。

私が行ったのは、1時少し過ぎだったが、行く人も多いが、帰る人も多かった。多分朝早くから行った人たちだろう。通り道には、地元の人たちが、地元でとれるものを売っていた。最近、何となく、そうした店が様になってきたような気がする。こうして、いつか、日高の名産になっていくものもあるに違いない。

巾着田は公園になっていて、曼珠沙華のシーズンだけ200円の入園料が取られる。つい数年前までは無料だったが、最近有料になった。しかし、管理面を考えると、まあ必要な経費だと思われる。それだけのお金で、巾着田の曼珠沙華が管理できるのなら、安いものだと思う。曼珠沙華は赤い花をつけるのが普通だが、時には白い花をつけるものがある。巾着田にも白いものがあり、その周りで、カメラマンたちが固まっている。中には、場所取りでいざこざを起こしている人もいた。管理人さんが、中に入ってなだめていた。こんな仕事もやらなければならないのだ。

巾着田は、早咲き地と遅咲き地とあるが、どちらもほとんど満開に近い。見事と言うほかない。花を見ていた子供が、曼珠沙華にはどうして葉っぱがないのと聞いていた。しかし、その返事に両親も不思議だねと答えていただけだ。是非、家に帰ってから調べて、子供に教えてあげてほしいと思った。曼珠沙華は、まっすぐな茎の上に真っ赤な花だけをつける。葉は花が散って後にゆっくり生えてくる。そして、光を浴びて、栄養を根に蓄える。春になると葉は枯れ、夏が終わりに近づきやがて涼しくなってくると、茎が伸びてくるのだ。

そんなことを思いながら、ひとりで、一面の咲き誇る曼珠沙華を眺めながら歩いていると、なんだか別世界に来たような気がしてきた。日常の世界にぽっかり開いた異空間。そして、曼珠沙華の一輪の花をじっと眺めていると、その複雑な構造に目眩がしてくる。巾着田には、曼珠沙華のほかにコスモスもたくさん生えていて、こちらも見頃だった。曼珠沙華の季節が終わると、季節は急激に秋をらしくなって来る。(2008/9/23の日記一部略)

今年から、公園の早咲き地点あたりの川に板の橋がかかっていて、ひょっとしたら、滝不動尊の方から、入って来られるのかもしれない。橋を渡った所に、入園料を払う受付があった。受付のところが少し広くなっていて、そこから、川の向こうに巾着田が見渡せられるようになっている。少しずつ、巾着田は、変わっているようだが、大体においては、同じ風景だった。

 冒頭の疑問については、以前ブログに書いた記事を読んでほしいが、ヒガンバナ(曼珠沙華)については、もう一つ、知っておいたほうがいいことがある。ヒガンバナは、中国から輸入されたものだそうだが、日本のヒガンバナは、全て遺伝的に同一であり、三倍体であるということだ。だから、雄株、雌株の区別が無く種子ができない。ウィキペデイアによれば遺伝子的には雌株であるらしい。つまり、中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったのであり、すべてのヒガンバナは遺伝子的にはまったく同じクローンだということになる。

 ところで、ヒガンバナは、赤い花だとばかり思っていたら間違いで、巾着田にも白いヒガンバナがある。この白いヒガンバナは、どうしてできたかは、謎である。なぜなら、皆クローンなら、白い花になったというのは、突然変異が起きたということになる。ただ、ショウキズイセンという黄色い花を咲かせるヒガンバナの仲間があり、このショウキズイセンと赤色のヒガンバナが中国で交配して、白いヒガンバナができた可能性もある。あるいは、黄色いヒガン花が、日本で白いヒガンバナに突然変異したのかもしれない。ただ、高麗駅から巾着田へ向かう道の売店で、この黄色いヒガンバナを売っている店があり、その近くの軒下に黄色いヒガンバナが咲いていた。これは、今年始めて気がついたことだ。このショウキズイセンは、久米島で売っているそうで、そこから来たものかもしれない。こちらは、種子がちゃんとできるという。、

 また、さぬき市にある、「みろく自然公園」には、実際に、黄色、白、赤のヒガンバナが咲いている。こんなにあちこちで、ヒガンバナの突然変異ができるのだろうか。しかし、こんな、話を推理するのも面白そうだ。そして、こうしたヒガンバナに惹かれて、「ヒガンバナの民俗・文化誌」というとても刺激的な論文をWeb上に書いてくれた栗田子郎先生という生物学者がいる。ヒガンバナについて、何か語ろうと思ったら、まず参考にしてほしい。

 さて、この記事のタイトルを「ヒガンバナとコスモス」とした以上、コスモスについてもふれておきたい。まず、コスモスは、キク科に属しているということである。菊はもちろんだが、タンポポやヒマワリもキク科の花である。そして、これらに共通しているのは、みんな一つの花のように見えるが、それらは、みな「頭状花序」と呼ばれ、多数の花が集まって一つの花の形を作っているということだ。コスモスでいえば、外輪の八枚の白やピンクの花びらのようなものを「舌状花」と呼び、内側の花びらがない花を「筒状花」と呼ぶ。これは、キク科の特徴である。だから、一つの花にたくさんの種子ができる。

 また、コスモスというのは「秩序」と「調和」を持つ世界を意味し、「宇宙」をさす語であるが、どうしてこんな名前がついたかについては、田中修さんの『都会の花と木』(中公新書/2009.2.25)の文章を引用して参考にしておく。

 ニつのつながりに、思いをめぐらすことはできる。コスモスの花のまわりには、花びらに見える八個の舌状花が規則正しく並び、中央には数十個の筒状花が集まっている。「その秩序正しさと、花としての調和のとれた姿は、宇宙の秩序と調和に相通じるものである」と感じても、唐突なものではないだろぅ。
 これに加えて、私の勝手な想像を加えてよいなら、花の中央にある小さな筒状花の一つひとつに注目して目を凝らしてほしい。これらは、興状花、あるいは、管状花といわれるので、筒や菅のょうに丸い姿であると思われがちである。
 しかし、目をすえてじっくり観察すれぱ、コスモスの開く前の筒状花は、五角形の星形である。そして、開いた筒状花は、五角形の星が輝くような形に花弁を広げている。それぞれの筒状花が、きれいな星形に花弁を開くのだ。
 これらの筒状花は、いっせいに開くわけではない。まわりの花がまず開ぎ、徐々に中央のものが開いていく。この星形の筒状花の開花を星の輝きに見立てれぱ、「コスモスの花の中央には、星がいっぱいあり、次々と秩序と秩序正しく輝いていく」と感じられる。(『都会の花と木』p159・160より)

この文章をじっくり味わってから、ヒガンバナより長く咲いているコスモスを、ゆっくりと見てみるのも楽しいと思う。