入間市博物館で、9月23日から11月23日まで、アリットフェスタ2010特別展「野生植物が語る武蔵野の景観」が開催されている。やっと時間がとれたので、かみさんに送ってもらい、9時に博物館に行った。博物館の隣が、甥が通っている東野高等学校だとは気が付かなかった。現地に行って、初めて知った。なかなかいい環境だと思う。初めて来た私は、博物館はすでに開いていたが、博物館の周りを少し歩いてみた。博物館の入り口前の市民広場の片隅に、いろいろな茶の木が植えられていた。さすがに、狭山茶の産地入間市の博物館だと感心した。この博物館のHPのお茶のコーナー「お茶の博物館」は、とてもいいページだと思った。
ところで、「アリットフェスタ」の「アリット」とは何かというと、「ALIT」のことで、これは、市民からの案の中から選ばれた博物館の愛称だそうだ。意味は、「 Art・Archives」・「 Library」・「Information」・「Tea」の略であるという。この中にも、お茶が関係している。市民広場の横にレストラン「茶屋町 一煎」があり、いろいろなお茶を出してくれたり、そこから南に少しくだったところに、茶室「青丘庵」があったりする。博物館の前に、和服姿の女性がちらほら見られるのは、今日もそこでお茶会があるからだった。博物館の裏には、雑木林があって、そこには、入間市のあちこちから、消えてしまいそうな植物が移植されている。私は、この博物館がすっかり気に入った。
不思議なもので、そういう気持ちで中に入ると、私の気持ちを察したかのように、受付の館員態度がとても親切に思える。特別展と常設展があり、それぞれ200円ずつの入館料が取られるのだが、両方見る場合は、割引で300円になっていた。特別展は、武蔵野の野生植物について、常設展は、それだけではないが、入間の歴史とお茶の展示である。どちらも見たくなってくるから不思議だ。もっとも、お客は、その時間は私一人であり、のんびりと展示を眺めることができた。野生植物の展示の方は、市内で採集した野生植物の押し葉標本が約160点と市民が市内の野生植物を描いた植物画約80点が主で、後は武蔵野の歴史の中で変化してきた景観がよく分かるような図や資料の展示がなされていた。
その中で、興味深かったのは、「入間市の潜在植生」についてと、「自然景観の変化」についてだった。入間市の自然植生については、勝山輝男著『野山の野草』(2001年)によると、氷河期は、寒さの厳しさに適応した落葉広葉樹林帯(ブナ、ミズナラなど冬に落葉する樹木からなる植生帯)であり、間氷期である現在は、シラカシなどの常緑広葉樹による照葉樹林帯が自然植生だという。ということは、放っておけば、入間市の森は、シラカシなどが中心の森ができるということになる。
というわけで、武蔵野台地は、昔は、落葉広葉樹林が中心だったが、その後常緑広葉樹が中心の森になっていたが、そこに人間が住むようになり、一部森が切り開かれて、草原になったらしい。そして、人々は、そこを秣場として、馬などの家畜の飼料採取や放牧をはじめ、肥料としての芝草や、食用の山菜を採取するなど、生活の必要な場所として活用していたという。中世までには、武蔵野台地はほとんど草原のようなところだったようだ。『伊勢物語絵巻』の武蔵野の場面(第12段)の様子や、『太平記絵巻』での合戦の場所は、小手指ヶ原をはじめ、武蔵野大地上の「原」が合戦場所に選ばれていることからも、そのことがよく分かる。
万葉集の巻14にある、武蔵の国の相聞歌9首のうちの第4首から7首までの4首(ある本の歌を入れると5首)は、すべて草(植物)に寄せる恋を歌っている。
恋しけば 袖も振らむを 武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ(3376)
武蔵野の 草葉もろ向き かもかくも 君がまにまに 我は寄りにしを(3377)
入間道の 於保屋(おおや)が原の いはゐつら 引かばぬるぬる 我にな絶えそ(3378)
我が背子を あどかも言はむ 武蔵野の うけらが花の 時なきものを(3379)
(集英社文庫・伊藤博著「万葉集釈注7」p296・297より)
ここで、具体的な植物名として、「うけら」と「いはゐつら」が出てくる。そして、「於保屋(おおや)が原」というのは、埼玉県入間郡越生町大谷あたりかと言われている。(実際は、いくつか、ここがそうだという説があるが)というわけで、私たちは、この武蔵野で、万葉の時代から「うけら」や「いはゐつら」が親しまれていたことが分かる。このうち、「うけら」は、現在の「オケラ」のことだとされている。オケラは、山野に自生するキク科の多年草で、秋に白またはピンクの筒状花をつけるとても面白い植物だ。今日の展示にも、オケラの押し葉標本があったし、写真もあった。
一方、「いはゐつら」については、いろいろあり、「スベリヒユ」・「ジュンサイ」・「ネナシカズラ」・「ミズハコベ」などの説がある。確かに、どれも、引っ張るとするすると引き寄せられて来る。それは、とにかくとして、植物をじっと観察している万葉人の眼を感じる。つまり、あるとき、ふっと、そうした植物をよく見て観察した時が必ずあったに違いないのだ。おそらく、「うけら」も「「いはゐつら」も万葉人にとって、食用になっていたに違いないと思われる。
さて、近世の武蔵野は、「草原」から「雑木林」へということになる。武蔵野の雑木林というのは、管理された森である。まあ、人工林というように呼んでもよい。江戸時代になると、武蔵野台地は、新田開発の対象となり、寛永16年(1639)から、川越藩主・松平信綱が野火止新田(新座市)の開発を始め、元禄7年(1694)からは、川越藩主・柳沢吉保が三富新田(所沢市・三芳町)の開発に着手した。こうした新田開発は、道路に面した表口を屋敷地とし、後方に、畑と雑木林を配置した「短冊型」の地割りで計画されたそうだ。そして、雑木林には、肥料用の落ち葉や燃料用の薪にするための落葉樹で、萌芽更新に適したコナラを植えたようだ。萌芽更新というのは、「樹木の伐採後、残された根株の休眠芽の生育を期待して森林の再生を図る方法」である。
そして、現在は、こうした雑木林が消えつつある。一番大きな要因は、農業の変化である。人々は、肥料や燃料を提供してくれた雑木林を必要としなくなった。そして、農地ではなく森林である雑木林は、税金も高く、売って宅地化されてたり、商業地やゴルフ場になったりする一方、放置され雑木林は土地本来の潜在植生であるシラカシを主とした常緑広葉樹からなる照葉樹林へと遷移しつつあるところがあるそうだ。それが、いいことかどうか分からないが、そのために、いろいろな問題が起きている。いわゆる、生物の多様性というわけではないが、絶滅危惧種が増えてきているのだ。
牛沢のカタクリ自生地は、入間市の景観50選に選ばれている。カタクリだけでなく、入間市には、ヒロハノアマナ、ヒメニラ、アズマイチゲ、ヤマブキソウ、ニリンソウ、イチリンソウなどの春に可憐な花を咲かせる植物がある。これらは、皆、氷河期の生き残りの植物たちである。こうした植物は大体において、今から1万年くらい前に氷河期が終わって、暖かくなると、落葉広葉樹林と一緒に、より気候の涼しい高緯度地方や高山に移動した。しかし、生き延びることができる場所もあった。カタクリの自生地は、そうした植物が生きていくのが可能な場所なのだ。それが、武蔵野台地の段丘崖である。しかし、そうした場所があるにもかかわらず、更に、「盗掘」のために、絶滅の脅威にさらされていると言う。
1時間ほど、特別展にいて、それから、常設展に入った。入間市の歴史の展示を抜け、お茶の展示室に入る。茶の木も植物である。植物は、動物と違って動かない。しかし、茶の木は、中国の雲南省から始まって、日本にやって来た。そして、茶を飲む習慣は、中国から日本、日本からヨーロッパへと広がったらしい。そして、人々は、茶の木の生存に適した土地を探し、茶の木を広げていった。同じことは、葡萄にも言える。人間は、必要なら、このように植物を育て、広げることができる。お茶のことは、また、別の機会に書いてみたいが、博物館の売店で、美味しいお茶を出していただいた。そのお茶を味わいながら、植物の生き方について、思いを馳せてみた。